奨励

同志社人との出会いと支えによって、救われた私の人生

谷口 明広

愛知淑徳大学教授

奨励者紹介〔たにぐち・あきひろ〕  

 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように赦し合いなさい。

(エフェソの信徒への手紙 四章二五-三二節)


私の生いたち

 私自身がちょうど五十年前に生まれました。まだまだ、障がい者差別が当たり前のように行われていました。「差別」という言葉さえ、あまりなかった時代です。なぜかと言いますと、差別は当たり前だったからです。

 私が生まれたときには、長男の長男ということで、初孫で生まれました。私は京都で生まれましたが、父方の祖母が典型的な京都人でした。京都人ってわかりますか。私は、現在、京都に住んでいますが、京都はすごく見栄を張る文化があります。お公家さんの文化です。

 うちの祖母は、全然、お公家さんでもありませんでした。しかし、気分はお公家さんでした。だから、私が生まれたときに男の子だったもので、最初は、ものすごく喜びました。そして、私の母にも「よくやった、あなたは偉い、よく跡継ぎを生んでくれた」とすごく喜んだのです。けれども、生後一週間目で、私が黄疸という病気にかかりました。黄疸って知っていますか。体が黄色くなる病気です。普通の赤ちゃんでもかかりますが、私の黄疸はものすごく重かったみたいです。母は「涙が黄色かった」といいます。汗をかいたら黄色だったと話し、白い服を朝着せると、夕方には黄色い服に変わっていたと言います。

 私の母は、おもしろい人でした。いやいや、まだ生きております。

 その母は、私のことをいまだに言います。お前は、小さいときに「赤ちゃんや」と思っていたが、実は「黄色ちゃんやった」と言って笑っています。それぐらい黄色い赤ちゃんだったそうです。それが一ヵ月ぐらいたったら、ぱたっと消えました。このときに、実は障害をもつことになったわけですね。

 しかし、両親はわかりませんよね。赤ちゃんは、もともと歩けないのが当たり前ですし、手を使わないのも当たり前、座らないのも当たり前ですよね。普通の赤ちゃんと障害をもった赤ちゃんと全く違わないのです。だから、親は全然わかりませんでした。私が自分の生後三ヵ月の写真を見ると、障害をもっているとわかるんですよ。どうしてかというと、プロですからね。うちの母親も父親も素人さんですから、分かるわけがない。それで七ヵ月たっても首が座らない。近隣で同じように生まれた子どもと、何かが違うというので病院を回るのです。けれども、どこへ行っても、今のように医学が発達していませんから、「ただ運動神経が遅れているだけなのでマッサージをしてください」と言われて、朝から晩までマッサージ、マッサージの生活でした。今考えると「無駄な抵抗」でございました。やっても、そんなに変わらなかったのです。けれども、やり続けておりました。

 一歳になったころに、母がある整形外科の病院に私を連れて行きました。診療室へ入った瞬間に、「あ、この子は脳性麻痺ですね」とお医者さんに言われました。その説明だけでは、まだうちの親は、脳性麻痺とは何か、分からないわけです。どんな障害があるか、と戸惑っていたら、お医者さんが「この子はもう歩けません、しゃべれません、物も考えられません」と言ったらしいです。

 しかし、すでにしゃべっていたらしいですよ、一歳だから。どうしてお医者さんは、しゃべれないと言ったのだろうと親は思ったのです。それ以上に「十歳までに死ぬ」と言われました。私五十歳ですからね。四十年も、どこへ行ってしまったのだろうと思っております。「十歳までに死ぬ」と言われたから、うちの母はすごいショックを受けて、私を抱きかかえて家に帰りました。そのことを祖母に話したとたんに、祖母は手のひらを返すように態度が変わったのです。「うちの家系には、こんな子は生まれるはずはない。お前の家系に決まっている」と罵倒したのです。うちの母親も気が強いので、「うちの家系にもこんな子どもは生まれません」と反撃します。私は二人の真ん中で「ほな、僕はどこの子なんや」と思っていました。そういう争いが続くわけですよ。

 そのときの祖母は、私を「絶対に外に出してはいけない。人目に触れさせてはいけない。外の人に会わせてもいけない」と言いました。けれども、うちの母は、五十年前にしては非常に新しい考え方といいますか、「こんな子だからこそ、外に出さなきゃいけない」と思っていたそうです。しかし、やはり祖母の意見が強いわけですよ。そしたらずっとずっと家の中に閉じ込められることになる。

