奨励

教わり教え教えられ―同志社ラグビーとともに

岡 仁詩

同志社大学名誉教授

奨励者紹介〔おか・ひとし〕  

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケの信徒への手紙一 五章一四―一八節)


Something different

 ラグビーを通じて学んだことをご紹介したいと思います。今年の正月、全国大学選手権の準決勝で早稲田に負けました。その時に東京国立競技場のスタンド下の通路で田口賢司さんに会いました。本年の芥川賞候補に挙げられた一人です。Jスカイスポーツの制作局の制作部長をしています。私が学生部長の時に、彼は学友会のリーダーで、私とまともに対峙していた学生でした。ラグビーが好きだったようです。その彼が「やはり同志社はSomething differentでなきゃー、ですよね」と声をかけてくれました。私はとっさに、「うん、さすがに上手いこと言うな、その言葉をもらったよ」と言いました。

 観ておられる方に、同志社は何かをやりそうだぞという感じを与えるときが強いのかな。今はそれがないのかな。何か変わったこと、それが戦略戦法に限らず、戦う姿勢、観ている方にアピールする、感じさせる何かが同志社になかったのかと思います。それが田口くんの言うSomething differentということですかね。同志社には勝敗を乗り越えた何かを常に期待されているのかもしれません。

八月十五日終戦、十六歳の時

 今年は第二次世界大戦の終戦六十年です。一九四五年八月十五日に終戦の日を迎えました。それまで日本は神国。そしてアメリカ、英国は鬼畜米英であると徹底的に叩き込まれていました。ところが実は日本は帝国主義の侵略国であり、米英は民主主義、自由主義国家であると、八月十五日を境に、今まで神国日本と言っておられた方々が言われたのです。私は十六歳、多感な時です。ショックでした。自決を考えました。まさかと思われるでしょう。その当時私は大阪に住んでいました。空襲があると側で人が亡くなっていきます。中学四年、勤労動員で町工場に行っていた帰り道では、市電の軌道両側の家が焼け、亡くなった方がそのままになっているような状況の中を歩きました。そして特殊潜航艇、真珠湾攻撃の時に一人乗りの潜航艇で軍艦にぶつかっていく、今、自爆テロと言われていますが、戦争であれば、それはテロとは言われないだけです。神風特攻隊は飛行機で軍艦にあたる。その方たちが軍神と崇められる。そうした状況下で死ぬということがそんなに怖いことではなくなっていました。とんでもない所で起きていることではなしに、すぐ周囲で起きていること。自分でもそれは何でもないという気持ちでした。

 今から考えると世界を知らなかった。いわば思想の鎖国状態と言いますか、統制された思想の中で、「右向け右」と言われたら即座にぱっと右を向く。そして国のため、天皇のために「身命を投げ打つ」。戦時中だけでなく、戦前からの言葉です。号令一下ではもちろん、自分の意思としてもそうすることが国のためであり、そして自分の使命だと当然のことのように思っていました。

 「滅私奉公」、私欲・私情を捨てること。個人の利害を考えないで、天皇、国家社会に尽くす。これはその頃中学生の私たちにも教えられた言葉で、自分の生きる道であると思っていました。個人が国家という組織のなかに埋没していました。

 しかし八月十五日に「それは全部嘘だ。本当は違うのだよ」といきなり言われました。何を信じたらいいのか、そしてこれからどうなるのだ。戦争に負けた、アメリカ兵が上陸してくる、どうするのだ、何を考えたらいいのだ、今までとあまりにも違いすぎて自分で考えることができなくなっていたのですね。こうしろと言われたら、そうする。命令されたことをやる。やるというのは自分の意志ですけれど、それはそのように叩き込まれ作られた意思でもあるわけです。だから自分で考えて判断することは少なくとも私はできなかった。

 ただ、うろうろしていたということです。そして九月から四年生の(今の高一)、二学期です。三年生の二学期から四年生の一学期までは勤労動員というのがあって町工場で旋盤をかけ、製油工場で大豆油を絞っていました。授業はほとんどなかったのです。

