奨励

いのちの重さ

奨励 平田 義〔ひらた・ただし〕
奨励者紹介 日本キリスト教団向島伝道所牧師
社会福祉法人イエス団空の鳥幼児園長
社会福祉法人イエス団愛隣デイサービスセンター所長
同志社大学社会学部社会福祉学科非常勤講師

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれ
れば、すべての部分が共に喜ぶのです。

(コリントの信徒への手紙一 一二章一二―二六節)

向島伝道所について

 おはようございます。向島ニュータウンの真ん中にある向島伝道所で牧師をしております、平田と申します。主任牧師は黒田健先生という視覚に障がいのある牧師さんで、私は担任牧師という形でいます。向島伝道所がある建物は愛隣館といって、一階に保育園、隣に知的障がい児の通園施設があります。通園施設の二・三階に、障がいのある方の通所事業をやっている「愛隣デイサービスセンター」と重症心身障がい者通所事業「シサム」があり、その隣の建物では、京都市の委託を受けている「京都市南部障がい者地域生活支援センターあいりん」という相談支援事業、さらにその上では「ホームヘルプ事業ゆうりん」という障がい児と障がい者にかかわる事業をしています。そのようなところに伝道所をつくりました。
 教会の働きというのは、日曜日に礼拝をするのが中心になっているところが多いと思いますが、私たちは、月曜日から土曜日まで、障がいのある子どもたちや障がいのある方々や地域の方々に奉仕していくことが教会のあり方だという思いで、伝道所を開いたのです。今日は、障がいのある方、障がいのある子どもたちとの日々の出会いのなかで、「いのちの重さ」について考えさせられたことを、お話しさせてもらおうと思っております。柏木正行さんのこと 私にとって柏木正行さんとの出会いは大きなものでした(実名を出してもいいと、ご本人が言われたのは大分前の話で、実は、もう二年前に亡くなられました)。一九四五年、和歌山県日高郡のお生まれで、生後間もなく黄疸が出て高熱の影響で脳にダメージを受け、両手両足体幹機能の障がいが残ったということです。自分で立ったり、歩いたり、手でご飯を食べたりすることができない、そういう方でした。
 お父さん、お母さん、妹さんと山の中で生活をされていました。小学校に行く年齢になれば、近所の小学校に入学するわけですが、彼は学校から「学校にこなくて大丈夫ですよ」と言われました。彼に重度の障がいがあったから「就学猶予」というわけです。今は、養護学校があります。養護学校の義務化で、どんな重い障がいがあっても、みんなが、学校に行けることになったのが一九七九年以降です。彼が子どものころはそんな法律も制度もありませんから、家の窓から近所の子どもたちがランドセルを背負って学校に通っているのを見て、「僕も学校に行きたい」と思っていたそうです。
 一九八四年ごろ、京都で国体が行われるのを機に、京都の学校に「日の丸・君が代」が強制的に一斉導入されることになり、私たち在日朝鮮人や柏木さんが、校長先生に交渉するため学校に行ったときのことです。「日の丸・君が代」の話が終わってから、柏木さんは、校長先生に向かって「僕は学校に入学することができますか」と聞いたのです。「僕は小学校に行っていない。だから行きたい」とおっしゃったのです。校長先生はタジタジでした。四十歳すぎたおっちゃんが入れるわけでもないので「いやいや」と断られていました。それくらい、学校に行きたいという思いが強かったのです。
 彼は家で、お父さんに字を教えてもらって、マンガの『のらくろ』を読んで字の勉強をしていたと言っておられました。そういう家庭環境のなかで育ってきて、学校に行かず、家の中で家族だけとの交わりで生活してこられたのです。柏木さんの介助は、お父さん、お母さん、妹さんがされていました。彼の身体が大きくなってきて、お父さん、お母さんでは介助するのが大変なので、妹さんがやっておられた。彼が二十七歳になったとき、その妹さんが結婚することになって、「僕の介護はどうなっていくのか。親だけでは体力ももたないし大丈夫かな」と思ったそうです。
 そういうことがあって、「僕はもう家を出よう」と決めたそうです。その当時、重度の障がいのある方が家を出るということは、どういうことか。入所施設に入るということです。和歌山におられたのですが、京都の南丹市にある身体障がい者の入所施設に入った。当時、その施設はカトリックの施設でした。ずっと家の中で家族だけの生活でしたが、施設にはいろいろな仲間がいるわけです。同年代の障がいのある方々や寮母のシスターたちから、いろいろなことを教えてもらって楽しかったようです。彼はすぐ感化されてカトリックの洗礼を受けました。仲間がいて楽しかったけれども、ずっと施設の生活を続けていくうちに、彼のなかで疑問がわいてきたのです。「僕はこの人里離れた山奥の施設に住んでいる。他の人たちは、地域で生活していて、自分で好きな時間に買い物に行って、自分が食べたい物を買ってきて食べる。今日は夜遅くまで本を読んでいたいから夜更かしをしよう、と思えば読んでいられる」。施設の生活は逆です。消灯時間には電気を消さなければいけない。食事のメニューは一ヵ月のものが決まっています。自分でメニューを決められない。買い物に行きたいと思っても、外出の日は第何金曜日と決められる。全く自由がない。その代わりに安心して介助を受けて暮らせるというのが施設です。「僕も、誰かが介助をしてくれるなら、地域のなかで生活できるやないか。地域で生きていけないのは障がいがあるからなのか。障がいのある人を社会で受け入れることができないから地域に出ていけないのか。そのことを確かめよう。確かめるためには地域に出ていくかしかない」と、彼は施設から地域に出ることを考えます。

