奨励

新島襄の後継者-小崎弘道・海老名弾正

原 誠

同志社大学神学部長
同志社大学神学部教授

講師紹介〔はら・まこと〕 〔研究テーマ〕
日本とアジアのプロテスタント・キリスト教会の歴史

「同志社山脈」と「同志社からの道」

 今日は同志社スピリット・ウィークのプログラムと一緒に授業を進めます。同志社スピリット・ウィークにいらっしゃった方々に、ごく簡単に自己紹介をいたします。私は神学部の教師をしておりまして、神学部の中の専門の分野でいうと「キリスト教の歴史」とりわけ「日本のキリスト教の歴史」を主に勉強しています。そのようなわけで日本の近代の歴史と、そして日本のキリスト教の歴史とオーバーラップいたしますから、「新島研究」あるいは「同志社研究」というのが専門ではありませんが、同じような時代を主に勉強をしております。この科目は春から新島襄、あるいは同志社、同志社の創立にかかわった人たち、新島の同志社の創立に協力した人たち、ということをずっと続けてまいりました。これからのプログラムは、授業の後半でありますので、「建学の精神とキリスト教」ということで、聖書あるいはキリスト教というのを語るスケジュールでありますけれども、今日はスケジュールを入れかえまして、「同志社で学んだ人々」そして、新島の思想を継承した人たちということで、何人かの人物をご紹介しようと思います。

 今日主にご紹介いたしますのは、小崎弘道、海老名弾正という人物です。それよりも先に少しだけ私たちの頭を柔らかくするつもりで、少しご紹介をしたいことがあります。今ここにおられる多くの若い学生の皆さん方は同志社の学生であります。同志社が創立されて今年で一三一年となります。主に私たちは新島襄であったり、同志社を創立するのに協力した山本覚馬であったり、デイヴィスであったり、そういった人物やその時代について今まで語ってまいりました。そのことに限ってのみ申しあげるとすれば、それはほとんど百年以上前の話になりますから、私たち、今生きている私たちにしてみるとリアリティーがない、昔話になってしまう。あるいは昔の偉人というふうになってしまう。今の私たち、今の同志社にどういうふうにかかわるのかということは、片一方の私たち自身の課題であろうと思います。そのことを抜きに、百年以上前のことをヨイショしても、ほとんど意味がないと思うのです。

 そこで一冊の本をご紹介いたします。同志社山脈編集委員会『同志社山脈』という本です。百十三人のプロフィール。今日ご紹介いたします小崎についてもここに出てきますし、海老名にしろ金森にしろ出てくるわけでありますけれども、このように、明治時代以来ずっと近代、現代に至りますまで、同志社の思想を受けついで脈々と、その時代の社会にコミットした人たちがいるということです。これをして同志社山脈と言っているわけです。現在につながる、そしていま私たちが生きている同志社、そして、とりわけ若い皆さん方は四年、そして、大学院を含めば六年あるいはもっと長い間同志社で学ばれて、あるいは同志社中学からいえば、もう十年以上同志社で学んでということで、この現代の日本社会に巣立っていく、同志社を通過していく。そのような山脈の中に私も含めてでありますけれども、鎖としてつながっているということを、どこかで記憶の中にとどめたいと思います。

 同時にそれは、二番目に書いておきました『同志社からの道』(朝日新聞社)です。今日の二講時目の授業で、神学部の学生に聞きましたところ、『アエラ』という週刊誌についての話を聞いているけれど、読んだことがないという人が多いようです。昨今の時代の状況の中で、同志社大学も学生募集のために『アエラ』に広告を出したのです。どのような方法で出したかいうと、同志社で全部で八十四人、同志社で学んで通過して卒業した人たちが、いま現在、この社会の中でどのように生きているか、その卒業生を見てみろ、これが広告だ、というわけです。ご承知のように、同志社大学は司法試験の合格者トップテンに入るとか、公認会計士の合格者トップテンに入るとか、そんなところで大学を評価するのは、それは悪いことではない。悪いことではないけれども、より本質的には、どのような人材として、この日本の現代社会にコミットして生きていくか。一部上場の大会社の社長になった、悪いことではないです。通産省をやめてトレードをやって大儲けするっていうのも、もしかしたら悪いことではないのかもしれません。そういうサクセスストーリーをまっしぐらというのが本当の教育なのではなくて、実は、この日本の現代社会の中に、どのような形で、生きて働く人材を産み出していったか、それを見てくれ、それが広告だ、卒業生が広告だというものです。これが『同志社からの道』です。ですから、これは皆さん方、後十年か二十年か三十年かすると、この企画の第二巻目か、三巻目か、四巻目か分かりませんけれども、私たちもそして、皆さん方もこの同志社山脈に連なっていくという、そういうこととして、私たちは考えていきたいと思います。

