奨励

一本の木
~新島襄の志を受け継ぐために~

奨励 野本 真也〔のもと・しんや〕
奨励者紹介 日本キリスト教団賀茂教会牧師
同志社大学名誉教授

 モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。

(出エジプト記 15章22―25節b)

涙と共に語られた
卒業生へのメッセージ

 1875年11月29日の朝8時、同志社は新島襄の「祈り」によってその歴史を歩み始めました。その祈りは「涙あふれる熱心な祈り」であったと、ジェローム・ディーン・デイヴィスは伝記のなかに書き記しています。また、教え子の徳富蘇峰は、「人間の与えうる最も高貴なものは血であり、その次に涙である」というラマルチーヌの言葉を新島永眠の追悼文のなかで引用していますが(『新島襄全集10』365頁)、新島はまさに涙の人でありました。そして同志社英学校第一期卒業生の浮田和民も、新島永眠3カ月後に開かれた記念会で、新島襄は「涙徳の人であった・・・いつも真心を尽くし、涙をもって人の心の中に語りかけるので、先生の説には感心しない者であっても、先生の涙徳に感動しないことはなかった」と追憶の辞を述べています(『追悼集I』同志社社史資料室 1988年49頁)。
 このように、新島が涙の人であったという証言はいろいろありますが、今日は新島の教え子、柏木義円(かしわぎぎえん)の証言についてお話ししようと思います。
 1889年6月25日、新島が亡くなる半年ほど前ですが、同志社英学校の卒業式が行われました。柏木義円によれば、新島はその卒業式で、旧約聖書の出エジプト記に書かれている「マラの苦い水」という物語を引用して、涙を流しながら式辞を述べたというのです。引用されたのは、出エジプト記15章22節以下の物語です。モーセの一行が自由を求めて、エジプトを脱出して、紅海を渡り、シナイ半島の北西部からスエズ湾岸寄りに南下しているときの場面です。「彼らはシュルの荒れ野へ向かって、荒れ野を三日の間進んだ」と、ここで「荒れ野」という表現が繰り返されています。これは「荒れ野」を強調しているからなのですが、しかし彼らは「水を得なかった」、直訳すると、「水を見つけられなかった」というのです。砂漠で水を3日間も見つけられない、これは大変なことです。そこで、彼らはさらに歩いて、やっとマラというところに着いたのです。ところが、「そこの水は苦くて飲むことができなかった」というのです。そしてその続きに、「こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた」とあります。この「こういうわけで」という理由付けをしている物語は、名前の「由来譚」とか「原因物語」と呼ばれていて、旧約聖書にはいくつも出てきます。
 なぜ苦かったか。おそらく、そのあたりの土壌に含まれている濃い塩分やミネラルのせいであろうと思われますが、たとえ泉やオアシスが存在していたとしても、その水が苦くて飲めなくてはどうしようもありません。そこで、人びとはモーセに向かって、「『何を飲んだらよいのか』と不平を言った」のです。「ブツブツ文句を言った」、もっと強く訳せば「抗議した」です。何しろ、生きるか死ぬかという生死にかかわる状況なのですから、みんな必死だったはずだからです。そこで、モーセが主に向かって叫ぶと、「主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった」というのです。「示された」というのは「見えるようにした」とも訳せるのですが、モーセはそこに一本の木があることに気づいたのでしょう。そして、それを神の示しと受けとめ、その木を水の中に投げ入れたのです。すると、「水は甘くなった」というのです。

苦い水を甘い水に変える
一本の木として

 この木は、一体どんな木だったのでしょうか。何の木だったのでしょうか。砂漠のなかで、ほんの少し水のあるところで生えている木ですから、「いなご豆の木」ではなかったかと推測されています。この木が塩分やミネラルを吸収するか、中和するか、何かそうした作用をしたのでしょう。ですから、この木を投げ入れると、塩分やミネラルが薄まって、水がマイルドになって飲めるようになったのではないでしょうか。それが、荒野でのモーセの奇跡の物語として言い伝えられ、出エジプト記に書き記されているわけです。
 しかし、これがモーセ時代の奇跡としてだけなら、後の時代の人たちには何の意味もなかったはずです。一体どうして、このようなことが後の時代にいたるまで物語られて、聖書に記されているのでしょうか。それはほかでもありません。この物語を、私たち人間の心のあり方や生き方を指し示す普遍的な「たとえ」として受け止め、理解したからです。その際、このような苦い水しかない荒れ野というのは、希望も愛もない、不平不満を言うより仕方のないような人間関係や社会といったものを表していると理解されてきたのです。
 では、苦い水の中に投げ込まれた一本の木とは、何を意味するのか。それはキリストの十字架を暗示している、と後の時代に理解されるようになりました。そして聖書を読む人たちは、キリストがこの世界を荒れ野とし、水を飲めなくしている苦い味の原因となっている「罪」をご自身で吸収し、永遠の命の水に変えて、荒れ野でも生きていけるようにしてくださったと理解し、さらに自分たちもまた、キリストに従って、荒れ野のような社会のなかで、苦い水を甘い水に変える一本の木として働いていく使命が与えられていると考えたのです。新島襄は、このように聖書を自分に引きつけ、自分に当てはめるように読むピューリタンの典型的な読み方を、アメリカの教会やフィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学び、身につけていました。このマラの苦い水の物語の解釈も、おそらく教会の説教や学校の講義で聴いたことがあったのかもしれません。そして新島は、自分もまた、苦い水しかない荒れ野のような当時の日本の社会のなかで、それを甘い水に変える一本の木のような働きをすることこそが、自分に与えられた使命であり、自分の志にほかならないという想いを秘めて帰国し、同志社を設立したのではないでしょうか。

