奨励

一本の杖

奨励 野本 真也〔のもと・しんや〕
奨励者紹介 日本キリスト教団賀茂教会牧師
同志社大学名誉教授

 わたしは、あなたが僕(しもべ) に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。

(創世記 三二章一一節)

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚(けが) れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

(マルコによる福音書 六章六b-九節)

新島襄と「一本の杖」

 東山の若王子山頂には、新島襄をはじめ同志社関係者が眠る同志社共葬墓地があります。皆さんはオリエンテーションのときに、あるいは一月二十三日の新島襄永眠の日と十一月二十九日の同志社創立記念日に行われる早天祈祷会のときなどに登ったことがおありでしょう。
 あの登り口のところに、長さ一メートルちょっとの細い竹で作った杖が何十本か置かれています。かなり前からボランティアの方が用意してくださっているのですが、若い皆さんはほとんど使わないので、気づいていないかもしれません。しかし、歳をとりますと、あの杖を使うと、とても楽なので、私はいつもありがたく使わせていただいています。そして、そのたびに新島襄の「自責の杖」のことを思い起こします。
 自責の杖とは、一八八〇年四月十三日、朝の礼拝のとき、新島は生徒の規則違反は校長の責任であるとして、持っていた杖で自分の手のひらを強く打ち続けたために、その杖が折れて飛び散ったというエピソードです。その杖は、キリストの十字架の愛を指し示しつつ新島の教育精神を象徴するものとして、また同志社の宝として、大切に保存されています。
 新島が日常どの程度、実際に杖あるいはステッキを使っていたのか、くわしいことは分かりません。しかし、残されている記録によりますと、同志社を設立する年、一八七五年四月一日、新島は大阪を出発して、奈良・宇治・大津を経て比叡山に登り、四月六日に京都へ入るのですが、そのとき新島は「一本の杖と一本の傘」を持って出発した、と父親の民治に書き送っています(『新島襄全集3』一三三頁)。ですから、旅をするときや遠いところへ行くときには、杖を持っていたと思われます。
 また、一八八五年十二月、同志社創立十周年記念日の夜行われた帰国歓迎会のとき、新島は演説をしましたが、そのとき、スイスのサンゴタール峠へ登る途中、心臓発作で呼吸困難となってしまったことに触れ、「傍(かたわら) ニ家モナク人モナケレバ困難維谷(きわまり) 、辛フシテ杖ニ依リ山ヲ下」ったと述べたと伝えられています(『新島襄全集1』一〇八頁)。そのとき使っていた杖は、イタリアのミラノで登山用の杖を買ったと新島が書き残している(『新島襄全集10』二九四ページ)ので、その杖だったはずです。
 新島はその後もずっと病気がちでしたから、杖を常用していたと思われます。同志社大学設立のために大々的な募金活動に取り組んでいたころですが、一八八八年四月十二日のこと、知恩院で寄付を訴える大きな集会を開催しました。そのときのことを新島は米国にいた下村孝太郎に宛てた手紙の中で、「三月ノ末ニハ漸(ようや)ク杖ニヨリ歩行ノ出来候ハバ・・・と書いています(『新島襄全集3』六二〇頁)。
 また、同じ一八八八年ですが、鎌倉でしばらく病気療養をしていた六月八日、病気を心配してやってきた八重は、新島が「『足には軽ろき草履を穿き、一手は杖、他手は看護婦の肩に寄り、静かに歩み居りし』姿を見て断腸の思いを」したという記録もあります(『新島襄全集8』四四九頁)。
 しかし新島が、このように実際に必要だった杖を使っていた以上に、杖というものを強く意識していたことを示している資料があります。それは新島が一八八二年六月二十五日、京都第二公会、現在の同志社教会で行った説教の原稿です。それは「ヤコブの一生」と題する非常に長い説教で、そのなかでヤコブについて、こう語っているのです。
 ヤコブは「僅カノ衣類ト杖一条ヲ携へテ、慕々離レ難キノ母ニ別レ、遅々去ル能ワサルノ家ヲ去リ、三百里外ノ遠方ニ趣カントスル其心意ハ如何ソヤ」(『新島襄全集2』六九頁)。
 続いて新島は、自分の脱国当時の覚悟を思い浮かべながら、「わたしも父母の地を脱出したが、困難にも遭わなかったのに、業若し成らずば死して帰らずというような威勢の良い考えをもって、向こう見ず、向き知らず、運を天に任せ、生きらば生きよ、死なば死よという覚悟をもっていたか否かを振り返ってみると、決してそうではなかったと思う」と、ヤコブと自分の歩みを重ね合わせ、比較しながら、謙虚な思いをもって述べているのです。

