奨励

求める者得る也

奨励 村田 晃嗣〔むらた・こうじ〕
奨励者紹介 同志社大学長
同志社大学法学部教授
研究テーマ 戦後アメリカ外交、日米同盟関係

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

(マタイによる福音書 7章7-8節)

多様性に学ぶ

 皆さん、おはようございます。ただいまご紹介をいただきました、大学長の村田でございます。今年は3月31日がイースター(復活日)でしたが、やがて梅雨がきてペンテコステ(聖霊降臨日)がやってくるまでのこの季節は、桜はかなり散ってしまいましたが、1年で最もよい季節であるように思います。ご紹介いただきましたように、私は、4月1日に大学長になったばかりでまだ全くの新米でありまして、そういう意味では、私もフレッシュな気持ちでお話をさせていただきたいと思います。新年度ということと、そして春学期最初のチャペル・アワーということで、誰もが聞いたことがある、聖書のなかでも最も有名な箇所を朗読していただきました。今学期の統一テーマは、「隣人を自分のように愛しなさい」ということでありますが、なんと難しいテーマでありましょうか。いかなる受験偏差値にも表せない難しい課題に、我々は取り組もうとしているのではないでしょうか。
 本日は、入学式のときにお話し申しあげたことを、この場で繰り返してお話しさせていただきたいと思います。4月1日に、約6500人の新入生をお迎えしたのですが、彼らに対して私がお尋ねしたのは、「なぜ、同志社に来られたのか」ということです。学内高校のご出身であったので同志社大学に来るのがごくあたりまえだと思って進まれた方、指定校推薦ということで長い信頼関係のなかで、高等学校の校長先生のご推薦を得て同志社に来てくださったという方、あるいは、関西の私学ならばやはり同志社だ、ということで同志社に憧れて、一生懸命勉強をして、そして同志社大学に来てくださったという方もいらっしゃれば、本当は東京の大学に行きたかった、本当は国立大学に行きたかったけれども、うまくいかずに来られたという方もいらっしゃるでしょう。
 「なぜ同志社に来たのですか」と問いながら、矛盾しているかもしれませんが、実は皆さんが、どういう経緯で同志社に来られたのかということよりも、もっと大事なことが二つあるように思うのです。その一つは、理由の如何にかかわらず、皆さんは最終的には自分の責任でここへやってきたということです。大学の進路選択という人生の大事業を終えた今、世間の評判や偏差値に責任を帰することはできません。最終的に責任は、自分にあるのです。どのような経緯かにかかわらず、自分の責任で皆さんは、同志社に入学したということを、まず強く自覚していただきたいと思います。
 そしてもう一つは、このキャンパスには実にさまざまな人たちがいるということです。おそらく今までの人生のなかで、出会ったこともないような方々にこのキャンパスで出会うことになる。この多様性が同志社の大きな、大きな魅力であると私は思っています。イソップの童話に、「ほら吹き男の物語」がございます。その物語のなかで、「ここがロードス島だ。ここで飛べ」という言葉が出てきます。ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。ロードス島というのはギリシャの島の名前です。あるほら吹きの男が「ロードス島で行われた陸上競技の大会で自分は走り幅跳びで大変な記録を出した。ロードス島に行けば誰でも知っているから聞いてみるがいい」と自慢をしていたわけです。もちろんこれは嘘なのですが、その話を聞いていた一人の男が「ここがロードス島だ。ここで飛べ」と、そのほら吹きの男に求めたのです。もともと嘘でありましたから飛ぶことなどできないのであって、その男は大いに困惑をしたという話です。
 これと同志社大学に入学された学生の皆さんに、何の関係があるかということなのですが、私が申しあげたいのも、「ここがロードス島だ。ここで飛べ」ということなのです。同志社大学は皆さんが選ばれたロードス島です。ここで飛べない人間が、別の島に行って大きく飛べるとは、私にはとても思えません。自らが選んだロードス島という自覚をもって、この島で大きく飛んでいただきたいというのが私のお願いです。「ここがロードス島だ。ここで飛べ」。これは、ほら吹きの男に問われた言葉です。しかし、そのことは先ほど朗読していただいた聖書の言葉、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」ということに、通じるだろうと思います。
 同志社大学は皆さん自身のロードス島です。皆さんはここで飛ばなくてはなりません。そして、ここで問いかけたことは、ここで答えが、少なくともその手がかりが得られると私は思うわけです。実際、同志社大学は皆さんが思い切って飛んでみるのに値する、多くのことを求め、そして多くのことを問いかけるのに値する大学だと思います。

