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新島襄と良心教育
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。 (箴言 一章一-七節) 同志社を支えてきた教育理念約十年のアメリカ滞在から「教育こそ文明の源である」という信念を抱いて帰国した、キリスト教の牧師でありアメリカン・ボードの宣教師でもあった新島襄は、当時、京都府の顧問であり、後に彼の義兄となる山本覚馬の支援と、アメリカン・ボード派遣のアメリカ人宣教師デイヴィスの協力によって、一八七五年十一月二十九日午前八時、六人の生徒で同志社英学校開設の祈祷会を開き、真剣な祈りを捧げてから、授業を始めたといわれます。同志社という校名は、山本覚馬の発案で、「目的を一つにする同志の結社」という意味として名づけられ、こうして、同志社は、キリスト教を教育の理念として、出発したのです。 しかし、同志社開設当時、京都では京都仏教会を中心に、反キリスト教的な市民感情が高まっており、新島は、キリスト教排撃運動に大いに悩まされます。そして、第二次世界大戦の戦時下では、同志社は右翼政治勢力などによる弾圧・妨害を受けることになります。加えて、深刻な学内の対立・紛争という危機・苦難に度々遭遇するのですが、先輩たちの英知と献身的な努力によりまして、今日まで、同志社は歴史と伝統を築き上げ、「地の塩」「世の光」となった、多くの有為な人材を世に送り出してきたのでありまして、今年は創立一三〇周年の記念すべき年となったのであります。 この歴史と伝統を支えてきたのは、「良心教育」の教育理念であるとするのが、同志社関係者の理解であります。同志社大学今出川キャンパス正門の良心碑は、一九四〇年十一月二十九日、同志社創立六十五周年を記念して建立されたものですが、そこに刻まれている「良心之全身に充満したる丈夫の起り来らん事を」という一節は、同志社教学の理念を象徴するものであります。この一節は、新島が同志社普通学校の生徒「横田安止(やすただ)」に宛てた手紙の中に書かれていた「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を望んで止まざる也」から取ったものでありまして、同志社の教育理念を端的に示した言葉として、しばしば引用されるものであり、同志社教育のモットーであるとされてきました。文字通り同志社建学の精神とされてきたところであります。また、同志社の同志社たるゆえんも、この良心教育にあるといってよいと思います。 良心教育とキリスト教主義しかし、「良心教育の具体的な中身は何か」ということになりますと、必ずしも明快なわけではありません。そこで、新学期を迎え、もう一度良心教育について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。 同志社の教育理念は、キリスト教主義、自由主義または自治自立主義、国際主義の三つに集約されるのですが、その基礎となっていますものは、言うまでもなくキリスト教主義であります。学校法人同志社の憲法とも言うべき「寄附行為」の第二条には、同志社は、「キリスト教を徳育の基本とする」と謳われているところであります。そのため、同志社はキリスト教の伝道を目的とするミッションスクールではないかと誤解されている人も多いようです。 確かに、同志社創立の当初は、学校の経営はアメリカン・ボードと称するキリスト教伝道団体(ミッション)が握っていたのでありまして、現在の今出川校地への進出もアメリカン・ボードが決めたのです。また、ボードは、学校で聖書を教えることができないのであれば、廃校もやむをえないと考えていたのでした。しかし、新島は、念願の大学設立を目指して、自治自立の精神にたって、ボードからの独立を果たしました。新島は、その間の事情をこういっています。 「もしも同志社大学の設立をもってキリスト教を普及させる手段とか伝道師養成の目的とみなす人がいたら、それは私たちの考えを理解しない人たちである。私たちの志すところは、さらに高い。私たちはキリスト教を広めるために大学を設立するのではない。ただ、キリスト教主義には、本当に青年の精神と品行とを磨く活力が備わっていることを信じて、この主義を教育に適応し、さらにこの主義でもって品行を磨く人物を養成したいと願うだけである」と明言しています。 只今のように、同志社は、キリスト教主義の学校ではありますが、キリスト教の伝道を目的としたミッションスクールではないのです。しかしながら、新島は「キリスト教主義をもって教育に適用し、さらにこの主義をもって品行を陶冶する人物を養成しようと」したのです。こうして打ち出されたのが良心教育ではないかと、私は思うのであります。 それでは、新島がいう良心教育とは、どのようなものなのでしょうか。新島は、教育は一国の大事業であるという考え方で、「一国の良心ともいうべき人物」を世に送り出すことを大学設立の目的といたしました。具体的には、「道徳心を磨き、品性を高め、精神を正しく強めるように勤め、ただ、技術や才能ある人物を育成するだけでなく、いわゆる『良心を手腕に運用する人物』」の養成を同志社教育の理念としたのです。 では、「良心を手腕に運用する人物」とはどんな人を言うのでしょうか。彼は言います。「それはただ、キリスト教の神を信じ、真理を愛し、他人に対する思いやりの情に厚いキリスト教の道徳によって、『一国の精神となり、活力となり、柱石となる人物』である」。こうして、良心教育とは、「キリスト教」を身につけた人間を育てる教育、神を信ずる人物を育成することを徳育の基本とする教育であるということになります。 このように、新島は良心教育の基礎として、キリスト教の神を信ずることに求めているのですから、良心教育とキリスト教教育とは同じということになるはずです。本日、私が問題としたいと思いますのは、まさに、この点であります。 新島は、なるほど「キリスト教の信仰が人の徳性を涵養し、その品行を高尚ならしめ、その精神を公明正大ならしめる」のであり、そこにキリスト教主義を徳育の基本とするゆえんがあると言っています。しかし、ここで注意しなければならないのは、キリスト教ではなく、「キリスト教主義をもって徳育の基本とする」としている点です。