奨励

新たなる拓け

奨励 小﨑 眞〔こざき・まこと〕
奨励者紹介 同志社女子大学生活科学部人間生活学科准教授
日本キリスト教団正教師

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(マタイによる福音書 一章一八―二五節)

はじめに

 この度は、同志社大学のクリスマス礼拝にお招き頂き、心より感謝申し上げます。私の勤める同志社女子大学でも、毎朝、チャペル・アワーを行っておりますが、夕方のチャペル・アワーも心静かな場として素敵な空間ですね。また、普段、女子学生との出会いが多いなか、今夕は男性の参加者も多々おられ、これもまた新鮮ですね。
 さて、先日、本屋で立ち読みしており『悪いのは私じゃない症候群』という香山リカさんの興味深いタイトルの書籍を見つけました。香山さんに申し訳ないのですが、購入せずに立ち読みで終えてしまいましたが、タイトルといい、着眼点といい、興味深い指摘がありました。考えてみれば、日常生活のなかで、私も結構この言葉を使っているな、と思いました。とくに、カミサンに対して「私は悪くない(暗に、悪いのはあなただ・・)」と。少々反省させられました。
 自己責任化した社会にあって、私たちは自分自身を護る手段として、相手に責任を転嫁し、都合のよい自分自身を追求してきました。そのため、「私は悪くない」と訴え、私にとって否定的な事柄や不都合な出来事を、すべて私の外に置き去りにすることで自身を護ろうとしてきました。自分自身の負う苦痛はできるだけ避け、特に理不尽な苦しみや痛みは根本的に排除するか、身勝手な論理を打ち立てて強引に処理してきました。このような、自分の都合のみを優先して事柄を処理する傾向を、森岡正博さんは「無痛文明」と語りました。しかしながら、私たちの都合のみを求め、理に合うことを行い、社会が「無痛」化することは、本当にすばらしいことなのでしょうか。本当に豊かなのでしょうか。

聖書に描かれるクリスマス! ~意外な介入~

 このような時代状況にある私たちに、クリスマスの物語は大胆に迫ってきます。今夕はマタイによる福音書の伝承を選ばせて頂きました。イエスの誕生をヨセフの側から描いているストーリーです。ルカによる福音書同様、「聖霊による身ごもり(処女降誕)」を記します。この場面から、イエスの神秘性やマリアの純潔性等を読み取る方々もおられますが、今夕は少し異なる視座から探ってみます。
 マリアにとって妊娠は自分の想定外の出来事であり、自分の世界観の外からの介入(聖霊)による出来事でした。当然、ヨセフにとっても同様でした。ヨセフの直面した現実は、突然に迫った身に覚えのない不条理な出来事であり、自分の計算や努力の及ばない出来事でした。それは、自分の正しさや理屈を全く無視して起こった出来事であり、ただ、そこにたたずむしかない絶望の出来事でした。神学部の授業のなかで、学生を通して示された言葉をお借りするならば、「マリアは自身の描いていた未来が打ち砕かれた」状況へ突き落とされてしまいました。ヨセフは何とか自分たちの描いている未来を護るため、ひそかに離縁を望みます。ヨセフは周囲からの尊敬に値する正しさと名誉を護りつつ、マリアに対しても、不名誉な女性として晒し者にしたくないとの思いのなかにあったのでしょう。言いかえれば、自分自身の考える正しさを根拠とし、そのことを優先していました。
 そのようなヨセフは、「恐れず」との語りかけの前に自身の思いが打ち砕かれていきます。「恐れず」との言葉は、ヨセフの内面にある「都合・納得・価値基準等」に基づいた「不安・混乱・絶望等」を全く超えて、ヨセフの世界観の外側からヨセフの現実に介入してきました。そのことを通し、ヨセフは「夢から覚め、夢から立ち上がって」マリアを受け入れていきます。ヨセフはマリアを離縁し拒絶する歩みから、マリアを妻と迎え、身に受けた現実を積極的に担う歩みへと一八〇度転換させられました。ヨセフは今までの自らの勝手な思いに死に、新たな価値基準に生き始めました。まさにそのこと自体が「インマヌエル」の世界でしょう。ストーリーは、この出来事の意味をイザヤ書(七章一四節)の言葉を用い「インマヌエル」と語ります。「我々が神と共にいる」のではなく、「神が我々と共におられる」と、神が主格となって、神が不条理な現実の只中に介入してくることを大胆に告白し、その事実を語ります。
 ヨセフのごとく「全くもって納得のいかない、合点のいかない出来事」を通してこそ、「私の思い、私の良さ、私の正しさ」は徹底的に打ち砕かれるのかもしれません。私たちにとって絶望とも思える闇の只中に、神が介入し、私に問いを投げかけてくるのかもしれません。