 そのような時間的な広がりの中で、今日取り上げたいのは、小崎や海老名ということなのです。そういう意識がない限り、小崎や海老名を語るというと、それは歴史の墓掘りを一生懸命やっているみたいなもので、生きたかかわりを持たないことになりますので、とりわけ若い学生の皆さん方、そのようなことを私たちの大学で学ぶことの意味として、発見していく、あるいは問い続けていっていただきたいと思うわけです。小崎、海老名、金森、宮川、これらの四名の人たちは、全員が「熊本バンド」のメンバーであります。同志社が創立されたのは、皆さん方よくご存じでありますように、一八七五年十一月です。翌年にぞろぞろ、多くの熊本の極めて頭脳優秀な青年たちが入ってきて、そして同志社を真に同志社ならしめた、同志社に活力を与えた学生たちがいたわけです。彼らは同志社第一回卒業生となり、そして、全員が教会の牧師になったわけではありません。多くの人材が教会の牧師になり、あるいは同志社に残って教鞭をとり、あるいは日本の明治以降の近代化社会の中で、さまざまな分野でリーダーとして活躍をしていったのでありますけれども、そのリーダーというものが、単に総理大臣が何人出た、とかいうようなサクセスストーリーとしてではなくて、日本の近代化の中に非常に大きな役割を果たした人物であるわけであります。

 今までの授業の中ではちょっと触れたかもしれませんけれども、繰り返しになるかもしれませんが、指摘をしておきます。日本の大学の中で、歴史がある大学、私立の大学の中で有力な大学がいくつもありますけれども、その中でキリスト教系の大学というのもまたこれたくさんあります。関東でいえば、立教や明治学院、青山学院という学校がありますし、関西では、関関同立の関西学院です。しかし、実は同じキリスト教系の学校でありながら、そのキリスト教と日本の近代化過程の中でのかかわり方というのは、一様ではありませんでした。同志社は極めてオリジナルな特徴を持ったキリスト教主義の学校として存在してきました。その意味はどういうことかというと、キリスト教であれば、毎週日曜日、教会で礼拝をし、説教を聞くという、そして、そういう意味での教会、クリスチャンが当然そこにあるわけです。同志社も同志社系の人たちもそのことを軽んじたわけではないのですけれども、他のキリスト教系の学校の特徴、キリスト教と少し違いますのは、同志社の立場の人たちは、非常にリベラルであって、そして社会との切り結び、社会との関係の中での、その時代の中でのキリスト教ということを追い求めるということが非常に強いものでありました。ですから、よくいえば視点が広いということになりますし、その結果、思想家、あるいは実践家、社会運動、社会福祉、そして、そういう枠にはまらない、そういう人たちが同志社から生み出されていったわけです。これは今まで授業の中でお話をいたしましたように、?儻不羈(てきとうふき)というようなことを含めての、枠にはまらない自由人というのが同志社から生み出されていったわけです。

小崎弘道について

 そのうちの一人、小崎弘道について紹介をいたします。熊本バンドの人間でありながら、「奉教趣意書」に署名はしませんでした。しかし、幼いときから神童と呼ばれるぐらい、優れた頭脳をもった若者でした。資料を読んでみます。同志社卒業後、東京の霊南坂教会を創立。東京キリスト教青年会(YMCA)を創立、『六合雑誌』を創刊。警醒社というのを起こし『東京毎週新報』を創刊、キリスト教文章伝道に力を注ぐ。新島亡き後、第二代同志社社長。アメリカンボードからの独立を推進。社長退任後再び霊南坂教会に戻り、中央でキリスト教界の指導者として活躍をした。聖書の高等批評学を紹介、というものです。彼は新島の死後、東京から呼び戻されて、同志社第二代社長に就任をするわけです。彼は同志社を卒業するとき、行き場がありませんでした。皆さん方これから夏休みになります。夏休みをどんなふうに過ごされますか。この時代の第一回卒業生たちは在学中に学生の身分でありながら、夏期伝道といって、全国あちらこちらの教会を手伝って、キリスト教の伝道に協力をしていました。それが結果的には、卒業と同時に、たとえば、松山なら松山、今治なら今治の教会に来てくれと言われてそのまま行って、そして、そこで教会ができて、そこの教会の牧師になるというような、若い皆さん方の言い方でいうとインターンシップのような形で仕事をしていたのでした。しかし、小崎については行き場がありませんで、東京にとにかく出てみて、何か仕事があるかもしれないぐらいなつもりで、うろうろ東京に行ったのです。そこで、「YMCA」や、『六合雑誌』など、警醒社、云々ということで、キリスト教文章伝道を教会の牧師でありながら、やり始めていきます。

