奨励

同志社カレッジソング百年―新島襄とW・M・ヴォーリズ

本井 康博 同志社大学神学部教授
奨励者紹介〔もとい・やすひろ〕 研究テーマ
日本近代プロテスタントの歴史(特に新島襄、同志社)

「カサブランカ」で連想するもの

 「カサブランカ」と聞いて、皆さま、何を連想されますか。思い浮かぶ答えは、少なくとも三つはありそうです││園芸好きならユリ、地理通ならモロッコ、そして映画ファンなら「君の瞳に乾杯!」、でしょう。
 これに四つ目の答えを用意するとしたら、どうなるか・・・同志社人なら「ワン・パーパス」、といきたいものです。「カサブランカ」というアメリカ映画で、突然、「ワン・パーパス」(One Purpose)が流れます。もっと正確に言えば、同志社カレッジソングと同じメロディーが流れるのです。
 それを確認するために、数年前、私はビデオを借りて、三回続けて見ました。見てびっくり、すごい名画ですね。大人のラブストーリーですから、最近の世代の受けはどうなのでしょうか。学生なら沢田研二のヒット曲「カサブランカ・ダンディー」(一九七九年)の方でしょうか。
 とにかく、年配者には、この映画は感動もんです。第二次世界大戦中の作品(一九四二年)ですから、もはや古典と言えるでしょうが、とにかく映画史上に残る不朽の名作であることは、間違いありません。

ハンフリー・ボガート

 ストーリーもさることながら、主演のハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンという天下の美男美女がいい。このビッグ・カップルの魅力は圧倒的ですね。おまけに私と同じ歳なのです、映画が。アメリカでの初公開が私の誕生日の二日前、というのも、何かの縁(えにし)でしょう。
 そんな私事以上に、人知れずこの映画に思い入れが強いのも、主演のボガート(一八九九年~一九五七年)が新島襄の後輩でもあるからです。フィリップス・アカデミー中退です。新島が在学してから、半世紀後のことです。どうやら退学処分のようで、ボガートはやむなく、十八歳で海軍に入ります。
 退学理由は、成績不良、校則違反、進路変更・・・といろいろ取りざたされております。その中でもっとも面白い伝承は、校長を池(Rabbit Pond)に放り込んだから、というのです。真偽は知りませんが、話としては面白い。
 私は一昨日、新島足跡ツアーで、ボストンから戻ったところなんですが、八日前にアンドーヴァーを訪ね、新島とボガートの母校を見学してきました。例の池は、校内にありました。私はボガートの「非行」を妄想しながら、「現場」はどこかな、と池の周辺を刑事のように歩き回ってみました。
 ちなみに、この池は冬には凍りますから、近所の子どもたちの格好のスケートリンクでした。新島もおそらくトライしたはずです。

「ラインの守り」

 おっと、脱線しました。「カサブランカ」の映画に戻ります。ボガートが経営する酒場のシーンでナチス党員たちが歌う歌、あれが「ラインの守り」(Die Wacht am Rhein)というドイツの歌です。ドイツ国歌のように(・・・・)愛唱された国民歌です。これに対抗して、フランス人の客たちが歌い出すのが、「ラ・マルセイエーズ」、フランス国歌です。酒場はこうしてがぜん、両国国歌で相互に撃ち合う歌合戦の戦場に急変します。
 戦闘の結末は、と言いますと、ドイツ軍の負けです。「ラインの守り」はフランス国歌の大合唱に掻き消され、やがて消え入ります。反ナチス映画の「カサブランカ」でも、もっとも印象的なシーンのひとつです。
 ちなみに、この映画のステージとなったのがカサブランカで、当時はフランス領モロッコの首都でした。街はナチスの支配から逃れるためにアメリカに亡命するヨーロッパの人たちでごった返していました。
 当初、映画監督は件(くだん)のシーンの挿入歌として、ナチスの党歌(Horst-Wessel -Lied)を考えていたようです。が、著作権にひっかかるために「ラインの守り」に変更したといいます。
 だから、このシーンをビデオなどで見た同志社大学の学生たちが、「ラインの守り」、すなわち「ワン・パーパス」をナチスの歌(・・・・・)と即断しても、ちっとも不思議ではありません。その結果、「ナチスの歌を同志社が歌っていいんですか」と時々、突っ込まれます。