三つの特徴

 日本全国には約780もの大学があるそうですが、そのなかでも同志社大学は、極めてユニークな存在であると私は確信しております。どなたもがご存じのように、同志社の徽章は三つ葉のクローバーで、その三つ葉のクローバーは知・徳・体を表しています。ほかにもこの三つ葉のクローバーを、同志社大学の別の特徴に読み替えることができるのではないかと思います。
 第一に、同志社大学は、京都に位置しているということです。現在首都圏に、日本中の大学生の4割が集中しているという状況にあります。もちろん首都圏の大学で学ぶ意義は、大変大きいと思います。情報が豊富にあふれている、あるいは就職活動等でも地の利があるということで、首都圏の大学で学ぶことのメリットは非常に大きなものだと思います。しかし、他方で首都圏以外の価値観、首都圏以外の視点から、日本社会や世界を考察することができることは、大変重要な、これまた大きなメリットなのではないかと思うのです。とりわけ京都は、1000年を超える伝統と同時に、非常に革新的なベンチャー企業が次々と育つようなイノベーション、伝統とイノベーションが共存しています。今出川キャンパスに行けば京都御所の向かいにあって、非常に落ち着いた雰囲気でありますし、京田辺キャンパスに行けば、自然に囲まれた非常に広々とした雰囲気が感じられます。伝統と革新の双方をもった京都という土地で、青春の多感な時期を過ごすことが資産になることは間違いない。大学が京都に位置していることの意義は非常に大きなものだということを私は確信しております。
 第二に、私どもの大学が私立の学校、私学だということです。私どもの学園には創立者・新島襄の建学の理念が今日にいたるまで生き続けています。今年は、大河ドラマでも放映されていますから、皆さんのご関心も高いのではないでしょうか。新島襄は、幕末に禁を犯してアメリカに渡りました。そして、10年を海外で過ごしたわけです。明治政府が、いわゆる「和魂洋才」で、西洋の文物や技術制度を模倣して日本の近代化を図ろうとしていたときに、新島襄は、そういう技術や制度の西洋の近代化を支えている背景には健全な市民社会が存在することを見てとったわけです。そして日本にも、そのような健全な市民社会を育成する必要性を強く感じ、私立の学校である同志社をつくったわけです。新島がこの同志社で目指したものは、健全な市民社会を構成する、責任ある賢い市民を養成するということでした。それが新島の言葉で言うならば「良心を手腕に運用するの人物」ということになると思うのです。そういう建学の理念が、同志社には130数年にわたって生き続けています。今日ではグローバル社会と言われることがしばしばありますけれども、このような概念ができる130数年前に、もう新島は市民社会の育成の重要性というものを自覚して教育にあたっていたわけです。おそらく新島にとってアメリカがロードス島だったのです。新島はアメリカというロードス島で大きく飛んで見せたわけです。それで多くのものを求め、多くのものを尋ね、それに応えられたのだと思います。そういう私学の伝統があることが同志社大学の二番目の大きな特徴であろうと思います。