 「YMCA」っていうのを知っていますか。今の私たちの感覚でいう「YMCA」は、ユースホステルであったり、野外教育のプログラムであったり、予備校であったり、というようなことがピンとくると思います。しかし、この「東京キリスト教青年会」というのは創立されたときは、一種の文化サロンでありました。今のような時代ではありません。西洋文明、西洋思想、そしてキリスト教、そういうふうな一切合切の西洋近代をきちんと受け止めて、そして、それを語り合い、論じ合い、私はいかに生きるべきかとか、あるいは、日本の将来はこういうふうにいくべきだ、というような、そういう談話室といいましょうか、サロンのようなものとしてスタートをいたしました。これはアメリカが出発なのですけども、「ヤング・メンズ・クリスチャン・アソシエーション」この略語が「YMCA」です。そして、小崎は最先端のヨーロッパ、アメリカのさまざまな文章、雑誌を定期購読し、そして、それを材料にしてキリスト教青年会文化サロンのようなところで知的好奇心を持つ青年たちと甲論(こうろん)乙駁(おっぱく)、ディスカッションをする。そういう場所としてスタートをするわけです。「YMCA」は元々は文化活動に非常に大きな貢献をしたのです。

 『六合雑誌』を創刊。警醒社、云々。実は、これであります。これが『六合雑誌』です。これ、古本屋でもちょっと値がつかないくらいです。私は今日、皆さん方にお見せするために持ってまいりました。こんなものが明治の初期に作られていた、出版されていたというのを目の当たりにしていただければと思います。ついでに『同志社山脈』をさあーっと回してください。そして、『同志社からの道』もさあーっと回してください。『六合雑誌』は全部で六巻あります。これもまあ、パラパラとこんな活字で、こんな構成で、というのを見ていただけるといいです。『六合雑誌』は、どういうものかというと、小崎はあたうる限りの最先端の知識、雑誌、本を手元に届くようにして、そういう文明の西洋近代の紹介者の役割も果たしたわけです。今、皆さん方がキリスト教あるいは宗教というものに対してどんなふうな認識や、あるいは意識をお持ちかよくわかりませんが、いずれにしてもこの時期、西欧近代・社会・仕組み・思想というふうなものとキリスト教というのは分けて考えられないのです。キリスト教に興味と関心を持つということは、たとえば、社会福祉であったり、女性への教育であったり、人権の問題であったり、そういうふうなことに社会改良、社会進化というふうなものとワンセットで考えます。ワンセットで考えない、キリスト教だけを外して、NOというようなことはほとんど考えられない時代であったということです。

 その典型が小崎であったわけです。第二代同志社社長となった後、同志社で働くわけでありますけれども、のちに同志社を辞めてしまいます。どうして辞めたかというと、同志社を支えたアメリカンボードとの間の関係が切れてしまうわけです。同志社を支えるために人材を送り、お金を送ってきたのはアメリカンボードという宣教団体です。宣教団体の本来の仕事は、キリスト教の伝道をし、クリスチャンを作り、そして洗礼を授け、教会を作り、その教会の数が増えていく、ということをすることであり、また、病院を作ったり、学校を作ったりというようなことを広げていくというのが宣教師の働きであり、そのためにアメリカから、お金や人が送り込まれてきていた。多くのキリスト教主義の学校の場合、院長とか学長とか園長とかっていうのは西洋人である、アメリカ人であることが圧倒的に多いわけです。新島は、同志社がアメリカンボードから大量の金や人材を受け取りながら、ここは日本人の学校というふうに主張しておりましたから、アメリカンボードと同志社との間には構造的な矛盾がありました。アメリカンボードから来て同志社で働いていた宣教師たちが本国にレポートを送るときは 「 kyoto Training School」 、同志社は牧師養成学校だ、それに対して新島、その他の同志社人たちは、「ここは日本人の学校だ」ということを主張するわけです。ですから、遺言のところでご紹介しましたように、構造的矛盾があったものを、新島が全部その矛盾を飲み込んで調整していたのが、つっかえ棒がなくなったために新島の死後、アメリカンボードと同志社の関係は激突するわけです。その中で苦悩して、そしてアメリカンボードからの独立ということを言って、そしてその結果、責任を取って小崎は同志社を去って再び東京に戻る、ということでありました。ですから、同志社の歴史ということで言うならば、初期同志社の新島亡き後の非常に苦しいその状況をまさに体験した、同時代を生きたのが小崎であったわけです。