 私が幼児期には歩行器に乗っておりまして、外に行こうと努力します。うちは酒屋をやっておりまして、お店に必ず祖母が座っています。私は奥の部屋から出て、そこを通り過ぎるときに、こっそり通ろうと思うのですが、障害をもっていますので、びんにぶつかったり、いろんなものにぶつかったりして、音を出すわけですよ。そうしたら、祖母は私に飛びかかって来まして、私を歩行器ごと「がばっ」と担いで、一番奥の部屋まで強制送還される。

 こういう生活をずっと続けておりますと、外に行きたい、外に行きたいけれども、行かせてもらえない。昔はそうだったのですね。外に行くこともできない。そういうふうな生活がずっと続きました。

障害をもつということ

 いまだに京都では、障害をもった方を外に出すのが恥ずかしいと思っているご家族の方がたくさんいらっしゃいます。たとえば、デイサービス(昼間だけ障害をもっている方をお預かりするようなサービス)の場合、リフト付きの車が家まで迎えに行くと、怒る家庭があります。「こんな格好の悪い車、家の前に停めんといておくれやす」と、京都弁で言うのです。「向こうの角を曲がったところに停めておくれやす。こっそり連れて行きますさかい」と言います。年取ったお母さんとお父さんが、大きくなった四十歳ぐらいの男性を玄関まで連れて来るわけです。これも大変ですよ。どうやって連れて来るかというと、お父さんは左足を持ち、お母さんは右足を持ち、家中引き回しの刑みたいな感じで玄関まで連れて来るのです。そして、何とか車いすに乗せて、その車まで連れて行くわけです。

 私は、いつも思っています。家の中でも、ちゃんとヘルパーさんに手伝ってもらって、乗せてもらった方が、本人も楽ですし、周りも楽ですよね。しかし、人目に触れるのが嫌なのでしょう。けれども、車いすを押していく方が目立ちますよね。「障害をもっている方を人目に触れない、触れさせない」という考え方の人たちがいまだにおられます。これは不思議ですよね。どうして、そのような考え方をするのだろうと思います。

 私の祖母も、もう八年ぐらい前に九十三歳で亡くなりました。長生きしましたでしょう。孫に嫌なことばっかり言っていると、長生きしますから、会場の皆さんも頑張ってくださいね。

 祖母は、九十一歳のときから、車いすに乗らなければならなくなりました。私は、一度で良いから聞いてみたかったのです。「自分が車いすに乗ってみて、どんな気分ですか」と。あれだけ車いすに乗った人を差別していましたから、「自分が乗ってどんな気分ですか」と聞こうと思いました。祖母は、私の両親が引き取り、石川県の田舎の家に暮らしていたのです。私が実家へ帰ると言うと、調子が悪いと言って入院するのです。そして、私が京都に帰ってくると、すぐに退院するのです。一回も車いすに乗っている祖母に会ったことがなかったのですよ。一回聞きたくて、亡くなったときにも、お葬式に行って、お棺を開けて聞こうかなと思ったぐらいです。あの世まで追いかけて行って、聞こうかなと思ったぐらいです。けれども、追いかけていって、戻ってこれなくなると困りますので、そういうことはできませんでしたが、本当に聞きたかったですね。

 日本人は長生きするようになって、本当に良かったのですが、ちゃんと年取って、長生きして亡くなっていく方は、必ず車いすに乗りますよね。車いすに乗らなくて死んでいく方というのは、車にはねられたり、飛行機が落ちて亡くなる方です。幸せな死に方をする人というのは、必ず車いすを通り過ぎていきます。皆さんも必ず乗りますよ。私が五年後にここに呼んでいただいたら、この中の何人か乗ってらっしゃいます。本当に五年間もたったら、誰かが車いすに乗りますよ。だから、他人事で考えてはいけないのです。

 アンケートをとると、一般の方々は老人福祉には理解があります。誰でも老人になると思っているからです。けれども、障がい者になるとは、誰も思っていらっしゃらないのです。自分は最後の最後まで健常者で、亡くなったときは「仏様」と思っていらっしゃる。違いますね。その間に必ず車いすが入ります。誰もここを思わないで、ぽーんと飛んでしまうのです。どうしてかというと、「車いすに乗っている姿」というのは、恥ずかしい姿と思っておられる方が多いと思います。それは理解できないわけではありません。私の母親を見ても、同じことが言えます。私を育てた親ですよ。私を育てた母は、すごくいいお母ちゃんです。今は、両膝が痛いのです。もう高齢で、関節痛になっているのです。会うたびに、嫌なことを言います。「お前を若いときに担いでいたから、こんな身体になった」と言うのです。「私の責任ですか」と聞きたい話です。「お前も責任はないとは言えんな」と難しいことばかり言っています。