「一本の杖を頼りに」

 このヤコブは、旧約聖書の創世記に出てくる族長、アブラハム、イサク、ヤコブと続く、あのヤコブですが、人生の後半になって、イスラエルという名前をつけられます。子どもが十二人になり、十二部族の父となるからです。ということは、ヤコブは単数ですが、同時に意味は複数にもなり得るのです。ですから、ヤコブ物語を読むときには、イスラエルの人たちも、そして私たちも、ヤコブの人生に自分の人生を重ねて読むことができ、新島もそのような聖書の読み方をしているのです。
 イスラエルの族長たちは羊飼いでしたから、常に杖を持っていました。その杖は、歩くときに身体を支えたり、羊の群れを一定の方向に追いやったり、実用的に使うだけでなく、そこからさらに、一族を束ね導く象徴ともなっていました。ですから、古代オリエントでは、王が杖を持っている場合が多く、その杖は神から支配権を授かっていることの象徴だったのです。そしてそこからさらに、杖そのものに神のパワーが宿っていると、魔術的に考えられていたのです。出エジプト物語では、モーセの持っていた杖が蛇に変わったり、モーセが杖でナイルの水を血に変えたり、蛙や、ぶよや、あぶを発生させたり、岩から水を出させるなど、杖が不思議な出来事を起こすのも、このような杖の象徴性によるのです。
 これと関係するのですが、現代でもお医者さんのシンボルマークとなっている「蛇杖」というのがあります。杖に蛇が巻き付いている図柄ですが、これはもともとギリシャ神話のアスクレピオスという医学の守護神が持っている杖で、健康・不老・長寿・不死などを象徴しているのです。しかしこれも、さらに元をたどっていくと、シュメールやバビロニア、フェニキアなど古代オリエントの神話に由来するのです。
 このように、杖は古代から現代まで、実用目的で使われるだけでなく、杖にはいろいろな意味が込められているのです。
 聖書でも、杖は新共同訳では九十一回出てくるのですが、最初に出てくるのがヤコブの杖で、先ほど読んでいただきました創世記三二章一一節に出てきます。これはヤコブの祈りの言葉です。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました」。
 ヤコブは、神さまの祝福を執拗なまでに求めつづけた男です。兄のエサウを騙してまで祝福を求め、その結果、故郷から逃亡せざるを得なくなり、一人で放浪の旅へ出かけたのです。そのときのことを「一本の杖を頼りに」という表現で語っているのですが、この表現には、創世記二八章二―二二節にある、旅の途上のヤコブの誓いの祈りが呼応しているのです。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」。
 ヤコブはその後、リベカと出会い、伯父のラバンのところで結婚し、羊や財産も増えて、故郷に帰り、兄に再会し、和解をしようと願うのです。そしてそのとき、これまでの人生の旅路を振り返って祈っているその祈りが三二章一〇―一三節にあるのですが、そのなかに、この「一本の杖を頼りに」という表現が出てくるのです。
 ですから、この一本の杖とは、羊飼いの杖、旅の支えとする杖であると同時に、それは神さまの導きへの信頼を表す杖、神さまが共にいてくださる愛を表している杖なのです。
 日本でも、このような宗教的な意味合いをもった杖があります。それは、あのお遍路さんの持っている金剛杖です。一本の杖を頼りに遍路の一人旅をするわけですが、しかしそれは「同行二人」、弘法大師と共に歩く旅であり、聖書の杖の考えに非常に近いのです。

「杖の先に寄りかかって」

 このようなヤコブの杖に関連して、新約聖書のヘブライ人への手紙一一章二一節には、こう書かれています。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」。
 ヘブライ人への手紙一一章は、旧約時代の人びとがどのように信仰をもって人生を歩んだかを、一人ひとり例を挙げて説明している箇所ですが、ヤコブは波瀾万丈の人生を送ったのですから、もっとドラマティックな場面が選ばれてもおかしくないのに、人生の最期の場面が選ばれているのです。
 さらに不思議なことには、この引用の元になっている創世記のヤコブ物語には、こんなことは書かれていないのです。創世記四七章三一節に、「イスラエル(=つまりヤコブ)は、寝台の枕もとで感謝を表した」とあるだけなのです。
 なぜ「杖の先」ではなく、「寝台の枕もと」なのでしょうか。じつは原文を調べてみますと、ヘブライ語は元々子音だけなので、これをミッターと読んで「寝台」という意味にとるか、マッテーと読んで「杖」ととるか、二つの読み方が可能で、判断が難しいのです。中世のユダヤ教の伝承学者は「寝台」と読ませているのですが、それが正しくて、旧約聖書のギリシャ語訳は誤訳なのか、それとも逆なのか、判断が困難です。ヤコブの一本の杖に目を留めれば「杖」となりますし、臨終のときだからということなら「寝台」だということになります。
 でも聖書のなかには、ヤコブの場合に限らず、詩編二三編のように、杖に対する特別な思いがあることを考え合わせますと、ここは「杖」と解釈するほうがよい、いや、そのように理解したいと私は思うのです。
 ヤコブは、一本の杖を頼りに生きてきた、その人生の最期のとき、その杖の先をぎゅっと握りしめながら、苦労の連続を振り返り、しかしその人生の歩みのなかで与えられた神さまの祝福に感謝し、その祝福がさらに十二人の子どもたちにも与えられるようにと、「一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝した」のです。