「自立」とは何か

 彼は自分で食事もできません。トイレにも行けません。そういう重度の障がいのある方が、施設を出て一人で生活するためには介護者が必要です。そこで彼はどうしたか。辛うじて動く右手でカナタイプを打って「ボクノカイゴシャニナッテクダサイ。ボクモチイキデミンナトオナジヨウニイキタイ」というビラを作って大学を回ったそうです。そのころ、寮がたくさんありましたから、寮生たちに配って介護者を集めたのです。彼が施設から出るときには、一ヵ月のスケジュールが決まりました。朝十時から夜六時までと夜六時から次の朝までの二交代制のシフトを組んで、誰々は第三月曜の夜というように決めて、それによって彼の自立生活ができるのです。
 皆さんが考える「自立」とは、どういうことですか。親のすねをかじらないで経済的に自立する。自分で何でもできるようになる。しかし、柏木さんが考えている自立はそうではないのです。柏木さんは詩集を出していますが、そのなかに自立生活を始めて十年目を迎えたときに書かれた詩があります。『路 詩集』のなかの「自立」というタイトルの詩です。

あなたはなぜ自立するのですか?
施設が嫌になったからですか?
実家に戻りたくないからですか?
一人前の人間になりたいからですか?
寝たい時に寝て起きたい時に起き、食べたいものを食べたいからですか?
それで自立するのですか?
自立は賭です。生きるか死ぬかの闘いです。
あなたにはそれがわかっているのですか?
分からなくても、とにかく出たいのですね。
施設が嫌で堪らないのですね。もう二度と帰りたくないのですね。

施設に帰るくらいなら死んだ方がましなのですね。
あなたにはその覚悟ができているのですね。

(『路 詩集』柏木正行著 明石書店 一九九〇年十月発行)

