奨励

新島襄と京都の商人 中村栄助

河野 仁昭

元同志社社史資料室長
エッセイスト

講師紹介〔こうの・ひとあき〕  

中村栄助について

 ご紹介いただきました河野です。私は、五、六年前までこの向かいの同志社女子大学の大学院などへ講師として寄せていただいていました。それからの両大学の変わり方は大きいですね。門衛所があった所に大きな校舎が出来ていまして、浦島太郎になったような気分でした。でも、中へ入ってみましたらラーネッド記念図書館など覚えているところがあって、そうだった、そうだった、と思ったりしたわけです。

 今日は、ご紹介をいただきました「新島襄と京都の商人 中村栄助」というテーマでお話をさせていただきたいと思います。新島襄につきましては、こういうスピリット・ウィークとか大学が設けた機会があったりして、皆様方よくよくご存じのはずであるし、同志社の歴史もそうですがこれから知る機会が多いだろうと思いますので、今日は中村栄助という人物を中心にお話をさせていただこうと思います。京都の商人と肩書きをつけたのですが、本当は京都の実業家であり政治家というべきところです。そうしようかなとも思ったのですが、どうも格式張ってよそよそしい感じがしますので、京都の商人とさせていただきました。

 この中村栄助の家系は、京都で二百年ぐらい続いた、中村屋という屋号の酒造業を営む商家でした。この中村屋は、姓を高山といいます。中村栄助さんのお父さん、熊吉という人ですが、この人が中村屋から分家、独立して、菜種油(当時は菜種油は食品のほか照明に使われる最も一般的なものだったわけですが)などを作って販売する店を営み始めまして、本家の屋号が中村屋でありましたから、屋号を姓にもらって、店の屋号は河内屋としました。その河内屋の長男、二代目栄助さんは嘉永二(一八四九)年の二月三日に生まれました。ただし二月三日というのは、旧暦ですから現在の暦に直すと三月二十日前後になるかと思いますが、彼はまだ学校制度、教育制度が整っていない幕末に生まれたわけですから義務教育がどうとかいうこともありませんし、当時の町の商家の子弟と同じように、塾、ご承知のように現在の塾と違いまして、当時は、将来商人になるうえで必要な技能とか知識を教える塾が京都にはたくさんあったのです。その一つに入れられて、六歳ぐらいから勉強を始めたようです。読み書きそろばんといいましたけれども、文字を読んだり、書いたり、それから計算を主として習いました。中村栄助さんはそろばんが非常に得意だったようですが、学歴といえるものはそれだけです。十三歳ごろから、お父さんの河内屋の仕事を見習いがてらお手伝いする。本家の叔父さんと一緒に、菜種油の原料を仕入れにあちこちへ出かけたりする。叔父さんが指南役であったようですが、そうやって商売を覚えていったわけです。

 お父さんの熊吉は、明治四年に亡くなっています。五十歳で亡くなっていますから大変若いのですが、中村栄助さんは、そのとき二十二歳でした。二十二歳で、河内屋を継いだわけです。お父さんというのが非常に商才があって、しかも負けん気の強い人であったものですから、さまざまな事業というか商売に、しかも新しい、これは儲けになりそうだという新しい商売にどんどん手を広げていくという、そういうタイプの商人であったようです。その血を栄助さんが受け継いでいるというふうにみられるわけです。そのいい例が明治七年か八年ごろと思われますけれども、彼が二十五歳ごろですが、これからはもう家庭でも照明、明かりは、菜種油の時代ではなく、ランプつまり石油の時代がくると彼は見込みを立てまして、要するに先見の明があるわけでありますが、京都の二、三人の商人仲間たちと組んで、外国から石油を輸入し、それを京都、大阪で販売する計画を立てました。

