奨励

ハワイ日系アメリカ人社会と同志社~移民リーダー 奥村多喜衛を中心に


奨励 物部 ひろみ〔ものべ・ひろみ〕
奨励者紹介 同志社大学言語文化教育研究センター専任講師
研究テーマ ハワイの文化・歴史、ハワイの日系アメリカ人の歴史

いかに幸いなことでしょう
  弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
   主はその人を逃れさせてくださいます。
主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

(詩編 四一編二―四節)


ハワイの日系社会

 初めまして。言文センターの物部と申します。ハワイの日系アメリカ人の歴史について研究しております。このような場でお話をさせていただくことを大変光栄に存じます。

 本日は、太平洋戦争以前のハワイにおける日系人社会と同志社の繋がりについて、奥村多喜衛という人物を中心にして話したいと思います。

 ハワイは日本人に大変人気があり、毎年二百万人以上の観光客が日本から訪れます。実は、この二百万人というのはハワイの州人口を上回る数です。それぐらい人気がある観光地なのですね。みなさんの中にも、ハワイに行ったことのある方がいらっしゃると思いますが、どのような印象を持たれたでしょうか。アメリカなのに、アジア系の人が多いことに、まず、驚かれたのではないでしょうか。また、日本語がよく通じることにびっくりされたかもしれません。人種的に多様な国であるアメリカのなかでも、アジア系や、ポリネシア系の人が多いハワイは特異な州だと言えるでしょう。アメリカ合衆国全体の人口比では現在約八十パーセントが白人で、アジア系はわずか四パーセントにしかすぎません。それにひきかえ、ハワイ州では、アジア系は州人口の約半分の四二パーセントを占めるのです。ハワイ諸島には、もともと土着の人々であるネイティヴ・ハワイアンが住み、王国を形成していたのですが、一七七八年のイギリス人船長ジェームズ・クックの到来後、白人が大挙して移住してきました。そして一九世紀末からはアジア系の移民を多く受け入れ、次第にモザイク社会となっていったのです。なかでも日系人は、ハワイ社会で重要な役割を果たしてきました。主要産業であるサトウキビ生産のための労働力を求めていたハワイ政府と日本政府との間で契約が取り交わされ、一八八四年以後二十万人以上の日本人移民(いわゆる一世と呼ばれる人達)がハワイに渡ってきました。それらの人びとの多くは一攫千金を夢見て、海を越えてきたのです。一世の中には実際に大金をため、故郷に錦を飾った人もいれば、より良い機会を求めてアメリカ本土に移った人もいます。しかし、多くの男性移民が写真花嫁として渡ってきた日本女性と結婚し、家庭を築いてハワイに永住しました。次第にハワイ生まれの子供(いわゆる二世)の数も増え、一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、日系人がハワイの州人口に占める割合は実に約四〇パーセントになりました。さまざまな産業において小規模ながらビジネスにも成功し、堅固な経済的基盤を持つ日系社会が築かれたのです。太平洋戦争勃発までには、経済的にはもちろん、政治的にも相当な影響力を持つようになり、ハワイ社会を支配するエリート白人達にも無視できない存在になっていました。