 これだけの思いをもって施設から出てこられた。彼がいう「自立」は、障がいをもった人間が自らの障がいを克服して歩けないのが歩けるようになるのではなく、障がいをもちながら、あるいは障がいがあるか否かに関係なく、一人の人間が周りの人びとと多様な人間関係を培いながら、より豊かに生きる、そうした意味での自立なのです。障がい者の自立というのは、周りの支援者が必ず必要です。支援者たちとの人間関係を豊かに結んでいくなかでの自立です。私たちはそういう意味での豊かな人間関係を結べているのだろうかと考えたら、私たちの方こそ、本当の意味での自立ができているのかと思わされます。
 柏木さんは自分でトイレに行けない、歩けない。できないことがいっぱいあるわけです。できないからということで、柏木さんの周りには介護者という形で人がたくさんいる。介護者は、柏木さんのキャッシュカードの暗証番号まで知っています。三、四十人の介護者が出入りしていて、全員が信頼関係を結んでいるのです。それだけ豊かな人間関係のなかに生きている。柏木さんの葬儀をしたとき、全国から三〇〇人くらいの方が集まってこられました。学生時代に柏木さんを介護していた方々です。最期をみとってくれた主治医も、もともと柏木さんの介護をされていた方なのです。できないということに対して、私たちは何かマイナスのイメージをもってしまう。障がいがある、できないことがたくさんあるということはマイナスである、と。けれどもそうではなく、彼に障がいがあることによって、それだけ人間関係が豊かになる、障がいがあったからこそ、人間関係の輪のなかで生きていけたのだな、ということを考えさせられたわけです。
 柏木さんと私が出会ったのは一九八四年でした。柏木さんが、向島ニュータウンにある障がい者の住みやすい部屋に来られて、そこで出会って、私も介護に入るようになりました。自立されてから四年たっていますから、最初にいた学生さんたちは卒業してしまっているのです。昼間の介護者はほとんどいないので、朝の介護者が仕事や学校に行ったりすると、昼間、トイレに行きたいと思っても行けません。ご飯を食べたいと思っても食べられません。私は近くの愛隣館の二階で仕事をすることになりましたが、当時は障がいのある方に特化するような事業は何もやっていませんでした。私一人しかいませんから、はりついていることもできません。柏木さんがトイレに行きたいと思ったときは、辛うじて動く手でワンタッチダイヤルをかけて、私がいれば「どうしたんですか」「トイレに行きたいんや」「ちょっと待っていてくださいね」と話し、部屋まで行くことができます。しかしそれ以外は、どうするか。基本的にトイレの介助は異性にしてもらいたくないので、同性の人を探します。昼間の時間帯に、トイレの介護をしてくれる男性を探すのは難しい。近くのスーパーに男性のスタッフがいるからそこへ行ってお願いしたりする。仕事をしている人に頼まないといけないので大変です。そんな状況で生活しておられたのです。
 彼は電動車椅子を右手で動かすのですが、電動車椅子を持っている手が離れてしまうと自力で上げられないから電話もできません。そんな、どうにもできない状況になることがしょっちゅうありました。散歩に出かけていてもそうです。向島ニュータウンの前の国道二四号は結構車が通る道なのですが、駅の方に行くには横断歩道を渡らないといけない。「横断歩道、渡っている途中で手が落ちたんや」「車止まってくれましたか」「いや、止まってくれない。ビュンビュン僕の脇を通りすぎていった」という話をしていました。またあるときは、宇治川の土手を散歩していて、電動車椅子ごと倒れたのです。人通りがないところですから、そのまま放置されていたら大変です。たまたま犬の散歩に来ていた女性を見つけて「起こしてくれ」と頼んだけれど、電動車椅子は本人の身体と合わせると一〇〇キロくらいあるので、一人では持ち上げられません。私たちのところに電話がかかってきて、何人かで助けに行きました。

障がいのある人びとが集まれる場を

