奨励

あなたはマルタ派? マリア派?

奨励 工藤 尚子〔くどう・なおこ〕
奨励者紹介 同志社香里中学校・高等学校教諭
日本キリスト教団京都丸太町教会牧師

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

(ルカによる福音書 一〇章三八―四二節)

マルタ派かマリア派か?

「マルタとマリア」の物語を読んで、皆さんはマルタとマリアのどちらに共感されますか。私は、初めて聖書を読んだ中学生のころからずっと、圧倒的にマルタ派です。
 私には一つ年下の弟がいますが、「上の子」である私は、何かにつけ「お姉ちゃんだから」と言われて育ってきました。一方、弟はのんびり屋で、人の目を気にしてセカセカ動く私とは対照的に、とてもマイペースな性格です。そんな弟に対し、「弟は何もしないのに怒られない」「私はこんなに頑張っているんだから、もっと褒めてもらえたっていいのに」などと思うこともしばしばありました。ですから、この「マルタとマリア」の話を読むと、「てきぱき動くマルタに、何一つ働こうとしないマリア。褒められるべきはマルタであり、私であるはずなのに」と、マルタに自分を重ねて、彼女の肩をもちたくなってしまうのです。

アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』

 この秋学期のチャペル・アワーのテーマは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という御言葉だそうですが、このテーマを伺ったときに、私の頭のなかで結びついたのが、今日の「マルタとマリア」の話でした。
 「マルタとマリア」がどうして「平和」と結び付くのか。その架け橋になったのは、私がこの夏に読んだ一冊の本、アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』です。イスラエルのユダヤ人作家であるオズは、このように語っています。
  「普通の平和主義者は、『世界の究極の悪は戦争だ』と言う。だが私に言わせれば、戦争は恐ろしいが、究極の悪は戦争ではなく侵略なのだ。侵略に気づいたら、私たちは戦わなければならない。戦争の反対は愛ではないし、戦争の反対は思いやりでも、寛大さでも、友愛でも、許し合う心でもない。戦争の反対は平和だ」。
 彼はこの本のなかで、イスラエルとパレスチナの二国家分割のビジョンを示しています。そしてそのビジョンを妨げるのは、イスラエル、パレスチナ双方の「自分たちこそが正しいのだから、間違っている相手を正してやろう」という思い込みであり、これが「侵略」だと言うのです。
 私は彼の言葉から、「平和」というものについて新たな視点を与えられました。「侵略される」という経験をもたない私にとって、なぜ彼らが戦わなければならなかったのか、ということを想像する視点が欠けていたのだと思いました。オズは言います。「想像力が必要だ。他者の立場に身をおいてみる力が必要だ。絶対的に正しいことなどない、という総体的倫理観の話ではなくて、相手が一〇〇パーセント間違っていても、相手の気持ちになってみるのは無駄ではないのだ」と。
 私は今まで「平和」ということを考えるとき、ついつい「同化」を求めてしまってきたのではないか、と気づかされました。「共に武器を捨てるという『正しさ』を、『みんなが』共有すべきだ」と考え、そういう「私の考える平和」を、私以外の人に「押し付けようとしていた」のだと思いました。相手に同化を強いることは、オズの言葉で言えば「侵略」です。こちらの掲げる理想がどんなに正しいものであったとしても、相手のことを受容せず「あなたを正してあげよう」「あなたを救ってあげよう」と迫るのは、「侵略」に他ならない。そしてその侵略は、国家間・民族間のみならず、家庭のなかからも始まっている、とオズは語ります。そこで私が思い起こしたのが、今日お読みいただいた「マルタとマリア」の物語だったわけです。

イエスはマルタのことを責めたわけではない

 イエス一行をもてなすために忙しく立ち働くマルタ。イエスを大事に思うからこそ、彼女は忙しかったわけです。一方、マリアはそのイエスの足元に座り込んで、話に聞き入っている。このときマルタの心に浮かんだ思いはどんなものだったのでしょうか。「私だってイエスのお話を聞きたいのに、マリアだけ聞いているのはうらやましい」。「私だってこんな大変な仕事はしたくないのに、マリアは楽をしていてずるい」。
 いろいろあると思いますが、彼女はそこで「だから私もマリアと同じようにしよう」、とは考えなかった。そうではなく、「私は正しい振る舞いをしているのに、マリアは間違っている。私と同じようにするべきだ」と、マリアに対して「同化」を求めたのです。これは、オズの言う「侵略」です。そしてイエスがいさめられたのも、この点だと思うのです。マルタは決して、間違ったことをしていたのではありません。だからイエスは「お前の方こそマリアと同じようにするべきだ」とはおっしゃっていない。そうではなく、「マリアが選んだものを取り上げるな」と言っておられるのです。
 マリアが選んだ「良い方」というのは、「絶対的に正しい方」というのではなくて、「彼女にとって良い方」であり、それをマルタが取り上げたり、マルタのやり方に同化させたりする必要はない、ということだと思うのです。必要なことはただ一つだけ。それは、あなたの目の前にある、あなたが選んだやり方で、ひたすら主に心を尽くすこと。神様への奉仕の仕方はいろいろあっていいのです。でもマルタは、自分のやり方だけを「正しい」と思った。「マリアも自分のようになるべきだ」と思った。ここに平和への道を閉ざしてしまう「罪の芽」があるのです。

