奨励

土の中の血


奨励 伊藤 大道〔いとう・ひろみち〕
奨励者紹介 日本キリスト教団京都教会副牧師

さて、アダムはその妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
  「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
  カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
  主はカインに言われた。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
  カインは答えた。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
  主は言われた。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」

(創世記 四章一-一〇節)


カインとアベルの物語

多少聖書に通じた人ならば、「人類最初の殺人は」という質問をされたときに、それはカインによる弟アベル殺しである、と答えるかもしれない。聖書の記述に従うならば、最初の人類であるアダムとエバの息子の代で、早くも殺人が行われている、それも兄弟間で殺し合う光景が描かれている。

 この殺人事件について、ボクシングの世界に、ある言い伝えがある。それはカインがアベルを殺したのは、石や棒などではなく、カインが右利きの場合、彼の強烈な右ストレートによって殺したという、いささか冗談めいた言い伝えである。ボクシングという競技ではストレートが最も威力のあるパンチであることから、武器を持たないカインが素手で人を殺すためにはストレートを用いたのだろうという、いかにもボクシング的な発想であり、話の種には面白いと思う。

 それはさておき、この物語では、嫉妬に駆られて実の弟を殺してしまうカインの罪深さが際立っており、そこに目が行きがちであるが、なぜ彼が弟を殺すに至ったかを注意深く読み解くことによって、この物語の別の側面が浮かび上がってくる。それは神と人、そして人と人同士の関係の断絶というテーマである。

 今日の物語の少し前の二章の十八節で「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と神がおっしゃって女性をお造りになっている。この言葉はよく男女の結婚の際に用いられるものだが、結婚に限らずもっと大きな視野から眺めるとき、ここでのメッセージは、私たち人間が造られたのは、まず何よりも他者と共に支え合い、助け合うためであることが明らかにされる。私たちはただ自分一人で生きていくのではなく、他者との関係の中で、また神との関係の中で生きる者であることが創造物語のもつメッセージなのである。

 しかしそうした意図をもって人間が造られたにもかかわらず、助け合って生きるという人間同士の関係は、早くも今回の事件によって断ち切られてしまう。アダムとエバのように共に生きていくようにと望まれていたはずの兄弟の関係が、カインの嫉妬と怒りのゆえに最悪の結果を招くことになったからである。それによって人と人の絆は絶たれてしまったのである。

 もっとも、ここで一つの大きな疑問が生じてくる。それは、なぜ神はカインの献げ物を選ばれなかったのだろうかという疑問である。神がカインの献げ物を選ばれたなら、あるいは兄弟の献げ物を両方とも選ばれたなら、こんなことは起こらなかったはずである。さらにその考えを突き詰めると、結局、神ご自身が人間に不和の種をまいたことになるという結論にまでいきついてしまう。

神の選びについて

 そのため、この神の選びということに関して、古来からさまざまな解釈が考え出されてきた。たとえばカインは農業を営んでいたが、農業はある程度人間の知恵や工夫によって収穫の良し悪しが決まるものである。カインはその自分の力で得た結果によって神に認めてもらおうとする傲慢な心があったために、献げ物が受け入れられなかったという考えがある。これには、救いを人間の力で得ようとするのは誤りだという考えが反映している。

 あるいは聖書の中でアベルが「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあるのに対して「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」という違いが挙げられることもある。家畜であれ人間であれ、当時は初子、最初に生まれてきた子どもは、神にささげる神聖なものであるとされ、大切にされた。アベルはその初子を持ってきたのに、カインはただ収穫の中から適当なものをささげたので、受け入れられなかったというのである。

 ほかにも、カインの気性が生まれつき怒りっぽいために、神はその欠点を見抜かれて、より性格の良いアベルのほうを選ばれたという、全く想像の域を出ないようなものまである。

 どの解釈も一見合理的な説明のようであり、そう言われるとそうだなという気がする。実際これらの解釈が今でも採用されることもある。しかしこれらの考えをよくよく突き詰めていくと、実は、神は平等でなければならないという思い込みがあることに気づかされる。

 神は本来平等な方であるので、カインとアベルのどちらの献げ物も受け入れられるはずだ。それが一方だけ受け入れられないのは、その人に何か欠点があるからだという考えのもとに、先ほどの解釈は成り立っているのである。

 しかし実際には、神の選びはそのような合理的な解釈では説明できないのではないかと思う。逆に説明のつかない、納得のいかないことのなかに御心が働くことのほうが多いのではないだろうか。

 カインとアベルの物語にしてもそうである。カインの献げ物が神の目にとめられなかったということは、具体的には彼の農作物の収穫が激減するという形で表れたと思う。そして代わりにアベルの牧畜はみるみると潤っていったことだろう。二人への祝福の結果の違いは、そのように目に見える形で表されたはずである。こういった不公平さはたとえ理由があろうとなかろうと自然の営みの中では往々にして起こりうるものである。