 授業が始まりましたが、戦時中、一時、ラグビーは敵性語(英語)であるので、闘球という名前になっていました。そういう時代ですから今度は英語の授業を受けるということはなんとなくおかしな感じがしたのを覚えています。

 ふと気が付くと、裸足でラグビーのボールを蹴っていました。仲間がいてくれました。これがその時の唯一の私の支え、心の支えでもありました。それがあったから私は生きることができたのではないかとさえ思っています。

 その頃に新劇が盛んになり、よく観にいきました。ゴーリキーの「どん底」という戯曲で、仲間の一人が自殺した時に、一人が「人間は死ぬまで生きるだけなのに」と、ぽつんと呟いたのが、ものすごく私の心に響きました。

同志社でのラグビー生活

 一九四八年、同志社の予科に入学、二年になる時に、学校制度が変わり大学一年生になりました。今出川のグラウンドで野球部と一緒にラグビーの練習をしていました。当時野球部の櫟さん、卒業して阪神タイガースに行かれました、それから片岡さん、東映フライヤーズ、今の日ハムの前身に行かれました。ともに強打者で、この二人の方が打つボールは、ラグビーの練習しているところまで飛んできます。当たったこともあり怖かったなあというのも思い出です。

 その時に星名秦先生との出会いがありました。一九二八年度のラグビーシーズン、京大が同志社、早慶明を連破して、日本一になりました。その時のキャプテンで、バックスのセンター、工学部出身、まさしく文武両道のモデル、伝説的な方が星名先生です。戦後、工学部の先生として同志社へ入られ、OBがグラウンドで紹介してくださいました。私は星名先生を全然知りませんでした。白髪が目立ちかなりの年配に見えましたが、考えたらその頃は四十代だったのですね。

「シュアーキャッチ」が基本

 練習が済んで先生がおっしゃったのは「シュアーキャッチ」の一言だけでした。私たちは、格好だけは一人前で、いろいろな練習をしながらボールは落としまくっていたのだと思います。ラグビーはボールを持って、パスしキックし、そして走りまわるというスポーツですが、それでボールを落としていたのではラグビーは始まりません。当たり前のことです。しかし、練習している時にそれをどれぐらい強く感じているかが問題です。それよりもシザースをどうして、ボールをこう回してとか形の練習ばかりして、ボールを落とした時には、こらぁーと怒鳴るぐらいで、落としたのは何故かはあまり考えようとしない。

 ところがその時は、「シュアーキャッチ」って何を言っているのか、このおっさん、まだ高校二年生くらいの時分ですから、それぐらいの気持ちで聞いていましたが、私がラグビーの指導者になって、同志社でも、日本代表でもコーチをしているときに常に言っていたのは実は「シュアーキャッチ」でした。

 武道関係以外、ほとんどのスポーツは明治時代後半に外国から輸入されたものです。特に英国のスポーツ、ラグビー、サッカー、テニス、ボート、そしてアメリカからも野球などが輸入されました。初めてする時に、ラグビーはこうパスして、それをこう受けて、そしてボールを持ってこう走って、こうするんだ。フォワードは八人でバックスは七人。これもルールでは決められていなかったのですが、オックスフォード大とケンブリッジ大が開発したフォーメーションが、世界の流れとして日本へも紹介されたことだったのです。

 野球も、こう投げるのだ、キャッチングはこう両手で受けるという形を初めに教えられました。形を教えられているのに、それが基本だと思ってしまうわけです。日本のスポーツの一番弱点だったのではないかと思います。形を基本だと思うから、発展していく可能性を一つの形の中に入れてのみ考えることになります。

 最近、野球のバッティングフォームは、がに股ですごい格好で打つ選手から、バットを寝かして打つ、大上段に振りかざして打つ、オープンスタンスやクローズドスタンスなどいろいろなフォームが見られます。ボールを打つためにどうしたらいいのか、身長の高低、肥満型か、スリムか。自分はどうして打つのがいいのかということを考えてそのフォームを作り出したということでしょう。