 聖書のインスピレーションについての講演が出てきます。聖書の高等批評学、『六合雑誌』の中に、講演の記録が出てきます。神学部の皆さん方はもう既にお読みでしょうけれども、聖書を読んだことはおありでしょうか。聖書には奇跡物語など、理性では理解しがたい記述があります。しかし、キリスト教はこれを「聖書」、つまり「神の言葉」としています。信仰と理性の関係です。こういうことについての議論は、ドイツでも頻繁に起こっていたのです。それまで、「聖書は神の言葉だから、一言一句、絶対に誤りはない。まるごと信じろ、信じないのは信仰が足りないからだ」と言わんばかりの態度で、キリスト教の世界ではそういう時代が長くあったのですけれども、聖書の歴史の中で見ていくというような、ドイツの哲学の運動の影響を受けて、聖書の解釈にもそのような方法が取り入れられていくようになります。それが聖書の高等批評学というものです。そういうふうな議論がドイツで起こっている、ということを小崎は紹介をしたのです。聖書を批評、論評する、あるいは歴史的文献としてみる。聖書は確かに神の言葉であるけれども、一言一句、絶対間違いがないというような意味での神の言葉ではなく、聖書も歴史的な産物である。その中に隠された本当の意図は何か、ということこそ目を向けるべきだ、という理解の仕方がドイツで始まったのを小崎が紹介をしたのです。それが、一八八六年のことでありました。このことは、それまで日本の同志社を含めて、「これは神の言葉だ、丸ごと信じろ、今分からなくてもそのうち分かる」というふうな感じで、素朴に丸飲みしようとしていた、西洋近代のものは正しいんだ、というふうに思い込んでいた最初期のキリスト教徒たちに非常な動揺を与えました。信仰がなくなる、崩壊するという危機感すら与えたのです。小崎自身はそんな過激な人ではないのです。小崎自身は物凄い問題意識を持っていながら、人格としては非常にバランスのとれた中庸の人です。

 実は余談でありますが、私は同志社の神学部を卒業して最初に赴任したのがこの東京の霊南坂教会です。小崎一族がまだ霊南坂教会にいるわけです。その中で伝説があります。小崎弘道牧師の説教は分からん。何言ってるか分からん。「グチャグチャ・・・おじゃりまする。グチャグチャ・・・おじゃりまする。おじゃりまする」しか聞こえないと。しかしながら、文章を書かせたら、抜群の人です。こういうふうな人物が同志社から育っていき、そして、東京の、日本のキリスト教世界全体、あるいは日本の近代社会全体に非常に大きな貢献をした人物だというわけです。日本のキリスト教世界、海老名にしても、金森にしても、小崎が紹介をいたしました「新神学」によって、信仰的に、また思想的に大きく揺れ動きました。

 彼の『政教新論』という本は、要するにキリスト教、西洋の思想と国家がどういう関係の中にあるべきなのかという、最初期に日本人の手によって書かれたものの一つでありました。このことは、今の私たち、とりわけ若い皆さん方にはリアリティーがないのかもしれませんけれども、片一方でこの時代の思想的枠組みとしてみれば儒教が強くあったわけです。この価値観をもちながら、新しいキリスト教、新しい世界を見いだしていくという、その産みの苦しみを小崎はこういう本の中で打ち出していくことになるわけです。キリスト教を信じる、新しい西洋の思想を学ぶ、ということは、新しい倫理であったのです。

海老名弾正について

 次に話を進めます。海老名弾正の政治思想です。彼は単に宗教思想だけではなく、政治思想に影響を与えたのです。プロフィールをご紹介しますと、同志社を卒業した後、安中教会の創立に加わります。その後、前橋教会あるいは本郷、熊本、神戸各教会の牧師を歴任をします。一九二〇年から一九二八年においては同志社の総長をいたします。本郷教会というのは、東大の本郷キャンパスのすぐそばにあります。その時の教会では、礼拝堂の外からも首を突っ込んで海老名の説教を聞きたいという東大生が鈴なりでした。

