奨励

生徒がカンニング、それで新島は・・・

北垣 宗治

同志社大学名誉教授
敬和学園大学前学長

講師紹介〔きたがき・むねはる〕  

生徒がカンニング、それで新島は・・・?

奇妙な題をつけたことを、少し後悔しています。しかし、なぜこんな題を選んだのか、それの説明に入る前に、私が同志社大学の若い教員であったころの思い出を一つお話ししたいと思います。
今から五十年ほども前の話ですが、同志社大学では学生募集にいっそう力を入れるために、「同志社大学」という宣伝用の映画を作りました。それを持って、当時入学試験を担当していた教務部の職員が全国をまわったのでありました。映画は新島襄による同志社英学校の設立、そして教育者・新島襄のことを簡単に描写したうえで現在に及び、同志社大学のキャンパスの有様を紹介していたのですが、はじめのあたりで新島襄に扮した役者が、画面に顔の映らない状況で、右手に握り締めた鞭できびしく自分の手のひらを打つ場面がありました。鞭は何度も何度も、力いっぱい掌を打ちました。この映画を同志社で上映しますと、観客はシーンと静まってその「神聖な」ドラマを見つめます。これは新島襄の「自責の杖」と呼ばれている歴史的エピソードでありまして、新島の烈(はげ)しい教育愛が表現される感動的な場面です。ところが地方の高等学校でこの映画を上映するときは、事情がすっかり違いました。地方では、生徒たちはその場面にくると、必ずクスクス、またはゲラゲラと、笑い出したのです。そのたびに、同志社教務部の職員は、まことに情けない、いたたまれない思いに駆られたということであります。
教育者・新島襄を語る人が決まって引き合いに出すあのエピソードが、このような反応をひきおこした理由はどこにあったのでしょうか。明らかにそれは映画の構成上の未熟さにあったというべきでしょう。つまり「自責の杖」の場面をクライマックスにもっていくための文脈、前後関係が十分に与えられていなかったということです。実はあの場面に至るまでの経過は、一口で簡単に説明できないほどのものなのです。映画の製作に携わった人びとはその背景の説明に多くの時間を割くことを嫌って、やみくもに掌をたたきつける場面を出したのです。新島襄が真剣になって自分で自分を罰している状況さえ示せば、同志社の人たちは無条件で感動します。しかし、外部ではそうはいきません。なぜ新島がそんなことをしたのか、そのとき新島の直面していたジレンマが何であったのかを説明しないでは、感動のしようがないのです。あの映画を作った人びとはそのギャップに気づかなかったのです。新島の重要なエピソードは、同志社の人びとが理解するように、外部の人びとも理解し、感動してくれるはずだという、一種の甘えに陥っていたのです。その程度まで、新島の「自責の杖」の話は、同志社で一つの神話になっていることを、私はそのとき感じました。
そこで本日の主題に入ります。「生徒がカンニング、それで新島は・・・」という半分ふざけたような題は何を言おうとしているのでしょうか。皆さん、試みにインターネットのGoogleでもYahoo!でもよろしいですから、「新島襄」と「カンニング」という二つのキーワードを入れて検索してみてください。するとたちまち、ある牧師さんの説教が飛び出します。その方は大阪府茨木市のある教会の牧師さんでありまして、ご自分の説教をインターネット上に公開しています。私が目にした説教のなかでこんなことを言っておられます。引用します。
「同志社を創立した新島襄に有名なエピソードがあります。カンニングをした学生を責めるとき、新島襄は「私が悪い」と言って、いきなり持っていた木のむちで自分の左の手のひらを打ち始めたのです。むちは折れ、手のひらに血がにじみました。それを見た学生たちに感動が走ったことは言うまでもありません。もう一つ、学生たちはカンニングがいかに重い罪であるかを初めて知ったのです。これは新島襄だけにとどまりません。わたしたちもキリストの十字架に出会って初めてわたしたちの罪の深さに気がつくのです。このときの新島襄はいわばちいさなキリストとしてそこに遣わされていたのです」。
この牧師さんは同志社のご出身ではありませんが、説教のなかで新島襄を「ちいさなキリストとしてそこに遣わされていた」と言われたことに対して、私は感謝したいと思います。しかし残念なことに、この牧師さんは新島襄のことを漠然とご自分の記憶から引用されたのでありまして、それは実際の「自責の杖」のエピソードとはかなり違ったものだったのです。同志社では新島がチャペルの時間に全校生徒の前で自分自身を罰したという、いわゆる「自責の杖」のエピソードは代々語り継がれてきました。それは一八八〇年四月十三日の朝、同志社英学校第二寮のチャペルで実際に起こった出来事であり、教育者としての新島襄を語る場合、無視することのできない重要なエピソードと見なされています。茨木市の牧師さんはその説教を二〇〇二年にされ、インターネット上に公開されたのでありましたが、過去五年間、誰もその間違いを訂正せずにきたのです。私は先月の初めにその説教を偶然読んで驚き、私の友人である、工学部の大鉢忠教授にそのことを話しましたところ、大鉢先生はその牧師さんに自ら進んで会いに行かれ、訂正してくださるよう話をつけて来られました。私は一安心しましたが、この種類の歪みは、またいつ復活するかもわかりませんので、それを防止したい一心から、今日皆さんにも新島の自責の杖の話をあらためてご紹介したいと考えた次第であります。

