講演 |
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新島襄は「策士」であったか?
策略を用いた新島襄本日の講演を始めるにあたり、なぜこのような奇妙な題をかかげたのか、最初にその理由をお話ししなくてはなりません。同志社では、理事や評議員であれ、教職員であれ学生であれ、校友同窓であれ、誰一人として、同志社の創立者新島襄先生を「策士」であったなどと考える人はいません。しかしながら、同志社の外の人が新島の書いたものを読み、新島に関して語り継がれてきた事柄を点検していくと、新島には「策士」と見なされても致し方のない面があった、という解釈が生まれてくるのです。今年の四月に京都のミネルヴァ書房から出版された、太田雄三教授による新島の新しい評伝『新島襄』は、まさしくそのような問題を提出しています。太田教授は現在カナダのマクギル大学で教えている人で、これまでに内村鑑三やLafcadio Hearn そして“Boys, be ambitious”という言葉で有名なWilliam Smith Clark に関して、辛口の評伝を書いてきた人です。 最初に「策士」とは何か、『広辞苑』の定義を見ておきましょう。「策略にたくみな人。好んで事をたくらむ人」とあり、「策士策に溺る」というコトワザを載せています。それはつまり、「策士が策に頼りすぎて自分の策によって自滅する」ことです。 新島襄の生涯をたどってみますと、彼は時と場合によって、策略を用いたことがわかります。私は今日、そのようなケースをいくつか取り上げて、検討を加えることにしたいと思います。この仕事は、新島のあら捜しと取られるかもしれませんが、新島を正しく理解するためには、これもまた必要な作業であると確信いたします。 函館行きのための策略最初の例は新島が二十一歳、すなわち今の大学生の年齢だった時に、非常な決意のもとに日本を脱出してアメリカに赴くときの話です。当時は二世紀半にもわたって続いてきた徳川幕府の鎖国政策がまだ生きていましたから、日本人は勝手に外国に行くことはできませんでした。いまの北朝鮮の人が、勝手に外国に行く自由がないのと同じことです。もし見つかれば投獄されて、きびしく取り調べを受け、へたをすると死刑に処せられることもありえた、という時代でした。こんな時期に、アメリカにただ一人の知人も友人も持たない日本の若者が、英語もろくに話せない状況で、単独で国外脱出を試みるというのは、まったく正気の沙汰とも思えないことでした。しかし新島はそのために、慎重に策略を考えました。彼は慎重であると同時に、チャンスを掴む機敏さを備えていたのであります。 元治元(一八六四)年三月七日のことです。当時二十一歳の新島七五三太(しめた)は江戸の駿河台にある川勝塾に寄宿して、英語や航海術の勉強をしていたのですが、彼が取り組んでいた航海術の書物の中に理解できない点があったので、以前に通っていた幕府の海軍の学校である軍艦教授所の、中浜万次郎先生に質問するために、先生の住む芝新銭座に向かって歩いていました。その時偶然、一年四ヵ月前に、快風丸という備中松山藩のスクーナー船で江戸から、現在岡山県倉敷市に入っている玉島まで一緒に航海したことのある友人三人に出くわしたのでした。新島はその時の模様を、日本脱出後一年以上たって、ボストンの宿で「脱国の理由」について英文の手記を必死になって書いたときに、次のように描写しました。そこの部分を私の訳で読ませていただきます。 「お船はいつ出るのですか」と聞きますと、「三日以内に函館に向けて出帆するところだ」とのこと。「ぜひともおともしたいですね。お願いですからぼくも行かせて下さい」と頼みました。「連れて行ってあげてもいいけれど、君の殿様とご両親がお許しにならんだろうなあ。先ずそちらに頼んでみてごらん」(全集10 一六頁)。 幕末の閉塞状態に窒息しそうな気分を味わっていた新島は、その頃日本を脱出することを夢見ていました。そんな新島にとって、北海道に渡れるというのはまさしく絶好のチャンスだということが頭にひらめいたのです。彼は安政の条約により函館がすでに開港されて、外国船が函館に来ていることを知っていました。しかし函館に行くためには、新島は二つのハードルを突破しなくてはなりませんでした。一つは新島家の長男である七五三太のことを絶えず心配している父と母をどのように説得するかという問題です。もう一つは彼が仕えている安中藩の殿様、板倉勝殷(かつまさ)の許可をどのようにして得るのかという問題です。