私の都合を越えて  ~関わりの中で~

 自分自身の思いや納得を越えて、新たな希望を求めた方がいました。今夕は一冊の書籍を持参しました。山下京子さんが著した『彩花へ―「生きる力」をありがとう』というものです。ご存じの方もおられるかと思いますが、著者はあの神戸連続児童殺傷事件の被害者の女児の母親である山下京子さんです。メディアは、衝撃的であった土師淳君のことを頻繁に取り上げましたが、実は淳君が殺される前に、被害に遭っていたのが彩花さんでした。彩花さんは犯人の少年から水飲み場を尋ねられ、親切に案内したところ、背後から鈍器で襲われ撲殺されてしまいます。そのような残虐かつ不条理な現実を突きつけられたのが、彩花さんの母、山下京子さんです。京子さんはその手記のなかで、以下のように語ります。
 毎日のように、人の命が奪われる悲しい事件や事故が続きます。加害者を憎むのは、当り前の気持ちです。でも、人を憎むだけでは、こちらが前へ進めなくなり、疲れ果ててしまうはずです。
 さりとて、「運命だからあきらめよう」というあきらめの思想でも、私たちは悲しみの現場に置き去りにされてしまいます。生きる勇気を奪われてしまいます。憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いてすべてを「価値」に変えていくしかないのです。
 今回の事件が、日本社会に暗い影だけを落とすようなことになれば、失われた二つの命は報われないと思います。この悲劇を、どうやって「価値」に変えていくのか。この重苦しい現実のなかから、どうやって「希望」を見出していくのか。不信感と憎悪を、どうやって「信頼」に変えていくのか。それが残された者の闘争です。
 人と人を分断し、人間を卑小なものにおとしめ、心を閉ざさせていく思想に、そろそろ私たちは終止符を打たないといけません。人と人とを結び合い、人間への尊敬を勝ち取り、人々の心を大きく開かせていく思想をつくり出さないといけません。いかなる行きづまりをも打ち破る、自分の内なる「生きる力」に目を開き、耳を傾けなければなりません。

(山下京子『彩花へ―「生きる力」をありがとう』河出書房新社 一九九八、一八七―一八八頁)

 さらに、京子さんは少年Aを「抱きしめたい」とも語ります。愛娘を撲殺した忌まわしい犯人Aに対してです。京子さんは意味不明な苦悩の深淵へ落とされ、理性的説明が成立しない闇の只中にあって、憎しみの思想(苦の合理化)でもなく、あきらめの思想(苦の排除)でもなく、希望の思想を創出することを問いかけます。そのような京子さんの根源的な力はどこから生じてくるのでしょう。ある方は「苦痛や葛藤のないことが幸福なのではない。そんな人生は現実にはあり得ない。行き詰まり、絶望に見舞われるたびに、『それにもかかわらず』立ち上がっていくところに人間の価値があり幸福があるはずだ」と語ります。
 確かに、そのような側面が人間にはあるのかもしれません。京子さんもそのような自身の力に揺り動かされたのかもしれません。しかし、私たちは、「それにもかかわらず」立ち上がっていくという強さを賛美するのではなく、むしろ、その絶望を通してのみ変えられていく現実があることを読み取りたく思います。すなわち、自分自身にとって不都合なこととの関わりのなかにこそ、今までとは異なる新たな世界観が創出されることを語っているように思います。私の都合や私の快適との断絶は、確かに苦痛のみを突き付けますが、一方で、異なる他者との真の出会いをもたらし、私の世界に新たなる世界を切り拓くのかもしれません。
 私という存在の意義を語り、主張するのではなく、存在意義に拘り続けているその私に死すこと、その私から脱落することで、私とは異なる他者との流動的な関係性に根ざした新たな世界が切り拓かれていくのかもしれません。京子さんは確かに被害者家族であります。しかし、同時に一人の母でもあります。この母の眼差しに目覚めさせられ、新たな世界観に生き始めました。ゆえに、「少年A君を抱きしめてあげたい」とまで語るのかもしれません。

新たなる拓け  ~遺棄された他者と共に~

 私たちは、自分自身の「合理」や「都合」に根ざした確固たる世界のなかで安住したいと考えています。しかし、「自明の理」に安住していられない揺さぶりを与えられ、ひいては、自分たちを規定しているものを根底から崩され、虚無状態へと陥れられることを通し、初めて、今までとは異なる新たな世界に出会うのではないでしょうか。「自己の無力さを通してこそ、根源的に無力で弱く疎外され、かつ、自己分裂により自らを疎外している人間性と連帯しうる」と語った方がおられます。言いかえれば、私の「合理」や「都合」に根ざした発想に死ぬことを通し、初めて、その発想から遺棄され忘却されていた他者と出会うことが可能となります。私と異なる他者、私にとって都合の悪いものとの関わりによってのみ生じる協働性(違うものが互いに機能し合う関係性)を通し、他者の世界を知り、ひいては、新たな自己と他者との出会いの場が切り拓かれます。その出会いの只中で新たな世界が創造されます。
 今年も数え切れないほどの争いと苦悩の出来事が私たちを襲いました。しかし、あのヨセフが「恐れず、夢から覚め、立ち上がった」ごとく、私たちも自らの不条理な現実の只中にあっても、自らの条理や正しさに縛られず、むしろ、その不条理さ(自己の条理からの脱落)こそが、真理に出会う場を切り拓くことを確信したく思います。自らの都合に支配された空間に留まり続けることから脱出し、喜びと平和を創りだす新たな歩みへと呼び出されたいものです。そこに、クリスマスの喜びがあります。そのことを確信し、共に祈り合う者でありたいものです。

二〇〇九年十二月二十二日 火曜チャペル・アワー「クリスマス礼拝奨励」記録

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