奨励

ハワイにおける奥村多喜衛の教育運動

吉田 亮 同志社大学社会学部教授
奨励者紹介〔よしだ・りょう〕 研究テーマ
多文化社会における異文化集団間の衝突・変容に果たす教育の役割

ハワイと同志社

 この授業は、私が新町のキャンパスで担当しております「異文化間教育論」という科目と抱き合わせの形で行っています。この講演では、私の専門である複数の文化間の衝突や交流現象を扱うことになります。今日のタイトルも私の関心分野に大きくかかわっておりまして、しかも同志社とも大きくかかわっているものなのです。
 奥村多喜衛といっても、誰のことかという感じでしょうが、同志社の百年史を見ても奥村多喜衛という名前は出てきません。ハワイと同志社の交流史というのは、あまりこれまで語られてきませんでした。同志社の百年史を見ますと、部分的にハワイの日系二世を留学生として招くプログラムに関する紹介がありますが、それ以前に同志社とハワイが非常に深くつながっていたというような歴史的な背景に関する説明が一切なされていないのです。そうした本を読んでも何もわからない部分について、今日は少し話をしたいと思います。
 同志社大学といえばキリスト教主義・自由主義・国際主義とよくいわれますが、国際主義って何なのかと聞かれたときに、「国際平和を求めるのだろうな」という漠然としたイメージしかわきません。同志社は、歴史展開において、国際主義という伝統をつくりあげていくにあたってどういうものを付与してきたのか、なかなか考える機会がないのです。今日はそうした同志社の国際主義を考えるにあたっての一つのアプローチ法を提示したいと考えております。
 ハワイに渡った同志社の卒業生は結構たくさんおります。なぜハワイに同志社の卒業生が渡ったのでしょうか。明治期に多くの日本人がハワイに出稼ぎ移民として渡っていきました。実はハワイだけではなく、アメリカ本土、後に中南米地域、さらにカナダへも渡っていきます。アメリカ大陸全域に多くの日本人が明治以降、移民という形で渡っていって、一部分は現地の市民になったのです。実は日本の近代の歴史というのは日本という領土だけでは議論できなくて、よくご存じのように、植民地というものが、地理的には日本以外の社会状況のなかで展開されていきます。それだけではなく、日本の近代史は、移民という形で、日本の領土以外のところでも展開されていたということです。
 今日の話は移民の話と大きく関与していきます。具体的には、ハワイに渡った移民に対して同志社の卒業生がどのようにかかわっていったのかという話になります。ハワイに日本人が渡るようになったきっかけをつくる大きな要因は、日本の社会状況もありますが、ハワイ自体、多くの労働力を必要としていたことがあります。ハワイはもともとプロテスタントのキリスト教宣教師によって開かれた土地であったわけですが、地域の発展のためには産業開発が不可欠でした。そこで着目したのが砂糖キビ栽培だったのです。砂糖キビ栽培を宣教師の子どもたちが一生懸命やるのです。そして砂糖キビ栽培にはたくさんの低賃金の労働力が必要となってきました。現地にはハワイアンという先住民の人びとが住んでいたのですが、あまり労働というものに適していないという判断があって、海外から労働者を迎え入れようという計画が立てられていきます。最初に着目されたアジア出身の大きなグループは中国人だったのです。中国人が一九世紀半ばくらいに砂糖キビ栽培の重要な基幹労働力として導入されます。ところがいろいろな問題があってうまくいかなかったのです。
 次に目をつけたのが日本だったのです。日本も明治の近代化の流れのなかで、さまざまな経済的・政治的な問題を抱えていて、経済的に厳しい状況におかれている人びとをたくさん輩出していた時代状況がありました。そうした両方のニーズ、ハワイの労働力不足というニーズと日本の近代化過程から生まれてくる経済政策の不十分さから起こる大量の労働力を吸収する場として、ハワイに多くの日本人たちが移民という形で渡っていきました。最初に日本人が渡ったのは一八六八(明治元)年、明治維新の年です。さまざまなトラブルが起こりまして、しばらく途絶えますが、一八八五年、日本政府のお墨付きで移民がハワイに渡っていくことになります。一九〇〇年のハワイの統計によりますと、ハワイの全人口の四〇パーセントが日本人だったといわれています。圧倒的な数のパワーをハワイ社会に見せつけていくことになるのです。その後も日本人労働力はどんどん増えていきます。
 そうした日本人人口の大きな増加の流れのなかで、同志社の卒業生たちは、日本社会のなかでキリスト教の伝道が求められているだけではなく、そうした海外に移り住んだ人びとにとってもキリスト教の伝道が重要であるという認識を、さまざまなネットワークを通じて学習していくことになります。ネットワークについては割愛しますが、結果的に同志社の卒業生がハワイに渡っていって日本人労働者のために福音を伝えていきます。そうした移民労働者の世界のなかでは、単にキリスト教を宣べ伝えるだけでは意味がないのです。異文化社会のなかに日本人がおかれているわけです。当然、異文化社会への不適応の問題が日々の生活のなかに存在しているわけですから、その問題にかかわるさまざまな活動、特に教育活動や福祉活動を一生懸命に同志社の卒業生が担っていくことになります。
 ハワイの社会からすると、日本人労働者が精神的に安定して、現地社会とトラブルを起こさずに生活していける環境を提供することは非常にいいことです。しょっちゅうストライキが起こって問題が続出していくことは、現地社会にとってはマイナスであるわけですから、日本人キリスト教伝道者の活動は大歓迎されました。現地社会のキリスト教会は、日本人伝道者の活動を、財政面、その他諸々の形で積極的に支援しました。結果的に日本人クリスチャンの数は徐々にではありますが、各地で増加していきます。