二つのハードルとはいうものの、殿様の許可さえ得られれば、両親の方はそれに従わざるをえないことは、新島に分かっていました。ではどうやって殿様の了承を取り付けるのか? それには殿様をさらに上回る権威を利用することです。新島家の仕えていた安中藩主板倉勝殷でも頭が上がらない権威といえば、将軍を除けば、それは安中藩板倉家の宗家にあたる備中松山藩主、板倉勝静(かつきよ)であり、しかもこの人は当時幕府の老中でした。今の政府でいえば大臣に相当する実力者でした。一年四ヵ月前と同様に、快風丸の持主である備中松山藩主で幕府の老中である板倉勝静から、快風丸乗り組みの許可さえ取り付ければいいのです。そこで新島は三月八日の朝、備中松山藩邸に行き、快風丸の乗組員で知人である塩田虎尾という人に会い、快風丸に便乗して函館に行けるよう、その藩の家老や藩主への斡旋を依頼したのでした。それは成功しました。そこで安中藩邸に帰り、七五三太に対して好意的であった安中藩目付役の飯田逸之助に会い、快風丸に乗って函館に行くことについては、もう松山藩の了承を得ました、というふうに話を既成事実化することにより、安中藩の殿様から函館留学の許可を出してもらうことを依頼したのです。新島は封建制度下のタテ社会の構造を見事に利用したのです。この時新島はフルに「政治的に」動いたのであり、彼の策略は成功したのであります。こうして新島は江戸を離れて、北海道の函館という、海の彼方の国々からやってきた外国船が停泊している港町に辿りついたのでありました。 このように、若い頃の新島は確かに一種の策略を用いました。しかしこのことから私たちは新島を策士であると見なすことはいたしません。元治元年、一八六四年という時点で、このような策略を用いずして、単身で国外に出る方法がはたしてあったでしょうか? その二年前(文久二年)に、幕府ははじめて榎本武揚、赤松則良、西周を含む最初の留学生十一人をオランダに派遣しました。その翌年(文久三年)に、長州藩では家老の暗黙の了承のもとに伊藤博文、井上馨、山尾庸三ら五人が横浜港からこっそり乗船してイギリスに留学しました。新島が日本を脱出したのがその翌年の元治元年。その翌年の慶応元年には薩摩藩が森有礼、寺島宗則ら十九人を、薩摩の串木野の羽島からこっそり乗船させてイギリスに留学させました。徳川幕府ならば当然のことだとしても、留学生を海外に派遣するということは、長州藩、薩摩藩のような大藩で、しかも幕府の目の届かない藩にしてはじめて可能だったのです。新島の安中藩は譜代大名の支配する小さな藩であって、留学生を送ることが経済的に可能だったとは思えません。新島は辛抱強く待っていれば、あるいは幕府の留学生にしてもらえる可能性があったかもしれませんが、その可能性ははなはだ薄かったとみなくてはならないでしょう。そのことが新島によくよく分かっていたからこそ、彼は敢えて策略を用いて函館行きの快風丸に便乗する方法を考え付いたのであります。 アメリカン・ボードの大会での募金アピール私はいま新島襄に「策士」と見なされうる一面があったかもしれない、という枠組みの中で新島のことを点検しているわけですが、次に、新島の生涯における、最大のドラマの一つと見なされる出来事を取り上げてみたいと思います。それは一八七四年十月九日、ヴァーモント州ラットランドで開催されたアメリカン・ボードの第六十五回年次大会のときの募金演説です。アメリカン・ボードというのはアメリカで最も古い宣教団体で、ボストンに本部を置き、アメリカ国内ではインディアンへの伝道、国外ではインド、中国、トルコ、アフリカ諸国、ハワイを含む太平洋の島々、そして日本などに宣教師を送っていました。新島はこの年すでにアンドーヴァー神学校での課程を修了し、牧師の資格を取り、しかもアメリカン・ボードから、祖国日本に派遣される宣教師としての任命を受けていたのです。ボードの年次大会の最終日に、数名の新任の宣教師は、恒例により、それぞれの派遣地へむけて出発するに当たり、アメリカン・ボードの会員に挨拶する機会を与えられることになっていたのでした。 新島の頭の中には、九年間にわたる留学生活、特に岩倉使節団の文部理事官田中不二麿の通訳兼案内人として、アメリカとヨーロッパ各国の教育施設を視察してまわった経験から、日本に帰ったならば、何をおいてもキリスト教の学校を建て、明日の日本を背負って立つ人物、品格を備え、良心に溢れた人物を養成することを思い描いていました。