コミュニティリーダーとして

 このような戦前のハワイの日系社会と同志社とは、実は強い絆があります。多数の同志社の卒業生がハワイへ渡り、日系人の間でコミュニティリーダーとして重要な役割を果たしてきたのです。彼らの多くは、神学校の出身で宣教師として日系移民に福音を唱えるとともに、人びとの生活を改善し、次世代の未来をより良いものにするため奮闘しました。そのような人物には、ハワイ島ホノムの曾我部四郎やマウイ島ワイルクの神田重英などがいますが、なかでもオアフ島ホノルルの奥村多喜衛牧師は、傑出したリーダーでした。戦間期のハワイで日系移民の指導者として活躍した奥村は、高知の武家の出身で、幼少時に明治維新を迎えました。激動の時代に成長し、封建制のもとに発達した日本の伝統的な価値観と西洋から導入された近代的な価値観をともに抱くようになりました。二十代初期には自由民権運動に傾倒し、一時期東京で政治活動に関わりました。ほんの少し状況が違えば、彼は牧師さんになる代わりに政治家の道を歩んだかもしれません。彼は、若くして父を亡くし、家計を支えるために慣れない商売にも手を染めましたが、事業は相次いで失敗し、生活は困窮を極めました。失意のなか奥村は、自由民権運動時代の知人を通してキリスト教に出会います。洗礼を受けた奥村は、同志社別課神学科に入学し、牧師となりました。ハワイにおける日本人移民労働者の過酷で悲惨な生活を耳にした奥村は、人びとを救済するため、一八九四年に二九歳で宣教師としてハワイに渡ったのです。そして一九〇四年よりホノルルのマキキ聖城キリスト教会の主任牧師となり、多方面においてハワイの日系人の生活向上のために奔走しました。彼の貢献は多岐にわたります。まず、プランテーションの労働者キャンプを訪問しては、自堕落な生活をやめ、飲酒や博打を慎むように説きました。また、日系移民のための病院や、慈善会を設立したり、プランテーションを去って独立したい者のために職業学校を開校しました。そして、二世のためには、両親の母国語を学べるように日本語学校を開いたり、大学進学のための奨学金制度を設立したり、地方出身の学生でもホノルルで高等教育を受けられるように奥村ホームと呼ばれる寄宿舎を経営しました。そのうえ、奥村は、次世代の精神と肉体を鍛えるために二世の野球チームを結成しますが、これは日系人のあいだで初の試みでした。このように奥村は、日系社会の福利のためにさまざまな形で貢献しました。

牧師奥村の「啓発運動」

 さらに、奥村の特筆すべき点は、一九二〇年代から一九三〇年代にかけてハワイで排日対策のために行われた「啓発運動」に深く関わったことです。排日とは、漢字で排斥の排に、日本の日と書きますが、文字通り、当時アメリカで見られた、日本人を排斥する動きのことです。そして奥村は、そのような気運を阻止すべく、日系人の間でアメリカの文化を受け入れるように奨励する運動を行ったのです。当時のハワイにおいて経済の根幹を成すサトウキビとパイナップルの二大産業は白人系財閥によって牛耳られていましたが、プランテーションの労働者の圧倒的多数は日系人でした。しかしながら、日本が軍事大国になるにつれ、日本政府が日系人を使ってハワイの経済や政治を支配しようとする日本陰謀論が、ハワイ社会で流布するようになったのです。日本は地理的にも近く、また日本海軍の軍艦がしばしばホノルルに寄港することもあり、ハワイのエリート白人は、ハワイがいつかは日本の支配下におかれてしまうのではと、懸念したのでした。そこへ州人口の半分を占める日系人の多くが英語を解せず、日本語ばかりで話す、着物を着る、仏教寺院をあちこちに建てる、日の丸を掲げて万歳三唱をする等したため、アメリカ社会になじもうとしない印象を一般の人びとに与え、さらに事態を悪化させました。それゆえ、日系労働者が労働条件の改善を訴えて起こした一九二〇年のオアフ砂糖プランテーションストライキの折には、単に労使関係の問題ではなく、砂糖産業を操ろうとする「日本の陰謀」の一環であると批判されました。

 また、ハワイ生まれの日系二世の多くが日米二重国籍だったのも日本陰謀論に拍車をかけました。アメリカの法律では、米国領土に生まれた子供はアメリカ国籍になり、また、当時の日本の法律では、父親が日本人であれば、どこで生まれても自動的に日本国籍になりました。そのため、ハワイの日本人移民の両親のもとに生まれた二世は二重国籍となり、アメリカ市民権を持つ一方、男子の場合、日本への兵役の義務が課せられたのです。そのため、二世はアメリカに対する忠誠心を疑問視され、成人した際には日本のために選挙権を使ってハワイの政治を乗っ取るのではないかという脅威論も生まれました。

 プランテーションストライキによって排日の気運が高まるなか、日系社会の未来と日米関係の行く末を案じた奥村は、駐ホノルル日本領事の矢田長之助とハワイ五大財閥の一つであるキャッスル&クック社副社長フランク・C・アサートンと面会し、日本陰謀論に対抗するため、ハワイ各地の日系人コミュニティを訪れてアメリカ化を奨励するというプランを提案しました。日系人がアメリカの価値観を受け入れ、他人種と協調的な関係を築き、ハワイ社会の有用な一員になりうることを証明できれば、排日感情をおさえることができると考えたからです。日系人に対する悪感情が日米外交の障害となることを恐れた矢田領事はもちろん、砂糖産業に深くかかわり、ストライキを沈静化して労使関係の改善を目論むアサートンも、奥村の啓発運動案に心から賛同しました。このアサートンという人は、非常に親日的な人で京都にきたこともあります。またアサートンの姉のメアリーは一九三〇年代に巨額のお金を同志社に寄付し、それでもって同志社は今出川校地の近くに布哇(はわい)寮を設立しました。布哇寮では、ハワイから来た留学生と日本の同志社の学生が共に生活し、日々国際交流をしたのです。今でもこの建物は、同志社フレンドピースハウスとして保存されています。