 そしてそれは何もカインとアベルに限ったものではなく、いつどのような場所、どの時代に生きる人であっても同じような経験をするのではないだろうか。貧富の格差、病気の有無、戦争と平和、自然災害といった不平等はどこにでもあるものであり、そういった不平等こそがこの世界の現実なのである。その現実の中で、人びとはあきらめることもあれば、ときに抗ったり、もがいたりしながら不平等をなくそうと努め、また時にはなぜこうなるのかということを真剣に神に尋ね求めていくのである。

カインと神

 そうしたことを踏まえた上でこの物語を読むと、なぜ神はカインを選ばれなかったのか、という理由が問題なのではなく、選ばれなかったときにそのことをどう受け止めるのか、ということのほうが重要であることがわかってくる。

 では実際にカインが神に選ばれなかったときにどうしたかというと、彼は「激しく怒って顔を伏せた」とある。これがカインの罪の一歩目となるのであるが、この言葉をよく読むと、ここでカインが二つの動作を行っていることに気づくことができる。一つは怒ったという動作。そしてもう一つは顔を伏せたという動作である。実は神との関係を本当に絶ってしまったのは、カインの怒りそのものではなく、この顔を伏せたという行いのほうである。

 神に対して怒りを持つということは、人によっては不遜な行いと受け止めて、それだけで神に罪を犯しているとみなされるかもしれない。しかし怒りそのものは人間が持つ素直な感情であり、それを相手にぶつけることは、ときに争いの原因となることはあっても、必ずしも悪いことばかりではない。

 私たちの場合もそうであるが、もし人と言い争いなどになって、互いに相手への強い怒りを持つとしても、そのことをお互いにぶつけ合う限りは、そこにつながりが保たれている。そうやってぶつかり合う中で、互いの理解が深まっていくこともある。しかし、もし相手から顔を背けてしまい、対話がなくなってしまうなら、つながりは切れてしまって後に残るのは相手への敵意や憎しみだけになってしまう。

 同じようにカインも、たとえ神の選びに不満があり、そのために怒ったとしても、その怒りが正しいと思うならばそれを神に直接訴えればよかったのである。そのなかで少しは気持ちの整理もつくだろうし、神の御心を知ることができたかもしれない。それなのに顔を伏せるということは、怒りにとらわれて自分の殻に閉じこもり、神との関係を絶ってしまい、罪の道へと足を踏み入れてしまうことになるのである。神はカインに「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われているが、まさしくカインが顔を上げて神に怒りをぶつけていたら、今回のようなことにはならなかったのである。このように神と人、そして人と人との関係が破れるときに、人は罪に捕らわれてしまい、罪に支配されるようになるのである。その結果、人間の歴史は常に流血と憎しみで満たされてしまい、神が造られたときの本来の姿から遠くかけ離れてしまった。

血の叫び

 さて、このときに流されてしまったアベルの血は、神の言葉によると土の中から神に向かって叫んでいるとある。私はこのアベルの血は土の中から一体何を叫んでいるのだろうかといつも考えていた。まさか「恨めしや~」などという日本的な幽霊の決まり文句を叫んでいたわけではないだろうが、常識的に考えるならば、無残にも兄の手によって殺されてしまった無念を訴えているといえよう。

 しかしここでは別の見方ができるように思う。すなわちアベルの血の叫びは恨みや憎しみを語っているのではなく、こうして自分が殺されたことによって絆が絶たれ、代わりに人類が流血と憎しみの中を歩まなければならなくなったことを嘆く叫びであり、また神に向かって再び和解を求めて叫んでいるのではないかと思う。カインの罪によって断ち切られてしまった絆、それをもう一度取り戻したい、それがこの土の中の血の叫びなのである。

 この和解を求める血の叫びに、神はどのようにして応えてくださっているのだろうか。それが示されているのが新約聖書のヘブライ人への手紙一二章二四節である。ここではイエスが十字架で流された血について「アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」と語られている。神の御子であるイエスの血は、アベルと同じく人間の罪や愚かさのゆえに十字架という残酷な刑によって地上に流された。しかしその血が私たちに語りかけているのは、殺されたことへの悲しみではなく、逆にその血を流させた私たちに和解と赦しを告げているのである。

 よく血の報復という言葉が用いられるが、神は血の報復ではなく、逆にアベル以降に流されてきた血に対して、御子の血をもって和解のしるしとしてくださり、この血によって私たちの中にある敵意や憎しみは滅ぼされ、対立ではなく一致が与えられたのである。そして私たちは互いに助け合う関係の中に生きるという、人類が創造された当初の生き方を再び歩むことができるようになったのである。カインの流した血は、長い年月を経てイエス・キリストの十字架によってようやく償われ、私たちは罪赦された中に生きることができるようになったのである。

 しかしそれにもかかわらず、私たちの世界では今なお互いに顔を背け合い、憎しみと怒りの中で血を流し続けている。あるいはたとえ血を流さなくとも、他人への無関心や、人の痛みを理解しようとしない現実がある。その中にあって私たちは再び土の中から罪によって流された血が叫ぶことがないように、十字架による和解の輪のもとで、互いに赦し合い、支え合っていく関係性の中を歩んでいかなければならないと思う。

二〇〇七年五月十五日 火曜チャペル ・アワー「奨励」記録

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