そして、同時に、キリスト教主義を良心教育と言い換えている点に私は注目したいのです。と言いますのは、新島が言うように、良心教育にとって、キリスト教の神を信ずることが欠くべからざるものであるとしますと、キリスト教を信じない人には良心教育は適しないということになるはずだからであります。 もちろん、新島はキリスト教の信仰を教育の原点に置いていることは疑う余地がありません。彼が、大学を作るのと平行して教会を作り、牧師活動に熱心であったことは、そのことをよく物語っています。しかし、彼がキリスト教教育とは言わないで、キリスト教「主義」教育とか「良心教育」を標榜したのは、キリスト教の信者にとらわれず、一般の青年にも良心教育を適用すべきだと考えたからではないかと思うのです。また、そう考えた方が筋が通るように思うのです。彼がいみじくも指摘していますように、当時、キリスト教を信じない人も良心教育には共感する人が増えていたのです。そして、多くの同志社人が、キリスト教には入信しないけれども良心教育には共鳴しているのも事実であります。 「良心とは何か」それでは、キリスト教抜きの良心教育は可能なのでしょうか。その答えを出す前に、そもそも良心とは何かについて考えてみたいと思います。 「良心とは何か」という問題は、ソクラテス以来、さまざまに論議されてきました。キリスト教神学でも良心論は活発でした。しかし、そうした哲学的・神学的良心論はしばらく措くことにしまして、普通、良心というときは、「何が善であり、何が悪であるかを知らせ、善を命じ、悪を斥ける個人の道徳意識」であると定義されています。そして、良心の働きとは、自分自身の善悪の判断を決めることであるとされています。ちなみに、こうした道徳意識はどうして人間の心に生まれるのか、その根底は何かについても、随分と議論されてまいりました。ソクラテスは、これを「ダイモニオンの声」といったのですし、キリスト教は「全能の神」、哲学者カントは、「私の内にある道徳法則」すなわち道徳的世界秩序といったのです。しかし、その根底がいずれにあるとしましても、人間の心の中に、善と悪とを区別して、善を選び悪を斥ける意識が誰にも備わっており、常にそれが働いていて私たちの行動を規律しているという点が重要なのではないかと思います。その心または意識がまさしく良心ではないかと思うのであります。したがって、人間のモラルや倫理、あるいは善や悪に結びつく行動には、常に、心の法廷としての良心が働き、自分は何をなすべきか、また何をなしてはならないかについて答えを求められている。その答えに誠実に従い、勇気を持って実行することが良心的行動だということになります。逆に、善悪の判断ができない、あるいはできてもそれに勇気を持って従うことのできない人が非良心的な人ということになります。 そうだとしますと、大切なのは、まず、何が善であり正であるか、何が悪であり不正であるかを自ら判断する能力を確保することなのではないか。あることが善であり悪であるかは、時代や国、場所によっても異なってきますし、状況によっても違ってきます。したがって、良心的行動にとって最も大切なことは、行為の時点で、正しい判断、善悪の判断を的確にできる能力を養うことであります。それが教養であり、リベラルアーツではないか。いずれにしても、理性を持っている人は、自ら培った教養に従って、正邪の判断をし、その選択に従って行動できる能力を持っていると思います。それが良心の声であります。その良心の声に従って、誠実かつ勇気を持って実行に移すことが良心的行動であると思います。もちろん、すべての判断がそうである必要はありませんが、良心を手腕に運用するということは、「人間の生き方として善悪の判断が問われるような場合には、自分の行動を批判的に反省し、良いか悪いかについて、迷い苦しみながら独自一己の見識をもって判断し、勇気をもって、悪を捨て善を選択し、行動する」ということではないか。そして、良心の声に従って選択したとき、人は大いなる満足と喜びに浸ることができ、それに反する選択をしたとき、人は良心の呵責に悩まされるということではないか。その良心的行動から生ずる満足感と幸福感、その反対に、良心の呵責に苦しむ不幸、これこそが良心的行動の基礎ではないか。 一国の良心とも言うべき人に・・・以上が、私の理解する良心ないし良心的行動でありまして、このような行動を取れる人が、まさに「良心を手腕に運用する人物」であり、「一国の良心とも言うべき人」ではないかと思うのであります。新島は、こうした人物は、単に知識を教えるだけの教育つまり知育だけでは駄目であり、キリスト教を基本とする「徳育」が必要だとしたのであります。確かに、祈りを通じて神の声を聞き、『神の愛』に導かれて善悪を判断する心、これこそが良心であり、したがって、理想的な良心教育とは、「神の愛と正義とを身につけた人間を育てること」を内容とすべきでありましょう。しかし、キリスト教の信仰を持たない人も、社会生活上の正義、倫理・道徳における善悪について、これらを学習によって修得し、判断することは不可能ではありません。現に、キリスト教の信仰とは関係なく、社会生活上のさまざまな分野で良心的な行動が展開されていることは申すまでもありません。つまり、キリスト教の信仰を持たなければ、同志社の良心教育は成り立たないというわけではないということであります。そして、同志社の同志社人たるゆえんは、社会正義を重んじ、善を尊び悪を斥ける道徳に強い人であるという点にあると思うのです。 大切なことは、人間としての生き方として、「仰いで天に恥じず、伏して地に恥じない」公明正大な人間を、教育によって排出することであると思うのです。その意味で、同志社の学生は、豊かな教養を身につけ、それに基づいて善悪の判断を的確にし、勇気をもって良心的行動に徹する努力をし、倫理・道徳に強い人になって欲しい。そうなることが、喜びにあふれる生活を導き、「一国の良心」となり、本当の意味での幸福につながると思うのです。 二〇〇五年四月十三日 同志社スピリット・ウィーク 京田辺チャペル・アワー「奨励」記録 |
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