奨励

新島の愛唱句に思う
―「深山大沢龍蛇を生ず」―

奨励 西村 卓〔にしむら・たかし〕
奨励者紹介 同志社大学副学長
同志社大学学生支援機構長
同志社大学経済学部教授
研究テーマ 近代日本における農事改良運動の研究 近代京都都市史の研究

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書 三章一六節)

はじめに

 創立記念礼拝でお話をさせていただくにあたり、どういう話をしようかなと思っていました。副学長として学生支援を担当しているということで、創立記念にふさわしい学生支援にかわるような新島の言葉がないかなと思っていた時に思い浮かんだのが、「深山大沢龍蛇を生ず」という言葉でした。本学神学部の本井康博先生が「新島襄を語る」ということで六冊ほどの講演集を出されています。私は本井先生のファンでありまして先生の本はすべて読んでおります。その第一巻に、「新島校長はこんな学生が好きです」ということで、深山大沢に託す夢を話されたものが載せられております。そのなかで、同志社が所有していますリトリートセンターの建物の名称をどうするかという時に、本井先生が考えられて、新島が愛した句である「深山大沢龍蛇を生ず」という言葉に因んで「深山館」「大沢館」という名称をつけられたことに由来し、関連した形で、この話をされております。
 「深山大沢龍蛇を生ず」という言葉そのものについては、本井先生も紹介されていますように、もともと中国古代の史書、「春秋」の解説書である「春秋左氏伝」に出てくる句とされています。「四書五経」というのは朱子学や儒学にとって基本的な本でありまして、最も重要な経典のうちに入ります。安中藩の祐筆、書記係であった父民治の子として生まれた七五三太にとっては武士の子の素養として当然、儒学を学んでいたことが考えられます。「四書五経」を読むことも必修のように課せられていたのではないかと思います。その解説書としての「春秋左氏伝」も新島が読んでいただろうと思います。

龍蛇について

 では、「深山大沢龍蛇を生ず」という言葉の龍蛇とは何か。龍蛇は古くはメソポタミア・インド・東南アジア、そして日本・中国でまでも神格化され、蛇神信仰や龍神信仰として人びとの生活に大きくかかわり定着していったわけであります。私は龍神というときは、子どものことが頭に浮かびます。うちの子どもはマンガ好きでありまして、鳥山明の「ドラゴンボール」というマンガを全冊持っております。私も結果として全冊読破しました。鳥山明というのは「ドクタースランプ」を書いた作者でありまして、「ドラゴンボール」一、二、三巻は「ドクタースランプ」のようなコミカルなトーンですが、最後の方になると全宇宙の運命をかけて悟空が闘いますので、シリアスな劇画に近い状態であります。このマンガのなかで、シェンロン(龍神)というのは人の運命・世界の運命・宇宙の運命を決める役割を果たします。ドラゴンボールという珠を七つ集めて呪文を唱えるとシェンロンがそのなかから現れてきて、願いを叶えます。あらゆる願いを叶えてくれます。命を蘇らせることもありまして、七つの珠が集まり、呪文をとなえると、空が真っ黒になって、そこに煙が立ち上がり、シェンロンが現われるというイメージが私のなかにはあるので、それを新島に絡めるのはどうかとも思います。

稲作文化と龍神

 特に東アジア、稲作文化圏においては、龍神というのは重要な役割を果たします。蛇に関しても同じであります。私の研究分野の一つである日本の農業史におきましても、この龍神信仰に出くわすことがよくあります。どういう時に出会うか。農業ですから当然、東アジアの重要な作物として米があるわけで、米は水なしには成長しません。水の管理、水の潤沢な供給があってこそ成育する作物であります。干ばつ時には時として水をめぐる争いが起こります。この、水をめぐる管理で番水というシステムが江戸時代からとられています。水の流れの分岐点で、右に行くと何々村、左に行くと別の村に行くというときに、そのままの状態で分水をしていると、どちらにおいても、稲作に大きな影響を与えるべく十分な水の供給がされない。そこで、一日二十四時間の間に、この時間帯は右の村の方に分水し、この時間帯は左の村に分水する。それを管理運営していくシステムを番水と言います。特に水が不足している地域では、必ず、江戸時代から慣行として定着していて、現代でも干ばつ時には、そういうシステムが運用されている地域もあります。
 今でこそ我々は、農業技術・土木技術の発展により、番水の問題や干ばつ時の水利の問題を直接目にするようなことは少なくなりました。私は、大学院生および助手のとき、福岡で八年間生活していました。その間に大きな干ばつ、日照りの年があり、福岡市はその年、夜の間に水道を止めて水を供給しない、水道管の番水をやりました。下宿していたアパートで、夜、トイレに行けない、水が流せない、かなり苦労したことを覚えています。干ばつ時、昔なら雨乞い祈祷をすることは一般的でした。しかし、まさかとは思いましたが、この年、福岡の重要なダム、貯水池の南畑ダムで雨乞いの儀式がまことしやかに執り行われました。それが報道されて、「まだ、こんなことをやるんだな」と驚いたものです。