 また、奥村は矢田たちと話し合った後、東京へ向かい、アサートンの知己である澁澤栄一を始め、日本を代表する政財界人に日系人啓発運動の重要性を説明し、助力を求めました。貿易立国論者の澁澤は、他国との友好関係は国家の経済的権益に直結するものであり、とりわけ日本の工業製品第一の輸出先である米国とは、親密な外交関係を保つ必要性があると考えていました。それゆえ奥村の啓発運動案は願ってもない申し出であり、澁澤はこの後奥村に物心両面に渡って援助をすることになったのでした。

 さらに、奥村の啓発運動案は、一九一〇年代からアメリカ本土で排日運動を封じ込めるための活動に秘密裏に取り組んでいた日本外務省の思惑にも一致していました。かねてから外務省も、親日世論をアメリカ国内に喚起する活動を「啓発運動」と呼んでおり、その一環として日本の知識人や政治家を西海岸の日系コミュニティに派遣し、宣伝・教育活動を展開していました。そして一九二〇年のプランテーションストライキ以後は、ハワイにおける排日対策の必要性を感じ、二種類の啓発運動に乗り出そうとしたのでした。一つは日系人を対象としたアメリカ化運動で、アメリカ中流階級の文化の受容を促し、アメリカ社会の有用な一員にさせるためのものでした。もう一つは、白人エリートから一般大衆までの非日系人を対象とした活動で、日本文化や日系人についての知識を与えることによって偏見を失わせ親日的にさせるためのものでした。この二種類の啓発運動を推し進めるために、外務省は奥村の力を借りることにしたのです。

日米文化の調和と融合

 一九二一年から一九二七年にかけて、奥村は啓発運動としてオアフ、ハワイ、マウイ、カウアイ各島の日系コミュニティを訪れ、アメリカ化の重要性を訴えました。日本語学校、映画館、公会堂などで開いた講演と集会は年間六十回を超えました。プランテーションのキャンプで日系人労働者と膝と膝をつき合わせて話し合うこともしばしばありました。講演に加え、出版も奥村にとって啓発活動の重要な手段でした。マキキ聖城キリスト教会のニューズレター『楽園時報』のほか、多くの出版物をとおして、奥村は自分の考えを社会に浸透させようと努力しました。各種出版や講演旅行などの啓発運動の費用の大部分は、外務省と澁澤、アサートンら親日的な白人リーダーからの援助でまかなわれました。

 奥村が講演や著作の中で強調したのは次の二点でした。まず第一点は、ハワイに住む限り、アメリカの価値観や習慣を身につけ、ハワイの繁栄に貢献すること。そして第二点は二世を日本の臣民ではなく、忠実な模範的アメリカ市民に育てること。これらの主張は当時の白人エリート層が日系人に対して抱いていた疑惑、つまり「日系人はアメリカに同化できるのか」、そして「二世はアメリカに忠誠を誓っているのか」という疑問を意識した内容でした。当時アメリカ本土とハワイの排日主義者は日本人排斥を正当化するために、一世は皆熱烈な日本愛国主義者でアメリカ化不能であり、米国生まれの二世を日本の「手先」に育てあげようとしていると主張していました。それゆえ奥村は、日系人が白人の信頼を得てハワイ社会に参画出来るようになるには、まずなによりもアメリカ化することが必要だと呼び掛けたのでした。

