講演

同志社の将来

大谷 實

同志社総長

講師紹介〔おおや・みのる〕  

同志社は今年で創立一三〇周年を迎えます。学校法人同志社では、「新島襄と同志社」というタイトルのもとに、一三〇周年記念行事と記念事業を行っております。記念行事としては、例えば、全国規模で展示会と講演会を開催しています。京都大丸での「新島襄と同志社」展はその一環であります。一方、記念事業としては、これまで岩波文庫として発行していました『新島襄書簡集』を全面的に編集し直しまして、『新島襄の手紙』という題名で新たに出版しました。新島襄の立学の精神および同志社の歴史と伝統を見直し、世間にアッピールしようとする趣旨からであります。

同志社の誕生

 「教育こそ文明の基」であるとの信念を抱いて一八七四年にアメリカから帰国した新島襄は、京都丸太町の高松保実邸を借り受け、これを仮の校舎として、一八七五年十一月二十九日に、宣教師デイヴィスと八人の生徒で授業を開始しました。これが「官許・同志社英学校」の始まりです。「同志社」という校名は、新島の同志山本覚馬の発案で、「目的を一つにする同志の結社」という趣旨で名づけられたといわれます。しかし、同志社の設立は、新島にとって苦難に満ちたものとなりました。京都仏教会の反対運動、京都府の非協力的な態度と聖書教育の制限、そして、アメリカのキリスト教布教団体である「アメリカン・ボード」の宣教師団との軋轢といった、幾多の障害と立ち向かわなければなりませんでした。しかしながら、それに打ち克ち、翌年の一八七六年には女子教育の重要性を訴えて、現在の女子大学の前身であります「女子塾」を開設し、さらには、一八八七年に医学教育を目指して、同志社病院の仮診療所を作り、また、京都看病婦学校を開設いたしました。

 新島の教育方針は、学校とキリスト教会を両輪として、当時の因襲と不道徳を破壊することにありましたから、一方で、牧師として教会建設や説教活動を展開しながら、他方で、教育者として精力的に同志社の発展・充実に取り組みました。しかし、新島の最後の目標は同志社大学の設立であったことはいうまでもありません。その念願と決意は、有名な「同志社大学設立の旨意」におきまして、力強く示されます。「大学の設立をもってキリスト教を普及させる手段とか伝道師養成の目的とみなす人がいたならば、それはいまだ私たちの考えを理解しない人である。私の志すところは、さらに高い。私たちはキリスト教を広めるために大学を設立するのではない。ただキリスト教主義には本当の青年の精神と品行を磨く活力が備わっていることを信じて、この主義を教育に適応し、さらにこの主義でもって品行を磨く人物を養成したい」と宣言したのです。

 只今の「同志社大学設立の旨意」からも分かりますように、それまで同志社は、アメリカン・ボードのキリスト教の伝道を目的とするミッションスクールでありましたが、現在は、ミッションスクールではないのです。新島は、キリスト教主義教育を「良心教育」として捉え、同志社教育の目的は、「技芸才能ある人物を教育するにとどまらず、いわゆる良心を手腕に運用する人物」を養成することにあるとしたのです。私の理解では、新島は、キリスト教の布教を目指した当初の意図をより一層発展させて、キリスト教主義に基づく「良心教育」を目指したのだと思います。同志社は、この建学の精神の基に、海老名弾正、浮田和民、小崎弘道、山室軍平、安部磯雄など多くの新島の弟子たちを育て、日本の社会に清澄な流れを注いだのです。また、世に知られることのない無名の牧師や社会運動家として、「地の塩」、「世の光」として世を去った多くの高潔の士・同志社人を世に送り出しました。

 新島は、学校教育の理念を「キリスト教主義」、「自治自立主義」、「国際主義」とする大学の設立を目指して奮闘しましたが、不幸にして病に倒れ、一八九〇年(明治二十三年)一月二十三日に、自戒の銘であった「天を怨(うら)まず、人を咎(とが)めず」という言葉を最後に、四十六歳十一カ月の短い生涯を、湘南の大磯の地で閉じたのでした。彼の畢生の事業である大学が設立されたのは、彼の死後三十年が経過してからでした。その後、同志社には女子専門学校や大学予科、高等商業学校などが誕生しました。第二次世界大戦中のキリスト教排撃運動等によって多くの苦境に立たされましたが、新島精神と良心教育の伝統に支えられながら、同志社は戦後に引き継がれたのであります。