「自責杖」の実態

では新島の「自責の杖」のエピソードは、実際にはどのようなものだったでしょうか。同志社に学ぶ方々に、同志社の創立者・新島襄をぜひとも正しく理解していただきたいと私は心から念願いたします。同志社スピリットにアプローチする方法の一つは、新島のあのエピソードを正しく理解することだと私は考えます。さて、一八八〇年四月十三日、火曜日の朝のチャペルの時間に新島校長が劇的な振る舞いに及んだことについては、その場に居合わせた生徒のうち原田助という生徒がそのときの感動を日記に記しています。原田はのちに同志社の総長になった人です。また堀貞一という生徒は、感激のあまりその杖の破片を拾い、自分の宝として持ち続け、後年同志社教会の牧師になったときには、その破片を示しつつ、あのときの新島校長の姿を実演してみせて、聴衆に深い感銘を与えたのでありました。その折れた杖は現在、新島遺品庫に保管されており、同志社が新島に関する特別展を開催するときには、しばしば出品されていますから、皆さんもご覧になる機会があるでしょう。またこのエピソードについて神学部の本井康博教授は、博士論文となった書物『新島襄と徳富蘇峰』(二〇〇二年、晃洋書房)のなかで、極めて緻密な論証を試みられました。興味のある方は本井先生のこの本をお読みになることをお勧めいたします。時間を節約するために、新島襄における「自責の杖」の出来事をこれから私の言葉で、できるだけ正確にまとめてみたいと思います。
一八八〇年四月の初めごろ、同志社英学校では、学校当局の取った措置に不満を抱いた九人の生徒が学校に抗議したが、その趣旨が受け入れられなかったため、集団欠席するに至った。当時の学校の規則では、集団欠席した者は処罰されることになっていた。しかし彼らの集団欠席の原因となった学校側の措置にも落ち度があった。新島校長はこの問題で深く心を痛め、四月十三日、朝のチャペルの時間に、全校の生徒と教員の前でこの問題に触れ、自分は生徒諸君を責めるわけにはいかない、それにまたその措置を決めた幹事たち(前年卒業したばかりの、三人の若手の教員)を責めるわけにもいかない、しかし校則は守らねばならない、ゆえに校長自身を処罰します、と宣言して、用意した固い木の小枝で、自分の左の掌を力いっぱい打ち始めた。むちは折れ、掌に血がにじみ出た。あまりの気魄に圧倒されてすすり泣く生徒もあった。ついに前列にいた生徒が飛び出して行って校長にしがみつき、「止めてください」と叫んで懇願した。校長はなおも打ち続けようとしたが、ついに折れ、「諸君は同志社の規則の重んずべきは御解りになりましたか、又今回の事件に就き、再び評論をしないと約束なさるなら止めます」(本井康博『新島襄と徳富蘇峰』、二十五頁)と言って、チャペルの時間を終わった。
事件を私なりにまとめると、以上のようになります。ここで私が強調したいことは、一八八〇年に同志社英学校で起こった事件はカンニング事件ではなかった、ということです。私は英語の教師でありますから、このカンニングという言葉についても大急ぎでコメントせざるを得ません。日本では試験のときに学生・生徒がしでかす不正行為のことを、カンニングと言います。英語のスペリングはcunningですが、この英語の単語には不正行為という意味はまったくありません。cunningとは「ずるい」とか「狡猾な」という意味です。それでは不正行為のことを英語ではどう言うかといいますと、cheatingと言います。不正行為をする、という動詞はcheatです。cheatを英和辞典で引いてごらんなさい、「カンニングする」と出てきます。cheatingという正しい英語はどういうわけか、日本語の語彙に入ってきませんでした。その代わりに「カンニング」という日本語ができてしまい、「ならぬカンニングするがカンニング」などというふうに茶化されたりしながら、多用されるようになりました。元の英語にない意味をカタカナの日本語が獲得するという不思議な現象でありまして、私はどういう経緯でこうなったかをこれまでにいろいろと調べてみましたが、今なお自分で納得できる説明に到達していません。

