奨励

襄先生の軌跡―自分の足と眼でたどる―

清田 康晃

同志社大学文学部生

奨励者紹介〔せいだ・やすあき〕  

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

(ヘブライ人への手紙 一一章一-三節)


新島メモリアルウォークについて

 新島メモリアルウォーク。これが一体どういう企画だったのか、まずその説明から始めようと思います。

 皆さん、同志社設立のエピソードとしての、農夫の二ドルという話はご存知ですか。きっとご存知ないかもしれない。僕も新島ウォークに参加してから初めて知りましたから。舞台は今から一三二年前のバーモンド州ラットランドのグレース教会というところです。新島襄がアメリカでの留学生活を終えて、日本に帰る直前に、キリスト教主義の学校を日本につくるというかねてからの大志を涙ながらに訴えました。その場で、千ドルを最高に総額五千ドルの寄付が集まったといいます。

 その聴衆の中には、「これは帰りの汽車賃だけれども、自分には二本の足がある。歩いて帰るから、これを君の大学のために使ってくれ」と言って二ドルの寄付をした一人の農夫がいました。彼は恥ずかしさに、新島の演説が終わってから、そっと教会の外でその二ドルを手渡したそうです。新島は後になって何度も、この農夫の二ドルが生涯で最も感動した出来事であった、と語っています。この「農夫の二ドル」という話が同志社設立のエピソードとして今でも伝えられています。

 新島メモリアルウォークは、このエピソードから始まりました。農夫が寄付をした二ドルで実際に汽車に乗れる距離はどれぐらいか、それが当時の資料から計算してみるとだいたい一三〇マイルなんだそうです。昨年同志社は創立一三〇周年、さらになんとラットランドの教会から一三〇マイル南に歩けば、新島襄が学んだアーモスト大学に着くんです。この一三〇という数字に関わる偶然から始まったのが新島メモリアルウォークです。キーワードは、農夫の二ドル、一三〇という数字、そして最も大事なことは、グレース教会からアーモスト大学まで、実際に自分たちの足で「歩く」ということでした。

 ですから、もちろん単なる物見遊山の観光ツアーではありません。現地で歩くコースの調査、宿舎の手配をする現地班、熱中症や怪我の対処方法などを調べる保健班、実際のウォークについて担当する練習班、新島襄に関する調査や研究を行う新島班などに分かれて準備を進めました。僕は現地調査班でしたから、アメリカから地図やナビを取り寄せたり、日本のアメリカ大使館や領事館に聞き込みをしたり、さまざまな方法で現地の地理を調べました。

 そして一番大事なこととして、アメリカの地で実際にメンバー全員が一三〇マイル、つまり二〇〇キロを歩ききるための力が僕たちには必要でした。僕らはまず、歩かなければなりませんでした。二ドルを手渡した農夫の思いを、頭ではなく身体で、感じる必要がありました。

 新島襄の軌跡をたどるとは一体どういうことでしょう。人びとがよく口にする、ルーツをたどることの意義とは具体的にどんなことでしょうか。今日はその意味についてひとりの新島ウォーカーの立場から話してみたいと思っています。

同じ視点に立つ

 農夫の二ドルの舞台であるグレース教会から、アーモスト大学までの一三〇マイルを歩き、そして新島襄が初めてアメリカに降り立ったボストンを巡る。このウォークの原点は、新島襄に手持ちの全財産の二ドルを手渡した、名も知れない農夫が歩いたであろう距離を実際に歩き、そして新島襄の足跡を巡ることにあります。去年、九月十日から、二十日までの十日間、ゆかりの土地をめぐり、新島襄と同じ視点に立つということ、これが最も重要な新島ウォークの柱でした。

 同じ視点に立って初めて分かることがこのウォーク中に僕らには何度もありました。新島が一三〇年前に見た景色と、いま自分が見ている景色がぴったりと重なる。この一瞬間に、頭ではなく、身体で感じられるものがありました。

 同じ視点に立つということ。たとえば、自分にとって大切な友だちや恋人の、昔通った中学校とか高校を訪れてみたことはありませんか。あのときと変わらない教室や、この席から授業中よく窓の外を眺めていて先生に怒られたとか、部活をしていたグランド、通学路、寄り道をしたお店、視点が重なる。あぁこの場所に、昔あいつはここにいたんだなぁと、同じ視点に立つことでその人の歩んできた人生がちらりと垣間見えるような気がするという経験はありませんか。

 そういった感覚を、新島が学んだアーモスト大学、グレース教会、ボストンの町を巡ることで僕らは感じたのだと思います。

 僕のその一番の経験は、僕らがアメリカに着いて三日目に、新島襄が演説をしたグレース教会を訪れたときのことです。レンガ造りで、そうですね、この礼拝堂よりもだいぶ大きい。当時聴衆は五〇〇人くらいいたと聞いています。もちろんその中に、二ドルを手渡した農夫もいました。