 そして第三は、私どもの学校がキリスト教を基本に据えた学校であるということです。この4月の新年度の始まった大変忙しいなか、これだけの方がここに集まって祈りのときをもっているということは、同志社大学が同志社大学であることの所以であると思います。同志社大学がキリスト教主義の学校であるといっても、何も学校が教職員や学生にキリスト教の信仰を強いるものではありません。しかしながら、このキャンパスには、このチャペル・アワーを始めとしてキリスト教の雰囲気や、あるいはキリスト教に接する機会があふれているわけです。一般的には、キリスト教や宗教には、あまり興味がなく、少し敬遠されるような傾向があるかもしれません。しかし、宗教がいかに重要か。今日の複雑な国際社会を考えるときに、たとえばキリスト教とイスラム教の関係を考えずに国際政治がわかるでしょうか。キリスト教とユダヤ教のことを考えずに中東情勢が理解できるでしょうか。今日では、宗教的視点や宗教的な知識なしに、国際関係をみるのは難しいのではないでしょうか。近代の一つの特徴は、政治と宗教を分離することでした。ローマ法王庁がもっていた絶大な権力を遠ざけ、地上の世界はすべて多くの権力が治める。宗教は心のなかを治める。いわゆる政教分離が近代の大きな特徴でした。しかし1990年代以降、宗教が再び政治の世界に戻ってきたのです。
 アメリカでのキリスト教原理主義、あるいは中東でのイスラム革命、さまざまなところで宗教が再び政治に大きな影響力をもつようになってきました。そういう意味で、今日の政治や経済を考えるうえでも、我々は宗教的な視点を抜きにはいられないのです。あるいは経済活動を考えるうえでも、経済活動がどの程度、倫理的であるべきなのか。この京田辺キャンパスで言うならば、たとえば、生命医科学のような分野を勉強されている方にとっては、バイオテクノロジーと道徳、倫理の関係があります。今日、社会科学を学ぶにしても、自然科学を学ぶにしても、宗教的な観点や、あるいは宗教の知識をもつことは大変重要な付加価値であると思います。
 同志社は京都に位置しており、創立者の建学の理念が生きた私学であり、そしてキリスト教の学校であるという、三つの明確な特徴をもった学園だということです。私どもは京都に位置しているという意味で早稲田や慶応とは違います。私どもは私学という点で京都大学とも京都府立大学とも大阪大学とも違います。そして、私どもはキリスト教を教育の中心に据えているという点で立命館大学とも龍谷大学とも違うのです。他と異なるから優れているわけではありません。しかし、自らをしっかりふり返ることは重要です。この三つの特徴が、同志社をして同志社たらしめているのです。この同志社大学をロードス島として、皆さんが大きく飛んでみる。そして、多くのものを求め、尋ねる値打ちは十分にあるのだと私は確信をしています。