そのための設立資金をどうしてもアメリカで調達したい、それにはこのアメリカン・ボードの年次大会はもってこいの機会であるように思えたのです。しかし、それには大きな問題がまつわりついていました。 問題は何かと言いますと、そもそもアメリカン・ボードというのは宣教団体なのであり、宣教師を派遣するための費用は個々のクリスチャンからの献金によって成り立っている、という基本的な事情であります。アメリカン・ボードの主事たちはできるだけボードの会員に訴えて多くの献金を集め、キリストの福音を全世界に宣べ伝えるために、宣教師を諸外国へ派遣しなくてはならないと信じていました。したがって、そういう団体の公的な集まりで、挨拶のチャンスを与えられた新米の宣教師が、理由は何であれ、自分勝手な募金演説をすることは極めて筋違いの行為であり、常識的に考えればルール違反であり、アメリカン・ボード本部の既定の方針を妨害する行為ですらあったのです。年次大会ですから、新年度の予算が示され、出席した会員たちはその年の献金を引き受ける決意を固めていた筈です。新島としても、挨拶の中で募金のアピールをして、ボードの運営委員でもある、大恩人のアルフィーアス・ハーディー氏に迷惑をかけることになってはまずい、という心配はあったのでしょう、彼は前の晩にハーディーを宿舎に訪ね、相談したのでありました。その時の模様を新島は後年、英語の手紙の中でこのように書いています。私の訳で読ませていただきます。 ハーディー氏はそんなことをしても余り成功しないだろうという意見でした。しかしながら、私はむしろ我意を通してみたい、と主張しました。何故ならこれこそは、そのようなクリスチャンの大集会にそうした問題を持ち出す最後のチャンスだったからです。するとハーディー氏はほほえみながら、まことにやさしい、慈父のような態度でこう言いました。「ジョゼフ、わたしはどうもおぼつかないと思うのだが、まあやってみるか。」この同意をうけるとすぐに私は宿舎に帰り、演説の原稿を作ろうとしました。ところが心臓が高鳴り、十分な準備はとてもできません。私は神に祈りました。私はそのとき神と格闘したあわれなヤコブのような状態であったのです。翌日いよいよ演壇に立ちますと、覚えた筈の言葉がほとんど思い出せないのです。私には演説の経験はないも同然でしたから。しかし一分間たつと私は自分をとり戻しました。がくがく震えていた膝もしゃんとしてきました。新しい考えが心の中にひらめき、私は用意した言葉とは全くちがったことをしゃべりました。演説は全部で十五分間も続かなかったと思います。話していくうちに日本の同胞に対する強烈な感情に動かされていきました。私は結局、同胞のために語る代わりに、さめざめと涙を流したのです。しかしながら、私の貧しい演説を終わる前に、日本でキリスト教主義の大学をたてるために、その場でただちに約五千ドルの寄付の約束が与えられたのでありました。(全集10 一八九―一九〇頁) ハーディーは長らくアメリカン・ボードの運営委員を務めていましたから、募金というものの困難さ、それの複雑な性質、またアメリカのキリスト教信者たちが伝道のために献金するときの心理などは知り尽くしていた人です。そのハーディーは、新島がボードの年次大会において募金を訴えたところで、成功する確率は低いだろうと思ったのです。「ジョゼフ、わたしはどうもおぼつかないと思うのだが、まあやってみるか」と私が訳した部分は、英語の原文では“Joseph, the matter looks rather dubious, but you might try it.”(Life and Letter, p.172)となっています。Dubious という単語には、うまく行くかどうか分からない、ということと、それが正当な行為かどうか分からないというニュアンスまでも含むように思います。You might try it というのは、文法的には仮定法です。どうしてもしたいのであれば、まあやってみてごらん、といったニュアンスです。ここでハーディーは新島を激励しているわけではありません。新島があまりにも自分の意思を通したいとせがむので、それほどまで言うのなら、仕方がない、やってみるか、と言ったのです。ハーディーはこの時、少なくとも反対はしませんでした。新島はこれを、ハーディーが同意してくれた、OKを出してくれたと受取ったのです。 同志社の受胎の瞬間新島はその夜演説の原稿を作るために必死になりました。神と格闘したあわれなヤコブのような状態であったと回想しています。