 私も言いますよ、「車いすに乗ったらいいのに。車いすに乗ったら、私は押せないけど、私の弟がいるし、私の関係者もいるから、押すからね、乗ってください。乗ったらどこへでも行けるよ」と。そうしたら、何と言うと思いますか。「親子で車いすは格好悪いよ。お前だけで十分や」と言います。何が十分なのかは、よくわかりません。そういう思いがやはりありますね。車いすに乗っていると格好悪い、こういう思いがある。障害をもっていると格好悪いとか、そういう思いが我々を苦しめてきているわけです。

 先ほども言いましたように、皆さんも絶対に乗りますよ、もし皆さんが乗られなかったとしても、誰か親戚、誰かご家族、統計的にいっても、大体一〇〇人の赤ちゃんが生まれてくると三人は必ず障害をもって生まれてきます。健康な赤ちゃんで生まれても、年をとるまでにまた三人ぐらいは障害をもつものです。一〇〇人の中で六人は、必ず障害をもっているということに、日本の統計ではなっています。おもしろいボランティアの方がいるんですよ。私に「先生、なぜ私がボランティアしているのかわかりますか。福祉の仕事をしているのかわかりますか」と尋ねてきます。私は、「もうどうでもええわ」と思います。別に、その人がどうしてやっているか聞きたくないと思ったのですが、聞かないと機嫌が悪いもので、「どうしてですか」って聞いたら、「私は障害をもってないし、家族も障害をもってないし、親戚も障害をもってないし、私はとっても幸せですよ。この幸せをみんなにお返ししようと思って、ボランティアをやっています」と言われました。私は、その言葉を聞いたとき、ちょっとカチンときましたね。障害をもたないことが幸せなのですか、家族が障害をもつことは不幸だというのですか、と聞きたかったですね。そんなことを言ったら、けんかになるので言わなかったですが、私は心の中で思っていました。「本当に一人もいらっしゃらないのかな」と。親戚と家族を全部合わせたら十六人ぐらいはおられますよね。十六人いたら、一人は必ず障害をもっている割合になります。もし、いらっしゃらなかったら、次に生まれてくるお孫さんかもしれません。もしかしたら、あなた自身が障害をもつかもしれません。わかりませんよ。一瞬で障がい者になりますよ。この会場にいらっしゃる皆さんも、自分はならないと思っているかもしれませんが、次の瞬間に脳卒中になるかもしれません。今日の帰りに、車にはねられる方もおられるかもしれません。一瞬でなりますよ。ですから、この障がい者問題も、他人の問題と考えないでいただきたいのです。自分の問題なのです。いつ自分にも訪れるかわかりません。

大塚達雄先生との出会い

 幼いころから障害をもつ人たちの中でしか育ってこなかった私は、大学進学に際して、初めて差別というものを実感することになります。

 私が同志社大学におられた大塚達雄先生と初めて出会ったのは、大阪府立堺養護学校高等部三年生の大学進学を真剣に考え始めたとき(一九七五年)でした。偶然にも進学指導の教師は、片足に障害をもった野嵜勝先生であり、大塚先生の教え子でもありました。私は四肢に障害をもっておりますので、今では考えられないことですが、電動仮名タイプライターでの受験を希望しましたが、その要求を認めてくれる大学が関西地区で二校しかありませんでした。その一つが同志社大学であり、大塚先生が相談に乗ってくださったのです。

 大塚先生に初めてお会いしたのは、後に毎日のように通いつめることになる大学の研究室でした。そのときの印象は、私が極度に緊張していたこともあり、優しく人間味がありながらも、叱られそうな怖さも感じました。そのときの私が求めていたタイプライターの持ち込みと、受験に要する時間の延長を先生は快く認めてくださり、「この大学に来られたら良いね」という温かい言葉を掛けてくださったことは、今でもはっきりと覚えています。

 しかし、先生のご心配とは裏腹に、学力が足りなかった私は受験に失敗し、別の大学へ行くことになってしまいました。そのときも、進学指導の教員を通して、大塚先生は「いつの日か一緒に勉強できたら良いね」というコメントをくださったのです。大学に入り、本格的に社会福祉学を学ぶようになった私は、大塚達雄先生がどんなに著名であり偉大であるかを知ることになるのです。私は「出会いは人にパワーを与える」という考え方が好きですが、まさしく大塚先生との出会いは、私に勇気と力を与えてくれました。