「杖一本のほか何も持たず」

 さて、このようなヤコブの杖に秘められている意味を前提として、もう一つの聖書の箇所、マルコによる福音書六章を読んでみると、どうでしょうか。これはイエスが十二人の弟子たちを神の国の伝道の旅に送り出す場面ですが、八節以下に「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」とあります。「杖一本のほか何も持たず」です。
 ところが、同じ場面を書いているマタイによる福音書一〇章一〇節には、「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」とあります。また、同じ並行箇所のルカによる福音書九章三節には、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない」とあるのです。いったい、どれが本当のイエスの言葉なのか、判断はもちろん非常に難しいのですが、マタイとルカは、イエスが何も持って行くなということを強調されたと理解して、杖も持って行くなと書いていることは確かでしょう。
 でも、現代の福音書研究の定説となっているように、マタイとルカはマルコを引用、ないし参照しているとすれば、マルコが「杖一本のほか」と、杖を例外としてではあるけれども、それなりに強調しているわけですから、その表現の意味を全く無視してしまうのは適切ではありません。
 とすれば、イエスが十二人の弟子という、新しいイスラエルの子どもたちを伝道の旅に送り出すにあたって、イスラエルという名前を与えられたヤコブの旅のことを思い描きながら、それと重ね合わせて、一本の杖だけは持って行けと言われたとしても不思議ではありません。もちろん、この言葉がイエスの真正の言葉であるかどうか、歴史的に実証するすべはありませんが、少なくともイエスの弟子たちのなかの誰か、福音書を書いたマルコに至るまでの誰か、イエス伝承を受け渡していく賢者たちの誰かが、イエスの発言の原意を汲んで、こう表現したのではないかと思うのです。しかし、マタイとルカに至る伝承の受け渡しをした賢者たち、あるいはマタイやルカ自身は、何も持って行くなということを強調することに気を取られてしまい、ヤコブの「一本の杖」という表現に込められている重要な意味に思い及ばなかったのかもしれません。
 いずれにしても、聖書の賢者たちは昔からキーワードとなる表現を意識して、聖書の言葉を言い伝え、また解釈を加えながら、神さまの御心を人びとに伝達しようとしてきました。イエスもそのような賢者の伝統を引き継いでおられたからには、旧約聖書のヤコブ物語を連想しながら、一本の杖に思いを込めて語られたとしても決して不思議ではない、と私は思うのです。
 もし、このように、イエスが「杖一本のほか何も持たず」と言われたとすれば、神の国という神さまの愛を人びとの間に広めていく場合には、それを広める者たち自身がどんな状況に置かれても、杖一本を頼りにして生きていくかどうか、神さまの導きと神さまの愛だけを頼りに人生の旅を歩むかどうか、そのことが大切なのだと、イエスは言われていることになります。
 神の国というのは、神さまの愛との関係のリアリティのことですから、それを求めるにしても、広めるにしても、まずそのきっかけとなるのは、人間同士の間の愛の関係にほかなりません。ですから、何も持たずに行くということは、人びとに愛を求め、その愛をきっかけに、その愛の源である神さまの愛を人びとに気づかせようとしていく、そういう生き方、活動をするのだと、イエスは言っておられるのです。そして、弟子たちをはじめ、多くの人びとがそのような生き方をした結果、イエスの愛の教えは世界と歴史のなかに拡がり、その拡がりのなかで、私たちも、そのような生き方をするかどうか、一本の杖を頼りに生きていくかどうかが問われているのです。

「何を一本の杖として人生を歩むのか」

 新島襄は、第一回の卒業式のとき、「Go, go, go in peace! Be strong! Mysterious Hand guide you.」と、祝福と励ましの言葉を語っています。この「不思議な御手の導き」への信頼、自分の運命、生き方、決断などすべてを神さまの愛に委ねる徹底的な信頼、これこそが新島の信仰の真髄となっていました。また、ある説教では、「耶蘇教ハ何ソト人問ハレタレハ答テ曰ハン、愛以貫之」(『新島襄全集2』(一七八頁)と語っています。このように、新島の一本の心の杖は、信仰というアスペクト、あるいはまた愛というアスペクトなど、時に応じて異なったアスペクトを表しながら、新島の教育と伝道の生涯の歩みを支えていたのです。ちなみに、あの自責の杖は、新島自身の目には、十字架を背負って歩まれたキリストの姿と二重写しになって見えていたのではないかとさえ、私には思えるのです。
 翻って、私たちはどうでしょうか。今、あなたは、一体何を一本の杖として人生を歩もうとされているでしょうか。その杖が、本当にあなたの人生の歩みを支えるに足る杖であるかどうか、新しい年を歩み始めるこの機会に、聖書の光に照らして点検していただければ幸いです。

二〇一二年一月十一日 水曜チャペル・アワー「奨励」記録

[ 閉じる ]