 向島ニュータウンには、車椅子の方が生活されるバリアフリーの住宅が四十軒ありました。そのなかには、障がいのあるご夫婦、障がいのある方と高齢のお母さんとの母子世帯など、いろいろな形態の、支援が必要な方がたくさん住んでおられたのです。今でこそ障がいのある方に対するヘルパーはつけられますが、その当時は施策がなくて、週二回だけ掃除・洗濯に一時間ずつ来てくれる、そういうヘルパーしかいなかった。身体介助、食事の介助とか、トイレの介助にヘルパーは使えなかった。不便な生活だったのです。そういう人たちがもっと安心して地域のなかで暮らせるようにしていこうと思いました。市営住宅ですから京都市の住宅施策のなかでつくられたものです。障がいのある方、車椅子の方もたくさん住むだろうと、わかっていたはずなのに、そういう人たちが安心して暮らせる、支援を受けられる仕組みはなかったのです。私たちは、それを何とかしようと、「生活センター設立準備会」をつくりました。二階のフロアが空いているから使おう。ここに集まれるようにしよう。けれど問題は、エレベーターがなかった。外づけの手すりの階段しかない。柏木さんが来られたときも鉄製の階段を担いで上げていたのです。非常に危険でしたので、エレベーターをつけてもらわないといけない。障がいのある子どもたちは、養護学校から帰ってきてからの遊び場がないのです。学童保育や児童館は、障がいのある子を受け入れてくれなかった。私たちの願いは「障がい児・障がい者の人たちが安心して集まれる場所をつくろう」ということでした。
 「障がい者、障がい児の集まりをしたいからエレベーターをつくってほしい」と、京都市に何回も行きました。そのころは、法律や制度のことを知りませんでしたから、熱意だけでやっていました。障がい児に対しての放課後の支援と、障がい者に対しての日中の生活の支援は、一緒になった施策や事業が法律上ないのです。障がい児には、児童福祉法が適用されます。障がい者は身体障がいであろうと、知的障がいであろうと、精神障がいであろうと「支援を必要としている人に」という思いがありましたから、障がいの種別に限定していません。身体障がい者福祉法、知的障がい者福祉法、精神保健福祉法と法律も分かれていて、それを一緒にする施設の考え方はないのです。ところが、話を始めると「障がい児のことは児童家庭課に行ってください」と、たらい回しにされて話が進まずなかなか埒(らち)があかなかったのですが、共同募金会にお願いに行きましたら、エレベーターをつくってあげよう、と助成を決めてくださったのです。そうなると京都市としては、共同募金という公的なお金を投入することによって、どれだけの福祉的な効果が得られるかを試算しないといけない。何らかの事業をやってもらわないといけないということで、京都市から「身体障がい者のデイサービス事業をやってもらえませんか」という委託を受けるようになったのです。それが一九九三年でした。その年に「愛隣デイサービスセンター」が半ば強引に始まりました。
 もともとは生活センター設立準備会として、月一回の学習会と月一回の食事会をしていたのです。そこで出会った人はデイサービスができたら通ってくる。けれども身体障がい者福祉法に基づくデイサービス事業となりますと、制度の枠があるのです。十八歳~六十五歳までの身体障がい者手帳の一級・二級をもっている人だけが、ここの利用の対象なのです。福祉というのは申請して初めてサービスが受けられる。申請の段階で使える情報を知っていないと申請もできない。向島に住んでいる方で、高校二年生の障がいのある方の家族が「うちの子どももお風呂に入れてもらおう」と、福祉事務所の窓口に行って手続きをしようとしました。ところが、福祉事務所のケースワーカーに「ここの施設は十八歳以いのちの重さ上の方しか使えないのですよ。残念ですけれど、申請は受け付けられません」と断られるわけです。情報をつかんで福祉事務所の窓口で申請した人は利用できなくて、直接、施設にきた人は利用できるというのは、おかしな話です。「障がいの種別や年齢にかかわらず、支援を必要としている人に関しては何でもやりますよ」と、こちらから情報として出していかないといけない。しかし、デイサービスセンターの枠のなかで情報を出していくのは制度外のことなので、委託を受けてやっている事業がだめになる。そこで私たちは支援を受けたい人は、子どもであろうと、大人であろうと、障がいの種別も関係なく一人の人をつけることのできる「障がい者地域生活支援センター」という別枠をつくりました。今のヘルパー制度の先駆けのようなものです。人を一人つけて自由にしてもらう。お風呂は空いている時間帯は使ってもらってよいということになりました。