「自責の杖」の背景

再び申しあげますが、一八八〇年の同志社英学校の事件はカンニング事件ではありませんでした。ではその事件の発端は何であったのでしょうか。それはクラスの合併問題だったのです。当時の二年生は英語の学力に応じて二つの組に分けられていました。従来この二つは「上級組」と「下級組」というふうに言い習わされてきましたが、本井先生の調査によると、「正則組」と「変則組」という言い方もあったようです。たまたま当時のキリスト教会がもっと教会の働き手を必要とするようになりましたので、同志社英学校ではキリスト教の伝道者を短期間で急いで養成しなければならなくなったという事情があり、そのため教室が不足してきたのです。そこで二年生の二つの組を合併することによって、教室不足を解消することに決めたのでした。それを十分生徒に説明していないうちに合併のことが生徒に洩れたために、上級組はプライドを傷つけられてひどく怒り、抗議文を学校に提出し、三日間のストライキに入りました。新島校長はストライキした生徒たちを呼んで、誠心誠意説得に努めました。彼らはようやく校長の説得に応じてクラスに出るようになりましたが、校則を破った集団欠席者たちを処罰しないのはおかしいといって、別の生徒たちが騒ぎだしました。新島校長が直面したジレンマはこのようなものだったのです。
この集団ストライキを背後でけしかけていた上級生がいました。それは当時すでに五年生で、卒業を二ヵ月後にひかえていた徳富猪一郎、のちの徳富蘇峰です。では徳富はなぜ下級生たちにストライキをけしかけたのか。それは幹事である三人の若手の日本人教員の一人、市原盛宏を困らせ、苦しめてやろうという魂胆があったからです。しかし本当に苦しんだのは市原よりは新島校長の方でした。ではどうして生徒である徳富と教員である市原が対立するようになったのか。しかも市原盛宏と徳富猪一郎とはどちらも熊本洋学校で学んだ先輩後輩の間柄でした。同志社にやってきたいわゆる熊本バンドは、先輩組と後輩組との間に考え方の違いが生じていたのでした。このように、一八八〇年に発生した同志社最初の学園紛争は、非常に根の深い問題だったのであります。興味のある人は本井先生の『新島襄と徳富蘇峰』をお読みください。
ただ、概略を申しましたように、事件の内部事情は簡単ではありません。当時の教員会議の記録は、教員会議書記であるラーネッド宣教師(ラーネッド図書館のラーネッドです)が取っていました。それを見ますと、教員会議ではストライキをした生徒に一週間の禁足、つまり授業出席停止という処罰をいったん決めたことがわかります。しかし、この処置は後に取り消された、という注釈を、ラーネッドは書き入れています。教員会議の決定を取り消したのは新島校長であったとしか考えられません。教員会議で議論したうえで取り消したのであれば、忠実な記録者ラーネッド先生のことですから、そのように記録したはずです。当時三十七歳であった新島校長は、このときは民主的に行動せず、問題を解決するために独断専行したと考えられます。また四月十六日の教員会議記録からわかることですが、この事件で新島は甚だしく憔悴したのであり、教員会議として、新島校長に休養するよう申し出ることを決議しています。それを校長に伝える役目は市原と、そこまで記録されています。
一般論として申しますと、人間というものは、得てして複雑なこと、困難なことを避け、単純なこと、容易なことにつくという傾向があります。大多数の人は体のエネルギーを使いたがりません。階段を昇るよりはエスカレーターに乗る方を選びます。体だけではなく、頭を使うことにも同じことが言えます。イギリスの文豪サミュエル・ジョンソンの言葉を引用するならば、「人間というものは知的な労働をとても嫌がるものだ。知識が簡単に入手できる場合ですら、多くの人はちょっとの苦労でそれを入手するよりは、無知のままでいることに満足する」というのであります。このようにして大多数の人は狭い門から入らないで、広い門から入ります。イエス・キリストが山上の説教のなかで「狭い門から入りなさい」と言われたことには、無限の重みがあると私は思います。一八八〇年四月に同志社英学校で起こった事件にしても、その背景は簡単に見えて実は極めて複雑な、根深いものがあったことを説明いたしました。私たちはともすれば、事件の複雑な経過を辛抱強く辿ることを避け、単純化するばかりか、歪めてしまうかもしれません。すなわち同志社英学校の生徒がカンニングをした、新島校長はそのことを自分の責任と感じ、生徒たちの前で自分を罰した、となるかもしれません。これなら単純明快な話です。そうなったことは案外自然な成り行きだったのかもしれません。新島に関する神話がそのようにして作られていくとすれば、これはゆゆしいことであり、警戒すべきことであると私は思います。