 ところが、石油をそんなに大量に消費するほどには日本はまだ進んでいなかったのです。先を見越して石油を買い付けても、そんなに売れないということで石油の価格が暴落したのです。すでに外国の商人に船で運んでくるようにという契約を結んでおりましたから、石油の価格が下落、暴落すると、これは大損害を被ることになるわけです。何とか契約を破棄したい、キャンセルしたいと考えていたときに、日本人の他の商人には、石油は売らないという契約を外国人の商人と結んでいたにもかかわらず、他の商人に横流ししているところを目撃したというか、その事実をつかんだわけです。これは契約違反である。だからちょうど石油の下落で契約を破棄したいと望んでいた栄助さんたちにとってはもっけの幸いだったわけです。それで、相手の外国人商人はすぐには納得しないものですから、契約破棄の裁判に持ち込んだわけです。当時の裁判というのは、外国人が絡んでいる裁判に関しては外国領事館で行われまして、そして外国領事が裁判長、判決を下す役割をしていました。これは条約上そういうふうになっていまして、不平等条約といわれていますが、要するに日本人にはどう考えてみても不利なのです。しかし、相手が契約違反を犯したのだからそれを理由にして、契約破棄を裁判に持ち込めば絶対に勝てると、栄助さんたちは確信していた。ところが結果は、栄助さんたちの負けになった、敗訴になったわけです。どうしても納得がいかないものですから、栄助さんたちは弁護士(当時は代言人と申しました)に「なんでわしらが負けたのかわけがわからない、理由を教えてほしい」と尋ねましたら、外国人の商人は裁判に先立って、聖書に手をおいて、「嘘偽りは申しません」という誓約をして裁判の場に臨んだ。だから彼らは裁判の場で、嘘や偽りは全然言っていない。契約違反、石油の横流しをしたという契約違反についてもちゃんと認めている。それに対して、中村さん、あなたたちはちょっと駆け引きが多過ぎた、これが裁判の結果を左右して中村さんたちの負けになった根本的な理由だと弁護士は答えたのだそうです。

 栄助さんにとっては、どうしても納得できない。日本の商法からすれば、嘘も方便と言いますが、要するに嘘のための嘘をつくのでなくて、商取引上で、便宜上いいことと思ってないけれども、嘘をつくこともある、駆け引きをすることもある。それが理由で裁判に負けたというのは、どうしても納得できないということと、もう一つは、自分も嘘がいいこととは思っていないので、外国人のキリスト教徒、クリスチャンというのは、本当に嘘をつかないで商売をしているのか、もし嘘をつかない商売が可能だとしたらそれは一体どういうやり方なのか、ということを栄助さんは真剣に考えるようになるわけです。だから根が非常に生一本、正直な人であったというふうに見ていいだろうと思います。

中村と新島の出会い

 ちょうどそのころ神戸の元町に、耶蘇教講釈所(キリスト教の講義所)があって、日曜日、そこで外国人の宣教師が日本人を相手にして、キリスト教について話をする、聖書の話をするということをやっておりました。これは記録にもちゃんと残っていますから間違いないことで、のちに同志社英学校の教員になるD・C・グリーン宣教師などが関係していたようです。キリスト教について勉強してみてはどうかという弁護士のアドバイスもあったようですが、そういう所へ話を聞きに行ったら、嘘をつかずに商売をやるコツがわかるかもしれない、またどうして耶蘇教の人は嘘をつかずに商売するのか、そういうこともわかるかもしれないということで、京都からわざわざ栄助さんは神戸の元町まで通った。何回くらい通ったか分かりませんが通ったわけです。ところが、話をしてくれる人が外国人で、しかも片言の日本語で、キリストのことや聖書の話をするものですから、栄助さんはいくら聞いても全然わからないのです。

 彼は、キリスト教の勉強を諦めて、五条大橋の東、伏見街道と当時は申しましたが、今の大和大路辺りの店で商売を続けていました。その栄助さんに、商売仲間の人が、最近アメリカで長年勉強してきた耶蘇教の日本人の先生、キリスト教の先生が上京の新烏丸頭(しんからすまかしら)に住んでいるらしいと教えてくれたのです。そのころ同志社もできていたわけですけれども、なんやったらいっぺんその先生のとこへ行ってみたらどうやというわけです。これは大変耳寄りな話です。日本人の先生がキリスト教の話をするのだったらこれは分かるだろう、というので栄助さんは、新鳥丸頭、京都御所の東側に今、鴨沂高校という高等学校がありますが、そのちょうど東南辺りへ訪ねて行きました。今の新島旧邸は明治十一年の九月にできたものですから、新島はまだその新鳥丸頭の借家に住んでいたわけです。