「マルタ、マルタ」という主の呼びかけ

 イエスは「マルタ、お前は間違っている」とはおっしゃっていません。「多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われます。イエスをもてなしたい」という思いに加え、「マリアにも自分と同じようにさせたい」という思いが湧き出たところに、マルタの「思い悩み」が生じています。イエスはこのとき、「マルタ、マルタ」と、その名を二回呼んでおられます。このように二回名を呼ぶというのは、新約聖書では最後の晩餐でのシモンへの離反予告、そしてサウロの回心の場面くらいでしょうか。考えてみると、このいずれにおいても、「主に真っ直ぐ心を向ける」ということから逸れてしまった人間の姿がそこにあり、またその人がきちんと主に向き直ることを見越したイエスの温かな眼差しがあるように思われます。
 「マルタ、マルタ」という呼びかけは、マルタへの断罪ではなく、イエスの、マルタに対する完全な「受容」を示しているようです。マルタは、自分のあるがままの姿をもっと肯定して良かったのだと思います。彼女は、イエスの言葉を聞く場を「守る働き」をしていたのですから。
 「聞く人」であるマリアの姿勢、これも確かに重要です。私たちにとって、心を静め、ただひたすらイエスの言葉に耳を傾ける姿勢は絶対に必要なものです。でも、イエスを囲む共同体、すなわち教会の群れにおいては、マルタのように、イエスの言葉を聞く場を「作る働き」もまた大変重要で、何も恥じたり不服に思ったりする必要はないのです。なぜならその働きは、「イエスの言葉を聞く人を、十分に聞く人たらしめる働き」であるからです。言い換えれば、「語られる」イエスと、共に働いているということなのです。だから、自信をなくす必要はなかったのです。
 自信をなくすと私たちは「侵略」しようとしてしまいます。他者を取り込むこと、押さえ込むことによって、自分の優位を確認し、自分の存在意義を強めようとする。裏返せば、そういった支えを抜きにして「ありのままであり続ける」ということは、本当に心が強くないとできないのでしょう。
 「マルタ、マルタ、あなたはあなたのままでいいんだよ。あなたはあなたにとっての大事な『奉仕』をしているよ。だから他の人のやり方に踏み込んじゃいけないし、その必要もないんだよ。自分のなすべきこと、自分らしいやり方に自信をもてばいい。マリアとやり方が違っても、あなたはきちんと私と繋がっているよ」。
 イエスはそうおっしゃりたかったのではないでしょうか。

主の愛によって自信をもつ

 アモス・オズは、「侵略は家庭の中からも始まっている」と語りました。私は日々学校という場所に身を置いていますが、生徒同士の間でも、発言力のある者による「侵略」はしばしばあるようです。また自戒を込めて言えば、教師という「正しい存在」によって、「教育」の名の下に、生徒に対する「侵略」が行われている場合も、少なくないのではないかと思います。皆さんの周りではいかがでしょうか。学校で、ゼミで、サークルで、バイト先で、友人同士の間で、家族のなかで、恋人同士の間で。「これが正しいのだから」と言って、隣人の考え、存在を侵略するようなことは、ないでしょうか。
 私たちは今、全き神を信仰する群れとしてこの礼拝をささげていますが、この「神への信仰」ですら、ときに隣人への侵略の理由になってしまうことを、心して受け止めねばなりません。私たちが、マルタ派であろうと、マリア派であろうと、自分にとって相応しい形で神様に奉仕し、それに心を尽くせるような「自信」をもつこと。それによって、自分とは異なる隣人のありようを互いに認め、受け入れ合えるようになること。
 そうするなかで、隣人との間に「平和」を紡ぎだしていけたら、と願います。

二〇一一年十月二十五日 火曜チャペル・アワー「奨励」記録

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