奥村多喜衛の働き

 奥村は高知県生まれです。いわゆる「士族」の子どもとして成長しました。一時期、自由民権運動にもかかわりますが、最終的にキリスト教に救いを見いだします。大阪教会の宮川経輝から受洗しましてクリスチャンになるわけです。その後、同志社の神学校別科に入学します。そこで神学教育を修めた後にハワイアン・ボード、ハワイ現地のクリスチャンが組織している伝道団体の招聘(しょうへい)を受けてホノルルに向かいました。ホノルルにはすでに日本人教会が誕生しておりました。ホノルル日本人教会といって、現在、Nuuanu Congregational Church となっていますが、こちらの歴代の牧師はほとんどが同志社の卒業生です。その教会に赴任して、現地の日本人同胞の姿を見るわけです。そこで非常に厳しい状況におかれていることを実感しました。そうしたさまざまな原体験を通じて、ホノルルの教会を辞めて新しく日本人街(ジャパンタウン)が形成されつつあるマキキ地方への伝道を開始することになり、最終的にMakiki Christian Church が誕生します。
 いわゆる牧師であれば、教会を活動の中心とすることは別に珍しくないことですが、移民にかかわる伝道者はそれだけでは済まない、という話を先ほどしました。牧師としてマキキ教会を拠点に伝道事業にあたるだけではなく、第二世代、青年の教育のためにキリスト教青年会(YMCA)を組織するわけです。二世はアメリカの準州であるハワイで成長していくわけですから、どんどん日本語を忘れていきました。そうかといって英語も不十分である。言語的には宙に浮いたような存在になっていました。親子のコミュニケーションすらできないという状況を打開すべく、子どもたちにしっかりと日本語を学んでもらおうと、日本語学校を設立しました。
 さらにさまざまな製糖プランテーションの労働者の子どもたちのための精神教育・生活教育を行うために、奥村ホームを設立します。身寄りのない子どもというのは表現として適切ではないのですが、親がさまざまな事情で亡くなったり、または逃亡してしまったり、当時の日本人の子どもたちのおかれた環境は非常に過酷であったのですが、子どもたちを引き取って精神教育をする場として寄宿舎を設立することになります。さらに今日の講演ではメインにあたるところですが、一九二〇年代になりまして、彼はそうしたある意味で小規模の教育活動だけではなく、排日問題を解決するため、政治的な課題にチャレンジする教育運動を起こしました。同胞社会のアメリカ化、同化をスローガンに排日予防啓発運動を起こしたのです。一九二七年~四一年、パールハーバーの年まで日系市民会議という日系二世のための社会教育プログラムを毎年開催していったのです。