 一つの形を基本のように思うと、その形が身につくように練習しなければいけないと考えます。それが束縛になって、自由な発想、創造、発展の可能性をなくします。

 スポーツのコーチングで一番大切なのは、基本とは何かを分析する能力です。たとえば野球のバッティングフォーム、ラグビーのいろいろなパスプレー。それらを分析して最後に残ったものを基本として、そしてどのような方法で練習するのかだと思います。

 繰り返しますが、形を基本だと間違えてとらえられているのは日本のスポーツの中には多かったように思います。

自主性を引き出すコーチング

 同志社OBの平尾誠二にある時、「バックスのコーチは同志社のOBの中で誰がいいかな」と聞いたら、「浦野さんでしょう」と答えました。浦野は一九六八年卒業の同志社高校出身の選手です。それを聞いてなるほどと思いました。「鬼ごっこのうまいのがバックスの選手として一番いい」と言ったのは奇しくも浦野と平尾であり、二人とも名プレーヤーでした。

 鬼ごっこは捕まらないように、体をかわす。そのための相手との間合いをとる、かわすタイミングがある、いろいろな走り方がある。鬼ごっこの中にラグビーに必要なランニングの要素があるわけです。

 イングランドのコーチングテキストの中に、鬼ごっこでボールを持たして追いかけるような練習方法がありました。鬼ごっこが、ラグビーのランニングの基本に通ずることに日本では考えが及ばない。イギリスのコーチングテキストにあると、やってみる。そして鬼ごっこと似ているなというようなことになる。基本とは何かをちょっと考えればどんどん発展していくのに、考えない。ただ教えられた一つの形をこなしていこうとするところに日本のプレーの限られた、可能性の少ない、面白さが少ない、創造性が生まれなかった原因が感じられます。

 先日、平尾がコーディネーターの毎日新聞のコーチングセミナーで、日本のラグビーの現状として、彼は「戦略という雛形に頼りきっていることが弱点。刻々と変わる状況に対応するために、選手にものの見方や思考の工夫を身につけさせることこそコーチングである」と言っています。

 ものの見方、それはラグビーをしている時だけに付くものでなく、日常の生活、学校生活、そして家庭での生活、グラウンド以外の生活の中で、ものごとをどのように感じ、そして考え、自分で判断して行動するかが大切なのです。ラグビーの中で一つのことに対する見方でも、こちらの角度から見たらこうじゃないかと少し考える姿勢が必要です。何かがあった時に、これはこういう見方もできるのだよとコーチングすることで、ものの見方を啓蒙をすることが必要だと、平尾は言っているのだと思います。そしてやる気を高め、自主性を引き出す助言の方法が大切です。

 私が平尾を指導していたとき、平尾はこうしろと言われたことはないと言います。選択肢を与えられた。右か左かどちらがいいか、どの方法がいいか考えろと言われた。そうして考えていたら、それならこういうこともあるじゃないかということが出てくる。プレーのやり方、幅が広がります。私がこうしろ、これはこうだ、と決め付けて言うとします。私のラグビー経験、もう五十年以上になります。平尾の時代でも三十年以上のラグビー経験、研究もしました。星名先生にもいろいろ教わりました。それを四年間で叩き込もうとしたら、学生はそれだけで頭がいっぱい、することもいっぱいになります。そうしたら平尾のような素晴らしい能力を持った選手を抑え込んでしまって、岡のラグビーという形の中だけでやらしてしまう。平尾が岡のラグビーから外へ出ないかもしれない。四年間それで精一杯になるということです。こんな怖いことはできません。人間の持っている能力をどのように開発していくかというときに、それを抑え込む、偏った理屈でどんどん抑え込んでやらせるということになると、これはまさに私の中学生時代、戦時中に思想を統制されたのに近いような状態になるのではないでしょうか。だからこうやれという言い方は私にはできなかったのです。