雨乞い習俗と龍神

 近世期、干ばつで水利条件の悪いところでは、水をめぐる争い(水論)が頻繁に起こって、それを番水という慣行を運用しながら、徹底して水の管理を、村を超えた形で行っていました。そういう水の管理とともに、雨乞いの祈祷が行われるわけです。福岡では、琵琶法師がため池・貯水池に来て祈祷を行いながら、一方では、村をあげて祈祷の儀式をしました。それはなぜか。そこに龍神が登場するわけであります。龍神というのは古代、稲作文化を中心とする地域では強い信仰をもたれており、特に水を司る神様としてあがめられてきたわけであります。
 水が不足しているときに、水を司る神様・龍神にお願いする場合、普通は「お頼み申す」というものだと思います。しかし、あにはからん、干ばつの時の雨乞い祈祷は逆でありまして、むしろ龍神を怒らせることによって、雨を降らせようとするわけです。では、龍神を怒らせるために何をするか。龍がいるといわれているところ、それが深山であり、大沢なのですが、そこで怒らせるための様々な行いがなされます。一つには、人糞尿を龍が眠っているだろうと思われる池や沼に投げ入れます。よくそんなことをするなと思いますが、雨乞い習俗の本には必ず出てきます。龍神はきれい好きですので、汚物を池に投げ入れたり、獣の遺体・頭蓋骨などをその場所に沈めたりします。これによって龍神が怒るのです。龍神の怒りが雨を降らせるのです。そのように思うと「ドラゴンボール」のシャンロンも面白いのではないでしょうか。
 このような雨乞い習俗は各地にあります。全国に伝わっている雨乞い習俗に関する研究書のなかに、様々な儀式が掲載されていますが、ネット検索をしても、過去の習俗や現存の習俗について知ることができますのでご参照ください。そういった研究書を読んでいただくと、こういう習俗が歴史的に行われてきた場所には、龍の字が付いた地名が全国各地に残っています。特に龍神は山、深い沼に住みますので、山には、龍にかかわる名称が残ります。たとえば、名神高速道路の京都から東京へ行くときに、滋賀県で竜王インターがあります。竜王山の近くにあるインターチェンジです。竜王山は全国各地にあります。ネットで検索しきれないほどです。大阪府茨木市・山口県山陽小野田市・山口県下関市・奈良県天理市・香川県琴南町・兵庫県宝塚市・広島県三原市・滋賀県栗東市など。これは文字通り、龍神がそこに住み、水の管理をしている、神聖な山であると認識されていることを表しています。

登龍門

 龍にかかわることでいえば、登龍門という言葉があります。中国の黄河中流域の険しい場所にある地名が龍門です。山々が迫ってゲートができている急峻なところです。この龍門を魚(屏風や襖、扁額には鯉が描かれます)が上りきれば、龍になって天上へ舞い上がるとされている所です。「歌手の登龍門」などという言い方があるように、新人賞をとることをたとえる場合もあります。魚であったものが神様である龍になるための一つの試練の場所として認識されているということを知ると、登龍門とはそういうものかとおわかりいただけるだろうと思います。どちらにしても、龍神は崇高な信仰の対象であり、登龍門という言葉のなかにあるように、魚が険しい難所を乗り越えれば、龍になるという、人生でたどり着くべき「目標」として位置づけられているわけです。
 新島は学生を、このように崇拝され、信仰される、いわば天上へ駆け昇る、たくましく強い姿の「龍蛇」にたとえたわけであります。言いかえれば、龍蛇のごとき「器量の太き、志操の高き、目的の大なる」学生を育てようとしたのです。