同志社の現在

 一九四五年、つまり終戦の年は、同志社創立七〇周年記念の年に当たりますが、それから三年後から四年後にかけて、新しい学校制度のもとで大学、女子大学、同志社高等学校、女子高等学校等が設置されます。しかし、戦後におきましても、深刻なインフレ、学園内の対立や激しい大学紛争の影響もあって、同志社は決して平坦な道を歩んだわけではありませんでしたが、人口増に伴う生徒・学生数の増加、進学率の上昇といった社会の変化に後押しされて、同志社は急速に発展してまいりました。

 特に大学でのマスプロ化は同志社でも顕著になりましたが、良心教育の歴史と伝統に支えられ、研究レベルと教育内容に対する社会の信頼・支持があって、入学者の偏差値は非常に高く、一九八〇年代後半から九〇年代にかけてとられました大学の臨時定員増の措置にもかかわらず、同志社も入学難・受験戦争の時代を迎えたのであります。

 その傾向は、同志社内の各学校でも同様でありまして、法人全体としての経営は比較的安定していたといってよいと思います。こうして、学校法人同志社は、現在、同志社大学(約二万五〇〇〇人)、女子大学(約六〇〇〇人)、四つの中学校・高等学校(約五〇〇〇人)、それから幼稚園(約一〇〇人)、あわせて、十一の学校、三万六〇〇〇人以上の者が学んでいる一大総合学園にまで発展したのであります。

 もっとも、戦後、多くの大学は教育産業が右肩上がりの時期に、学部の新設や再編を行ってまいりました。その点、同志社大学は、十年ほど前に独立研究科としてのアメリカ研究科と総合政策科学研究科の二つの大学院を新設したに過ぎませんでした。学部は、新制大学発足当時の六学部のままであり、「同志社は伝統に胡坐をかいている」と批判されたのも、また、やむをえなかったと思っております。

 学園の改革に一歩遅れをとった同志社も、各学校の渾身の努力で、学園に活気が戻り、改革が軌道に乗ってまいりました。大学では昨年五十五年ぶりの新学部として政策学部が開設され、今年は、文化情報学部および社会学部の新設が実現し、九学部体制となりました。また、社会の要請に応えるロー・スクール(司法研究科)やビジネス・スクール(ビジネス研究科)といった専門職大学院が、寒梅館という新しい建物で同時に開設されました。さらに、産官学連携による教学の推進と社会貢献の体制も、リエゾン・オフィスの立ち上げによって整備されました。

 一方、女子大学は、五年前に短期大学部に見切りをつけ、女子大学最初の社会科学系学部である現代社会学部をつくり、人気を呼んでいます。また、今年は、薬学部を新設し、注目を浴びているところであります。このほか、中学校・高等学校・大学の連携によります一貫教育の推進も、同志社一貫教育委員会の設置によりまして、ようやく整備されつつあります。特に、今出川にあります同志社中学校を移転し、岩倉校地の同志社高等学校との統合も決まり、二〇一〇年に実現する運びとなり、同志社三十年来の課題が解決を見たのであります。そして、来年からは、いよいよ同志社小学校が岩倉校地に開設され、小学校から大学院までの一貫教育体制が整ったのです。

 このように、「眠れる同志社」はようやく猛然と活動を再開し、遅ればせながら大きく躍動しています。しかし、問題は、この先にあります。

同志社のこれから

 それでは、これからの同志社はどうなるのでしょうか。今、大学および女子大学では、将来構想委員会を作り、そこで将来に備えた構想を練っています。大学では、スポーツ科学部や生命科学部の新設を検討する一方、同志社中学校が岩倉へ移転した後の跡地利用に取り組んでいます。また、女子大学では、現在、四学部九学科ありますが、そのうち京田辺キャンパスにあります学芸学部の英語英文学科と日本語日本文学科を今出川校地に移転することにしています。これらの事業は、いずれも社会の要請と研究教育上の必要から計画されているものであります。しかし、先行き不透明な今日の情勢に鑑み、同志社の将来は果たしてどのような方向に歩むのでしょうか。校祖新島襄は、「同志社教育の完成には二〇〇年を必要とする」と述べたことがあります。あと七十年、それまでに同志社はどういう方向で発展すべきなのでしょうか。

