奨励

いのちを大切にする経済社会へ


奨励 横井 和彦〔よこい・かずひこ〕
奨励者紹介 同志社大学経済学部専任講師
研究テーマ 中国における企業と社会

 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

(ローマの信徒への手紙 一二章三―八節)


お話ししたいこと

 経済学部の横井と申します。今日は、「いのちを大切にする経済社会へ」というタイトルでお話をさせていただきます。よろしくお願いいたします。

 京田辺チャペル・アワーの秋学期の統一テーマが「いのちの大切さ」であることと、私が経済学部の教員であることから、このタイトルにしたわけなのですが、私が今日お話ししたいことは、第一に、現在の日本が、国としての経済は史上空前の好景気であるにもかかわらず、私たちにはその実感がないどころか、ワーキングプアと呼ばれる、以前問題となったニートとは異なる、絶対的な貧困が私たちを襲うかもしれないということです。そして第二に、こうした事態が決して自然に生じたわけではなく、むしろ政策によってつくられたものであるということを述べたいと思います。さらに第三に、この現在の状況が経済の本来の姿ではなく、先ほど読んでいただいた聖書の箇所にもあるように、人びとが自分に適した仕事を、それぞれ真っ当にして、それでもってところを得て生活していくことができることこそが経済の本来の姿だと言いたいと思います。

実感できない好景気

 皆さんは現在の日本の経済が、景気の拡大が平成十四年二月に始まっていて、平成・バブル景気の五十一ヵ月間を超えて、昭和四十年から五十七ヵ月間続き、戦後最長であった「いざなぎ景気」をも超える戦後最大の景気持続となっていることをご存知ですか。財務省が同日発表した二〇〇六年度の法人企業統計調査によると、資本金一〇億円以上の大企業の経常利益は、前年度比一一・六パーセント増の三二兆八三四二億円となりました。大企業の経常利益が前年を上回るのは五年連続です。バブル期の一九九〇年度と比べると約一・七五倍に増加しているのです。ご存じでしたか。

 その一方で、従業員の一人あたりの給与は、大企業でさえ、前年度比〇・四四パーセント増の五九一万円にとどまっています。一九九〇年度比でも一・〇八倍と低迷しています。さらに、年収二〇〇万円以下の給与所得者が急増していることが、国税庁が公表した二〇〇六年度の民間給与実態統計調査から分かりました。この調査によると、一年を通じて勤務した給与所得者のうち、年収二〇〇万円以下の給与所得者が、前年度と比べ四一万六〇〇〇人増の一千二二万八〇〇〇人となりました。年収二〇〇万円以下の給与所得者が一〇〇〇万人を超えるのは、一九八五年以来二十一年ぶりのことです。年収二〇〇万円超三〇〇万円以下の給与所得者も、前年度と比べ七万六〇〇〇人増加しました。これでは多くの被雇用者が好景気を実感できるはずはありません。

つくられた貧困

 このことは、企業が人件費を抑制することで、企業利益の上積みをはかっていることを意味しています。生産によって新しく生み出された付加価値のうちのどれだけが賃金として分配されたかを示す労働分配率が、大企業でさえ石油危機以降の最低水準にまで低下しているのです。二〇〇〇年ごろから企業の生産性は回復してきましたが、賃金上昇率は生産性上昇率を大きく下回るペースに抑えられてきたのです。

 さらに、企業は、正社員を非正社員に置き換えることによっても人件費の引き下げを図っています。世帯主が非正規雇用者である二人以上世帯数は、一九九〇年の一六四万世帯から、二〇〇六年には三三二万世帯へと倍増しているのです。今日問題となっているワーキングプアと、かつて問題となったニートとの大きな違いは、ニートが世帯主ではなく、学校を卒業したばかりの若者(子)であるのに対して、ワーキングプアは、世帯主、つまり家計の主たる働き手(主に父親)でありながら非正規雇用者であるということにあります。かつては、家計にとっても補助としての就業であったパートタイマーなどの非正規雇用が、現在では企業の要請にもとづく人件費抑制策によって、世帯主にまで拡大しているのです。

 このことは、現在の経済政策がトリクルダウン(徐々に流れ落ちる)理論に依拠して推進されていることと無縁ではありません。このトリクルダウン理論とは、とにかくまず大企業や富裕層の経済活動を活性化させることで景気を拡大し、最終的には家計の所得も増やそうという考え方です。しかし実際にはそうなっていないどころか、働く人びとが生活するのも困難、つまり次の日、あるいは次の月も安定して働きに出ることができ、さらには子どもを生み育て、教育して次の世代も安定して働きに出ることができる、という労働力の再生産ができない状況にまで追いやられつつあるとさえ言えるのではないでしょうか。

経済とは

 しかしそもそも経済とは、このようなものではありません。経済とは、富の社会的な再生産のことです。言いかえると、人間の生活に必要な財(モノ)・サービスを、生産・流通・消費するすべての活動・しくみのことなのです。富とは、集積した財貨のことです。もう少し言いますと、特定の経済主体(政府・企業・家計)に属する財の総和です。ここでいう財とは、経済財(財のうちで、それを手に入れるために何らかの対価を必要とするもの)で、貨幣価値をもって表示されます。