 玄関で案内を乞うと、色が白く黒い目が澄んでいる紳士が玄関まで現れて、「どうぞ、お通りください」というわけです。畳敷きだったそうですが、畳の上に書架が並んでいて、外国の本がいっぱい並んでいて、栄助さんは、そこへ通されて、やはり畳の上に置いたソファーに座らされるなど、ちょっと日本と違うなあと思ったようであります。「何かご用ですか」と優しく紳士に尋ねられた。これが新島襄と中村栄助の出会いであるわけですが、神戸での体験を述べて、できることなら自分も嘘をつかない商売をしたいと思っているので、そのコツを伝授していただけないか(伝授というのは、教え授けることですが)、伝授していただいたら伝授料は出します、つまり御礼はしますと言った。新島は、にこにこ笑って、お礼はいりません。ただ、今すぐに嘘をつかずに商売をするコツを伝授するということはできることではないから、その前に、キリスト教の勉強をしなさいと答えた。キリスト教そのものについて勉強するようにと新島は言ったのだそうです。

 以上のことは、栄助さんの回想録『九拾年』という冊子と、その元になった口述筆記のままの大部の原稿に記されていることですが、それにはまた、初対面の新島について、新島先生という人は言葉数の少ない人であった、しかし一語一語、一言一言に真実がこもっていて、この人は嘘をつかない人だと強く思ったとも語られています。それ以後栄助さんが、果たして何回ぐらい新島の家にキリスト教の勉強をしに通ったかはわかりません。独学ではなかったはずです。初対面は、たぶん明治九年と思います。明治十二年ごろ、ですから新島と出会ってから三年ばかりたったころに、栄助さんは自分の家で毎月二回、商売仲間や町内の有志を招いて、土曜日の晩にキリスト教の集まりをもつようになる。これは当時の京都の町では、大変珍しいことだっただろうと思うのです。まして商人の場合、なにせ京都では仏教徒から目の敵にされているキリスト教ですから、商人が自宅でキリスト教の集まりをやるというようなことは憚(はばか)ってできなかっただろうと思うのですが、栄助さんはそれをやっているのです。そこへ新島先生にも来てもらったようです。

 栄助さんが新島先生の家へ個人で行って、キリスト教のことを新島先生から習ったのか、どういうことを教えられたのか、新島先生の話はどういう話だったのか、栄助さんは語っていません。ただ栄助さんの家に、新島先生に来てもらったとき、キリスト教の話はほとんどしなかったそうです。文明国では、日本人はまだあまり馴染みがない洋服の仕立て、自分の体にピタッと合うような服を注文して作ってもらうとか、さまざまなサイズの既製服を売っているから、わざわざ仕立ててもらわなくても自分の身にちゃんと合うのがあるとか、それから、砂糖工場の話とか、その他向こうは肉を食べますからシカゴの大屠殺場の話であるとか、それから教育のことであるとか、社会の話とか、そういう文明国の身近な、今後日本もそういうふうになっていかなければならないと思われるような話を新島はしたそうです。キリスト教の話を全くしなかったとは考えられませんが、文明国の話が中心であった。そのころは外国へ行く人なんてごく限られていましたから、市民にとってはものすごく珍しかったわけです。だから大変皆さんに喜ばれたそうです。