ラインの危機

 事実は逆です。もともと「ラインの守り」は、ウイルヘルム(K. Wilhelm)という音楽家が一八五四年に、シュネッケンバーガー(M. Schneckenburger)という詩人の作品に曲をつけたものです。ドイツ人好みの作品に仕上がったので、あのビスマルクからも誉められて、個人的に謁見もされています。さらにその数十年後に、今度はナチスに熱烈に見初(みそ)められます。
 そもそも「ラインの守り」は、十九世紀に隣国フランスとの間で勃発した国境紛争、いわゆる「ラインの危機」の副産物です。だから、その内容は「ライン川を敵国から守れ」といった具合に、過激というか、戦闘的です。ざっくばらんに言ってしまうと、勇ましい軍歌めいた曲です。だから、と言うべきでしょうが、ドイツ人の心情によく訴える曲ですね。
 ナチスと言えば、もちろん同志社のカレッジソング制定以後です。言い換えると、この曲がナチスから持てはやされる前に、カレッジソングはすでに生まれています。時間的な差をことさら強調して言えば、ナチスがカレッジソングをパクッた形になっています。決して逆ではありません。

エール大学の校歌

 「ラインの守り」という曲は、戦闘的、かつ行進曲風の勇ましいリズムですから、ナチス、あるいはドイツならずとも愛好者が結構いました。早い話が、アメリカのエール大学の校歌(一八八一年作曲)、「輝かしき学生時代」(Bright College Years)がそうです。歌詞はもちろん英語、しかも中身は替え歌です。
 デュランド(H. S. Durand)という四年生がエールのグリークラブのために作詞したのです。もともとエールは、「歌う大学」の異名をとるほど合唱が盛んで、グリークラブもハーバード大学、ミシガン大学に次ぐ古参組です。
 デュランドの作詞は、原曲が全くの軍歌調であるのに対し、こちらは完全な学生歌です。一言で言えば、御茶(おちゃ)らけっぽい、コミカルな内容です。当時のエールは、男子校ですから、曲も歌詞も男声合唱団(グリークラブ)にはもってこいの曲だったと思います。ちなみに、現在は共学ですから、混声合唱団です。
 その曲をさらに借りたのが、実は同志社なんです。つまりドイツの国民歌謡を、エールを媒介にして孫引きしたというわけです。
 だから、メロディーは、「ラインの守り」、「輝かしき学生時代」、「ワン・パーパス」の三曲とも、そろって同じなんです。つまり、作曲者はカール・ウイルヘルムで同一人物、ただし歌詞はそれぞれ別人の作、というわけです。

ヴォーリズ

 さて、同志社カレッジソングの歌詞を作ったのは、ヴォーリズ(W. M. Vories)という二十八才のアメリカ人青年です。このすぐ近くの近江八幡(おうみはちまん)を拠点に、戦後しばらくまで活躍されましたから、滋賀県では知名度は高いと思います。私も彼の輪郭については、以前『同志社時報』(一二一、二〇〇六年四月号の「同志社人物誌」九三)で紹介しました。
 実は今日の講演は、「ヴォーリズと滋賀県」について、というご注文でした。が、せっかく同志社卒業生の方々がお集まり下さるのですから、同志社がらみの話しがいいんじゃないか、というわけで、焦点をカレッジソングに合わせたお話に限定させてください。しかも、来年は制定百年なんです。話題としてもタイムリーかと思います。そこで、まず、制定の経緯です。

同志社グリークラブ

 二十世紀を迎えたころから、同志社の学内では音楽愛好の学生たちが男声合唱(男子校ですから)を楽しむようになりました。ところが、「男が歌なんて」という社会風潮が強いうえ、合唱音楽が普及していない時代のことですから、讃美歌以外、あまり適当な楽譜がありません。
 こういうときに頼りになるのが、宣教師です。ギューリック(S. L. Gulick)という外国人教員が、エール大学の歌集(男声合唱曲集)を調達してくれました。はたしてどの歌集か。私は前から関心があってその(・・)本を探しているんですが、なかなか特定できません。
 最近、入手した歌集で言いますと、『イェール・ソング』(Yale Songs, 一八八九)と『イェール・グリー』(Yale Glees, 一八九三)というのがあります。後者には「夏の彼女」(My summer girl)を始め、楽しい曲があるなかで、なぜか、両者とも「輝かしき学生時代」の楽譜が、見当たりません。アングラ曲だったんでしょうかね。もちろん、戦後の歌集(Songs of Yale, 一九五三)では、巻頭に出ております。
 それはともかく、イェールの歌集にすっかり魅了された部員たちは、自分たちにもこの種のハモレル曲がほしいと思うようになり、ギューリックに依頼に及びます。
 そこで彼は、おりから京都三条のYMCA会館工事を担当していた青年建築士、ヴォーリズに曲の作成を頼んでくれました。ヴォーリズは、コロラド大学(リベラル・アーツ教育をするカレッジです)に在学中から礼拝奏楽者として音楽を愛好するだけでなくて、詩作もし、さらに歌集も出していましたので、適任者と思われたのです。
 そのヴォーリズが選んだメロディーが、エールの校歌だったというわけです。「最も青年らしく、元気に満ち満ちた」曲だからというのが、選曲の最大理由です。同志社教員のカーブ(C. S. Cobb)も同意してくれた、といいます(W・M・ヴォーリズ「ワン・パーパスの回顧」、『同志社校友同窓会報』一九五二年二月二十八日)。