 改めて申すまでもないことですが、少子化と学校教育制度の改革によりまして、私立学校を取り巻く教育環境は大きく変わってまいりました。日本の十八歳人口は、一九九二年度の二〇五万人をトップとして、その後急激に減少し、二〇〇五年度からは約一二一万人程度で推移するという見込みであります。何と八十四万人が減って、十四、五年前の五五パーセントになってしまい、文字通り大学全入時代に入ってきたのです。こうした少子化の影響は大学だけでなく、幼稚園から高等学校にまで及びます。一方、公立高等学校が正面から大学受験校を目指して、中高一貫教育を始めている時代です。こうした競争環境ばかりではありません。大学の産官学共同や地域との連携の強化、国際化への対応、そして大学に対する第三者評価等が加わりまして、今や、私立学校はどこも混沌としているといってよいと思います。

 もちろん、どんなに時代が変わり教育改革が進みましても、私学は生き残るでありましょうし、また、生き残らなければなりません。しかし、生き残るためには、私立学校設置の原点に戻った学校経営が必要になると思います。新島は、かつて、こう言いました。「もとより資金の多さや施設が完備している点から見れば、私立は国立と比較にはならない。けれども、学生が自分独自の個性・気質を発揮して、自治、自立の国民となるように養成することができるということ、これこそ私立大学が持っている特性であり長所であると信じて疑わない」と断言しています。私は、今後、私学が生き残り、その存在理由を発揮するためには、「独自の個性・気質」をもった人物の養成に、力強く立ち向かう必要があると考えています。つまり、それぞれの私学が独自の特色、アイデンティティを前面に押し出した教学の理念が求められるとともに、その実践が喫緊の課題として問われてくると思っています。

 同志社は、幸いにして良心教育の伝統のもとに、これまでこの教学の理念によって多くの困難・苦境を克服してきました。しかし、同志社は、どういう学生を入学させ、どのような教育をして、社会に送り出そうとするのかといった教学の理念、独自性が年々希薄になっているように思います。もちろん、こうした傾向は同志社だけではありません。大手の大学ではいずれもそうですが、しかし、国立大学が独立行政法人となって特色ある大学を目指しているところを見ますと、今後の学校競争は、こうした教育・研究の確固とした方針を軸に展開していくことは間違いないでしょう。

 私としては、同志社が目指す教学、つまり良心教育の中身を現代的に問い直し、明確にする必要があると考えています。産官学の連携・共同といった目先の社会的要請を踏まえた教学ももちろん大切ですが、学園は教育研究機関なのですから、どういう人物を養成して社会に送り出すかを第一に考え、その目標の下に教育研究条件の整備と向上を図るべきであります。

 今や時代は混迷し、国民の多くは何を目標として人生行路を歩むべきかに思い悩んでいるのが実情ではないでしょうか。生活の豊かさを求めてきた文明や価値観は、崩壊しつつあるというのが率直なところかと思います。そういう意味で、二一世紀は、心の時代、生き方が問われる時代であるといわれているのですが、校祖新島が目指した良心教育、「天真爛漫として、自由のうちに自ら秩序を得、不羈のうちに自ら制裁あり、すなわち独自一己の見識をそなえ、仰いで天に恥じず、伏して地に恥じない、良心の全身に充満した丈夫」の養成を目指す教育を徹底して実践し、高潔な人格者である「同志社人」を世に送り出すことが現代社会への最大の貢献であり、それが私学同志社の生きる道であると確信するものであります。

 最近の学生は、免許や資格の取得といった実学志向にあるといってよいかと思いますが、大切なことは、一生を何のために生きていくかという価値観、人生観の確立であり、そうして初めて、「一国の良心」となるべき人物、すなわち自治・自立の精神にあふれ、博愛精神に富み、個人の尊厳を重んずる、国際社会で活動できる人材―同志社人を育成することになるのではないかと考えます。学生諸君の同志社立学精神への積極的参加を切望してやみません。

二〇〇五年十一月七日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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