 そして経済活動を行うのは人間だけです。なぜなら、再生産こそが経済なのですが、この再生産は人間以外には不可能だからです。

 人間は、労働でもって富を、本源的には自然から取得します。もちろん人間以外の生物も、自然という環境の中で、自然を利用して生きています。けれどもそういう自然の利用が可能になるような道具を、体の中にも、器官として持っています。たとえば植物は、根を使って土の中の水を吸い、葉の裏の気孔から空気中の二酸化炭素を取り入れ、葉の中の葉緑体で太陽エネルギー(日光)を使ってでんぷんと酸素を作って成長します。このように自然を利用する道具―器官を体の中に持っていて、それでもって自然を利用して生きています。限定され固定した身体の組織だけが頼りですから、自然に対立して目的を立てるという主体的な営みにはなってきません。もっとも動物になりますと、手足ができて移動可能になり、身体の中にある器官も複雑になってきますので、自然の利用の仕方も、身体組織の複雑さに対応していろんな可能性が出てきて、目的意識めいたものもあらわれてきますが、選択可能の範囲自体がやはり身体という道具で規定されていますので、限られています。限られた枠の中でしか目的を立てられません。目的自体が本能の域を出ないのです。そして生物の本能というのは、何よりも消費本能としてあらわれており、あるいは消費本能のなかに生産本能がかくされています。したがって生産=消費となるのです。再生産はできないのです。

 もちろん私たち人間も動物ですから、身体の中にも道具を持っています。けれども人間という動物に特殊なことは、道具を作って、作った道具で自然に対して働きかけます。あらゆる可能性の中から、まず、ある目的を選び取り、頭の中に明確なイメージを描きます。そしてそれをねらいにして自然に働きかけるのです。

 さらに自然に働きかける道具が身体の外にあるということは、その結果生み出される生産物も身体の外にあるということであり、したがって生産と消費が完全に分かれています。まず生産によってモノを作り、次いでこれを消費するのです。そしてさらにその余剰を次の生産、すなわち再生産にまわすこともできるようになるのです。だから経済活動は人間のみの行為なのです。

 そして人間は、この再生産を社会的に行います。経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、次のように述べています。

 「我々が、自分たちの必要としている他人の世話を互いに受け合うのは、互いの合意による交換または購買によってであるが、もともと分業を発生させるのも、取引しようとする、これと同じ人間の性向である。

 たとえば、狩猟や牧畜を営む種族のなかで、ある特定の人間が、弓矢を他の誰よりも手ばやく上手に作れるとしよう。彼は、自分の作った弓矢を、しばしばその仲間たちの牛や羊や鹿の肉と交換する。そうするうちに、やがて彼は、こうする方が、自分が野原に出かけてそれらを射とめるよりも、いっそう多くの牛や羊や鹿の肉を手に入れることが出来る、ということを覚えるようになる。こうして、自分自身の利益に対する関心から、弓矢作りが彼のおもな仕事になり、やがて、彼は一種の武器作りになるのである。」(大河内一男訳『国富論』第一篇第二章)

 この分業が再生産を社会的なものとするのであり、やはり人間しか行わないのです。私たちは、何から何まで自給自足するのではなく、こうした分業によって経済を発展させてきたのです。自分の意志や能力によって職を得て、生活するための所得を得ることができるというのが、そもそもの経済の姿なのではないでしょうか。

種を蒔く人

 最近の世相は、こうした経済の本来の姿から離れる人に対して、能力ややる気の欠如、すなわち自己責任を強調する風潮が強いように感じます。しかし非正規雇用の増加が、一九九六年施行の労働者派遣法から始まり、一九九九年、二〇〇四年の同法改正で派遣業の対象がソフトウェア開発・機械設計・通訳・秘書など二十六業務に限定されていたのが、原則自由化されて製造業でも解禁されたことが契機であることは統計からみて明らかです。つまり政策によるものなのです。

 私は最近、同志社大学通信『One purpose』のワンパーパスコメンタリーで、聖書の「種を蒔く人」のたとえ話を例に、「最近の若者は・・・」「最近の学生は・・・」というように、相手の非ばかりを責めるのではなく、自らのあり方から問うべきだ、と述べましたが、非正規雇用者などの弱者に対しての、自己責任ばかりを問うのではなく、トリクルダウン理論を信奉する政策当事者の考え方も問われるべきだと思います。労働力の再生産までをも危うくするような政策、一人ひとりの生活、いのちさえ脅かされるような経済社会のあり方の問題に対しては、その政策を推進している側にもその是非を問いかける必要があるのではないでしょうか。

 最後に、経済を講義している自分自身も肝に銘じたいと思っていますが、学生諸君にも、同志社の創立者である新島襄の次の言葉を教訓にして欲しいと思います。

 「諸君よ、もし理論をもって是非を判別せんと欲せば、決して難しきにあらざるなり。しかれども諸君よ、願わくばその理論に愛の油を注ぎ、もってこれを考えよ。」(森中章光編『新島襄 片鱗集』より)

二〇〇七年十月十七日 京田辺チャペル・アワー「奨励」記録


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