同志社の宣教師との交流

 ヴォーリズは、同志社の教員でも同志社系ミッション(アメリカン・ボード)の宣教師でもありません。ですが、京都では同志社の宣教師と懇意にしていました。ロンバード(F. Lombard)の家に寄宿し、食事はデイヴィス(J. D. Davis)邸で世話になるといった具合です。だから、同志社から校歌作成の依頼を受けた時は、「非常に光栄欣快」であった、と告白しています(同前)。
 ちなみにヴォーリズと同志社を結ぶ線として、同志社で教授をしていたエールの卒業生がよく話題になります。たとえば、D・W・ラーネッドです。が、彼を始め、同窓生が積極的にカレッジソングの制定に動いた形跡は、ほとんどありません。ラーネッドなど、「輝かしき学生時代」制定以前の卒業ですから、校歌は知らない、歌えない、という状態だったはずです。それに、デイヴィスはビロイト大学卒、カーブやロンバードはアーモスト大学。当のギューリックはダートマス大学卒です。やはり、エールは蚊帳(かや)の外です。 平和 「ワン・パーパス」の制定は一九〇九年ですからナチスよりもずっと早いわけです。おまけに歌詞もまったく異質です。「ラインの守り」の歌詞は、国境紛争にまつわる、実にきな臭い言葉の連続です。
 歌詞が似ているのは、実はエールと同志社の校歌です。前者の三番は、For God, for Country and for Yale! で終わっています(ちなみに、この箇所に来るとグリーのメンバーは、白いハンカチを左右に振りながら、歌い終わる習わしになっています)。これに対して、後者の二番、三番はFor God, for Doshisha and Native land! そして四番は、For God, for Doshisha and Brotherhood! で締めくくられています。
 一方、「ワン・パーパス」の歌詞は「ラインの守り」とは内容的にまったく逆です。極めて平和的なんです。とりわけ三番と四番の歌詞がそうです。だから、ヴォーリズは、全曲通して歌うのが大変で省略したい場合は、こう注文を出します。
 「それなら一番と四番にして下さい。ぼくは四番の最後にある“For God, for Doshisha and Brotherhood!” が歌って欲しいなぁ」と(西邨(にしむら)辰三郎「同志社カレッジソングと一柳米来留先生」六七頁、『同志社時報』六五、一九七八年十一月二十九日)。かねて「合唱する時は必ず四番も歌って下さい」と訴えていたことが、思い返されます(「ワン・パーパスの回顧」)。欲を言えば、エールのグリーのように、ここはハンカチでも振って歌ってほしいところでしょうか。
 それはともかく、この事から鮮明に分かるように、ヴォーリズは徹底して「世界的兄弟主義」です。自分の会社のネーミングでも、近江兄弟(・・)社です。カレッジソングで言えば、Brotherhood、あるいは、oneness of our Earth です。「人類は皆兄弟」とか、「世界はひとつ」なんてことを、日露戦争直後に高唱してるんですから、驚きです。