学問を追求する

 では、この同志社大学というロードス島で大きく飛び、多くのことを求め、多くのことを尋ねるには、まずどうすればよいのでしょうか。これも難しい問いでありますが、ここであるエピソードをご紹介したいと思います。「世界を二つに分けるとすれば、どのように分けることができるのか」と、ある人が問いました。ある学者は「地上と海だ」と答えました。ある人は「男と女だ」と答えました。ある人は「天と地だ」と答えました。いろいろな分類の仕方があると思います。世界を二つに分ける。「人間と自然だ」ということもできるかもしれません。ところが、それに対してある哲学者は「自分と自分以外だ」と答えました。世界を自分と自分以外に分けた場合、変えやすいのはどちらかと言いますと、自分を変えることです。自分を変えることによって大きく飛んでみる。自分を変えることによって多くを求め、多くを聞こうとする。自分を変えることによって結果として自分以外の世界を変えるように努める。自分をまず変えることができるかどうかということが、同志社大学というロードス島で飛躍し、多くのことを問い、そして多くのことを求める大変重要な前提なのではないか。自分の価値観を疑い、自分の経験を相対化してみる。自分を変えるという勇気をぜひもっていただきたいと思うのです。
 さらに難しい問いが待っています。一体我々は何を求め、何を問うのかということであります。これについて、納得のいくような答えは準備できておりません。しかし、私どもが会社ではなく、町内会でもなく、工場でもなく、私どもが大学である以上、大学で求め、大学で問われるもの、それは学問と、そして希望であると思うのです。ここでまた、皆さんにお尋ねしたいと思います。学習と学問はどう違うのでしょう。これも入学式のときに申しあげましたが、大学に入学されるまでは、多くの方々は高校生であったわけです。高校生までは、「生徒」と言われます。それに対して大学に入ると「学生」になるわけです。私が大学に入学したときは、ようやく何か大人の末端に加わったように、非常にそれが嬉しくて「学生」であることが誇りでありました。けれども最近は、学生自身がしばしば自分のことを「生徒」と言われるので私は驚きを禁じ得ないのです。「生徒」から「学生」になる。「生徒」というのは主として教師の言うことを聞き、学習することを生業にしていますが、「学生」の場合は自ら学ぶという姿勢が問われている。受動性と能動性の違いだと思うのです。学習と学問の違いは何かというと、まず学習の場合は既知のものを学ぶということです。すでにわかっていることを学ぶことが学習なのです。ですから多くの学習の場合、答えがあるわけです。すでに明らかになっている数学の定理や、すでに開発された技術を学ぶのが学習です。ところが学問は、まだわかっていないことを学ぶことです。したがいまして、多くの場合、学問には答えがないのです。学習と学問の差というのは、学習のレベルが低く、学問のレベルの方が高いというようなレベルの高低の問題ではなく、それぞれの質が異なるということだと思うのです。外国語を学ぶとき、多くの場合、すでに明らかになっているメソッドに基づいて文法や単語を覚えていきますし、自然科学や社会科学でも、すでに明らかになっている知識を学んでいくというように、大学でも、もちろん学習のプロセスはあるのです。しかし大学では、学習プラスまだわからないことを学んでいこうとする学問の要素が非常に大きい。まだ答えのわからないことを学ぼうとすること、学問を追求することが大学にとっての大変重要な課題であり、特色だろうと思います。