ドストエフスキー的な新島

同志社の生徒がカンニングをした、それで新島校長は自分の罪だとして自分を罰した。これが新島に関する最新の神話なのです。神話であって、歴史的事実ではありません。この神話が消滅することを強く願う私ではありますけれども、他方において、この神話には不思議な魅力があることを告白せざるを得ません。茨木市の牧師さんはあの新島神話を実に巧みに利用されました。念のためにもう一度、牧師さんの言葉を引用してみます。「カンニングをした学生を責めるとき、新島襄は『私が悪い』と言って、いきなり持っていた木のむちで自分の左の手のひらを打ち始めたのです。むちは折れ、手のひらに血がにじみました。それを見た学生たちに感動が走ったことは言うまでもありません。もう一つ、学生たちはカンニングがいかに重い罪であるかを初めて知ったのです。これは新島襄だけにとどまりません。わたしたちもキリストの十字架に出会って初めてわたしたちの罪の深さに気がつくのです。このときの新島襄はいわばちいさなキリストとしてそこに遣わされていたのです」。私の意見を申しますと、この神話が魅力的であるのは、ここでは新島が実に「ドストエフスキー的な新島」だからであります。「実存主義的新島」といっても差し支えありません。
皆さんはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という名作をお読みになったことがありますか。あれは凄い作品です。サマセット・モームはあの作品を「世界の十大小説」の一つに数えています。この作品が発表されたのは一八八〇年、奇しくも新島襄の「自責の杖」事件の起こった年です。私はこの大作の全体をここで論じるつもりはありません。あの作品のなかにゾシマ長老というキリスト教の聖者が登場しますが、そのゾシマの若いころの話のなかに、マルケールという兄の話が出てきます。マルケールはもともと親に平気で口答えするような悪い息子でしたが、十八歳くらいのとき病気になり、教会にしばらく通ってから、がらりと人が変わってしまいました。彼は自分を罪人として意識し、こんなことを口走るようになりました。「・・・僕たちは誰でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。そのうちでも僕が一ばん罪が深いのです」(岩波文庫版Ⅱ、一五六頁)。マルケールの母親は、息子がそのようなことを口走るようになったのは、もうじき死ぬ、その前兆ではないかと、不安に襲われます。マルケールはさらにこのように言います。「ねえ、お母さん、まったくどんな人でもすべての人に対してすべてのことについて罪があるのです。・・・まったく僕たちは今までこの世に暮していながら、どうしてこれに気がつかないで、腹を立てたりなんかしたのでしょう?」(Ⅱ、一五七頁)「お母さん、大事なお母さん、僕が泣くのは嬉しいからです。決して悲しいからじゃありません。僕がすべての者に対して罪びととなるのは自分の[勝手]ですよ。ただ腑に落ちるように説明が出来ないだけなんです。だって、皆の者を愛するにはどうしたらいいか、それさえわからないんですもの。僕はすべての人に罪があったって構やしません、そのかわりみんなが僕を赦してくれます。それでもう天国が出現するのです。一たい僕はいま天国にいるのじゃないでしょうか?」(Ⅱ、一五八頁 訳文一部修正)
私は『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだときから、このマルケールの言葉が頭にひっかかってしまい、こんにちに及んでいます。この小説では実にとんでもない人物たちが、とんでもないことをやらかします。カラマーゾフ家の父親はフョードル・カラマーゾフといいまして、大変なおっちょこちょいで、大変な酒飲みで、淫蕩(いんとう)な男です。フョードルが初めてゾシマ長老に会ったとき、ゾシマは彼に向かって静かにこんな忠告をする場面があります。「どうかご自分の家におられるつもりで、遠慮なさらぬようにお願いしますよ。まず第一に自分自身を恥じぬことが肝要ですぞ。これが一切のもとですからな」(Ⅰ、一〇一頁 訳文一部修正)。カラマーゾフ家の長男はドミートリイといいまして、「大酒飲みで、ほら吹きで、弱い者いじめが好きで、途方もない濫費家で、不正直で、恥というものをぜんぜん知らない」(モーム『世界の十大小説』(岩波文庫版、Ⅱ、二二八頁)男です。この父と息子はともにグルーシェンカという女を烈しく追いかけています。父と子が互いに恋敵なのです。