奨励

自由と暴力

奨励 富田 正樹〔とみた・まさき〕
奨励者紹介 同志社香里中学校・高等学校教諭

 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
 『わたしの家は、すべての国の人の
   祈りの家と呼ばれるべきである。』
 ところが、あなたたちは
   それを強盗の巣にしてしまった。」
 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

(マルコによる福音書 一一章一五―一九節)

危険な男

 ナザレのイエスは、「危険な男」です。
 ここにいる皆さんが、キリストと呼ばれるようになったイエスというユダヤ人男性に対して、どのようなイメージをおもちなのか、人それぞれではあるでしょうけれど、普段私が授業をしている学校の生徒たちは、私の授業を受けて「イエスのイメージが変わった」と口々に言ってくれます。
 というのは、イエス・キリストといえば、誰に対しても優しくて、いつでもニコニコと微笑んでいる人、と思っている人が多いのですけれど、きちんと聖書を読んでいくと実はそうではないのです。
 たとえば今日お読みした聖書の箇所では、イエスがユダヤ教の神殿で暴れたと……。イエスが商売人たちの机や台などをひっくり返して回り、商人たちを神殿から叩き出しています。
 イエスが暴れる、という場面があることに驚く人は多いようです。もちろん彼の生涯のなかでほんの一回だけであるように書かれてはいますが、それでも福音書の記者はそのことを隠してはいません。隠していないということは、そういう事件が実際にあった、と人びとの記憶のなかにしっかりと残っているので無視するわけにはいかなかったということですから、やはりイエスとその仲間たちによる暴動は本当にあったのだろうと考えることができます。
 イエスがなぜ暴動を起こしたのか、その理由については色々な説があって、「これだ」という断定はできないようです。
 ただ確実なことは、この暴動によってイエスは当局に、彼を逮捕する理由を与えてしまったということです。彼が単なる新しい教えの説教者であるだけでなく、暴力をふるう危険人物なのだと見なされる証拠として、この事件は使われてしまったのです。

言論は自由か

 どのような主張であれ、何かを主張するときには、決して暴力的な手段をとってはいけない、というのは今や私たちの常識になっています。何か意見があるなら言論によって述べなさい、そう言われます。何かを主張するために暴力を使ってしまったら、その主張の善し悪しとは関係なく、暴力をふるったことだけを責められて犯罪者扱いされ、主張は誰にも届きません。暴力ではなく言論。それが正しい方法、それが常識です。
 しかし、これは一見正しい理屈のように見えて、実は全く公平でも自由でもないのですね。言論によって主張せよと言っても、一人の人が自分の意見を広く世間に聞いてもらうというのは、大変難しいことです。
 お金がたくさんあって、テレビやラジオなどを使ったり、印刷媒体を使ったりということができる人や企業や政府の方が、自分たちの主張を広く世の中に浸透させることについては圧倒的に有利です。
 しかも、ただ世論に受け止めてもらうのに有利なだけではなく、そのようなメディアを掴んでいる人たちは、情報を意図的に隠蔽したり、偽の情報を流したりして、世論を操作することも可能です。
 加えて、そのように圧倒的多数の世論を味方につけることで、異なる主張をする個人や小さなグループのほうが誤った特異な考えのもち主だというネガティヴ・キャンペーンを張ることもできます。
 ですから、「言論の自由」とはお題目だけで、実際にはものすごい不公平と格差がこの世の中には現実にあるのです。暴力を肯定してはいけませんが、暴力でしか自分たちの存在と主張を表現できないほどにまで権利を奪われ、仲間を殺され、追いつめられた人間が現実にいるということを私たちは考える必要があるのではないかと思います。

非暴力による抵抗

 ここで二人の牧師のお話をしようと思います。どちらも人間の命と自由のために闘った牧師です。一人はアメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)、もう一人はドイツのディートリッヒ・ボンヘッファーです。
 ご存じの方も多いと思いますが、キング牧師は「非暴力的抵抗」を貫いて、たとえ人種差別主義者からいかなる暴力を受けようとも、自分たちは絶対暴力は使わない、ただし文書・演説・デモ行進・座り込み・ボイコットなど、あらゆる手段を使って抵抗を続け、黒人の公民権を得るために闘いました。
 非暴力というと穏やかな運動を思い浮かべる人もおられるかもしれません。しかし、キング牧師の非暴力というのは、例えばデモ行進一つしても、両側から石が投げつけられるわ、ガラス瓶が投げつけられるわ、ひどい場合には小型の爆弾が飛んで来るわ、放水銃でなぎ倒されるわ、警察犬を差し向けられて襲われるわ。そのなかをひるまずに主張を叫びながらどんどん歩いて行かなくてはならないのですから、それは生きるか死ぬかの危険な闘いだったわけです。殴られようが、蹴られようが、撃たれようが、爆破されようが、絶対に報復しない、しかし要求は曲げないし、運動も止めないという壮絶な闘いです。
 暴力を使わないといっても、相手は暴力をふるってくるのですから殺される危険もありますし、結果的にキング牧師はアトランタで銃弾に倒れました。しかし、「敵を愛しなさい」という聖書の言葉を実際に生き、非暴力の抵抗を続けたことで、殺される直前にノーベル平和賞を受賞していますし、今でも多くの人に影響を与え続けています。

