奨励

まことの安息

奨励 川江 友二〔かわえ・ゆうじ〕
奨励者紹介 同志社大学神学研究科生

 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

(マタイによる福音書 一二章一―八節)

ある安息日の事件

 イエスが弟子と共に、麦畑の中を通られていた。弟子たちは空腹になり、そこにある麦をちょいとつまんで、口へ放り込んだ。
 当時では、道が畑の中を通っていることはどこにでも見られる光景でしたし、このイエスたちの姿も、のどかな、ほのぼのとした情景として思い浮かべられます。しかし、そのことから起こった事態はイエスとファリサイ派の人びととの激しい論争でした。その結果、イエスは命を狙われることになります。なぜ、そのようなことになってしまったのでしょうか。
 元々、隣人の麦畑に入り、穂を手で摘んで食べることは旧約聖書(申命記)において許されている行為です。ぶどう畑に至っては、「思う存分満足するまでぶどうを食べてよい」とさえ記されています。なんとも明瞭で、豪放な規定です。他人の畑の物であっても、空腹であれば満腹になるまで食べていいのです。生麦でお腹を満たそうとすると、お腹を壊しそうな気がしますが、ぶどうの食べ放題なら私もいいなと思ってしまいます。ただし、カゴや鎌を持って収穫をしてはいけないのです。それはいけないけれども、人の畑で飢えをしのぐことは許されていたのです。弟子たちも空腹でありました。当時でも、麦は普通炒って食べていたようですし、生麦は決しておいしいものではないでしょう。その麦を生で食べるくらいですから、よっぽどお腹が空いていたのだと想像できます。つい手を出して、手の中でもんで食べたのかもしれません。しかし、問題はそれを安息日に行ったということにあるのです。

法律の落とし穴

 安息日というのは文字通り休む日です。神が天地創造の業を終える七日目を休み、祝福された。したがって、安息日は神聖で、これを守ることは神の秩序を証言することを意味しました。だからこそ徹底的に休まなければ神の御旨に背くと思われ、徹底して労働を避けたのです。ユダヤの人びとは特にこのことに懸命で、安息日には戦争を休み、その隙を突かれて負けてしまったという記録が残っているほどです。
 麦の穂を食べた弟子たちの行為も安息日には許されない労働である、という掟が実際にありました。ただ、初めからそんな細かな規定があったわけではなく、最初は「安息日を大事にしよう」という意識だけが存在したのです。しかし、「安息日を大事にする」ということだけでは、内容がないので本当にそれを守れているのか不安になるものです。そこで、安息日の内容をだんだん詳しくして、安心しようという衝動が起こってきたのであります。たとえば、職場で働くことは当然禁止だとしても、料理を作るのはどうかと考え、新しく調理することは禁止するが、前日に作っておき、温めて食べることはよいとすることになりました。さらに、一日に何歩歩いたら働いたことになるのだろうと考え、一日合計八百メートル以上歩いてはいけないという定めまで作られたというのです。これではおちおち外出なんてできません。このように、掟は増えていき、一説によると、合計で一五二一もの規定があると述べられています。このような詳細な規定を設け、その通りに生きていれば、神の掟に背いていないことは確かだという保証が得られ、安心するのです。しかし、それは安心を得られる一方、細かなことに囚われすぎ、最初にあった根本的で大切なことを忘れてしまうという危険性があります。さらに、この細かな規定は簡単に人の行いを監視し、批判する道を開くのです。それは近現代の法律でも同じことが言えます。

「人間」を忘れた法律

 このことを考えるとき、私は、日本で行われたハンセン病関連の法律と元患者の方々の声を思い出します。
 ハンセン病という病気が容易に感染するという誤った情報から、国はハンセン病患者の方々を療養所に強制的に閉じ込め、二度と出てこられないようにする「らい予防法」という法律を作りだしました。この法律により、実に多くの人が家族から切り離され、また縁を切られ強制労働や断種・中絶といった非人道的な扱いを受けてきたのです。まさに、この法律はハンセン病患者も、またその周りを取り囲む人間もがんじがらめに縛り、人間存在を殺すものでした。これは、「人間」そのものという真に大切なものを忘れ、「病気」を恐れた人間の弱さがあらわになった結果です。そのため、今も苦しみや痛みを抱える元患者の方は多くいらっしゃいます。実際にお会いした方の中には「人間として扱われず、夢も人生も奪われた」と涙を流し語ってくださった人もいました。また、この法律の廃止決定のときが「私の『人間』回復のときだった」と語る人もいました。自らの安心のために法律に囚われすぎ、そこにいる最も大切な人間存在を忘れてしまっては、その法律は意味をなさないのです。それは聖書の時代でも同じことなのだと、今日の箇所を読んで思うのです。