諸君は苦水に
つかるのである

 1889年6月25日に行われた卒業式は、新島の出席した最後の卒業式です。当時、新島の病気は重くなる一方でしたから、新島は余命いくばくもないことを悟り、これが自分にとって最後の卒業式になるかもしれないという予感をもっていたのではないかと思うのです。しかも1889年といえば、「大日本帝国憲法」が発布された年であり、森有礼(もりありのり)が国粋主義者によって暗殺された年でもあります。新島は憲法発布を喜びながらも、留学時代に森に出会って以来、帰国後も同志社のために世話になった森のことだけに、徳富蘇峰からその知らせを受け、衝撃を受けました。しかし同時に、こういう時代だからこそ、「真之自由教会ト自由教育」、これが車の両輪のようにぜひともなくてはならないものなのだと確信している、と徳富蘇峰への返信に書き送って(『新島襄全集4』67頁)、大学設立の決意を新たにしていたのです。
 その後、この年の11月23日には、新島は教え子の横田安止に宛てて、「畢生之目的ハ、自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」であると書き送っています(同246頁)。この手紙には、この今出川キャンパスの正門にある良心碑に刻まれている「良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらん事を」という言葉も書かれています。「良心」については、2年前の1887年11月に公表された「大学設立の旨意」にも「所謂る良心を手腕に運用するの人物を出さんことを勉めたりき」という言葉と、「一国を維持するは、決して二三英雄の力に非す、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず、是等の人民ハ一国の良心とも謂ふ可き人々なり」という言葉が出てまいります。ですから、この1889年6月25日の卒業式にあたり、新島は卒業していく教え子たちに対して、同志社の自由教育を受けて、真誠の自由を体得して、その自由に基づく社会を築くために、良心を手腕に運用して活躍してほしい、そしてこの自分の志を継いでほしいという切実な想いを込めて、まさに涙をもって、涙を流しながら、式辞を語ったにちがいないのです。
 では、このマラの苦い水の物語を引用した新島の式辞とは、どのような内容だったのでしょうか。このとき卒業したのは25名でしたが、そのなかの一人、柏木義円自身が、こう書き記しています。

 「明治廿二年六月我等同級二十五名新島先生より親しく卒業証書を拝受。先生其時出埃及(エジプト)記十五章廿二節より廿五節を引用して、諸君が我校に於て得し(キリスト教)主義を以て社会に入られなば其困難前に横はるは必然なり。これ実に忍びざる処であるが、併し諸君は枝を折るのである、苦水につかるのである、とて涙を以て激励し勧め玉ひし容顔今尚ほ目に在り」。

(菅井吉郎『柏木義円伝』(1972 春秋社 9頁)

「一本の木」として
生き抜いた柏木義円

 この新島の式辞を聞いた柏木義円は、1878年、群馬県で小学校の校長をしているとき、海老名弾正と出会い、同志社英学校へ入学するのですが、学費が続かなくなり、中退して、再び群馬県の小学校長に戻ります。しかし、1884年1月、安中教会で海老名弾正から洗礼を受けるのです。新島はそのことを喜び、柏木に励ましの言葉を書き送りました。その手紙が残っています(『新島襄全集3』256頁)。柏木はその年に新島を慕って同志社普通学校に再入学します。そして1889年6月、この新島の式辞を聞いて卒業し、熊本英学校で教え始めます。しかしのちに、奥村禎治郎という教員の発言が問題になり、解雇されるという事態になり、柏木はそれに抗議して辞任します。その後、同志社予備校の教師となり、山室軍平や山川均などを教えます。また当時の反キリスト教的な国家主義に対して、『同志社文学』の社説で、教育勅語に関して井上哲治郎を批判する論文を著して注目されます。しかし、同志社の第二代社長の小﨑弘道がキリスト教主義教育と資産問題でアメリカン・ボードとの関係を謝絶したあと生じた学内対立によって辞任したことをきっかけに、柏木も同志社を辞めて、安中教会の牧師となります。そして牧師をしながら、『上毛教界月報』を発行して、日露戦争に関して非戦論を唱え、足尾鉱毒事件をはじめ当時の社会悪と闘い、また新島襄の教え子たちが指導者であった日本組合基督教会の朝鮮伝道のあり方を厳しく批判します。さらに、満州事変のときも戦争政策を批判するなど、まさに新島襄の願いどおりに「一本の木」としての使命と役割を晩年まで果たし続けたのです。もちろん、「一本の木」としての使命感とそれに基づく生き方は、人により、場所により、また時代によって随分異なりますし、じつに多様です。けれども、新島の教え子たち、そして同志社の137年の歴史のなかには、まさに「一本の木」として生き抜いた方々が数多くおられ、私たちはそのような方々のことを思い起こすことができるのです。
 人間の社会というものは、小さな社会でも、国家でも、残念なことに、人間の幸せも、いや生存すらもおびやかすような「苦い水」しか存在しない荒れ野になってしまうことがしばしばあります。ですから、「一本の木」が必要なのです。そして神は、ほかならぬ同志社大学の学生の皆さんと教職員の方々、お一人おひとりに対して、聖書を通し、新島襄を通して、柏木義円を通して、今度はあなたが「一本の木」となる番だ、いや、そうなってほしいと呼びかけておられるのです。
 この創立記念のときをきっかけに、この神の呼びかけに応え、新島襄の志を受け継いでいく決意をお一人おひとりが新たにしてくださいますようにと心から願い、またその働きのうえに豊かな祝福がありますようにと祈りたいと思います。

2012年11月20日 今出川火曜チャペル・アワー「創立記念礼拝奨励」記録

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