深山大沢について

 そして「深山大沢」という言葉ですが、これは、言うまでもありません。龍蛇が育つべき、いわば「器」を意味しています。前出の本井先生が著書のなかで、新島がこの言葉を使った時と場所について書かれています。
 「一八八九年、新島が亡くなる前年ですが、まず手始めはこの年の三月に新島が大阪で行ったスピーチです。彼は二十五日に大阪控訴院長の小島惟謙(これかた)が、自宅で開いてくれた集会において、有志者に同志社大学設立募金の依頼をアピールいたしました。この席で初めて使っております。当時の草稿にはこうあります」。新島がそこで語ったという言葉をそのまま読んでみます。
 「凡そ大学たるものは、偏頗狭隘(へんぱんきょうあい)たるべからず、尤も基礎を強固にし、規模を寛大に為し、深山大沢龍蛇を生ずと申して、之を深山大沢となし、器量の太き、志操の高き、目的の大なる人物を養成致したきものにある」(『新島襄を語る?千里の志』本井康博著 思文閣出版)と新島が言っているわけです。
 偏頗とは、偏ること、不公平であること、狭隘とは、度量が狭いことを意味します。つまりそうでない大学、これが器として大学に求められることである。そして、これは新島が常に主張し、大学の設立の旨意にも書いているように、キリスト教主義に基づく「良心教育」そのものを基礎として、寛大で、心が広く、ゆるやかであり、そしてのびやかに学生が集える場所という意味で、「器」としての大学を想定しているのです。偏らず、度量が広く、キリスト教主義教育に基づく懐の深い「器」のなかで、才能力量に優れ、志を高くもち、大きな目標を目指す人物を育てることが、大学の果たすべき役割だと新島は訴えたわけであります。これは新島が、亡くなる前年に、大学を設立するという大きな志を、その目的を、様々な人物とコミュニケーションをとり、様々な土地に出向いて、高らかに訴えたものだと思います。翌年、新島が亡くなるということを考えれば、新島の悲痛とも自信ともとれるような意思の表明だったのです。

さあ、そこで、今の同志社大学を考えましょう

 このことが新島愛唱句の「深山大沢龍蛇を生ず」の真意であります。そこで私は、大学の執行部、副学長として学生支援の責務を担っておりますが、この新島の「深山大沢龍蛇を生ず」という言葉を、深く、そして広く、その真意を理解することの必要性を、今回、もう一度考え直してみました。同志社大学は二〇〇四年の政策学部の開設に始まり、今や十二学部を擁する、名実ともに私学の雄というべき総合大学に成長しました。そして数年後にはさらに二学部が加わり、十四学部の体制になろうとしています。そしてまた今年度、文部科学省のグローバル三〇にも選定され、多くの留学生を迎え入れる、文字通り「国際主義」大学としての姿を示さねばならないという責務が課せられました。二〇一三年には文系学部の今出川校地への全面移転が準備されています。そのための校地整備の計画も着々と進んでいまして、来年の十月には今出川校地にあります中学校が岩倉に移転し、その後に新棟を建てることによって二〇一三年に向けての文系学部の全面移転の受け皿として、今出川校地を整えるということになっております。先ほど読まれました「同志社大学設立の旨意」にもありますように、人を育てるには一〇〇年かかる。そして、育てるための教育の大計が成就するには二〇〇年、三〇〇年がかかる、とも新島は言います。
 同志社大学は設立して一三四年、まだまだこの大計は成就していないということです。こういうなかで、同志社大学が全国の私学の雄として大きく羽ばたき、成長していく今だからこそ、学生を育てる大学とは一体何なのか、新島が「深山大沢龍蛇を生ず」という言葉のもつ真意、そして深遠な意味をしっかりと捉えなおしていかなければならない、そのために、私たちは何を果たすべきなのかということを、具体的なところで考えていかなければならないと思っています。
 二一世紀の同志社大学を展望しなければならない。どういう形で展望するのか、どういう大学に育てるのか、その時に常に、新島が学生をどう育てようとしたか、その原点に立ち返ることが必要だと確信しております。それを大学の一つの大きな政策として打ち出していきたいと私は思っております。皆さん方に私の決意を示すことで、今日のメッセージとしたいと思います。

二〇〇九年十一月十七日 火曜チャペル・アワー「創立記念礼拝奨励」記録

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