そしていよいよ翌日がきました。二千人近い会衆に向かって、ハーディーは、祖国への宣教師としてこれから日本に帰ろうとしている新島を紹介しました。新島は壇上に立ちました。彼の発言を、地元の新聞Rutland Weekly Herald紙が克明に伝えています。それは『同志社百年史』の初めのところに出てきます。 救い主は弟子たちとお別れになる時、行って福音を宣べ伝えよ、と命ぜられました。しかし悲しいことに、このご命令に喜んで従おうとするクリスチャンの数は何と少ないことでありましょう。けれどもアメリカン・ボードの皆様はそういう方々ではありません。何となれば、もしアメリカン・ボードが存在しなかったならば、私はこんにちもなお異教徒のままであり、私の祖国には何の希望もなかったでありましょう。もしもこの国のクリスチャンが、そのもてるもののほんの僅かなりとも与え続けて下さるならば、私の同胞はいのちのかてをあてがわれることになるのです。 私の国は三〇〇人の学生を世界のさまざまな国に派遣し、その国の与えうる最上のものを学ばせようとしました。残念ながら、彼らの大部分はヨーロッパの不信仰の影響の下にあります。しかし私たちは教育以上のものを必要としています。私の祖国には霊的な教えがどうしても必要です。・・・ 日本のような国では悪魔ははやばやと種子をまくのです。ですから私たちは悪魔を出し抜いて、福音の種子をまかなくてはなりません。 神戸の教会には教育機関がありません。その教会には何らかの学校が必要です。日本人にとって金をねだるほどいやしいことはありません。しかし私たちは今ねだらねばなりません。キリストも、求めよ、さらば与えられん、と言われましたから。それ故私は皆様に対し、約三、三〇〇万人を助けるための教師と説教者を起すべく、[伝道者]養成所を設立するに十分な程度のご援助をお願い致したいのであります。 お願いできましょうか? お約束を得られるまで私は着席致しません。 (『同志社百年史』通史編一、一九頁 改訳) お聞きのように、新島は「お約束を得られるまで私は着席致しません」という、ドスの利いた言葉でもって演説を終わりましたが、これは明らかに一種の脅迫です。もしもここで場がしらけてしまうとか、「いい気になって、場違いのことをいうんじゃない!」などと怒鳴る人が現れたならば、いくら新島でも、うちしおれて、すごすごと壇から降りるしかなかったでしょう。幸いにして、会場は熱狂的な反応を示しました。まず、以前中国に宣教師として行っていたピーター・パーカー博士が立ち上がり、「私は千ドルを約束します」と言いました。新島はこれに壇上から答えました。「私はゆうべこのことで眠れませんでした。しかし今夜はよく眠れます」と。新島の言葉には巧まざるユーモアがありました。すると一人の女性が百ドル約束しました。新島はユーモアをさらに膨らませてこう言いました。「私は十万ドルひっさげて帰るくらいに頑健でありますが」と。このようなユーモアはアメリカ人を惹きつけるのです。さらに五十ドル、百ドル、百ドルの声が上がったあと、ヴァーモント州の前知事のページ氏が千ドルを申し込みました。アメリカン・ボードは議事を進行しなくてはなりません。新島の演説が巻き起こした感動の嵐を鎮めるために、決議文が読み上げられました。その内容は、新島が提案した学校をたてるための募金の会計をハーディー氏に委嘱すること、そして今後そのための献金はハーディー氏あてに送るべきこと、というものでした。 これはアメリカン・ボードの第六十五回年次大会で起こった出来事であり、同志社の歴史では、ケーリ先生が「同志社の受胎の瞬間」と呼んだ出来事ですが、アメリカン・ボードの正式の記録にはとどめられていません。これから外国に派遣されていく新任宣教師たちが挨拶をした、という記録以外に、新島の場違いで型破りの演説があったということは載せられていないのです。それはボードにとって、あくまで番外の出来事だったからです。この時寄せられた約五千ドルでもって、翌年今出川の校地が購入され、最初の校舎が建てられたのです。では、こういうことをやってのけた新島は、策士なのでしょうか? 繰り返しますが、この五千ドルなしには、同志社はスタートすることができなかったのであります。 「自責の杖」は芝居なのか?新島襄は策士であったのか? この問題をさらに考えてみるために、私は新島襄の教育精神をよく表わすエピソードとして、同志社で代々語り継がれてきた「自責の杖」事件を取り上げたいと思います。