 半年間の準備期間を経て、ついにアメリカでの新島メモリアルウォークが始まるという直前、メンバーが順番に一人ずつ壇上に上がり、決意表明を行いました。赤いじゅうたんの階段を上って教壇に上がります。緊張に継ぐ緊張です。地上で最も神と近い場所、というのもあるかもしれませんが、もしかしたら新島がした演説の熱意が今も残っているのかもしれない、そういう引き締まった厳粛な空気がこの教会には流れていたと思います。

 教会の方の協力で、その壇上に、新島襄が当時実際に使っていた、今から数えて一三二年前の聖書を出してくれました。一抱えもある、年季のはいった大きな聖書です。新島襄が熱意のあまり思わず握ったかもしれない、もしかしたら新島の涙を知っているかもしれない、そういう同じ聖書を目の前にして、僕らは同じ壇上に、視点に立つ。この場で、一三二年という時間の壁を、空間が超越するのです。

 新島襄がここでどんな思いで学校設立の思いを訴えたのか。あまりの緊張で何を話したかよくは覚えていませんが、今でもその熱意は伝わるような想いがしました。僕はこの瞬間に、新島襄の人生を生きることができたのです。目と足で軌跡をたどることによって、新島の人生のものの見方を知ることができました。身をもって体験するということの一つの意義は、こういうことだろうと思うのです。

 しかも新島襄の人生をたどることは、そのまま同志社の原点をたどることになる。新島が何を思い、何を求め、この同志社を作ったのか。原点を知ることで、僕の二十一年分の人生に、同志社の一三〇年分の歴史を重ねることができる。いまなぜ僕がここにいるのか、それを新島襄の軌跡をたどることで、一三〇年分さかのぼることができる。この一三〇年というときの積み重ねが、そのまま僕の存在の基盤になります。

日本での準備

 新島襄の軌跡をたどる旅は、アメリカだけではなく、振り返ると去年の三月からの日本での準備期間から始まっていたと思います。

 実際には、アメリカの法律上の関係で、夏休み直前に八十キロのコースに変更を余儀なくされました。しかし、一番初めの、仲間が集まった三月の目標はやはりアメリカで一三〇マイル、二〇〇キロ歩ききる。この一点に尽きました。

 現実的に長大な距離です。京都から広島くらいあるでしょうか。和歌山の紀伊半島の先端まで行っても、一五〇キロくらいです。そういう同じ志をもった仲間、新島ウォーカーが最終的に十五人集まった。ですからその目標のために、僕らがまず初めにしなければならなかったことは、二〇〇キロという長距離を歩ききるための訓練でした。数えてみましたらその半年間の練習で歩いた距離は結果的に、およそ一〇〇〇キロにもなりました。

 たとえば京橋から樟葉まで淀川沿いを歩いた練習がありました。梅雨明けの時期だったと思いますが、そのメンバーの中には炎天下、膝の痛みに耐え、辛さのあまり涙をにじませながら歩く女の子もいました。僕たちには歩くペースを落とし、代わりに荷物を持って、励ますしかありませんでした。いざとなったら、皆で背負おうと決意した。

 しかし彼女はその強い意志で全行程三十五キロを歩ききりました。仲間の励ましに支えられたと彼女は話していましたが、ゴールのあと、達成感で満ち溢れた彼女の笑顔には、たくさんの涙の跡が残っていました。しかしその笑顔に、僕らは逆に励まされた。彼女は僕ら新島ウォーカーの大事な仲間です。彼女の必死に歩く姿にそのあと何度も励まされました。

 言い過ぎでも何でもなく、彼女は僕らの心の太陽でした。そういった練習を重ねるたびに、メンバーとメンバーとの間に流れる空気がだんだんと、より強く結びついていくようになっているのを感じました。きっとこれこそ、「絆」というものの正体だろうと思います。こういう経験が何度も何度もあって、たとえば夏場の練習ウォークで京田辺から銀閣寺を経由して、そして嵐山をゴールにした時に、途中に休憩した、北野天満宮の前のコンビニを通ると、いまでも僕は胸が熱くなります。

 もちろん夏休みは合宿もしました。京田辺の体育ハウスで行ったのです。仲間と共に四日間で一四〇キロを歩きました、初日に、京田辺から大阪の私市を経由して京橋まで向かう五十五キロ。最高気温は忘れもしない三日目、竹田駅の三十七度。焼けつくような暑さ。血豆は破れ、その下にはまたマメができ、靴下は赤く染まりました。足は引きずらなければ前に進めなかった。一人ならきっと挫折していました。仲間に支えられ、時には仲間と衝突し、最後には仲間と共に壁を乗り越えた。新島ウォーカーに対しては、まるで家族のような特別な感情を、僕は今でも感じ取ることができます。僕らは、同じ志を持った仲間でした。

