講演

同志社を同志社たらしめた青年たち

原 誠

同志社大学神学部教授
日本キリスト教団正教師

講師紹介〔はら・まこと〕 〔研究テーマ〕
日本とアジアのプロテスタント・キリスト教会の歴史

学校の主役としての学生

 学校が真実の学校になるためには、良い教師、職員、さらに立派な施設・設備が必要であることは言うまでもないが、私の個人的な認識で言えば学校が真実の学校になるためにはなによりもまず学生が必要であり、学校にとっては学生が主体であって、学校の主役は学生そのものであると思う。

 一八七五年十一月二十九日、同志社英学校は八人の学生で始まって今年創立一三〇年を迎えるが、この八人はだれひとりとして卒業できていない。学生のレベルもマチマチで新島は非常な苦労と困難の中で同志社を開学したものの、いつまで存続できるか全く不明であった。その状況下、同志社英学校開学の翌年に熊本から多くの優秀な学生が入学してきたことによって、実に同志社は真実に同志社になった。今日はその青年たちのことについて紹介する。

L・L・ジェーンズと熊本洋学校

 明治政府は薩摩、長州、土佐、肥前を中心に形成された。それを薩長藩閥政府という。これらの藩は外様である。熊本も同様に外様の藩であったが、明治政府の樹立に貢献しなかったので政府に位置を占めることができなかった。起死回生を目指して熊本県は人材の育成を目指して医学校と洋学校の設立を決定した。こうして一八七〇(明治三)年十一月、熊本県は二つの学校を設立した。医学校では教師としてマンスフェルトを招いて開学し、ここから後に世界的な細菌学者となった北里柴三郎が学んだ。

 洋学校は、L・L・ジェーンズ大尉(漢字の当て字は「善斯(ゼンズ)」)というアメリカの陸軍士官学校出身で、南北戦争の時に北軍に従軍し、戦後、農業をしていた人物が招聘されて夫人と子どもを伴って来熊してスタートした。生徒は身分に関係なく優秀な生徒を集めた。ジェーンズは、一年目はスペリング、リーダー、グラマーを教え、一年間で原書が読めるように厳しく指導した。毎回、小テストを行い成績が悪いものはビシビシ退学させた。成績の優秀な生徒を今日で言えばティーチング・アシスタントにして授業を進めた。

 ジェーンズは、自分が受けた教育の方法をそのままここでも踏襲し、軍隊式に厳しい学校生活を要求した。生徒たちは起床、就寝、食事などもすべて「鐘」の合図で行動した。頭脳優秀で、自分たちの能力を毫も疑わなかった生徒たちの最大の関心は、将来、自分たちで組閣すること、国家を支配すること、これが彼らの夢であった。

 しかしジェーンズは官僚が大嫌いであった。ジェーンズに言わせれば、国が豊かになる、立派な国になる、ということは、物が豊かに生産され流通し、そして消費される、そのような国を造ることだったのである。ジェーンズのこの考えによって学生たちの関心が、官僚、大臣になることよりも、いわゆる「殖産興業」ともいうべき、産業の育成、すなわち土木、建築、機械、築港、造船などの「実学」が大切であるとの認識に変化していった。

 さらにアメリカの歴史、アメリカの独立の歴史、奴隷解放の為の戦争を行なった国、そのようなアメリカを知るようになり、儒教をジェーンズに伝道すらしようとしていた学生たちの認識が徐々に変化していった。しかし、その段階では、まだ彼らは西洋文明の根底となる思想、宗教、すなわちキリスト教という教えがあることをまだ知らなかった。

 学生たちは、たとえば「音」は空気の振動によって起こるということを物理学を学んだことを通して知るようになる。音の最低の振動は一秒間に十六回、最高が四万八千回であること、そのなかで男の声の最低が一九〇回、最高が六七八回、女の最低の振動が五七二回、最高が一六〇六回であることを知る。そうすれば人間の耳には聞こえない振動、音の領域があることを知る。この音はなぜ存在するのか、何のために存在するのか、これが生徒たちの新しい疑問、問いとなっていった。同様に春、種を蒔けば、必要にして十分な条件が整えば、秋に収穫できる、その根本はなぜなのか、という生殖の秘密に神秘を感じはじめる。