これは明治十三(一八八〇)年四月十三日に、第二寮階下の集会室で起こった出来事であり、その場に居合わせた当時の何人もの学生が証言しています。その年の二年生には上級組と下級組がありました。上級組は下級組よりも半年早く入学した人たちの組でした。ところが同志社英学校では、上級組と下級組の実力はほぼ等しいと判断して、これらを合併して一つの組にすることをこの年の四月七日、水曜日の臨時の教員会議で決めました。すると上級組はこの決定に反発し、その日のうちに新島校長あてに抗議と質問の手紙を書き、ストライキに入りました。そこで四月九日、金曜日の定例の教員会議で、「三日間授業を放棄した者たちは、校内で一週間の禁足とする」という処分を、学校の規則に従ってきめました。ところが、この決定は四月十二日、月曜日に取り消されたのです。これは新島校長の独断による取り消しであったと考えられます。そこで今度は、規則を破ってストライキをした学生に対する処罰をなぜ取り消したのか、といって疑う教員もあり、強く抗議する学生が出てきました。学校当局は非常に揺れたのです。これは同志社始まって最初の学園紛争でした。新島校長はこのことで非常に苦悩しました。そのようにして四月十三日、火曜日の朝の礼拝の時間を迎えたのです。その朝は新島校長が講話をする日でした。 新島は「吉野山花咲く頃の朝な朝な心にかかる峰の白雲」という古歌を引用し、「学生諸君に対する自分の気持ちはこのようなものです。ところで今回の騒動は学生や教師たちの責任ではありません。すべては校長たる自分の責任です。よって校長自身を罰します」と言って、教員と全学生の面前で、持参した杖を右手で振りあげ、左手の掌を杖が折れるほど強く打ちました。何度も、何度も。満場はしんと静まり、すすり泣く声が聞こえました。その時上原方立という学生が飛び出して行って新島に抱きついてそれを止めさせようとしました。新島は、「規則を守ることの重要さはこれで分かりましたか。このことは他言無用」と言って、壇を下りたということです。新島はこの問題では憔悴の極みに達し、四月十六日、金曜日の定例教員会議は欠席しています。その日の議事録には、「新島先生は休息を取るべきであるという教員会議の願いを市原[盛宏]氏が委員となって先生に伝達することに決定」と、書記のラーネッドが英語で書いています。 この自責の杖の出来事に非常な感銘を受けた一人は、堀貞一という亀岡出身の学生でした。堀は新島が用いた自責の杖の三つに折れた破片を拾って自分の宝物にしていました。彼は卒業後牧師となり、長浜、彦根、京都、新潟、横浜、前橋で牧師を務めたのちハワイで伝道し、一九二七年から一九四〇年まで同志社教会牧師兼同志社大学宗教主任を務め、そのカリスマ性は学生たちを魅了したのでした。彼が学生にむかって説教するときには、新島の折れた杖の破片を見せて、自責の杖の場面を演出して、激しく新島精神を説いたのでした。のちほどその杖の破片は同志社に寄託され、今では新島遺品庫に保管されています。つい先週の京都大丸における「新島襄と同志社」特別展でも、それを見ることができました。自責の杖の場面に居合わせて感銘を受けた今一人は原田助で、原田はその感銘を日記に克明に書き残しています。原田助も牧師となり、のちには同志社社長・総長を務めた人です。 しかし、新島の自責の杖の出来事を、批判的な、冷めた目で見ていた人もいたことは事実です。同志社で五十年間も教えた宣教師で、聖書学者としてもすぐれていたラーネッド教授などは、その一人です。これは京田辺キャンパスにあるラーネッド図書館のラーネッドです。ラーネッドはこの出来事を論評することをずっと避けてきましたが、後輩の宣教師で同志社中学で教えたDarley Downsから質問を受けたときには、「あの一件はセンチメンタルな厭世主義のあらわれで、いやしくも同志社校長のとるべき態度ではない」と述べたそうです(本井康博「新しき『自責の杖』事件の時は来たれり」『新島研究』八八[一九九七]、六頁)。 この出来事に関して一番興味深いのは徳富蘇峰の反応です。一九五二年五月二十一日、八十九歳の徳富蘇峰は栄光館での講演のあと、同志社アーモスト館での懇談会に臨み、「新島先生を語る」と題して出席の教職員からの質問に答えたのでありました。私は当時大学院の学生であって、その会に出席しませんでしたが、出席した先生方の話を総合すると、こんなやりとりがあったというのです。 質問者 蘇峰先生は、自責の杖の場面におられましたか。 