 彼の神学思想というのは非常にユニークです。彼の神学思想の特徴は、万人に普遍的な宗教的意識を究極的に実現したものをキリスト教として、儒教や神道との連続性を考える。そしてキリストを人間の宗教意識の最も発達した最高の人格者とした、というわけです。アジア圏というか東洋圏に住んでいる私たちには、このような考え方ってわかりやすいと思います。西洋の神、「GOD」の概念が、そして、キリストという言葉がどのような形で日本人に受け入れられているか、私たち日本人の場合には、こういうふうな儒教の、そして、「天」という考え方が我々には理解しやすいです。宗教意識においても八百万(やおよろず)の神々を信じています。田んぼに神様がいる、高い山に神様がいる、そして国家のために命を捧げて死んだらそれも神になる、というありとあらゆるところに、森羅万象、神々あるいは精霊がある。これらが生きている。しかも、この考え方の中で、「忠」「孝」という儒教の考え方を持つ。「家」がある。「家」の上に「藩」があり、「藩」には「殿様」がおり、その上に「将軍」がおり、という、そういうハイエラルキィがあります。そして、みんな「親」のために、あるいは「長男」のために、あるいは「家」のために、「藩」のために「国家」のために、ということで自分の命を捧げていく。そのためには、妻は夫に従え、というその関係。次男は長男のために、三男も長男のためにという、そういう価値構造の中で生まれ育ってきた、幕末から明治のそのような価値観を持った人たちが、キリスト教をどう受け入れるかといったときに、自分の腹に収まるようにキリスト教の理解をどこかで受容する。キリスト教の神の信仰は三位一体と普通言われます。神は誰も見たことがない。キリスト教においては神は見たことがないけれども、神を百パーセント表しているのがイエスである。だから、イエスはキリストだ。キリストを知る、これを知ることによって、神を知ることができる。神を知るためには聖書に記されたイエス・キリストを知ればいい、という論理です。そうしますとこれは、父と子は同格化、同質化、それとも父が偉いのか、子が下かという理屈、これは神学部の皆さん方は森先生のキリスト教史でずっと学んできておられると思います。海老名が考えたことは、父が偉いに決まってる、子どもなんだから、これは下だ。私たち人間は十点、あるいは五点、あるいは八点、人によっては十三点、というような、そういう我々人間である。しかし、子であるキリストは、神が創った最高傑作だ。我々人間にとって、イエスはモデル。モデルほど立派な人物はいなかった。イエスのように高めていければいい。イエスのように公正にして無私で神の命令には命を捧げて従っていくような、そういう人格になることが大切なんだ、ということでした。

 これは正統派のキリスト教から考えたら異端です。しかし、彼は自分なりに一生懸命苦しんで、儒教の背景を持った自分の時代の儒教を、武士道をたたき込まれてきた人間として、いかにキリスト教を自分の腹に収めるかといったときに、このような理解の仕方でキリスト教を受け止めようとしました。これは自分の腹でキリスト教の教えをどう収めていくかということで苦闘した一つの姿だというふうに受け止めるべきであります。一応正統派と考えられている東京の植村正久と激しい論争を引き起こします。そういうわけで、神と人とが一体となるということ、という儒教の考え方ですね、「実学思想」から影響を受けて、人間一人ひとりにある良心を基準に考えれば、良心の根拠は、最高の価値として「天」につながる。だから「天」こそ「神」であり、八百万の神の最高の神としての存在が「GOD」であると理解したのです。

 古い話で、ごくかいつまんで言います。フランシスコ・ザビエルなど、キリシタンの宣教師たちが日本にやってきたときに、日本の習俗・文化・言語を学びます。「神は愛である」という聖書の言葉を聞いたことがあると思いますが、「神は愛である」という文章を日本語に翻訳することができませんでした。なぜかというと、「GOD」は日本の神とは違うからです。「愛」、いま私たちは頻繁に「愛」、こういうことを言いますけれども、日本語の世界にこの時「愛」ということはありませんでした。もちろん男女の恋愛はあり、あるいは「忠」「孝」のための熱い思いはあり、忠誠を誓うということはあっても、ここでいう「愛」、これをギリシャ語で言えば「アガぺー」とか、「フィリア」とか、「エロース」っていうことになるわけですけども、ギリシャ語の「アガぺー」の言語世界が日本語にはない。宣教師はなんと訳したか。非常に興味深いです。余談ですから簡単に話しますけれども、「お大切」と訳しました。私が大切にされている。あなたも、あの人も、この人も、この年を取った人も、この幼子も「お大切」である。神はそのように一人ひとり命を持っているものを大切にするということです。その神「GOD」という概念は日本語の神のことを考えたらどうしても出てこない。というので、そのままラテン語をカタカナにして、「デウス」、あるいは、漢字で「上帝」、天の神という言い方で、この「神」を使わなかったのです。カトリック教会などで大浦天主堂とか浦上天主堂。天主、これが「神」だというふうに、この[GOD」だと翻訳した時期もあります。ですから、ことほど左様にヨーロッパのキリスト教の概念を、西欧近代の思想として日本が受け入れるということについては、大変なことだったのです。そのことは今の私たちにもどこかでつながってくるテーマだというふうに思うわけです。