讃美歌「平和への祈り」

 カレッジソングの歌詞が平和的であることを示す確かな事実が、もうひとつあります。ヴォーリズは、讃美歌もいくつか作詞しております。その中のひとつが、二三六番として前の讃美歌集に収録されていました(現行の『讃美歌二一』には、入っておりません)。この讃美歌は、カレッジソングが作詞された前年の作品で、平和を歌っております(佐野安仁「カレッジソングの作詩者W・M・ヴォーリズと同志社」五一頁以下、『同志社スピリットウィーク講演集 二〇〇七年秋』、同志社大学キリスト教文化センター、二〇〇八年十月)。
 もう少し詳しく言いますと、「平和への祈り」(A Prayer for Peace)というタイトルが付けられています。後にヴォーリズ自身が、『湖畔の声』一〇、一九五四年)で作詞した動機を語っています。
 「この歌が創られたのは、一九〇八年のことでした。その時、外字紙の中から、ヨーロッパで進行しつつある軍備拡張の記事に目を留めました。そこで、私の信仰的な愛情から、突然、戦争に対する嫌悪の情にかられつつ、私たちのすさんだ世界に平和を生み出し、それを保つためには、一体何が必要であろうか、ということに関して、綴って行く暗示を受けたのです」(佐々木伸尚『今生きるヴォーリズ精神』一七七頁、晃洋書房、二〇〇五年)。
 「ワン・パーパス」はこの翌年の作詞です。これら二曲が、ほぼ同時に作詞されたことは、決定的に大事です。注目すべきです。そりゃそうでしょう、同時期に一方で平和を歌い、他方で戦争を煽る。そうじゃなくて、いずれも平和への真摯(しんし)な祈りが込められています。すぐれて統一的です。「ワン・パーパス」は、讃美歌「平和への祈り」のスピリット(・・・・・)をフルに引き継いでおります。
 さらに、本筋からちょっと外れますが、依頼に及んだギューリック自身も平和運動家として名を残しています。帰国後、「排日法案」反対運動や、「平和の人形」交歓運動などで活躍しました。

「火砲の雷」

 要するに「ワン・パーパス」と「ラインの守り」とは、目指すもの、訴えたいメッセージに天地ほどの違いがあります。だから、「カサブランカ」の例のシーンを見て、たじろいだり、自己規制したりする必要は、まったくありません。この点、「ラインの守り」は不幸です。戦後のドイツでは「禁句」ならぬ「禁歌」になっていますから。
 これに対して、わがカレッジソングは、二十一世紀になっても、安心して高らかに歌えます。というよりも、カレッジソングに込められたヴォーリズの願いと理想は、いまだに実現されていない、というべきでしょう。
 実は「禁歌」にすべき歌は「ワン・パーパス」ではなく、他にあるんです。「火砲(ほづつ)の雷」です。実は、これが忠実な「ラインの守り」の翻訳歌なんです。訳者は里美義(ただし)です。
 早くも一八八九年十二月に東京音楽学校(今の東京芸術大学です)が出した深沢登代吉編『中等唱歌集』に三部合唱曲として載っています。目次には「ドイツ国歌(Die Wacht am Rhein)」と明記されています。ちなみに、その次の曲は、今も愛唱されている「埴生(はにゅう)の宿」(これも、里美義の作詞)です。これらは、いずれも尋常中学校の音楽授業で盛んに歌われたと思います。