小中謙吾君との出会い

 その事業の準備をしているときに、もう一人の方と出会いました。小中謙吾君です。ボランティアで、通園施設を卒園した障がい児の子どもたちの集まりをしていましたが、それも一部の人しか使えない。その情報を知らない人は使えない。では、もっと使ってもらうために、支援センターをつくりましょうと呼びかけて準備会をしました。いよいよ四月から始まるという準備会のとき、一人のお母さんが正面に座っていました。卒園児のお母さんですから顔は知っている。「何かありますでしょうか」と質問すると「さっきから聞いていると、どんな障がいがある子でも受け入れると言っていたけれど、この隣りにいるお母さんの子ども、痰の吸引が常時必要な子なんや。そんな子どもでも受け入れてくれるんか」。痰の吸引とは、痰を自分でペッと出す力がない人に対して、痰が気管に張りついたりするのを防ぐために機械で吸引することです。その話を聞いたときには、私は痰の吸引なんて見たことも、やったこともありませんでしたが、「お母さん、やってはるのですよね。お母さんがやってはるなら僕らに教えてください」と言ってしまったのです。それは実は医療的ケアというものでした。医者や看護師が行なう「医療行為」、非医療職が行なう食事やトイレの介助などの「生活支援行為」それらの重なる部分が「医療的生活支援行為」で、「医療的ケア」と呼ばれています。彼らにすれば、生きていくために吸引をやってもらわないといけないのですが、看護師しかできないとなると、二十四時間、看護師を家につけておかないといけない。ご飯の代わりに鼻からチューブを入れて摂る経管栄養、これも食事の介助と同じで、生活支援の行為です。
 その当時、謙吾君の食べていたご飯は、液体状に加工したミキサー食でした。私は重度の障がいのある方の食事の介助をするのは初めてでした。彼は、背骨が肩甲骨のように歪んでいる子どもです。飲みこみも難しい。抱きかかえると私がまず緊張し、その緊張が彼にも伝わってガチガチになります。そこへ「食べるよ、口を開けて」とやるのです。辛うじて口を開けてくれますが、一口入れるとゴホゴホとむせるわけです。むせたら、お母さんが吸引機のスイッチを押して痰を吸引してくれる。夏休み前に、互いに汗だくになりながら食事の介助の練習をしました。一回目が終わったときは本人もぐったりとしてしまい、ご飯を食べるのはエネルギーを蓄えることなのに、エネルギーが奪われていっているみたいなのです。合計三回、食事の介助の練習を行い、夏休みになりました。今までは四十日間、お母さんと二人だけで過ごしていたのです。他の子どもは障がい児のキャンプに行けるのに、その子は痰の吸引が必要ということで断られていた。行くところがなかった。けれどやっと少しでも家を離れる機会ができる。友だちと一緒にプールに行ったり、キャンプに行ったりできる。私たちもお手伝いができます。
 そんなわけで、最初の食事の練習では互いの意思の疎通がほとんどとれませんでしたが、彼らと夏休み、一日べったりと過ごすことで、少しずつわかりあえるような感覚がもてるようになりました。彼らは言葉が不自由ですから、目の動き、声の出し方、表情で訴えるわけです。謙吾君は絵が好きで、名画を見せるとやわらかい表情になるのに、あるとき、ふと見ると彼が眉間に皺を寄せたのです。「どうしたん、謙吾、おしっこ出たんと違うか」。そしたら眉間の皺がとれて「そうや」という顔をしたのです。確認すると本当におしっこが出ていた。「出てるやん。よう教えてくれたな。換えてあげよう」。その間、彼は「ようわかってくれたやないか」という感じです。彼とすごく距離が近づいたな、わかりあえたなという瞬間でした。
 私は、重度の障がい者の人たちと触れ合うことによって「彼らが表情を示してくれることで理解しあえるような関係が紡げるな」とわかりました。その人たちには人格もある、あたりまえの豊かな人間性のある生き方があると思えるようになったのですが、まだ出会っていない人たちは、そう思わないのではないかと、不安に思うのです。彼らは毎日、いつ死ぬかわからないなかで、生きておられるのです。うちの施設に通所していた、ある十八歳と十九歳の二人も、お家で急に亡くなりました。ちょっと喉を詰まらせる、ちょっと寝ていたときに具合が悪くなってパタッと倒れて、自分では起き上がれませんので、そこで鼻が塞がって窒息し、亡くなられたのです。昨日まで元気に笑顔で一緒に来ていた子が、信じられません。そう考えると、彼らが毎日、生きて私たちと出会っていることは、「その日、その日、いのちがあるということは本当に大切なことだ」と教えてくれるのです。
 糸賀一雄先生という、福祉の父と呼ばれる方がいます。滋賀県に近江学園という、重症児の施設を日本で初めてつくった人で、重症児の子どもたちに「この子らを世の光に」という言葉を残しています。重度の障がいの人がいたら、普通は「この人たちに世の光をあてて皆で何とかしてあげないといけない」と考えるのですが、そうではなく「この子らを世の光に。この子らの持っている力で世の中を変えていく力を」と考えられていた方です。最初、糸賀先生の本を読んだときには、どういうことか、実感としてわからなかった。けれども今、彼らと出会って、よくわかります。彼らこそ、私たちにいのちの重み、いのちの大切さを教えてくれる人たちです。いのちが粗末にされる時代になってきています。けれども、彼らが毎日生きている姿を私たちが見ることによって、いのちというのは粗末にできるものではないと教えてくれるのです。
 しかし、今の社会の価値観というのは、そのようになっていないのです。障がい者の制度・施策について障害福祉を通して考えてみても、高齢者医療制度や介護保険も、また障がい者自立支援法も、そうです。いろいろな制度や法律ができ、文言はきれいなことが書いてありますが、実際そこで行われている事柄は、高齢者を排除していったり、生き方の選択を狭めていったり、仕事ができる障がい者は大事にされても、できない障がい者は金食い虫みたいに思われて排除していこうとするのです。そういう制度の括りをしているので、一般の人たちも、同じような価値観にとらわれてしまうわけです。いのちを粗末にするとか、重度の障がいのある人たち、高齢者たち、弱い立場におかれている人たちを排除していくことは別におかしくない、という社会の価値観が、制度の根底にあるのはないかと危惧しています。本来なら、彼らを排除するのではなく、どうすれば共に生きていけるのかを考えないといけない。そして考えることによって、一人ひとりの「いのちの重さ」を理解できる、大切にすることになるのではないでしょうか。重度の障がい者の人たちと、出会う機会は少ないかもしれませんが、ぜひ機会をつくってもらって、出会うことによって、今までの価値観を変える経験をしてもらえれば、そして私たち自身が、今の社会のおかしさに気がついて、社会を変えていく力をもっているということを思いながら、これから歩んでいってもらえたらと願っております。

二〇〇八年十二月十日 京田辺チャペル・アワー「アドベント讃美礼拝奨励」記録

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