 海老名の話に戻しますけれども、自分の胃袋に収めるように、ということをやった人でありました。彼の宗教体験は熊本バンドのときに授業でお話をしました。ジェーンズがお祈りをする。それを見て「ジェーンズ先生、なんで先生はお祈りをするんですか」と問う。日本人が祈るときの、祈りのパターンがあるからです。縁結びの神、商売繁盛の神、五穀豊穣、家内安全。そういう祈りとジェーンズが祈っているのは違う。ということで、ジェーンズに「祈りとは何か」と、「なんで先生祈るんですか」と。答えは、祈るということは創造者に対する Obligationだ、義務だ。造られた人間が、命を与えられたものが、神に対して祈るというのは義務なんだといわれて、ピーンときたんですね。ピーンときた。これ「電線が通じた」というふうに、彼は後に回顧しています。彼の述懐によると、「良心がオーソリテーを得た」。イエスのように一切を捨てた世捨て人として献身すること。立身出世のための勉強ではない。ただ一生懸命、全身全霊をあげて、神のイエスのように、イエスのように生きる。そのために自分の人格を向上させようという、それが大切だというのが海老名の思想の根本です。

 日本の社会の中では、吉野作造というのは、東大・東京帝国大学の教授で、彼が、最初に民本主義という考え方を作りあげたと言われています。この吉野作造が東京大学の学生であったとき、彼は海老名弾正の説教を夢中になって聞いていた。およそ憲法と宗教と関係ないように思うかもしれませんけれども、吉野作造の民本主義の考え方の根っこは、どこにつながるかというと、これにつながってくるわけです。そして、「個」という人間の存在、先ほどの話で言うと、私には五の能力が、あなたたちには八の能力が、人によっては十三の能力がいろいろあっても、みんな神と人間との間、みんなつながるんだ。一人ひとりが|これ、お年を召した方は読めます、赤ん坊ではありません、「赤子(せきし)」と言います。天、神の子供として、それぞれみんなポジションがある、みんな一人ひとり、言うならば、存在理由がある。存在価値がある。人は違いがあるかもしれないけれども、神の子供である。だから、みんな平等だ。海老名が吉野作造に非常に大きな影響を与えて日本の政治思想に貢献をした、という存在であるということです。

 話を進めますが、このような考え方は一歩翻って話を変えてしまうと、どういうことになるかという、裏の面というか、マイナスの面もあったわけです。何週間か前、朝鮮伝道の話をちょっといたしました。「朝鮮伝道によってクリスチャンが増えるというのはええやないですか」という質問もあったのを、私はよく覚えています。こういうことなんです。日本が朝鮮半島や台湾や朝鮮半島を植民地にして、この領土が広がっていきます。ここまでは一応、日本人です。ここで朝鮮半島の人たちも加わります。海老名弾正の弟子でありました渡瀬常吉という人がいたのですが、この人が中心になって、同志社系の日本組合教会という教会が朝鮮総督府からお金をもらって、皇民化政策によるキリスト教伝道をやろうとします。朝鮮半島の人たちにも、日本人になったんだから、神社参拝をしなさい。あるいは、創氏改名をしなさい。ということをやることがありました。神の前でみんな日本人なんだから、同じではないですか。こういうことが日本の逆な意味で民本主義とは違う形の裏返しの議論として、歴史的に我々が今ふまえなければならないこととして残っていると、私は思っています。

 このことについて話をするとまた広がるのでありますけれども、少なくともこれは昔の話ではなくて、今日の課題であるということはお分かりでありましょうか。細かい議論はともかくとして、もうひとつ問題提起します。反論があっても良いです。私はよく思うのですが、毎年二月の一日に、プロ野球のキャンプインがあります。それぞれのプロ野球の球団が、それぞれ必勝祈願をして神社に行きます。その神社に行ってこの一年間怪我なくプレーができて、そして、願わくば優勝をということを祈願をします。そのときのメンバー、チームの中に誰がいるかということです。その中にはアメリカの選手もいれば、韓国の選手もいる。そして、神道についての距離を置く人たちもいる。あるいは、自分は創価学会だ、という人もいれば、私は無神論だという人もいる。私はカトリックだという人もいる、私は韓国人だという人もいる。ジャイアンツの李(イ)承燁(ソンヨブ)ですか、すごいバッターですね。ということを思いながら、その球団の側から見れば、神社に行って、二月一日キャンプインの時に必勝を祈願をするというのは善意である。善意であることを全く疑いません。しかし、その中の構成メンバーの人がどんなふうな反応をするか、どんなふうな思いをするか、ということについての思いやりとか配慮だとか、違う背景を持つ人たちについての、つまりマイノリティーに対する配慮みたいなものを、感じる心がこの中からは出てこない、排除してしまう、つぶしてしまう、抹殺してしまう、そういう装置にもなる。お分かりですか言っている意味が。海老名弾正というのはそういう意味で思想的、神学的に一つの一人の巨人であったといっていいと思います。こういう人物が同志社から生み出されていって、日本の近代に貢献をしていったわけですね。