 感じたことは、人間一人では何もできない。大きな志を達成するためには、かけがえのない仲間の存在が必要だということ。一緒に壁を乗り越えた仲間の絆は、本当に強い。

 一三〇マイル。二〇〇キロ。並大抵の思いでは歩ききれません。僕らは十五人の仲間がいて初めて合宿でも歩ききれたのです。しかし農夫はおそらく一人で歩いて帰ったのでしょう。これだけでも新島襄の熱意がどれだけ大きかったかが、分かると思います。

同じ志を持つ仲間と共に

 アメリカでの新島ウォークの活動も、本当に多くの人びとの良心によって支えられました。

 ウォーク中、お世話になったロッジの女主人リサ。リサの作ったお昼のサンドイッチは本当に美味しかった。洗濯物をベッドに掛けて怒られたし、一緒にバーベキュー用のとうもろこしの皮をむいた。僕たちのお母さんのような存在でした。そして移動のバスの運転手、アーロンは、身体も笑い声も大きかった。毎日歩き疲れた僕らを、その大きな体と笑顔で迎えてくれた。途中で蜂に刺されるというアクシデントもありつつも、誰一人脱落者を出すことなく、歩ききることができました。そのほかにもたくさんの出会いがあった。ゴールしたアーモスト大学の歓迎会で、歌を披露してくれた学生たち。ダンスパーティーやレセプション、そして学生寮にまで案内してくれて、話し込みました。もちろん今日の司会の鈴木先生も、一緒に同行されました。

 新島襄も生涯に多くの同志を得ていたのだと、準備期間の勉強で分かりました。多くの人びとの良心によって、大学を設立するという志を達成できたのだと思います。現地で新島襄の生活を支えてくれたハーディー夫妻や、他にもクラーク、ラーネッド、デイヴィス、そして二ドルを手渡した農夫。クラークやラーネッドは、建物の名前になっています。同志社のキャンパスは、まるで新島襄の人生のアルバムのようです。新島襄の熱意と、志に賛同した多くの人びとのあたたかい良心のおかげで、同志社ができました。

 僕は大学で、日本中を走る会というマラソンサークルに入っています。サークルの中には、新島ウォークのメンバーもいます。今月初め、広島県福山から愛媛県今治まで、しまなみ海道大橋を走るマラソン大会に出場しました。マラソンといっても、四十二・一九五キロではなく、一〇〇キロのウルトラマラソンです。これは競争ではありません。目指すのは、メンバー全員の一〇〇キロ完走です。五十キロまで仲間と同じくらいのペースで走りました。休憩所で一緒に体操をし、励まし合いながら、雄大な瀬戸内の景色を堪能しました。

 しかし僕は七十キロ地点から仲間で一番最後になった。日差しは容赦なく、目がくらむような熱さ。先の見えない行く末に気が狂いそうな精神状態でした。しかし、最後、一〇〇キロのゴールまで自分を精神的に支えたのは、決して他人に対する意地でも、見栄でもなく、早く仲間にゴールで会いたい、同じ目標をもって走っている仲間に会いたいという一心でした。僕をゴールまでの十四時間四十分を支えてくれたのは、一〇〇キロ完走という同じ志を持った仲間の存在でした。

 この春に、新島ウォークの仲間と江戸日本橋から、京都三条大橋まで、東海道五十三次五〇〇キロを走りきったときも、僕を支えたのは、やはり仲間の存在でした。お互いに励まし合うことをしなくても、同じ壁を越えてきた仲間がただ隣にいるだけで、走るたびに膝に激痛の走る僕の足は、前へ進むことができた。仲間は、本当に心を強くします。心強い。感じたことは、一人では何もできない、人一人は本当に小さいということです。

 しかし新島襄は志を達成できた。決してただ一人の力ではなかったと思います。新島襄の熱意と、行動力が人びとの心を打ったのだろうと思います。同志社は、新島襄の志に賛同する人びとの良心によってつくられました。ここは新島大学ではなく、新島の熱意に動かされた同志によってつくられた同志社大学です。

 新島襄に、人びとの良心が集まったのは、彼に人びとの良心をひきつけるような「志」と、そして「行動力」があったからであると、新島メモリアルウォークを体験して、僕は思うのです。鎖国体制の幕末に、国禁を犯して脱国してしまう行動力、そして十年間異国の地でキリスト教を学び、帰国後も自分の志を達成するために日本中を駆け巡る行動力。その熱意と志に惹かれて、同志が集まった。人間は、生まれてきた以上、志を持って生きる、もし死ぬのであれば、その志を果たす道中であるべきだ、そんな人生に対する思いを僕は新島襄から感じることができました。その熱意と志に賛同した同志が、新島の遺志を継いだ。そして今年で一三一年になる。その歴史の重みを、僕らは自分の目と足で感じることができました。貴重な体験でした。ありがとうございました。

   二〇〇六年六月十三日 同志社スピリット・ウィーク

火曜チャペル・アワー「奨励」記録

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