蘇峰 おりました。 Q で、どういうふうに感じられましたか。 A ああ、新島先生の病気がまた出たわい、と思いました。 Q あれは新島先生の芝居だった、などという説もありますが、どうですか。 A ああ、芝居も芝居、大芝居。けれども役者がちがう。先生は役者が四枚も五枚も上でした。(北垣『新島襄とアーモスト大学』三三三頁) 興味深いことに、蘇峰の発言のこの部分は、のちに同志社が印刷した記録からは削除されています。自責の杖が新島の芝居であったというような説が、蘇峰の説として広まったりすると、教育者新島のイメージに傷がつくかもしれない、と心配した、当時の同志社当局の配慮によるものでしょう。講演の最初に紹介した太田雄三教授は、私がただいまご紹介した新島の芝居説に飛びつきました。面白半分に芝居説を唱える人の中には、新島はあの杖を初めから折れて飛び散るように細工していたのだ、とまで言う人がいます。あれがもしも新島の仕組んだ芝居であったとすれば、たしかに新島は策士だ、ということになります。しかし、あの一八八〇年当時の教員会議のメンバーたち、すなわちデイヴィス、ゴードン、ラーネッド、山崎為徳、市原盛宏、森田久万人の六人は、あの時の新島の憔悴ぶりを見て心を痛めており、休養するよう奨めることを教員会議で一致してきめたほどでありました。これら六人の教員たちの十二の目は、芝居する新島といった考え方をきびしく拒否するものであったことは、疑うことができません。 同志社創立八十周年の記念出版物として同志社は徳富蘇峰の『新島襄先生』という本を刊行致しました。その中に、ただいま私が触れた懇談会での発言も収録されています(ただし、自責の杖を新島の芝居だったとする発言はカットされたままです)。この本の中で蘇峰は少なくとも五回あの出来事に触れています。すなわち新島の克己心を示す例として一度、そして自分の同志社退学の事情を説明するくだりにおいて三度、です。蘇峰はあの出来事に新島の教育愛を見ているわけではないのです。実は二年生上級組のストライキを煽動したのは若き日の蘇峰自身だった、という事情もありますし、そういうことを彼がやった背景には、熊本バンドの先輩で、同志社英学校の教員だった市原盛宏に対する蘇峰の根強い反発があったことは、本井康博先生の研究によって現在では明らかにされています。この事件に興味のある人は先生の『新島襄と徳富蘇峰』(晃洋書房、二〇〇二)をご覧下さい。あの事件では、蘇峰こそが加害者の一人であり、その意味で新島は被害者でありました。 教会合同運動を頓挫させる晩年の新島は教会合同問題という事件に巻き込まれました。日本におけるプロテスタント教会の三大勢力は、組合派、長老派、メソジスト派ということになりますが、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む日本基督組合教会(会衆派)と日本基督一致教会(長老派)との間には、早くから教会合同の話がもちあがっていました。新島襄と宣教師Jerome Dean Davisが山本覚馬の協力を得て出発させた同志社は会衆派であり、同志社神学校はいわば組合教会の総本山だったのであります。これに対して一致教会の総本山は明治学院です。そして、一致・組合両教会の合同運動に熱心であったのは、新島の弟子たち、すなわち熊本バンド出身の横井時雄、海老名弾正、宮川経輝、小崎弘道、金森通倫らでした。一致教会では植村正久が先頭に立って、合同の準備をすすめていました。アメリカン・ボード宣教師の中でも、D・C・グリーンや、先ほど触れたラーネッド、そして新島と同じ船で日本に宣教師としてやってきたデフォレストらは合同推進派でした。新島は教会合同に対して批判的でした。その理由は教会政治の形態にありました。つまり、長老派の教会は「長老」と呼ばれる教会の指導者たちによる集団指導性であり、新島はそれを寡頭政治と見ていました。これに対して新島は会衆を主体とする民主政治を取る組合教会主義をよしとしていました。組合教会は本来各個教会主義であり、各教会それぞれの自治主義を尊重してきました。新島の目には二つの教派の合同は、合同という美名の下に隠れて長老派が組合派を呑込んでしまう危険性をはらんでいると映りました。「民主政治の愛好者」である新島は、自由を犠牲にしてまでも合同を進めることに躊躇を感じざるをえなかったのです。 