 新島襄が所属していたアメリカン・ボードの日本宣教師団の人たちは、日本人の伝道者を養成する学校(トレーニング・スクール)を作る、それが一番急を要することだと考えていました。これは日本へ伝道に来ているのだから当たり前のことです。しかし、日本人である新島は、伝道の問題と同時に、日本がいかに遅れているかということがよく分かっていて、これからなんとか文明国に一刻も早く近付くような教育をしていかなくてはいけないという考え方を持っていました。そのこともあってとみていいと思いますが、キリスト教や聖書、神学は、もちろん教えなくてはいけないし日本人伝道師も育てなくてはいけないが、それだけでは不十分なので、文明国の学問、新しい近代科学も教えなくてはいけないのだという考え方を持っていました。ですから、同志社英学校は、キリスト教の専門の科目よりはモダン・サイエンスの学科がはるかに多い、そういう学校を新島は作ろうとしたし、また作ったわけです。そういう新島の同志社英学校の設立にみられる精神から考えますと、中村栄助さんに招かれて市民に話をしに行ったときに、文明国の話をしたというのは、新島は市民だから妥協をしたというよりは、それが新島にとって一番大事なことであったかもしれない。そういう文明の中にキリスト教がどう生かされているか、どう反映しているか、要はキリスト教と文明は切り離して考えることができないものだということを、市民に追々わかってもらえばいいわけです。栄助さんが回想している新島の話というのは、そういうことを考えさせられるわけです。

 そんなふうにしながらそのころの栄助さんは、自分はカツオ節屋だと名乗っていますから、乾物屋さんをやっていたのではないでしょうか。菜種油の方はどうなったか分かりませんが、海に遠い京都に多かった乾物屋さんをやっていたようです。北海道などから商品を仕入れたのです。卸しなどもやっていたでしょう。その乾物の値段をいくら値切られても栄助さんは負けなかった。正札どおり、ラベルに書いた値段どおり、つまり駆け引きして下げる掛け値ではなく、はじめから正味ぎりぎりの定価が書いてあるわけですから下げようも上げようもないのです。そんなふうですから誰からともなく、河内屋と言わないで「まからず屋」とか「まからん屋」と呼ばれるようになったそうです。それから、日曜日は聖日であるということも栄助さんはわきまえるようになって、日曜日は現在のシャッターでありますが、当時は雨戸を閉めて商売は一切しなくなった。お店の前を通っている、わけを知らない人が「栄助さんの店もとうとう店じまいしたか」、要するにつぶれたな、と言いながら通るので悔しくてたまらなかったということも、栄助さんは回想しております。とにかく日曜日の聖日を守る、といったことをやるようになるというのは、新島からキリスト教のことを、嘘をつかずに商売をするコツをどこまで伝授してもらったかわかりませんが、三年もたたない間に栄助さんは嘘をつかない商売をもう実践するようになっていた、ということが言えるわけですね。

 彼は、もう一人、山本覚馬に教えを受けるようになっています。山本は、同志社を新島と一諸になって創った人で、皆さんはその経歴などもご存じだと思います。明治の初めごろから山本覚馬は、自宅の座敷を開放しまして、京都の向学心に燃えている若者たちに政治や経済の講義をしていました。その講義を聞いた人たちの中から、明治の京都の政治とか、経済の担い手が数多く出てきました。いつのころからか、中村も山本の家でやっています講座に連なるようになった。単に政治や経済の話を聞くだけではなくて、人間の生き方についても山本覚馬から大きな感化を栄助さんは受けたようです。新島襄と山本覚馬という同志社英学校を創った二人の恩師を栄助さんは持ったわけです。

 山本覚馬は明治十二年に開設された京都府議会の議員に当選し、初代の議長になるわけですが、その二年前に、彼はあまり同志社に深入りし過ぎている、つまりキリスト教に関わり過ぎるということで植村知事から顧問を解職されていて、輿望(よぼう)を担って議員、議長として再起したわけです。その後を継ぐかのように、明治十四年には、中村栄助も府議会議員に立候補して当選する。これが政治家中村栄助の誕生です。事業家としてはそれ以前からいろいろやっていますから、事業家そして政治家中村栄助が生まれたわけで、その後の彼を見ますと、たとえば琵琶湖疏水の開削事業に献身するとか、町に電灯をつけるとか、その電気を利用して、市内に電車を走らせるとか、鉄道をつけるとか、とにかく市民のためになる事業をやっているのです。銀行の経営などもやるわけですが、それなども運用次第では、いくらでも市民に役立つような運営ができたはずです。