 一般の学生と同じような生活をしていた私は、就職活動を進めていくなかで、自分の障害を深く考えさせられ、進学の道を選ぶしかない状況になったのです。大学院への進学を私に勧めた大学での恩師である大利一雄先生は、障害をもつ学生を受け入れてくれる方が本当におられるのかと心を痛められたそうです。通学が可能な関西にある福祉系大学院の先生方に連絡をしていただいたとき、返事の言葉は「就職までの世話はできないので、最初から受け入れないし、他の道を選んだ方がよいのではないか」という逃げ腰のものばかりでした。大利先生は、直接に面識のなかった大塚先生に連絡を取ったとき、「彼のことはよく覚えているし、勉強したい気持ちを大切にしたい。仕事のことは後で考えれば良いので、とにかく受験してみなさい」という返事をくださいました。

 こんなに優しいお誘いをいただいたのに、私の実力が足りず、大学院生になる夢は儚く消えようとしたときに、「私の元で聴講生として勉強を続けてみませんか」という声を掛けてくださったのも大塚先生でした。大学院の先輩から英語を教えていただき、翌年に合格して、念願であった大塚先生の学生になれたのです。先生は同志社人として「どのような人に対しても潜在能力と可能性を信じて、機会を奪い消滅させることを決してしてはならない」と常に思い、行動されていました。

 私は、大学院(修士・博士)での生活を六年間、先生のご厚意で講義に三年間も参加させていただき、大塚先生の思想を十年近くにわたり、教えていただきました。そのなかでも、最後の著書となりました「福祉の心と出会い」にある福祉実践のあゆみを見ていくなかで、先生そのものが「福祉心」だったことに気づかされました。修士二年生のときに、アメリカへ研修留学に出掛けた私は、現地で職を得ることができ、両親の反対を押し切って米国滞在を続けようとしていたときに、大塚先生は国際電話を掛けてくださり、「とにかく一度戻ってこい。院生として、息子として、友人としての『けじめ』をつけてから出直しなさい」と強く叱られたことをはっきりと覚えています。

 帰国した私は、米国に戻ることを考えずに、大塚達雄先生の弟子として研究を深めていこうと心に誓いました。そして、修士号を得ても就職のない私に「活動し難いだろうから、私が所長になって、研究所を作ろうか」と言ってくださいました。そして、一九八三年に「障害者自立生活問題研究所(現((有))自立生活問題研究所)」が誕生したのです。この研究所の名称は、大塚先生と共に考えて付けさせていただいた思い出(形見)と言っても過言ではありません。

 大塚先生は、長年勤められた同志社大学を定年前に退職され、社会福祉関係の大学院を設立しようとする花園大学へ一九九七年に移られることになります。頑固なほどに一心を貫く先生でしたので、一生を同志社大学で終えられると確信していた私は、大変驚きました。大塚先生は「より強く求められる場所へ行き、新しいものを生み出し、可能性を広げることが大切である」と語り、開拓精神こそが「福祉心」を大きくしていくことを自らの身で教えてくださいました。考えてみれば、大塚先生の人生は、障害をもつ人たちへの社会資源を生み出すことに力を注いでこられました。

 大塚先生は、自らが創設した大学院から修了生を見送ることなく、病魔に襲われ、一九九九年に帰らぬ人となりました。

障害者福祉の現場と「福祉心」

 近年になり、障害者関連施設の職員が利用者を虐待したり、三十代半ばにして退職する者が急増してきています。私の感覚では、近年の福祉教育は「福祉士」の試験に合格することが最重要課題として、大切な「福祉心」を教えていないのではないでしょうか。また、この「福祉心」を教えることのできる教員が激減していると感じています。

 障害者福祉の現場では、小刻みな制度改正によって職員も利用者も混乱しています。しかし、どのような時代になっても、「他者を信じて、他者を愛し、可能性を追求していくこと」は、福祉の基本であると思います。大塚達雄先生は、私たちに「福祉心」を伝えるために、この世に降りてこられたと理解しています。

 私は、大塚達雄先生ばかりではなく、数多くの恩師や友人、そして先輩や後輩に恵まれ、自分の人生が彩られてきたと思っています。新島襄先生の教えである良心をもった同志社人との出会いがなければ、今の人生はなかったと思っています。同志社人の皆様に感謝し、同志社人の一員として生きていきたいと考えています。

 最近、障害をおもちの方が実は増えています。医学の発達は、本当にありがたいですね。昔は、完全に亡くなっていた交通事故の方でも、今はちゃんと生き残っていらっしゃいます。私がお会いした方の中には、脳が半分ない方がいらっしゃいました。ちゃんと生きていらっしゃいます。いろんな障害をもつ人たちが増えています。障害をもっている方々への理解をもっともっと深めていかないと、いい世の中にならないと私は思っています。ありがとうございました。

   二〇〇六年十一月八日 同志社スピリット・ウィーク

水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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