新島は日本の組合教会の大立者でありましたけれども、晩年には病気がちであり、同志社を大学に昇格させるための募金運動にエネルギーを注がなければならなかった関係から、組合教会の指導は同志社の第一回卒業生で、それぞれに一騎当千の牧師である小崎弘道、海老名弾正、宮川経輝、横井時雄らにまかせていました。ところが、こうして新島のいわば高弟たちが、一斉に教会合同に向かって走り始めたため、新島は非常なジレンマを感じるようになり、自分の立場を徳富蘇峰のような、教会から離れた立場にある人や、もっと若い卒業生や学生たちに打ち明けていました。若者たちはそれぞれの教会で合同反対の立場を取り、ついに合同運動を頓挫させるに到りました。このため、新島は死後、彼の愛する弟子であり、後継者でもあった小崎弘道から非難されるという残念な目に会ったのです。小崎は新島が、面と向かってはっきりと反対の意見を表明しないでいて、陰で若者たちを操り、陰険な反対運動を展開させた、それが合同の破綻をもたらしたのだ、と非難しました。小崎はひょっとすると、教会合同運動に対する新島のやり方は、策士のやり方だった、と言うかもしれません。長老派の植村正久もまた、新島の頑なな組合主義を批判しました。 新島は策士ではありません私は新島襄の青年時代、アメリカ留学の最後の時期、同志社英学校校長としての初期の時期、そして晩年の時期、それぞれのエピソードを捉えて、新島に策士という言葉があてはまるかどうかを点検してきました。新島は確かに策略を弄することが必要なときには、堂々と、あるいはこっそりと、策略を用いました。しかし策略に溺れる、策略の常習犯だったわけではありません。新島は人を陥れるために策略を用いたことはありません。新島は自分の個人的な利益を得るために策略を用いたこともありません。 私の見るところでは、新島においては、キリストの福音を宣べ伝えることと、キリスト教主義の学校を作ることは、彼に課された生涯の使命の両面に過ぎませんでした。ですから、アメリカのクリスチャンに対しては福音宣教とキリスト教教育を強調して募金のアピールをしました。一方日本のノン・クリスチャンに対しては、品性を備え、独自の気性を備えた人物を養成するための学校であることを強調して募金に努めました。新島はアメリカと日本では違った顔で募金したと非難されるかもしれませんが、新島は日本のコトワザにあるように、「人を見て法を説」いたのでありました。これはクリスチャンとして別に恥ずべきことではありません。私はその根拠を使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙一の中に見出す者です。 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(九章一九―二三節) 新島もまた、キリスト教主義教育のためには何でもする覚悟でした。愛する祖国日本に福音を宣べ伝えるためには、何でもする覚悟でした。新島もまた、相手次第でスタイルを変えていきました。その相手を獲得して、あわよくば、福音にあずからせるためです。こういう人は他人から誤解されることがしばしばあります。新島は自由民権論の全盛時代に、時の自由党総理の板垣退助に手紙を出し、「新心」を抱いた「新民」となられるよう、しかもそれにはキリスト教によるしかないことを熱誠こめて説きました。しかし同志社大学を創るための募金については、右翼の親玉である、福岡の頭山満にまで、協力を要請する人でした。他人から誤解されることを恐れていては、福音を宣べ伝えることはできません。立派な大学を創ることもできません。ラットランドのアメリカン・ボードの大集会で聴衆の前に立ったとき、新島は暗黒の中に辛吟する祖国の三、三〇〇万人の同胞のことを思って、さめざめと涙を流した、と書いています。私たちははたして、祖国の福音を聞く機会のない同胞のことを思って、泣くことができるでしょうか。私たちが泣くとすれば、それは単に淋しいからにすぎません。 私の結論は明瞭であります。新島は策士ではありません。神に身を預けてしまった人は、策士であることはできないのです。私たちはこれから先、新島襄の生き方にまだまだ学ぶ必要があります。新島に盲従する必要はありません。新島に批判的に、しかし謙虚に学ぶ、このことを新島自身は最も望んでいると、私は確信いたします。 二〇〇五年十一月八日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録 |
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