金森通倫について

 金森通倫についてご紹介をいたします。金森というのはもう、すさまじく、私も大概いろんなことを経験してきた振幅の広い人間だと思っておりますけれども、彼にはかないません。彼は熊本バンドの一人です。熊本の出身でありますけれども、同志社に入った後、新島から洗礼を受けております。同志社が動き始めていったとき、彼は同志社の第一回卒業生の一人として、同志社に残って、社長代理をします。第一代社長であった新島は、募金活動と学生募集のために、走り回っております。ですから、実務をきちんと担っていたのは、社長代理であった金森通倫であったわけです。同志社大学の創立のための募金活動にも尽力するわけですが、新島の遺言で「人格品性ともに教育者たるにふさわしくない」と言われて、彼は、同志社を去りました。おそらく彼は、事務的な長としてはすばらしく能力があった人ですが、教育者としての人格は、新島の目から見れば物足りなかったのでしょう。新島の後、同志社におれなくなって、東京に出かけて行きます。先ほど、申しあげました聖書の高等批評、小崎の所ですね。聖書の高等批評学というふうにそこに書きましたけれども、日本のキリスト教の歴史ではこの議論、植村と海老名の議論を「新神学論争」と言っております。今までまるごと聖書を神の言葉として信じなければいけないんだというふうに思い込んでいた。「信じられない、疑いが起こるのはお前の信仰が弱いからだ、もっと真剣に祈れ」というふうに言い続けていたものが、理性的に合理的に聖書を考えたら、「これも歴史的な産物ではないか」ということになって聖書の神秘性の色が、ガラガラと崩れ落ちていくなかで、彼は教会の牧師を辞めてしまいます。「新神学」によって牧師を辞め、組合教会を脱会してしまいます。政治活動をします。三井鉱山株式会社、武相鉄道、東京米穀取引所など、実業界で活躍をする。どこに行っても、そこそこ以上の仕事を、実績を上げる人であったようです。ところが、彼は奥さんを病気で亡くします。このことが契機となって、「人間にとって宗教とは、人間にとってキリストとは」という、そのような問いに真正面からもう一回ぶつかるようになって、そして、救世軍という教派に参加して、「金森特務運動」というのを展開をします。

 救世軍という教派は、社会活動に全力を挙げる教会であります。歴史の中で最も有名なのは、「廃娼運動」です。太平洋戦争後しばらくまで、きちんとしたライセンスを持っていれば売春が公認されておりました。こういうことの原因は、これまた余談ですから簡単に言いますけれども、根本的には貧困です。前借金で身売りされるという人身売買です。たとえば、東京の時代劇に出てくる吉原などに拘留されて、五年とか七年とかっていうふうに前借金によって縛られて、逃げ出そうにも逃げ出せない。そういうところに救世軍が出かけていって、あなたたちのしている仕事は間違っているから逃げてきなさい、ということを言うわけです。そうすると、当然のことながら営業妨害だというので、実際に何人も、けが人や死人が出ています。彼らが逃げてきた女性をきちんとかくまって、しかし手に職がなければ同じ所にまた戻っていかざるを得ない。だから、逃した後かくまって、そして職業訓練の機会を与えて、自分の力で生きて働いていけるようにする、ということもやりました。こういう運動は日本の社会の中にはない考え方でした。この運動を支えていったのは、山室軍平という同志社の神学部の卒業生でした。

 そんなふうなことで日本救世軍に参加し、「金森特務運動」を展開していきます。信じるということと、それを実践するということと、コインの裏表のように考えるキリスト教の立場でした。しかし、これも金森は脱会をしてしまいまして、ホーリネス教会という教会に加わります。このように彼のキリスト教の中での立場の振幅は右から左へ揺れるのです。後日談があります。彼は、このホーリネス教会も脱出します。最後は神奈川県の湘南の洞窟の中に住んで、今仙人と呼ばれて、洞窟の中で死んだのです。こういうふうに金森というのは、実に激しい生き方をしていった人物でありました。器用であった。頭が抜群に良かった。切れ者でもあった。そして、今ここで自分に大切なものは何かということを真剣に問う。問うたら自分に重ね合わせて生きていくという、そういう生き方が、金森の特徴であったと言えるかと思います。