ダビデは知っていた

 今日出てきましたファリサイ派の人びとは特に律法などに厳格で、目を光らせている存在でした。歩きながら麦の穂を食するイエスの弟子たちの態度は我慢ならなかったのでしょう。「この人たちは安息日を、律法を軽んじている」と。そこから、ファリサイ派の人びとは弟子たちとその師であるイエスを批判し、罪人として裁こうとするのです。「あなたはいったい何を考えているのか、あなたは何者か」とイエスを問いただすのです。これに対して、イエスは一気に反論します。挑戦的に、根本的なところで激しい反論をするのです。
 まずイエスはダビデの話を熱を込めて語り始めます。ダビデはこのとき、サウル王から命を狙われ、僅かなお供と共に、逃れ逃れ、食べるものもなく、飢えていました。そのとき、ダビデは、本来、祭司以外食べることを許されていないパンを飢えたお供の者と分かち食べるのです。イエスは、ファリサイ派のお前たちが誇りにしているダビデ王はこのような者であったと言うのです。「このときのダビデは放浪者で、律法を破り、貧しい人びとと連帯し、その人びとと共にパンを分け合っていたのだ。飢えている人を無視してまで守る律法はない。ダビデはそれを知っていたのだ」とイエスは語るのです。そしてこう語るイエスこそ、ダビデと同じように貧しい者で、放浪する救い主なのです。

「痛み」をわかること

 さらに、イエスは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というホセア書の言葉を引用して語ります。ここで語られている「憐れみ」とは、神の憐れみのことです。「憐れむ」というと、日本語では上から下に向けられるものと感じられがちですが、この「憐れみ」という言葉は、原語のギリシア語では「慈しみ」と訳せる言葉です。相手を「大切に思う」というものなのです。ある聖書では、この箇所を「人の痛みをわかること」と記しています。ここで言う「人の痛み」とは何か。それは人間の身体やこころの飢え、渇きを指しています。人間の飢え、渇きを見て、イエスはそれをわかり、共感するのです。いや、イエスの共感はこころのなかだけにとどまらず、身体でそれを感じ、自身も共に飢え、渇いておられたかもしれません。そして、その思いから心底人を「大切に思う」のであります。そもそも日本語においても「憐れみ」という漢字はりっしん偏、つまりこころを横に置くものとして書かれています。こころを共にして相手を大切にする、こうした憐れみこそイエスは何よりも重要なのだと語っているのです。
 ただし、イエスは律法などを完全に否定しているのではありません。安息日・礼拝・儀式・祭礼、これらは重要であるが、人間の必要はそれに勝るというのです。さらに問題はファリサイ派の人びとの安息のなかにはそれがない、ということにあります。ここには、憐れみが欠如し、共感する心、人間存在の大切さを忘れてしまっていて、本当の安息がないのです。真に大切な「人間一人ひとり」、「人間の必要とするもの」を忘れてしまっていて、厳格に安息日を守ることの意味がなくなってしまっているのです。それを理解しないお前たちは、人びとを安易に責めたてるのだとイエスは憤るのです。「律法を守らない者をすぐに罪人だと決めつけるな。私たちはみんな同じ人間ではないか。腹が減ったからそれを満たす。それのどこが悪い。お前たちにはこの飢えている人間が目に入らないのか。その姿を見てこころを動かされないのか」と述べているのです。

まことの安息に応えて生きる

 そして、最後にイエスは「人の子は安息日の主である」と宣言します。「人の子」とはイエス自身のことです。イエスこそが安息日の主である、ということは私こそが真の安息を与えるものである、という約束なのです。まことの安息はまず神から与えられるものなのであります。主であるイエスが人間の身体とこころの飢えや渇きに「憐れみ」をもって共感し、一人ひとりを大切に思ってくださる、そのところにまことの安息があるのです。こうしたイエスのこころ、生き方に気づき、飢え、渇き、苦しみある人びとに出会ったとき、私たちはその人の痛みを共に感じ、その人という存在を大切にすることが求められています。私たちの飢え、渇きや痛みを共に感じてくれるイエスの優しさ、そしてそうした生き方が大切なのだと、それを必死に守ってくださる激しさを共に覚え、私たちは出会う人一人ひとりを大切にして生きたいと思うのです。

二〇一一年一月十一日 火曜チャペル・アワー「音楽礼拝奨励」記録

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