奨励

新島と同志社を支えた人・湯浅治郎

奨励 原 誠〔はら・まこと〕
奨励者紹介 同志社大学神学部教授
〔研究テーマ〕日本とアジアのプロテスタント教会の歴史

 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

(コリントの信徒への手紙二 3章4―6節)

同志社の創立記念日

 同志社は、創立139年の歴史を刻んで今日、日本を代表する有力な学校、またキリスト教主義学校としては最大の学生・生徒・児童・園児が学び生活する学校となりました。このように、毎年、創立記念のこの時に創立記念礼拝、式典、あるいは大学ではEVE祭、また早天祈祷会がなされ、創立の理念・思想・信仰を改めて確認する行事を行っています。言うまでもないことですが、同志社英学校の創立の経緯、またこれにかかわった新島襄をはじめとする人びとについて、私たちが基本的な理解と認識をもつことは当然求められることです。そして、これらとは別に、大学では「建学の精神とキリスト教」という正課の科目が設置され、これらのことについて正確な知識と理解をもつことが求められ、期待されてもいます。その他、生協に行けば、同志社本と言われるマンガを含むさまざまな本も簡単に手にとって読むことができるようになっています。これは今日の私のメッセージの、言わば枕詞・導入・前提です。

湯浅家について

 今日、私が紹介したいのは、同志社、言わば新島襄を支えた、そして言わば裏方、黒子のような人物である湯浅治郎のことについてです。私が専門として学んでいる日本キリスト教史の研究については、いくつかの立場・方法があります。人物研究という場合、著名な牧師や神学者の研究が主流です。もちろんそれには理由があり、書いたものや語ったものが資料として残っているからです。それは当然なのですが、普通の人が、日本の社会でクリスチャンになる、そしてクリスチャンとして生きる、ということはどういうことか、という言わば民衆史、キリスト教の民衆の歴史として、日本人の信仰を検討していくことも重要な視点です。そのような意味において、日本キリスト教史の上において、また同志社の歴史においても、極めて重要な働きを続けてきた湯浅家という一族があります。そのなかの一人に、例えば日本のファシズムの時代に第10代同志社総長に着任し、同志社のキリスト教主義教育のために闘って在任2年で辞任に追い込まれた湯浅八郎がいます。彼は戦後の平和と民主主義が回復した時代に再び同志社第12代総長となり、国際基督教大学創設に伴って同大学の初代学長に就任した人物です。同志社の長い歴史のなかで、同一人物が二度にわたって総長となって働いた例は未だ、ありません。また別の名前を挙げるとすれば、今日、同志社で最も一般的な新島襄の肖像画を書いたのが湯浅一郎で、日本の黎明期の洋画家です。彼は湯浅八郎の長兄です。その他にもさまざまに湯浅家の人びとや関係者がいますが、いちいち名前を挙げません。それぞれに重要な働きをした人びとです。

湯浅治郎のこと

 この八郎と一郎の父親が湯浅治郎です。そして彼は同志社と新島襄を見えにくい側面から支えた人物です。湯浅治郎は、群馬県安中に今もある「有田屋」という味噌・醤油屋当主でした。この有田屋については、太田愛人が書いた『上州安中有田屋 湯浅治郎とその時代』(小沢書店 1998年)という本があります。同志社の創立や新島襄に直接かかわることで言えば、新島襄がアメリカで学んでいたときに、両親との手紙の交換について、横浜で活動していたアメリカの宣教師を介して湯浅がかかわり、新島襄が日本に戻った直後、両親に会うために安中を訪れたときに初めて直接会い、その後、湯浅はキリスト教を信じ、学び、クリスチャンとして生涯を送りました。
 クリスチャンになるとはどういうことか。クリスチャンとして生きるとはどういうことか。彼は新島襄と出会い、クリスチャンとなり、新しい生き方を選び取り、生涯その生き方を信徒として貫きました。
 彼は安中の地で、同志社を創立した新島襄を支え、国会議員となってからは、東京で支えました。それもクリスチャンとしてです。安中で、彼はクリスチャンとしての新しい倫理を目指しました。当時、政府が県知事を派遣していた時代だったため、県民の意志を代表したのは県議会議員であって、彼はその県議会の議員となり、議長となりました。明治10年代の群馬の自由民権運動に参加した後、廃娼運動を進め、ついに県知事を辞任に追い込み、群馬県は日本で最初の廃娼県となったのです。これはキリスト教の倫理・家庭倫理を、クリスチャンではない多くの県民の支持をまとめながら達成したことでした。次いで国会が開設されると、彼は群馬選出の国会議員となり、財務に明るい人として将来の大蔵大臣として期待されていました。政治家として大成する可能性があった人物なのです。