「聖書を読む会」から「奉教趣意書」へ

 ジェーンズは、生徒たちの学力水準、知的な認識能力が上がったところを見計らって、土曜日、自宅で「聖書を読む会」を始めること、これは自由な参加であることを伝えた。もともと国粋主義的な、また封建的な思想が強かった熊本、後に「神風連の乱」をひき起こす風土であった熊本で、このような営みは生徒の中でも混乱をひき起こした。そのような混乱をひき起こしつつ、一部の生徒は「聖書を読む会」に出席しはじめる。

 後、同志社の総長になった海老名喜三郎(弾正)は、聖書を読む会の終わる度にジェーンズが「祈り」をもって終わる、そのときに目を見開いてその「祈り」を興味津々で凝視していた。そして彼はジェーンズに「なぜ、祈るのか」と質問した。そのときジェーンズは「祈りは人間として当然果たすべきつとめである。創造者(God)に対するObligation(義務)だ」というのを聞いて、後に「心に光が差し込んだ」と述懐している。

 このようななかで一八七六(明治九)年、日曜礼拝が始まり、これに出席するようになった生徒たちは、礼拝後市内の花岡山に上り、自分たちの精神的変化を互いに語り、告白しあった。当初は官僚になるために学ぶということが、国のためには「実学」を学ぶべきだと変化して行ったこと、さらにそのような西欧文明の根拠であるキリスト教を知ること、これを学ぶことこそがわれわれの使命である、という価値観、世界観の変化である。

 彼らの熱意は沸騰点に達した。一八七六年一月三十日、ついに彼らは自分たちで文章を起草した「奉教趣意書」を花岡山で署名して、「信仰」を表明するに至った。起草したのは坂井禎甫、古荘三郎の二人といわれている。

熊本から同志社へ

 生徒たちのこの決意は、家族や周囲に大きな衝撃を与えた。没落しかけていた「家」の再興を息子たちに期待していた彼ら生徒の親たちは、あろうことか「ヤソ」になったのだから。二五〇年の徳川時代は一貫してキリスト教は「邪教」であった。だから親たちは息子たちに「棄教」させようとした。あるものは自害を迫られ、あるものは座敷牢に入れられ、聖書を初め英語の本は火に投げ込まれた。ジェーンズはこの混乱の中で契約を破棄され、洋学校も閉鎖されることになった。

 その前年に京都に同志社英学校が開学していたことを知っていたジェーンズは、この状況下に新島とともに同志社で教えていたデイヴィスに事情を説明し、事後の教育を同志社に託したい旨を書き送った。前年十一月に開学した同志社英学校は、いつまで存続できるかどうかまことに不安定な状況であった。ジェーンズからの手紙を受け取ったデイヴィスは、その書簡を受け取って、その時のことを後に「天からの光に接した」と回顧している。

 こうして生徒たちは、周囲からの「迫害」にも負けず、多くの生徒たちは家を脱出してその多くが同志社英学校に入学してきた。一八七六年の春以降のことである。こうして京都の同志社には、熊本弁を話す頭脳優秀な学生が学びはじめた。

新島と学生たち

 当時の教師は新島襄とデイヴィスであった。正確に、そして正直にいえば、新島はアメリカの大学を正規に学位を得て卒業した日本人第一号であり、さらに大学院にあたるアンドーヴァー神学校で学んだ人物で、当時、考えられうる最高の教育を受けた人物でありながら、にもかかわらず、正確な意味でいえば彼は学者ではなかった。ある学生が授業のなかで新島が用いている参考書を知るや、その見解とは異なった立場の文献を調べてきて、授業中に新島に質問し続け、ついに新島は当惑してしまうという状況になったこともある。教師をいじめたのだ。それは第二代、同志社社長になった小崎弘道である。彼は新島を窮地に追い込んで快哉を叫んだ。しかしそのような彼らも、人間としての新島には真実、心から心服し敬愛の情をもって尊敬した。

 このような学生によって、同志社は真実に同志社になった。

二〇〇五年十一月九日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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