カラマーゾフ家の次男はイヴァンでありまして、「ひじょうに頭がよく、世故にたけ、何としても立身出世せねばと決心している」(モーム、Ⅱ、二二九頁)野心家です。イヴァンは徹底した無神論者で、理性の人です。そしてカラマーゾフ家の三男がアリョーシャで、彼は善良で、親切で、優しく、敬虔で純真な男ですが、世間的には極めて無能です。ゾシマ長老に可愛がられているのはこのアリョーシャであり、ドストエフスキーはこの三男アリョーシャの物語を発展させるつもりだったのに、それができず、結局『カラマーゾフの兄弟』は作品としては未完に終わったといわれています。おまけに父フョードルには三人の息子以外に、別の女に産ませたスメルジャコフという子どもがあり、スメルジャコフはカラマーゾフ家で料理人兼下男の仕事をさせられています。
父親のフョードル・カラマーゾフは、熱愛しているグルーシェンカが自分の思いを遂げさせてくれるならば与えるつもりで、ひそかに三〇〇〇ルーブルの金を用意しているのですが、彼はある日無残にも殺されてしまいます。犯人は父親と女を争っていた長男のドミートリイにちがいないということで逮捕され、裁判にかけられます。彼はしばしば、あんな父親は殺してしまう、と人前でいきまいていたからです。ドミートリイに死刑判決が下ることは時間の問題でした。ところが奇妙な出来事が起こりました。彼の庶子であるスメルジャコフがフョードル殺しと、三〇〇〇ルーブルの金を奪ったことをアリョーシャに告白したうえで、自殺してしまったからであります。
『カラマーゾフの兄弟』を読んだことのない方々のために、少しだけ荒筋をお話ししたのですが、それでも不思議なことに、私にとってずっと心に刻みつけられた部分は、アリョーシャに精神的な影響を与えたゾシマ長老の兄マルケールに関る話でありました。あの長い小説の筋からすれば、脇道のはずれに位置するエピソードにすぎないのですが、マルケールの「人間は誰でもすべての人に対して、すべてのことについて罪がある」という思想は、キリスト教の重要な人間理解であることに気づかせてくれます。このような人間理解なしにキリスト教を理解することはできません。マルケールは母親や弟だけでなく、戸外でさえずっている小鳥たちにまで感謝の言葉を発しています。この罪人意識は、すぐれてドストエフスキー的です。ですから、茨木市の牧師さんが描いてみせた新島襄は、ドストエフスキー的な新島襄だと私が言うのは、そういう意味においてであります。新島はストライキをした生徒たちに対して自分自身の罪を感じていたのでしょう。新島はまた、生徒に十分説明することなしに、二つのクラスの合併を決めてしまった若い教員たちに対しても、自分自身の罪を感じていたのでしょう。しかし、新島襄における罪の意識は実際にはどのようなものであったのか、というふうに問題を改めて設定するとき、私たちは極めて重要な問題に直面いたします。なぜならそれは、新島襄自身のキリスト教信仰は何であったかを問うことになるからです。
ところで、「自責の杖」の出来事が起こったとき、現場にいた生徒・教員は雷に打たれたような、粛然とした雰囲気であったと伝えられていますが、興味深いことに、その全員が同じ反応を示したわけでありませんでした。事実新島は、杖を振り上げる前に「宣教師諸君、御免」と言ってから左手を打ち始めたと伝えられていますし、なかでもラーネッドは新島の行動を苦々しい顔をして見ていたといいます。最も注目すべきは徳富猪一郎の反応です。
徳富蘇峰は新島の死後も、その長い生涯を通して同志社との関係を持ち続けてきました。蘇峰は第二次大戦後の一九五二年五月二十一日、八十九歳のとき今出川キャンパスの女子部、栄光館における同志社大学のアセンブリー・アワーで講演しました。当時大学院生だった私もそれを聞きにいきました。そのとき蘇峰は日本の近代史を概観して、一言にしてその特質を言うならば、それは「取る」歴史であった、と述べました。そして、「福沢諭吉は取ることを教え、新島襄は与えることを教えた」のだという、見事な比較論をやってみせました。八十九歳であるにもかかわらず、蘇峰の頭は少しも衰えていないことに私は驚いたことを思い出します。その日の午後、蘇峰は教職員を対象として行われた同志社アーモスト館での懇談会に臨み、「新島先生を語る」と題して出席者からの質問に答えたのでした。私は学生でしたからその会に出席しませんでしたが、出席した先生方の話では、蘇峰はその席で驚くべき発言をしたというのです。法学部の田畑忍教授が蘇峰に向かって、自責の杖の場面に蘇峰先生がおられたかどうかを質問しました。蘇峰は、おりました、と答えました。そこで田畑先生が重ねて、そのときどのように感じましたかと尋ねると、蘇峰は「ああ、新島先生の病気がまた出たわい、と思いました」。続けて「あれは新島先生の芝居だった、などという説もありますが、どうですか」という質問に対して、蘇峰は「ああ、芝居も芝居、大芝居。けれども役者がちがう。先生は役者が四枚も五枚も上でした」。これは、まことに驚くべき発言であったといわなくてはなりません。