 日本語の題名からも窺(うかが)えるように、「火砲の雷」こそ軍歌です。「火砲の雷なり、矢玉の雨ふる、筑紫(つくし)の海辺を、誰かは守れり」が一番の歌詞です。その後に「恐るな国民(くにたみ)、恐るな国民、大和男児守れり、大和男児守れり」とリフレイン(四番まで)が続きます。「ラインの危機」ならぬ、「筑紫の危機」です。まさに元歌の換骨奪胎、というか日本バージョンですよ。日清戦争まであと五年、という時期です。ヴォーリズは、まさかこんな替え歌が先に創られているなんて、思わなかったと思います。
 「ラインの守り」にしろ、「筑紫の危機」にしろ、軍歌ですから、いまではおおっぴらに歌うのが憚られます。それに比べると、「ワン・パーパス」の歌詞は、平和と友情そのものです。仮に、もしも内容的に問題があれば、同志社大学学歌(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)に切り替えるという手もあったはずです。私はこの曲も好きなんですが、いまだに学歌は校歌を越えられません。
 「ワン・パーパス」が今でも愛唱される理由が、曲と歌詞のどちらにあるのか、私には断定できかねます。確かなことに、延命どころか、ますます人気度を上げています。ということは、少なくとも(オジンギャクで言えば)「歌詞に瑕疵(かし)はない」ということですよ。
 その歌詞にしても、児玉実英(さねひで)教授の翻訳があるにもかかわらず、やはり原語(英語)が好まれています。「日本一、覚え難い校歌」と揶揄(やゆ)されながらも、です。まるで宣教師 それにしても、この歌詞の本来の意味、というか真意をさらに深く探るには、作詞家の本領を知ることが大事です。ヴォーリズが宣教師に負けず劣らずの人物であることを認識する必要があります。
 彼は、最初は建築家志望でしたが、途中から宣教師志望に転換いたします。学生時代から「海外伝道学生奉仕団」(SVM)の熱心な活動家、ならびにYMCAの会員でもありました。日本(滋賀県です)に来ることになったのも、東京YMCAの斡旋です。
 最初は近江八幡にある滋賀県立商業学校(現八幡商業高等学校)の英語教員を務め、そのかたわら、地域でYMCA活動に着手します。けれども、それがしだいに盛んになってくるにつれて、公立学校から反発を受けます。校内で聖書を教えた、伝道した、ということで、ついに教員を解雇されてしまいます。
 それでも、彼は終生滋賀県を離れることはありませんでした。日本人なら、滋賀県の次は、京都、それから大阪、東京と「すごろく」ならぬ中央志向(ステップアップ)感覚になりがちです。が、アメリカ人、というよりヴォーリズにとっては、最初に赴任した場所、つまり近江が「世界の中心」なんです。えらいですね。
 かくして、近江での活動が本格化します。「ガリラヤ丸」による湖岸巡回伝道を始め、実業(メンソレータム販売で有名)や建築設計(いまも事務所は続いています)・社会活動・詩作・出版・医療(ヴォーリズ記念病院)・教育(近江兄弟社学園)といった多方面にわたって、活動を展開いたしました。
 滋賀県以外にも活動拠点があるとすると、軽井沢です。避暑はもっぱら信州でした。だから、同地では知名度は今でも高いですね。今年の夏(二〇〇八年七月)には軽井沢歴史民族資料館でヴォーリズの展覧会が開催されました。私は、今日の講演のために観覧して参りました。
 彼は自叙伝を『失敗者の伝記』と銘打っていますが、なかなかどうして、見事な人生です。私は残念ながら、生前のヴォーリズに会う機会はありませんでしたが、夫人の一柳(ひとつやなぎ)満喜子さんとは、一度だけですが、就職面接の場で「面談」したことがあります。