 コーチングで自主性を引き出すというのは、何も知らないのにいきなり何でも自分で考えてやれというのではなく、選択肢を与えていく。それは二つであり、三つであり、そしてその中で四つ目を自分自身で考えるようになる。そういうコーチングは大切です。個人が考えて、判断して、行動する。そして責任を持つということを知ります。

自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ

 星名先生からいろいろなことを教わりました。今はルール上、スクラムは八人でしか組めませんが、当時のルールでは十人でスクラムを組んでもいいのだよと。スクラムの強さが試合を大きく左右することから考えられたのですが、私たち(学生時代)には、全く思いもつかないことで、驚きでした。要するにルールをよく理解すれば何でもできる、決められた形はないということです。

 最近よく股の下からボールをポーンと放るのを見ます。それを五十年前に股の下からボールを放ったらいいのだよと教わりました。フォワードが固まってボールの奪い合いをして奪ったボールを、早く相手の少ないところへ展開していきたいという時、そのボールを拾った瞬間の体の向きによって、股の下から放るのが一番早いということならそれが良い。今求められているのは、綺麗なパスではなく、早くボールを、とにかく早くボールをという、そのためにはどうしたらいいのかということなのです。それをパスはこうするのだという形で教えられてしまうと、その時になってもそういうパスをしようとして、時間がかかって潰されてしまいます。いつも股の下からがいいのではなく、今は何が要求されているのか、どういう方法がその時に一番いいのかという判断が大切なのです。

 同志社で私の一年上に門戸という日本代表になったスクラムハーフがいました。彼は学生の時から、股の下から面白いように放りました。新しいこと、なるほどと思えばすぐにそういうことをやろうとする、そういう雰囲気がその頃の同志社にもありました。私はその雰囲気が必要だと思います。何でもできるぞ、そしたらこれをやろうかということ、これが一番同志社として必要な雰囲気ではないかなと思います。

 ラグビーは手も足も使えて、ボールを持って自由に走りまわる。危険でなければどんな方法ででも防御できます。

 自分で今、何をするべきかを考えて判断して、そして行動をする。そのことに自分自身で責任を持つということの大切さをラグビーは教えてくれます。

 二十年以上前、当時のフランスで映画俳優よりも人気のあったジャン・ピエール・リブという金髪のラグビー選手がいました。今は彫刻家になっています。「ラグビーは少年を早く大人にして、そして大人にいつまでも少年の気持ちを持たせる。これがラグビーというものだ」という彼の言葉があります。ラグビーはある種の興奮状態の中で今何をするべきかを判断する冷静さ、高ぶる感情の中で理性ある行動を要求されます。これが少年を大人にしていくわけです。そしていい年をした私たち年配の者でも、スタンドで観戦しながら、先輩方やファンの方々と、グラウンド上で展開されているスクラム、モールで押しあっている場面になると、隣同士、無意識に押し合いをしています。膝と膝、肩にも力が入りきっています。そして勝った、負けたで涙を流さんばかりです。こんな気持ちになるのは少年の気持ち、大人が本当に純真な気持ちになって、涙が流せるぐらい喜んだり悲しんだりします。それがラグビーにはあるわけですね。リブの言葉は私も好きな言葉です。

同志社の三連覇の時

 同志社が三連覇した最初の年、阿部慎二キャプテン(一九八三年卒)の時です。大接戦で明治に勝ちました。その試合で、明治の選手が倒れてしばらく起き上がれないという状態が八十分の試合中に何回かありました。私はよく倒れるなと思ったくらいでした。試合終了後、ある方が「岡、同志社は一回も倒れなかったな、明治は十七回だよ」と言われてびっくりしました。私は試合を見ている最中、あそこでこうすべきだ、ああしたらとか思っていましたから、そこまで気が付かなかったのです。