希望

 次に、希望ということについてお話しします。皆さんに、大学で希望を求めてほしいと思っています。最近、日本でも経済的な格差が広がって、格差社会というようなことが言われるようになりました。日本でも、あるいは日本だけでなく先進国でも一番大きく広がっているのは、経済的格差や学歴の格差ではなくて、実は、希望の格差かもしれないのです。まだ希望をもって生きられる人と希望をもてなくなってしまった人たちの格差、希望の格差が大きく広がっているのかもしれません。東京大学など一部の大学では、「希望学」という学問をやっておられるところもあります。希望とは一体何なのでしょうか。
 「希望をもって生きろ」、「希望をもって暮らそう」など、「希望をもちなさい」と言うのは簡単ですが、では希望とは何なのか定義してみろと言われると、これは大変難しいことなのです。ユングという心理学者がいます。彼はフロイトの弟子で、後にアメリカに亡命しましたが、このユングという心理学者が言っていたことを、私なりに整理をしてご紹介をしたいと思います。
 「自分は大学を出たら一部上場の有名な会社に就職して、そこで取締役や役員になりたい」と思うのは希望でしょうか。「自分は学生時代に異性にもてて、楽しい大学生活を送りたい」と思うのは希望でしょうか。「サマージャンボの宝くじを当てて大金持ちになりたい」と思うのは希望でしょうか。これらは希望ではありません。これらはあえて言うならば欲望です。希望は欲望ではありません。
 「自分は、いつの日か芸能界にデビューして、華やかな大スターになりたい」とか、「自分は楽をして暮らしながら、一流のスポーツ選手になりたい」とか、このように考えること、これは希望でしょうか。これらは願望に近いと思うのです。希望と願望とは違います。
 それでは「今、我々の暮らしは厳しく、今、自分の前途は暗雲に閉ざされているけれども、じっと耐えて、待って、待って、待ち続ければ、いつか必ず明るい将来がやってくるのだ。春がめぐってくるのだ」と信じて待ち続けるのは希望でしょうか。待ち続けているのですから、待望かもしれませんけれども、待っているだけで自分が何もしようとしないのならば、それは実は希望の名を借りた絶望なのかもしれません。
 希望は欲望ではありません。希望は願望でもありません。希望は、もちろん絶望でもありませんし、単なる待望でもないのです。では希望とは何かですが、今申しあげたことを重ね合わせれば、希望というイメージがある程度浮かびあがってくるかもしれません。希望は欲望ではありませんから、自分が金持ちになりたいとか、偉くなりたいとか、有名になりたいとか、そういうことではなく、たとえば「この地域の役に立ちたい」とか、「自分たちの国の役に立ちたい」あるいは「市民社会に貢献したい」というような自分の利害を超えたものでなければ、希望とは言えません。つまり希望には公共性が必要なのです。
 希望は願望ではありません。つまりスーパースターになりたいとか有名になりたいとか、漠然としたことではなく、希望は実現可能なことでなければならないのです。日常生活のなかで、「希望をもとう」と言っても、全く可能性のないことに我々は希望をもつことはできません。努力すれば万が一でも実現するかもしれないところに、人は希望を見いだすのです。希望には実現可能性がなければなりません。
 そして、ただ待っているだけで自分が何もしないのであれば、希望はやってこない。つまり、希望には当事者意識と主体性が必要なのです。公共性をもって実現可能な意識をもって、当事者意識をもって努力する。そういう人間にだけ、希望がやってくる。学問を修め、そして希望を追求する。同志社大学は、そういうキャンパスであってほしいと思います。そして、そのような主体的な若者たちを新島は130数年前に「良心を手腕に運用するの人物」と呼んだのだろうと私は思うのです。さらに皆さんにはこのキャンパスで、多くの友人を求め、そして多くの将来恩師と呼べるような教師を求め、多くの書物を求め、多くの問いを問いかけ、そして旅をしていただきたいと思います。大学は、そういう可能性を秘めた宝庫であると思います。

祈り

 そして、私が皆さんにお願いしたいことは、このキャンパスで、もうここにお集まりの皆さんには言うまでもないことですが、ぜひ折に触れて祈っていただきたいということです。何もキリスト教の祈りでなくてもよいと思います。言葉にならなくてもよいと思います。しかし苦しいとき、うれしいとき、何かに接するときに、ぜひ折に触れて祈ってほしいと思うのです。人間だけが祈る生き物です。祈りは人間固有の属性です。どんな科学者でも、どんなスポーツ選手でも、苦難に直面したときには、さまざまな形で祈ります。祈ることは人間が人間であるということの自己確認でもあります。そして祈るとき、人は自分に謙虚になります。祈るとき、その祈りのなかに、人は希望を見いだします。ですからぜひ折に触れて祈っていただきたいと思います。
 皆さんのロードス島で、大いに求め、大いに尋ね、大いに飛躍をしていただきたい。そして、学問と希望を追求していただきたい。折に触れて祈っていただきたい。それが私の本日のチャペル・アワーでのメッセージであり、お願いであります。私も最後に祈りの言葉を引用して私の奨励を終えたいと思います。
 アメリカの高名な神学者でラインホルド・ニーバーという人がいます。このラインホルド・ニーバーの言葉をご紹介します。「神よ、我々に変えることのできるものを変える勇気を与えたまえ。変えることのできないものを受け入れる心の静けさを与えたまえ。そして神よ、我々に変えることのできるものと、変えることのできないものを見分ける知恵を与えたまえ」。この勇気と心の静けさと知恵とを皆さんと共有できれば大変うれしく思います。

2013年4月10日 京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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