私はあの座談会になぜ自分も出席させてもらわなかったかと、今にしてくやしい思いがしますが、一九五二年当時、私の新島襄に対する関心はまだなまぬるいものであり、栄光館での蘇峰の講演に一応満足したという程度でした。当時の私はまだ未熟でした。午後の座談会における蘇峰の爆弾的発言を興奮しながら私に伝えてくれたのは、オーティス・ケーリ先生でした。ケーリ先生は私よりも早くから、新島にも蘇峰にも深い関心を寄せていました。新島の教育愛の劇的表現としての「自責の杖」という出来事を、同志社の生んだ巨人的存在である徳富蘇峰が、あれは新島の病気であり、芝居だったと平気で断言したことは、まことに興味深い事実だといわざるを得ません。蘇峰の『新島襄先生』(同志社創立八十周年の記念出版物)のなかに、この日の座談会の抄録が載っていますが、私がただいま紹介した爆弾的発言の部分は入っていません。これは同志社の編集者がわざと省いたのだと私は想像いたします。なぜならあのくだりが蘇峰の言葉として活字で残りますと、定説化してきた新島像のぶち壊しになりかねないからです。いま触れました蘇峰の『新島襄先生』という本のなかで、彼は少なくとも五回あの出来事に触れています。すなわち新島の克己心を示す例として一度、そして三度は自分自身の同志社退学の事情を説明するくだりにおいてであります。しかしはっきりしていることは、徳富蘇峰は「自責の杖」の出来事に新島襄の教育愛を見てはいない、ということです。
「自責の杖」について思い出すことがもう一つあります。一九九八年に紀伊国屋書店は「学問と情熱―二一世紀へ贈る人物伝」というシリーズものの第十巻として、「新島襄」の伝記のビデオを作りました。監修者は同志社大学文学部の沖田行司教授でした。これは過去三十年間の新島研究の成果を広く取り入れ、同志社にある資料をふんだんに利用した、すぐれた作品でした。新島が国禁を冒して脱国した話や、ラットランドのグレイス教会における、アメリカン・ボードの年次大会での募金アピール等を含めて、新島の生涯が正確に、しかも興味深くまとめられていました。面白いことに、このビデオには「自責の杖」のエピソードが入っていないのです。私は初め、それを省略したのはおかしいと思いましたが、考え直しました。つまり、自責の杖のドラマを入れるには、どうしても複雑な背景の説明が必要になること、それではそのエピソードだけにスペースを取られてすぎて、構成上のバランスが崩れてしまう。それで、涙を呑んで「自責の杖」をカットしたのではないか、と私は推測しました。それは案外賢明な省略だった、と私は思った次第です。
新島襄における罪の理解の問題に入る前に、少しだけ別の角度から、罪について考察してみることにしましょう。鈴木大拙という日本を代表する仏教哲学者がいました。大谷大学の教授を務めつつ、禅の精神、禅の文化について英語ですぐれた本を書き、アメリカの諸大学でも講義をした人です。あるアメリカの大学で彼が講義をしたとき、意地の悪いアメリカ人がこんな質問をしました。「先生は原罪(Original Sin)を、どういう意味だとお考えですか」。原罪というのは、「人間の腐敗または悪への傾向はすべての人間が受けついでいる傾向であって、人類の始祖アダムとエバの堕落の結果、人類に遺伝したものとされる罪」のことを指します。仏教学者に向かってキリスト教の質問をぶっつけたわけです。そのとき鈴木大拙博士は落ち着き払ってこう答えたそうです。「あなたがそこに存在していること、それが原罪です」と。見事な答えではありませんか。そしてラディカルな答えでもあります。それはまた、ゾシマ長老の兄マルケールの思想に通じる考え方でもあります。
新島襄全集の第二巻は宗教編でありまして、新島が残した説教の原稿やメモを編集したものです。新島襄における罪の理解がどのようなものであったかを知るためには、この第二巻を調べてみる必要があります。私はそのなかの二つの説教を取り上げてみたいと思います。第一はこの第二巻の編集者が「罪トハ何カ」という仮の標題をつけている説教でありまして、新島はそのなかでこのように言っています。彼の言葉どおりに引用します。