中村と同志社

 中村栄助がまだ年も若く、そうした社会的な事業を手がけるには至っていなかった明治十六年二月、新島襄が中村を訪ねてきました。それまで同志社の経営者(当時は、社員と申しました)は山本覚馬と新島襄の二人であったわけですが、大学を作ることを視野においてだと思いますが、それを、三名増やして五名にした。その一人が松山高吉、それから横井時雄(当時は伊勢という姓で伊勢時雄)。「中村さん、あなたも社員になっていただけないか」と新島は言ったのです。松山高吉は新潟の出身で、年も新島よりも上で国学者でもありまして、当時の神戸教会の牧師で、関西のキリスト教界の重鎮であったわけです。横井時雄は、今治教会の牧師で、栄助さんよりもずっと年が若いのでありますが、彼の奥さんの峰さんは、山本覚馬の娘なのです。ということは新島の奥さんの八重さんの姪にあたるわけですから、横井時雄は、山本家とはもちろん新島家とも親戚なのです。それに対して中村栄助は、何度も繰り返して申しますけれども京都の商人であって、特別に学問をした人でもない。ですからこの三人のなかでは最も異色なのです。ただ府会議員を二年務めたところではあった。

 この社員たちの職責というのは、そのときに新島によって書かれるわけですが、「同志社社則」と申しますが、その第一条に、「同志社ハ五人ヲ以テ組織シ、此ノ五人ハ社ノ財産ヲ所有シキリスト教主義ヲ以テ学校ヲ維持スルヲ務メ・・・」となっています。ですから、同志社の教育方針を定める。その教育を行う人を雇う。そして同志社の建物とか土地といった財産を所有する。ですから大変重い任務なのです。新島先生の言われることでも、中村栄助さんはさすがに躊躇しました。私は学問もない商人ですからということで辞退したのです。無理からぬことです。「学問や教育のことをお頼みするのではないからぜひともやってもらいたい」。学問や教育のことは先生方にお任せしておけばいい、同志社の会計さえ見てくださればいいのですからと言われたと回想録にあります。栄助さんに対する新島の厚い信頼が感じられます。社員になることを承諾しまして、それ以来、八十九歳で昭和十三年に亡くなるまで、ずっと栄助さんは、同志社の理事(明治三十年代から社員を理事というようになりました)として、維持経営に尽力することになるのです。社員になって、一週間も経たない日曜日に、栄助さんはデイヴィス先生からキリスト教の洗礼を受けています。新島先生から同志社に関する重要な責任を与えられたかぎりは、自分もキリスト教徒でなくてはいけないという考え方であったと思います。そのころはまだ、キリスト教に対する京都府民あるいは仏教界の風当たりが強かった。府会議員の選挙などでも、これは決して有利ではないはずです。しかし、中村栄助は、府会議員でありながらキリスト教の洗礼を受けて、同志社のために働くようになるわけです。それ以前から新島に頼まれて新島の手伝いなどはしていたのですけれども、社員に就任後、彼は新島のいわば手足になって、募金の問題、その他に献身しています。