暴力を使おうとした牧師

 これに対して、同じキリスト教の牧師でも、その行動の評価が分かれる人物がいます。ディートリッヒ・ボンヘッファーです。
 トム・クルーズが主役を演じた『ワルキューレ』という映画がありましたがご存じでしょうか。これはドイツ軍のシュタウフェンベルクという人がヒトラー暗殺計画を遂行していく姿を描いています。最終的にはそれが失敗に終わるのですが、この「ワルキューレ作戦」という暗殺計画に加わっていた牧師がボンヘッファーです。
 聖書には「あなたの敵を愛しなさい」と書いてあります。また「殺してはならない」という戒めもあります。ですからキリスト者は、まして牧師は人を殺してはならない。たとえその敵がヒトラーであったとしても、それは破るべきではなかった、と言う人がいます。でも逆にボンヘッファーがやったことを評価する人もいます。
 ボンヘッファーにしても、簡単な決意で暗殺計画に加わってはいませんでした。「殺すな」「敵を愛せ」、そんなことは十分わかっています。しかし、ヒトラーが各地で戦争を繰り広げ、ユダヤ人をこの世から絶滅させるために大量虐殺を進めている。それを目の当たりにして、「目の前で多くの人を轢き殺していく車の暴走を止めずに、人びとが殺されるのを傍観しているのが、本当に隣人を愛することになるのか」と悩み抜いた結果、彼はヒトラー暗殺計画に参加します。
 最終的には、彼も逮捕されて収容所に入れられ、ドイツが敗戦してヒトラーが自殺する直前に絞首刑で殺されてしまいました。本当にもうあと半年でも彼が生き延びてくれていたら、貴重な証言が得られたでしょうが、それも叶いませんでした。

血を流す覚悟

 イエスとキングとボンヘッファー。
 三人の抵抗者を挙げましたが、三人とも最終的には処刑なり暗殺なりされて殺されています。それを思うと、言論の自由とか社会への批判というものは、血を流す覚悟がないと貫くことはできないのかと思わされます。
 私自身はかなり強く自由を求めるタイプの人間なのですが、それでも自分の命を落とす覚悟で自分たちの権利や自由のために闘えるかというと、今はまだその勇気はありません。ただ人間は、いつかは必ず死ぬものですから、どうせ死ぬのならみんなの自由のために役立つような死に方をしたいと思います。子どもも大きくなって、仕事も後の人に全部渡して、年寄りになって身軽になったら、少しは勇気が出るだろうか、なんてことも考えたりします。
 この世の中で何か意見を主張するということは、たとえ殺されなくても、ある程度の反論、誹謗中傷、攻撃にさらされることは避けられません。
 ですから私たちは、何がしか意見を主張するときに、多少攻撃されてもへこたれないような精神力を身につけないといけないでしょう。
 私は皆さんに、「自由のために闘って死ね」とは言えません。けれども、世の中はお金と政治とメディアを握っている人たちによって支配され、もうかなり人間の自由は踏みつぶされてしまっています。私たちの多くもそれを無意識のうちに感じ取って、周りの人に合わせて目立たないように生きる癖が身に付いてしまっていると思います。でも、それを放置しておくと、持っている者はますます太り、持っていない人は痩せ、不公平と格差が固定化され、あたかも生きる資格のある人間と死んでもいい人間が存在するかのように振り分けられ、一人ひとりのたった一度の命が、力を持つ者の捨て駒として消費される社会が大手を振ってやってきます。私たち一般市民がそれに対して「No」を突きつけないと絶対にそうなります。

一粒の麦死なずば

 私は皆さんに「血を流せ」とは言いません、でも自由を本気で求めるのなら、物理的であれ言葉のうえであれ暴力を受けることは必至です。あるいは無言のうちに加えられる心理的な暴力もあります。それは覚悟して欲しいと思います。
 みんなの命と自由を守るために、自分の自由を、あるいはひょっとしたら命をも犠牲にせねばならなくなることがあるかもしれません。しかし、程度の差はあっても、そういうものだと覚悟しておいた方が良いと思います。聖書に収められているイエスのたとえ話で、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶ」と言っているのは、そういうことです。
 それを覚悟したうえで、それでもこの世で自由を求めて生きるのか、それとも自由を犠牲に差し出して流れに任せ、周りに合わせて平穏無事に生きるのか、それを選択するのも、全く皆さんの自由だと思います。
 自分にとって、「この世で自由に生きる」とは何なのか。少しでも考えてくれたらうれしいなと思います。
 それでは、お祈りをしましょう。目を閉じてください。

祈り

 神さま。あなたの尊い恵み、赦し、導きに心から感謝いたします。
「真理は自由を得させる」とあなたは福音書記者に書かせました。
 しかしこの世は、自由を踏みにじり真理を脅かす力に翻弄されています。
 このような世にあって私たちが、あなたに与えられた尊い命をお互いに大切にし、守り合い、支え合い、あなたが産んでくださった本性のままに自由に生きる人生を過ごすことができますように、他者への配慮と赦しと愛をもてるように、どうか導いてください。
 この感謝と願い、イエス・キリストの名によってお聴きください。
 アーメン。

二〇一一年六月二十一日 火曜チャペル・アワー「奨励」記録

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