奨励

わたしたちが豊かになるということ

奨励 上内 鏡子〔かみうち・きょうこ〕
奨励者紹介 神戸イエス団教会牧師

 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。

(マルコによる福音書 六章三〇―四三節)

パンを分かち合うこと

 「あなたはパンをいくつ持っていますか」。
 これが、今年の世界祈祷日のテーマでした。今年は、チリの女性たちが準備をした式次第によって、世界中が祈りを一つにあわせました。
 その問いかけに対しての答えは、経済的に豊かな国と貧しい国とによって、変わってくるでしょう。環境の違いや、文化・歴史の違いによっても変わってくるでしょう。
 パンをいくつ持っているのか。極貧に生きる人びとは、一つも持っていないかもしれない。一方で、豊かさのなかで生きる人びとは、パンの数を数えることさえないのかもしれない。東日本大震災を経験した被災者や周辺の人びとは、この問いかけをさらに新しい視点をもって受け止められる可能性があるでしょう。

弟子たちと共に

 有名なダ・ヴィンチの絵『最後の晩餐』は、イエスが十字架上で死ぬ前夜、最後のパンの欠片(かけら)を十二人の弟子と共に分け合ったことが描かれています。イエスは十字架の死に至るまで、その生涯をかけてパンを差し出した。一つのパンを割き、弟子たちと分け合った。この最後の晩餐で最後のパンを分かち合った後、差し出すパンを持たないイエスは、自分の命を差し出しました。イエスは、命のパンを私たちのために差し出したのです。

ストリート・チルドレンと共に

 さて、次の絵。
 これは、ジョーイー・ヴェラスコ(Joey Velasco)レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』というフィリピンの画家が描いた作品『希望の食卓』です。継ぎ接ぎだらけの板切れの食卓。真っ暗な背景。質素な服装のイエスが中心にいて、一つのパンを裂いています。周囲にはストリート・チルドレンが十二人。それぞれTシャツやアッパッパを着ていて、裸足の子どももいます。一人は、テーブルの下に隠れるように屈み込み、慌てて食べ物を口に詰め込んでいて、傍らには猫がいます。その構図は、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と類似しています。本国では、フィリピン版の『最後の晩餐』と言われています。全体の雰囲気や構図において、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を思い出させます。
 描かれている子どもたちは、フィリピンの首都マニラに実際に生活するストリート・チルドレンです。その真ん中にイエスが席についているのです。
 ストリート・チルドレンとは、どのような子どもたちでしょう。この子どもたちは、路上(ストリート)で生活しています。路上に住んでいる場合もありますし、タバコやお菓子を売るために、日中路上で働いている場合もあります。家族がいる場合もありますが、なかには、子どもだけで生活している場合もあります。とにかく、一日の大半を路上で過ごしている子どもたちです。
 さて、皆さんは、この絵画をどのように受け止め、評価するでしょうか。「邪道だな」と思いませんか。『希望の食卓』というタイトルにあるように、路上で生活する子どもたちと共に食卓についているイエスは、まさに希望であるのですが、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を真似ているように受け取られるのではないでしょうか。また絵の主題は、可哀相な子どもたちを取り上げることで、民衆の同情をひこうとしている気がします。
 正直なところ、余り好きにはなれませんでした。