 しかしながら、奥村は、「アメリカ化」とは、日本人の持つすべての特質を投げ捨て、白人文化のなかに埋没することではないとも強調しました。彼が大和民族固有の長所だと考えていた強い忠誠心や、勤勉さ、礼儀正しさは保持すべきであり、むしろそのような「民族的な」長所を生かすことによって、より優れたアメリカ人になれると説きました。奥村の二文化性(バイカルチャリズム)を重んじる主義は、彼の実際の活動にも反映されています。たとえば、奥村が活動の本拠地としていたマキキ聖城キリスト教会の建物は、武士出身の彼自身の希望によって一九三二年に建てられた高知城の精緻なレプリカですが、彼は城の天守閣を聖書の「神の櫓(やぐら)」に喩え、キリスト教と武士道は相通ずるものが多いが、マキキ聖城キリスト教会はそのような日米文化の調和と融合を象徴しているとしました。また、先に述べたように奥村は、日系人初の野球チームを結成しましたが、それは二世にアメリカ的なものの象徴である野球をプレーさせて主流社会に二世がアメリカ化可能であることを知らしめ、同時に大和民族の血をひく若者にチームワークを重んずる和の精神を養わせようとする試みであったと考えられます。このように日本人であることと、アメリカ人であることが両立するとした奥村の主張には、後の多文化主義の萌芽を感じます。

 奥村は日系人に「アメリカ化」を奨励する一方で、白人に対しては、日本人は米国社会に同化できる民族であり、優秀なアメリカ市民になりうると説きました。啓発運動でプランテーションを訪れる際には、白人の支配人に必ず面会し、日系人のアメリカ化の重要性を説明し自分の活動への協力を求めました。また時には、日系人労働者と白人経営者との仲介役となり、双方の要望を伝え、意志の疎通の改善に寄与しました。彼の仲介でキャンプの施設が改善されたため、労働者側が奥村への感謝の念をあらわすため、食事会を開いたこともありました。仲介者として日系人と白人の人間的な繋がりを強化するという奥村の手法は、両者に対する彼の影響力を高め、啓発運動を大きく推進させたのでした。

ハワイの一世リーダーたち

 また、ハワイにおける啓発運動に携わった一世(移民世代)のリーダーは、奥村だけではありませんでした。それらの一世は、澁澤や白人リーダーとも連絡を取りながら、役割分担する形で外務省の二種類の啓発運動に協力していました。そのなかには、ハワイで有名な日本語新聞社の社長もおり、彼は自社の新聞をとおして一般の日系人読者に影響を与えようとしました。また、ハワイ大学教授であった原田助のように、白人支配層と個人的な交流の中で日本や日系人についての理解を促した者もいました。この原田助という人は、同志社英学校の出身で、イエール大学で学位を取ったのち、同志社の教授となり、総長にまでなった人です。彼は、一九二〇年にハワイ大学から招聘され、東洋学部を創設しました。日本語や、日本の歴史、文化を教え、退職後は、ハワイ大学初の名誉教授になりました。彼は、ハワイの上流社会や、インテリにも知己が多く、パーティーや普段の社交を通じて白人エリートの日本や日系人についての誤解を解き、親日的な感情を持ってもらうように努めました。上流社会との社交には、何かとお金がかかりますが、原田のそのような出費は、必要経費として外務省が支払っていました。

 このように一九二〇年のプランテーションストライキを契機として、奥村や、原田などハワイの一世リーダーと、日本外務省、そして澁澤を中心とした日本のエリート層、さらにはアサートンら白人リーダーの四者が、日系人のアメリカ化という一つの目的に向かって太平洋を超えた協力体制をつくりあげていったのです。しかしながら、奥村ら一世が全面に立って活躍したため、啓発活動において外務省はほとんど表舞台には姿を見せなかったのです。それはアメリカ社会の人々に日本国家がハワイ支配を目論み、日系人を操っていると邪推されることを恐れた外務省の方針ゆえでした。日本側と奥村の緊密な繋がりについても公にはされなかったため、奥村の啓発運動は、彼個人の信念と裁量だけで行っていたようにこれまで思われてきました、その結果、奥村は、しばしば誤解を受け、プランテーションの支配人の走狗として日系人を懐柔し、エリート白人が牛耳る既存の社会構造に組み込むべく活動していると見なされました。彼は当時も日系コミュニティでバッシングを受けましたし、また、現在アメリカの学界においても否定的に見られることが多いのです。奥村は、活動の真の意図を理解されず、周囲から強い批判を受けましたが、未来につながる大きなビジョンを持って、自分の信念を貫いた生き方をしました。奥村は、日系史において日本とアメリカ、そして日系人と白人を繋ぐ重要な役割を担ったにもかかわらず、不当な評価を受けてきた人物ですので、これからも研究に励んで彼の再評価に少しでも貢献したいと思っております。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇六年十月十一日 京田辺チャペル・アワー「奨励」記録


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