 宿舎へ帰ると、東京のOBと校友の方が祝勝会を用意してくださっていました。キャプテンの挨拶といった時に阿部キャプテンはいません。試合の後、ファンクションではみんな元気でワイワイとやっていました。ところが宿舎に戻ってから「阿部は高熱のため救急車で東大病院へ運びました。病院からの連絡ではちょっと安静にして、念のため今晩一晩泊める。しかし心配したことではないということでした」と、そのときにマネジャーから聞きました。調べてみると三人ぐらい部屋で熱を出して氷枕で寝ています。これには感激しました。グラウンドであれだけ頑張ってその後、公式の明治と協会の人を含めてファンクション、そのときはまだみんな緊張感があったのでしょう。そして帰ってから緊張感がほぐれて、一度に疲れが出たのでしょう。胸が熱くなりました。

 人間の心理的な限界は、生理的限界の六〇パーセントぐらいだといわれます。グラウンドを走っていてもう駄目だ、もうもたない、もうひっくり返りそうだと思った時は、自分の限界の六〇パーセントくらいが普通なのです。

 心理的限界を生理的限界にどこまで近づけるかが、いわゆる頑張りであり、精神力といわれるものでしょうか。私は精神力という言葉を使うのはあまり好きではないのですが、このときは精神力以外に言葉はありませんでした。

闘争心と集中力

 三連覇の最後、中村剛キャプテンがシーズン半ばで怪我をして平尾がキャプテン代理の時です。慶應と大接戦で勝ちました。新聞は、慶應の精神力、気迫というものをものすごく称えていました。同志社はまるで気迫がなかったように、精神力が劣っていたようにその表現からは聞こえました。

 確かに慶應はすごかったです。猛烈なスクラムの押し、そして低いタックルにたじたじとしました。しかし同志社には平尾、土田を中心に優れた技術、高度の技術というものがありました。その技術が最後まで集中力を衰えさせなかった、気迫を持たせました。だから勝ったのです。

 精神力が技術を支える。優れた技術が精神力を支える。精神力や根性さえあれば何でもできるかのようにスポーツの世界ではよく言われることがあります。根性だけで備わっていない技術まで発揮されるはずはないのです。

 平尾はうまいこと言います。精神力とか、ただ頑張れという言い方は好まないようです。

 彼は「闘争心と集中力、これを八十分間持続させる」という表現をしています。一般には簡単に精神力ということだけで片付けてしまいますが、ラグビーは八十分間の闘争心と集中力があって初めて技術が最後まで発揮されるのです。

 私は先輩、学生たちから多くのことを学びました。教わることが多かったラグビーとの付き合いです。

形のないのが同志社の形です

 新島襄の遺言の中に、てき儻不羈(てきとうふき)という言葉があります。

 大谷総長が昨年の同志社スピリット・ウィークの「『生き方』論」の中で紹介されています。信念と独立心に富み、才気があって常軌では律しがたい、こういう学生が、新島襄のいうてき儻不羈なる書生である。学生を圧迫しないで、できるだけ彼らの本性に従って個性を伸ばす、それがてき儻不羈であると言っておられます。

 個性をなくしてはいけないということですね。

 私はラグビーもそうだと思います。個性を十分に伸ばすような雰囲気でなければいけない。チームプレーという名のもとに個性が死んでしまっては何にもならない。それぞれの個性を十分に発揮して、それが集合体となった時に、その個性が増幅されて素晴らしいチームができるというのが理想だと思います。

 新島先生のおっしゃっているてき儻不羈なる書生、それは同志社に集まった学生です。それを圧迫しないで、抑えないで、その個性を十分に発揮できる環境を目指しているのは同志社だと思います。同志社のラグビーもぜひそうであって欲しいです。集まる選手の個性によってチームの戦い方が自然と変わってくる。だから年々歳々戦い方が違う。同志社の形は何だと聞かれた時に、「形のないのが同志社の形です」と言いたいですね。

 形にとらわれず伸び伸びと自由に、思い切ってやっている、それが現れたときに、Something different 何かやってくれそう、よそと違う何かがあるということじゃないかなと思っています。

 てき儻不羈なる書生が国立競技場で伸び伸びと戦って、私らが同志社チアーズを思いきって叫ぶようにしてください。ラグビー部に期待しています。

二〇〇五年十一月九日 同志社スピリット・ウィーク
京田辺チャペル・アワー「奨励」記録

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