宮川経輝について

 最後そういう人たちばかりだったら同志社の卒業生はすごいということになるのでしょうが、そうでない立場の人もいる。宮川経輝。彼は阿蘇神社の神主の息子でありました。熊本洋学校に入って、他の人たちと同じようにジェーンズの教えを受けて、ヨーロッパの思想、技術、キリスト教、これを身に受けて、そして奉教趣意書を書き上げていきますが、これに最初に署名した人物の一人であります。いずれにしましても、将来没落しかかった自分の家を再興してくれて、将来は明治国家に貢献して、立身出世して、役人になって大臣になると思っていた、この頭脳優秀なわが家の息子が、あろうことか耶蘇になったというわけですから、てんやわんやの大混乱の話であります。私なんかこの物語を読むときに、オウム真理教に駆け込んでいった頭脳優秀な東大や京大の青年たちのこととダブって考えます。もちろん私はここで、サリンをいいとか、いうことを言っているつもりは全然ない。みんなが常識と思っていることに対して、常識的でない新しい生き方を模索して、それぐらいの激しい、ドラスティックな時代の変化の中で学んだ知識を自分の中に重ね合わせて生きていくという、そういう青年たちの姿を熊本バンドの中から見るのです。そして、彼の場合も両親からせっつかれて、ご先祖さまに申し訳がないと言って、確か座敷牢に入れられました。そういう状況の中を脱出して京都にやってき、同志社で学び、そして、同志社を卒業した後に、同志社女学校、今の女子大の教頭を経て、大阪にある大阪教会の牧師を四十三年間同じ所で、一つの教会で生涯を捧げて、教会の牧師となって働きました。金森と対照的です。組合教会、同志社系の教会の組合教会という教会の三元老(海老名、小崎、宮川)の一人と呼ばれ、組合教会で重きをなした人物であります。

同志社山脈の一峰として

 こんなふうにして、同志社、初期同志社で学んだ人々、同志、新島の思想の後継者を何人か取り上げました。この人たちは、単に新島をヨイショするということだけではなくて、新島の教えというか、その思想を自分なりに消化し、そして、自分なりに実践して模索していった。自分の生き方とを重ね合わせていったという、そして、それが時代の中で大きな役割を果たしていったとまとめることができるかと思います。そのときに冒頭お話をいたしましたように、『同志社山脈』ですとか、『同志社からの道』というところにつながりますけれども、私たちもその同志社の山脈の一峰をつないでいるということになるはずであります。一三一年目の同志社、そして、これから皆さん方が卒業するとしたら、創立一三五年とか七年とかっていうような時代になるのでありましょうけれども、このような明治時代の人物の話として語られるだけではなくて、皆さん方が三十、四十になった時に、「十年、十五年前、二十年前の同志社は」、というふうに語り継がれて、継承されてゆくという、その広がりと、奥行きと、深みというものを、私たちが同志社のキャンパスの中で、それぞれの学部が違ったとしても、そのことを感じ取っていきたいものだと思います。

 かくいう私は、前にちょっと自己紹介いたしましたけれども、無茶苦茶な人生で、最初に入った大学を三年で中退して、土方をやったり、トラックの運転をやったりして、そして、神学部に三年編入で入ってきました、皆さん、こんな真似はしないでください。二年間で、たぶん、二十回ぐらいしか授業出ていないです。それでも卒業させてくれた時代だったのです。卒業と同時に、私は結婚して、お金がいりますから、京都の呉服屋さんに就職しました。三年経って、これはキリスト教を本気で勉強せないかん、と思って、大学に入り直しました。それも簡単に入れてくれませんでした。英語ができない、ドイツ語ができない。泣きながら、子供のおむつの洗濯をしながら、ドイツ語を勉強して入ったのが二十六です。そして、二年間で、修士論文を書いて、二十八で、先ほど言いました東京の霊南坂教会の牧師になったわけで、まあ、そのころを考えたら、まさか自分が学校の教師になるなんて、二百パーセントない、考えもしなかったことで、どうしてここにいるんだろうと、時々思うことがあります。その根本は同志社が鋳型にはめないで、自由に自分の生き方の中でキリスト教と、どういうふうに向き合うかということを、本当に大切にする環境であったということを時々思い起こします。同志社にはほんの短い期間しかいなかったのでありますけれども、そういう意味では同志社山脈の小石の一つかな、山脈まではちょっとよう言えませんが、山脈の砂につながる峰のすそ野の石ころの一つかなぁ、ぐらいの自覚は私の中に、感謝と共にあります。

 これらの考え方は、どこから探しても偏差値から出てくる考え方ではありません。この考え方は、もちろん悪いことではないのです。公認会計士、司法試験合格者トップテン。それは悪いことではないけれども、そのような価値観からは出てこない考え方なのだということは、ぜひ、皆さん方、この授業を通して、感じていただければありがたいと思いますし、そういうことで同志社スピリット・ウィークにご来場の皆さん方にも、同志社の意味みたいなものを感じ取っていただければ、幸いであります。

二〇〇六年六月十六日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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