扨罪ト申ハ他ニ非ス、乃チ神ノ命令ニ背キ、或[ハ]人倫ノ道ヲ乱シ、或ハ己ノ心ニ於テ済マサル[ト]思フ事ヲ犯スヲ皆罪ト云(Ⅱ、二八四)

 やさしい言葉に直しますと、新島は、罪とは神の命令に背くこと、または道徳に背くこと、または自分の良心に背くことだ、というのです。私はここに新島の健全な考え方が表明されていると思います。新島はここで、まず神との関係、人間の道徳との関係、そして自己の良心との関係において罪を規定しています。新島はこれに続けて、もしも神の命令というものがなく、人間の道徳もなく、自己の内部に良心というものがないのであれば、罪もまた存在しないはずである、といいます。これは新約聖書のパウロの「ローマ人への手紙」に表明された思想に基づく考え方です。新島は、全知全能の神はあらゆる人間の心の隅々までお見通しであり、人間は神のまなざしから逃げることはできない、神、すなわち「独一真神」の神は正義の神であり、神は人間の犯すどのような罪もお見通しである、そして神は必ずその罪を罰し給うのであり、その罰を免れるためには祈るしかない、だから主イエスが弟子たちに教えた祈りのなかにある「我等に罪を犯すものを我等が許すごとく、我等の罪をも許したまえ」という文句は、そのような観点から理解すべきことを説いています。
新島のもう一つの説教には「十字架上の贖」という標題がついています。新島は先ず原罪のことを説明し、その上で、「今ノ世ノ中ノ人ヲ考ヘ[レ]ハ満天下心ニ罪悪ヲ犯サルモノハ殆アルマシト云フトモ可ナラン」(全集Ⅱ、三三七頁)と断言します。すべての人はすべてのことについて罪がある、というドストエフスキー的命題が新島においては多少ゆるやかな形で顔を出しています。そして、イエスが十字架上で死を遂げたのは、すべての人間のすべての罪を神はご自分の独り子イエスを十字架につけることによって、処罰されたのであること、それゆえ、イエスが私たち一人ひとりを救うために十字架上の死を遂げたことを信じるならば、私たちは救われるのだという、福音主義のメッセージを新島ははっきりと述べています。言い換えれば、神はその独り子の血でもって、あらゆる人間のあらゆる罪をゼロになさった、つまりあがなってくださったという考え方です。正義の神はまた大いなる愛の神であるのです。イエスはその意味において救い主、すなわちキリストなのであります。
同志社においては、一八八〇年の事件は、新島が十字架の道を歩まれたキリストにしたがって、ストライキした生徒たちの罪と、落ち度のある措置を取った学校側の罪とを一身に引き受けて、自分で自分を厳しく処罰したのだ、と解釈してきたのです。ストライキをした生徒たちは、このことを一生涯忘れなかったに違いありません。否、その場に居合わせた大多数の生徒は、あの瞬間新島に現われた、魂をゆり動かすほどの魔力を感じ取ったのでした。茨木市の牧師さんがいみじくも述べたように、あのときの新島は小さなキリストとして遣わされていた、という解釈は、私自身も喜んで受け入れたいと思います。

二〇〇七年十一月六日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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