炊き出しに並ぶ人びとと共に

 もう一つ。これは版画で、フリッツ・アイヘンバーグの作品『炊き出しの列にならぶイエス』です。木版画で線の荒い削り。背景は何も描かれていません。よれよれのコートを着込んだ男たちが一列に並んでいて、皆下を向いています。コートの襟を立てたり、ポケットに手を突っ込んだりしていて寒そうです。マントを羽織ったイエスも列に並んでいます。そして、イエスの後光がぼんやりとその列に並ぶ男たちを寂しそうに照らしています(http://www5b.biglobe.ne.jp/~okazaki/live/eichenberg.htmlなどを参照)。
 『希望の食卓』と類似したテーマで描かれていると思います。主イエス・キリストは、最も蔑ろにされている人びとの間にいるというテーマです。この絵を見たことがある人は、多いでしょう。『釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~』という本を書いた本田哲郎神父が、その著書の表紙として用いている作品だからです。
 「作者のアイへンバーグさんは、芸術家の鋭い眼で、いったい神さまはどちらの側にいるんだろう、炊き出しをする側なのか、それともそれを受ける側か、ということを考え、そして表現しています。普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておられる、とイメージしてしまう。しかし、彼は『そうではない。神さまはむしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ』と見抜いたのです」(「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」本田哲郎著 岩波書店)。
 このように本田神父は、前述の著書のなかで語っておられます。そして、絵の傍に、「小さくされた者の側に立つ神・・・・・・!サービスする側にではなく、サービスを受けねばならない側に、主はおられる」と、言葉が添えてありました。
 ホームレスの人たちは、助ける対象ではないのです。むしろ、共に働き苦労する仲間として描かれているのです。本田神父にとって、物事の発想の転換を迫られる一枚の絵だったことでしょう。
 この版画に対する本田神父の衝撃的な出会いを知り、ヴェラスコの描いた絵が、さらに深い意味を私の生きる視点へともたらしました。イエスは、小さくされ/貧しくさせられている人びとと共にいて、「助ける」のではなく、共にいて「苦しむ」ことを大切にしている、と。
 私は、はじめヴェラスコの絵がどうしても好きになれなかったのです。ダ・ヴィンチの模倣であるように思えて、あまりにも短絡的に芸術を扱ってしまっているという印象を拭いきれなかったのです。フィリピンという経済的な貧困に喘ぐ国には、ストリート・チルドレンという存在がたくさんいるから、その「可哀相」の代名詞のような存在とイエスを一緒にすることで受けを狙ったかのように思えたからでした。
 ヴェラスコは、昨年二〇一〇年七月に天に召されました。四十三歳という若さでしたが、この『希望の食卓』他、多数の絵画を残して、召されました。彼は生前、この絵をコピーして、モデルとなった子どもたちにお礼としてプレゼントしています。そのときの様子を振り返って、自分の経験したことを語っています。一人ひとりに絵を手渡し、その後の子どもたちの生活の様子を見て歩いたそうです。モデルだった少年の一人が、ヴェラスコにニコニコと笑顔で説明し出したのだそうです。
「この絵はね、僕たちがイエスさまに食べ物を分けてあげているんだよ。イエスさまはとってもお腹が空いているんだよ。イエスさまなのに、かわいそうでしょ。だから、食べ物をあげているんだよ」と言ったそうです。
 この事実を知った私は、本田神父がアイヘンバーグさんの絵を見て受けた衝撃と同じくらいの衝撃を受けたように感じました。
 私たちは、本日読んだ聖書の箇所や『最後の晩餐』(ダ・ヴィンチ作)に慣れ親しんでいます。羊飼いであるイエス御自身が、飼い主のいない羊のような私たちに、僅かのパンを差し出してくださることに慣れっこになっています。つまり、主イエスが与える側としての主体で、私たちは常に受け身で、「愛され」、「ゆるされ」、「憐れまれ」、「与えられ」る側にいたのです。常にイエスの顔を見ながら、いろんな物を要求していたのです。
 ストリート・チルドレンの場合、来る日も来る日も、路上で物乞いをして生活しています。誰からも好かれることなく、追い払われ、嫌われて。それでも、路上を動き回って自らの生活の糧を求めていかなければなりません。ときには、貪欲に他人のものをねだり、盗むこともあります。ときに、自分のためではなく、家族のためにそうします。子どもの人権を無視した社会状況の犠牲になっているのです。心身の成長・教育・衣食住など、基本的な人権を奪われているのです。
 その固定観念をもって『希望の食卓』の絵の前に立つと、これらのストリート・チルドレンこそが、イエスの憐れみを受け、命を与えられなければ、社会はどうなるのか、と思わず怒りさえ込み上げてきて、胸が熱くなります。だからこそ、そのことを主題に取り上げて絵画を発表したことが、私には邪道と思えてしまったのです。
 ところが、描かれた子どもたち自身が感じ、その絵から想像していたことは、私たちの固定観念を撃ち破るほどに衝撃的だったのです。子どもたちこそイエスを最大にもてなす側だったということです。イエスこそが渇き空腹に喘いでいたと気づいたのは、この子どもたちだったのです。

イエスの苦しみを感じるのは誰か?

 聖書をよく読んでください。ヨハネによる福音書一九章には、「渇く」というイエスのつぶやきが記されています。それも、十字架の上でつぶやいたことを改めて思い起こすでしょう。誰のせいで十字架に磔になったのか。イエスは常に空腹で、常に渇いていたのです。それに気づいたのが、「子どもの権利」を奪われている子どもたち自身だったことは、もう、誰も疑うことはないでしょう。
 ヴェラスコがそこまで理解して描いたとは思えません。しかし、この絵は、画家の手を離れた瞬間から、どんどんと新しい命が吹き込まれていくことに感動します。芸術とは、人と出会いながら、命を得ていくものなのだと、今更ながら確認しています。それは、もう神さまのなせる業だと思います。
 本当の豊かさとは何か。考えさせられる瞬間でありました。
 また、ヨハネによる福音書には、二匹のさかなと五つのパンを差し出したのは、弟子たちではなく、小さな少年だったと記されています。いつだったか「かわいそうに、大人が子どものパンを無理矢理供出させた」とコメントした牧師の話を聞いたことがあります。しかし、イエスを前にしたこの子どもは、弟子たちに無理矢理取り上げられたのではないように思うのです。きっと、「イエスさまが困っているから、ぼくが助けてあげる」と、喜々としてパンを差し出したに違いないのです。『希望の食卓』を囲むストリート・チルドレンが、そのことを証明してくれました。
 「パンはいくつあるか」という問いは、「○○個あります」と答え得る類いの問いではなかったのです。パンはいくつでも構わないのかもしれません。パンを囲む私たちが、隣人とどう関わり、イエスとどう関わるのか。それが大切な問いかけなのかもしれません。

二〇一一年五月十八日 水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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