湯浅治郎と同志社

 治郎は、新島襄が亡くなったあと長男一郎が洋画家になっていたので次男の三郎に家業の有田屋を任せました。その時も有田屋の資産をタダで譲ったのではなく15年かけて返却するという条件で譲ったのです。三郎も頑張って家業に打ち込み、これを12年で返済したと言われています。こうして湯浅は新島亡き後の同志社で無給の社員、つまり理事となって、同志社のために働きました。
 この時代のことについて同志社でもあまり知られていませんが、湯浅治郎は同志社のために非常に大きな貢献をしたのです。同志社の今出川のキャンパスについては、新島襄と結社をして同志社を創設し、同志社という名前を付けた山本覚馬のことは知られています。この時の校地が同志社の基礎となったことは知られています。それ以外に私も詳細は不明ですが、アメリカン・ボードからの資金で、この敷地、また隣接する多くの場所に土地や家屋が購入されました。そして同志社で働く宣教師の住宅となったのです。この時代は、外国人がそのまま外国人の名義で土地や家屋を購入することができなかったので、関係する日本人の名義でこれらが購入されたのです。そのため、もしもの場合に名義人が不正を働いたとしても不正にはならないというリスクがあったのです。湯浅は、この現実のなかで、同志社の資産とするべき土地・建物について同志社名義にするために、すなわち将来の同志社の基盤の安定、資産の安定のために努力し、同志社名義に書き換えることに成功したのです。そのことで、この139年の間、そして今後も同志社の基本的な資産・財産が確実に守られて今日に至る基礎ができたことを知っておきたいのです。当時の同志社社員会つまり理事会は、それゆえに湯浅に特別な感謝決議を行ないました。
 新島襄が大磯で亡くなりました。その時に遺言を書き取ったのが、妻の八重、同志社第2代社長になった小崎弘道、そして徳富猪一郎でした。この徳富猪一郎、つまり蘇峰の姉の初子は湯浅の2度目の妻でした。この新島襄の臨終に際して、湯浅は東京にいて、その後のバックアップをしたのです。
 この時代には新島襄がその遺言でも認めたように、アメリカン・ボードの宣教師と日本人教師との亀裂が本格化し、一時期、両者の関係が断絶することになりました。この議論は、今日、論じる立場でいろいろ意見がありえますが、ここでは簡単に、同志社の側から言えば、同志社の自主独立を保とうとしたとだけ言っておきます。このために湯浅は小崎弘道と共に大きな貢献をしたのです。一言で言えば、同志社がアメリカン・ボードのキリスト教理解、財政のコントロールのもとにあるのではなく、同志社の自主独立を求めるための闘いであったと言えます。小崎弘道はキリスト教の理解や神学の面から、一方、湯浅は同志社の財産を同志社のものとするために全力を注いだのです。

同志社を支えた人びと

 さて、冒頭に述べたように、同志社の創立記念礼拝や同志社スピリット・ウィークなどでは、当然のことながら同志社とその創立、新島襄、そして熊本バンドの面々などについて語られてきました。同志社では、新島襄がアメリカからの帰国の際、アメリカン・ボードの年会でキリスト教に基づいた学校の創立をアピールして5000ドルの予約を得たことや、帰りの汽車賃としてその時持っていた現金のすべての2ドルを新島に捧げた農夫と、年会終了後、そっと2ドルを手渡した寡婦のこと、また同志社共葬墓地の入り口の右端にある、同志社で用務員として働いた五平の墓石のことなどのエピソードが語り継がれてきました。
 これらは、言わば裏の、見えにくい、しかし本当に心温まるエピソードですが、そしてこれらを大切に語り継がれてきたところに、新島の人柄、あるいは存在感、そして信仰の「目」を知ることになるのですが、今日紹介した湯浅治郎、そしてその一族がどのように同志社、同志社と深いかかわりをもった日本組合基督教会、そして日本の近代の社会にかかわったかについても理解と認識をもってほしいと願います。
 それはキリスト教を知る、あるいはクリスチャンになる、とはどのような生き方を選び取り、あるいは選び取らないで拒否する生き方を選択することになったか、を問うことであり、そしてそれはまた、今日の私たち一人ひとりにとって、言わば応用問題に対する自分なりの答えを見いだそうとすることになると思うからです。

2014年11月19日 今出川水曜チャペル・アワー「創立記念礼拝奨励」記録

[ 閉じる ]