 新島に対する栄助さんの敬愛と信頼の念を物語るエピソードを紹介させていただこうと思います。明治十九年ごろかと思うのですが栄助さんは、腸チフスにかかりました、しかも重症に陥った。そこへ新島が見舞いに来たのだそうです。新島は栄助さんの状態を見て「すぐに入院させなさい」と栄助さんのお母さんに勧めたのです。そのあとで、入院の相談でお母さんが呼んだのでしょうが、栄助さんの親戚の主だった人たちが来たようです。栄助さんが回想していることでありますが、そのころは、一般の市民が病院に入る、入院するということは、死ににいくことだと思われていたようです。死にかけたから入院させるということであっただろうと思います。よほどのことでなければ入院させないし、入院と死亡はほとんど同義語だった。だから親戚の人たちは、もしも栄助を入院させるならば、わしらは今後中村家との縁は切る、付き合いをしない、そこまで言ったのだそうです。ところがお母さんは、栄助が尊敬している、信頼している、今まで言われる通りにしてきた、その新島先生のおっしゃることに従って、病院に入って、もし死ぬようなことがあっても、伜(せがれ)は満足であろうと思うから「入院させます」と親戚の人に言ったのだそうです。そしたら親戚の人は、「勝手にしろ」と言って皆さん帰ってしまった。しかし入院したことによって、中村栄助さんは健康を取り戻して、八十九歳の長寿を全うすることになったわけですから、ある意味では栄助さんにとって新島襄という人は命の恩人でもあった。そのことも生涯、深く心に刻み込んでいたであろうと思われるわけです。

 そういう新島に対する栄助さんの思いは、新島が亡くなった後でも変わらなかったのです。これが私は偉いところだと思います。経済、経営問題でありますとか人事問題などで同志社はしばしばピンチに陥るのですが、そのピンチに陥りましたときには、必ずといっていいほど総長代理とか、臨時総長と言ったりしますが、彼はそれに就任しまして同志社の難局に対処しております。就任は四回に及んでいまして、最後は、昭和九年の三月ですから八十五歳、その前が昭和三年三月、そのとき七十九歳だった。このときは思想問題が絡んでいて一番難しいときでした。栄助さんは形見分けにもらったと思われる新島のモーニングを着込んで同志社へ出勤した。新島先生に包まれて、七十九歳の栄助さんは、同志社で討ち死にする覚悟であったと言ってよいだろうと私は思っております。栄助さんにとって、同志社は新島先生が作った学校、新島先生の学校だった。だから命にかけても守らなければならなかったのです。

 栄助さんの三男に高山義三さんという人がいます。戦後三期にわたって京都市長を務めた方です。この人は中村家の本家である高山家を継いだ方で、京都二中に学びました。彼は、利かん気の強い腕白少年で、三年生のときだったか、乱暴を働いて授業妨害をやって無期停学処分になった。その時栄助さんに、二中の校長はどうも気に食わんから同志社へ変わりたい、同志社へ行かせてほしい、と頼んだそうです。そしたら栄助さんは、お前はろくに勉強もしないで、乱暴して停学になって同志社へ行きたいとは何事か、同志社は私が尊敬する新島先生の学校だ、二中で非常に勉強がよくできる、それで同志社へ行きたいというのなら考えもしよう、しかし乱暴を働いて停学になったような者が何を言うか、駄目だと言って、カンカンに怒ったそうです。これは高山義三さんが『わが八十年の回顧』という本で語っていることです。同志社を栄助さんがどう思っていたかがうかがえます。念の為にちょっと申しておきますけれども、義三さんは、一年後に無期停学の処分が解けて、だから一年落第の形で復学してからは大いに勉強して、京大の法学部を出て弁護士になり、そして戦後は京都市長を三期務める、ということになるわけです。初めて彼が市長に立候補しましたときに、栄助さんを知っている京都市民は「栄助さんの息子なら嘘を言わへんやろ」と言って支持してくれたといいますから、栄助さんは、嘘を言わない実業家、政治家として知られていたわけです。高山さんは、その栄助さんの肖像を市長室に飾って執務したのだそうです。

 昭和十二年夏、八十八歳の栄助さんは病床に臥したきりになっていましたが、自由もきかない状態になっていた体を家族に抱えられるようにして、車で同志社を訪問しました。新島先生の学校、同志社とのお別れにきたわけです。そして、次の年の九月十七日に八十九歳で亡くなりました。若王子墓地の新島先生の墓の右手に中村栄助さんの墓があります。おそらく遺言によることと思いますが、亡くなっても新島先生のお傍にいて、お仕えしたいという意思が伺える気がします。小さいお墓であります。

 ご清聴ありがとうございました。

二〇〇六年六月十三日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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