「フィランソロピスト」

 さて、企業家としてのヴォーリズに目を向けてみます。その活動は、立派です。「金より奉仕」をモットーとし、「儲けた金は一切私物化しない」という主義で会社経営に当たりました。と言うよりも、「伝道するために企業活動をする」という社会奉仕家(アメリカでは「フィランソロピスト」と呼ばれます)と言ったほうが、よいでしょうか。滋賀県伝道のために、「近江ミッション」を立ち上げるなど、本職の宣教師顔負けの活躍です。こうして宣教師でも至難の事業をいくつも、独自の働きで実践、運営いたしました。しかも、近江八幡で、です。
 企業活動では、建築設計が突出しています。彼(の事務所)が設計した建物は、全国に今も千六百はあると言われており、いまだに愛好家が絶えません。時々、ツアーも企画されます。設計の面では、同志社もその恩恵を蒙りました。現在、次の四つがキャンパスに残っています。
 致遠館(一九一六年)、啓明館(一九二〇年)、アーモスト館・管理人棟(一九三二年)、新島遺品庫(一九四二年)。
 このうち、二番目と三番目の建物が、最近、登録有形文化財に指定されました。アーモスト館はもうすぐ修復工事に入ります。

「同志」

 次にカレッジソング作詩家としてのヴォーリズを見てみます。そもそも彼が、同志社のカレッジソングに「ワン・パーパス」というタイトルをつけた、その真意はなんでしょうか。端的に言えば、「同志社」という校名の英訳です。が、それでも決して機械的な訳語ではないはずです。なかなか意味深長ですよ。
 と言うのは、歌詞全体が新島襄の思想や同志社の建学理念と重なっているからです。教派こそ違いますが(彼は長老派、新島は会衆派です)、ヴォーリズは、いわば新島の「同志」となって、この歌の作詞をしたのではないでしょうか。
 ギューリックから作詞を依頼されたとき、ヴォーリズは「非常に光栄欣快」と感激した、と前に申しました。「光栄」の裏側には、新島の顔が浮かんできます。なぜか。ヴォーリズがアメリカから来日し、滋賀県に赴任した当時には、もちろん新島襄は他界しております。それでも、ヴォーリズは、来日して八日後にすぐに京都を訪ね、かねて聞いていた同志社や新島襄について実地に視察をしております。
 この時、ヴォーリズは今出川キャンパスに足を踏み入れてみて、「これが新島氏の創った学校か」といった感慨に浸ったに相違ありません。なにしろ、来日する時にヴォーリズの頭のなかにあった日本情報は、「同志社とJ・H・ニイシマ(新島襄)」がすべてだったからです(「ワン・パーパスの回顧」)。すなわち、日本=同志社=新島なんです。
 カレッジソングの劈頭に、lofty aim という言葉を使っています。これなど、新島の「高尚な志」という文言を彷彿させてくれますね。ヴォーリズは、新島の志をどう校歌に織り込むか、この点は随分と苦労したと考えられます。
 同志社との関係は、校歌作詞や校舎設計に止まりません。文学部講師(一九四三年)や法学部教授(一九四四年)を務めるほか、社友(一九三〇年)や評議員にも選出されています。いわば、「身内」です。こうなれば、立派に新島の「同志」ですよ。
 しかも、ヴォーリズはついには国籍まで移して、日本人の「同志」になりました。新島の場合は、あれほどアメリカに心酔しながら、日本人に終始しました。これはこれで「正解」でしょう。それに対して、ヴォーリズは、第二次世界大戦(日米戦争)が勃発した後、日本に残る方策もあったと思いますが、日本に帰化し、日本人になりました。名前も「一柳米来留(めれる)」と換えました。
 「メレル」(米来留)はついに「米国から来て日本に留ま」った、のです。これも彼の「ワン・パーパス」(lofty aim)と言えましょう。リベラル・アーツ ヴォーリズは、新島の「同志」であろうとしました。それも単なる外面だけでなく、新島が抱いた「高尚な志」を共有しようと務めました。それを端的に示しているのが、「ワン・パーパス」(同志)の歌詞です。strive to live the life divine とか、The love and service of mankind とあるのが、目を引きます。つまり「気高い人生を送るように努める」こと、あるいは「人類の愛と奉仕」に献身すること、こうしたことこそ、新島、ヴォーリズが共々に青年に望むところでした。
 さらに、新島の教育理念はアーモスト大学(カレッジ)ゆずりのリベラル・アーツですが、ヴォーリズもそうです。出身校のコロラド大学(カレッジ)がそうでした。彼はここで一般教養を学んでからマサチューセッツ工科大学(MIT)あたりへ進学し、建築家になりたいと思っていました。しかし、在学中に中国派遣の女性宣教師から海外伝道の話を聞いてからというもの、志望を変更しました。理系から哲学コースに転科しました。
 ヴォーリズが、建築技術をいったいどこで養ったのか、これはそれ自体、興味あるテーマです。私は専門教育を受ける前のリベラル・アーツ教育の凄(すご)さを彼の場合には看取しております。
 リベラル・アーツという文言は、実に訳しにくい日本語ですが、一応「知育・徳育・体育」を調和的に発展させる、としましょうか。この点について、あるアメリカ人教育者は次のような興味深い指摘をしています。
 「初期のアメリカの大学(college)は、自分に課せられた任務が、身体(body)と知性(mind)と精神(spirit)、言いかえれば、頭脳(head)と心(heart)と手腕(hands)についての全人格教育であることに疑いを持たなかった。[中略]教室、礼拝堂、寮、あるいは運動場といった大学生活のあらゆる場所が、相互に関連を持ったものと考えられていた」(アーネスト・L・ボイヤー著、喜多村和之他訳『アメリカの大学・カレッジ』二〇二頁、リクルート出版、一九八八年)。
 なんだか、(spirit・mind・heart という三つの三角形を組み合わせた)YMCAのシンボルマークっぽいですね。ヴォーリズ自身、YMCAの活動家であったことからも、この精神を同志社校歌に組み込んでおります。一番で、To train their sons in hands and heart と歌う所が、まさにそうです。何のためか。The love and service of mankind のためです。児玉実英先生の訳詩で言えば、「神と祖国(くに)とにつくすべき 精神(こころ)と技芸(わざ)を鍛えんと」です。
 これぞ、「ワン・パーパス」の真髄です。いま上映中の映画の題名を借りると「うた魂(たま)」です。ヴォーリズがわれらが校歌に込めた魂は、新島が抱いた「魂の教育」精神とまさに重なります。ナチスの戦闘魂とは、まるで対照的です。
 ヴォーリズは、まさに「戦争に対する嫌悪」を全身に充満したる丈夫(ますらお)です。ヒトラーとは完全に真逆タイプ、むしろ新島型の遺伝子の方がずっと多いですよ。この点、同志社は滋賀県にもっと感謝すべきですね。

二〇〇八年十一月五日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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