一九二〇年代のアメリカ化運動

 彼はなぜ一九二〇年代にそれほど積極的に社会問題にかかわっていかざるを得なかったのでしょうか。牧師といえば精神的・文化的な活動というイメージが強く、社会運動というと違和感をもたれるかもしれません。もちろん日本の近代史のなかでキリスト教徒が歩んだ歴史を学べば、さまざまな形で社会問題にかかわったキリスト者群像に行き当たります。同志社の卒業生のなかに社会問題にかかわった人たちがたくさんいるわけですから、そういう意味では別に珍しくもないのですが、もう少しそのあたりのことを詳しく説明したいと思います。
 一九一四年、第一次世界大戦が起こります。アメリカは最終的に第一次世界大戦に参戦します。ハワイはアメリカの準州です。当然、そうした大きな流れの影響を強く受けることになります。ハワイ社会でアメリカ化運動が積極的に展開されていきました。一〇〇パーセントアメリカ主義が説かれていきます。一種の愛国的な運動です。こうした運動にありがちなのですが、非常に排他的になりました。アメリカ人、またはアメリカ的な考え方が絶対的である、それ以外の考え方は間違っている、排除されるべきであるという考え方がハワイ社会に浸透していくことになります。そうしたアメリカ化運動を担っていく一つの大きな媒体となったのが公立学校です。その他諸々の社会教育機関もそうしたエージェントとして活動していくことになり、瞬く間にハワイ中にアメリカ化運動が深く浸透していきました。ハワイの社会状況のなかで一番の異分子は一体何なのか、という素朴な疑問があります。一九二〇年代の社会状況において、ハワイのなかでの最大の異分子は実は日本人だった。人口においても四〇パーセントをしのぐ数を擁していたわけです。ハワイ社会は当時、非常に多文化化、多民族化した社会です。中国人が約二〇パーセント住んでいました。ハワイアンが一〇パーセントほどいて、しかもまだポルトガル系・イタリア系・スペイン系の移民の子孫も住んでいました。さまざまな民族集団を統括するアングロ・サクソン系の子孫たちが存在していましたが実は数パーセントにすぎなかったわけです。圧倒的な有色系異文化集団がそうしたアメリカの領土内に住んでいて、そのなかでも一番パワフルな存在が日本人集団だった。日本人集団のどこがパワフルかというと、一つは人口の問題があります。もしその人びとが決起団結したらどうなるのでしょうか。それだけではありません。実は日本という国がありました。当時ハワイに住んでいた日本人移民はアメリカ国籍を取ることができませんでした。アメリカ市民になれなかったのです。だから人びとは日本国籍を持っていたのです。当然、日本国総領事館がホノルルにあります。日本外務省は常に移民集団に目配りをしていました。祖国日本の動向が、すぐに移民社会に影響を及ぼす状況が存在しました。
 日露戦争が起こって、世界列強の日本に対する見方が大きく変わりました。これまではたいした国ではないと思っていたのが、あのロシアに一応、勝ったわけです。西洋の一国と戦争を起こして勝った極東の国。アジアの一等国、最強の文明をもつ国であるという認識が西洋世界に徐々に浸透していきました。そうした強大な国家、列強の一翼を担いうるだけのパワーをもつ国家からの移民であるという認識は、現地の指導層にとれば大きな恐怖であったわけです。ひょっとしたら日本政府が軍艦をもってハワイを攻めてくるのではないか、と真剣に語られた時期がありました。そのくらい日本人という存在はパワフルで脅威の存在でした。そしてその日本人たちがハワイでどのような生活をしていたかというと、あまり積極的にアメリカ文明圏に適応しようと努力をしていませんでした。日常生活では日本語を話します。生活に必要な英語の単語は習得しているのですが、それ以上ではありません。ましてやアメリカの建国の精神や、アメリカの生活様式・生活意識を学習することはありませんでした。さらに仏教会が本願寺から開教師を派遣することになって、一挙に仏教徒の数が激増します。ハワイ社会には、そうした異文化集団に制圧されてしまうのではないかという恐怖感が蔓延していきました。
 そうした恐怖感がピークに達したのが一九二〇年代だったのです。一九二〇年代、ハワイ現地社会ではさまざまな動きが起こります。次に、時代背景として制度的人種主義という概念を使いながらさまざまな制度を例として挙げますが、移民法や小沢判決は有名です。これはアメリカ本土で起こったことですが、はっきり言うと移民法は日本人がアメリカ本土に移民できないように、完全にシャットアウトするための法律です。非常に人種差別的な傾向の強い排斥法と簡単に解説することができます。そういう法律がアメリカ本土で制定されますと、ハワイ準州も直接その影響を受けます。ハワイにも当然、日本人移民は一切渡れなくなるわけです。
 小沢判決について説明します。ハワイ出身の小沢孝雄という人が、アメリカで教育を受けて、クリスチャンになった日本人が、なぜアメリカ市民になれないのかという素朴な疑問をもって法廷闘争を起こしたのです。アメリカの連邦最高裁判所まで訴訟は上がっていきまして、最終的に連邦最高裁は「日本人は白人ではない。だからといって自由黒人でもない。ゆえにアメリカ市民権は取れない」という判決を下したのです。この判決はアジア系の人びと全員に波及します。つまりアジア人は何年アメリカに住んでもアメリカ市民権を取れなくなったのです。そうした厳しい状況が本土にあって、その影響下にあったハワイでも、日本人を排斥するさまざまな試みがなされていきます。数を減らすことは、実質的にそれほど効果を上げることはできません。とすれば、いかにその政治力・文化的なパワー・社会的なパワーを抑え込んでいくかがポイントになってきます。
 そこで着目したのが二世です。アメリカは出生地主義の原則が適用されますので、日本人であってもハワイで生まれたらアメリカ市民権が自動的に取れるのです。日本人の親たちは取れませんが、子どもは例外なのです。その子どもたちが成長していきます。ハワイの公立学校の約五五パーセントが、実は日系二世の子どもたちで構成されているという状況になりました。もしその子どもたちが、日本政府や親の影響を受けて反アメリカ的な行動に出るようなことが起こったときは、ハワイ社会は解体してしまう、崩壊してしまう。それをくい止めるためには二世をしっかりとアメリカ市民に育てる必要がある、とハワイの指導層の一部は考えたわけです。そのために公立学校を再編していきます。当時、ほとんどの日系二世は公立学校に通学していました。日本人を含むアジア人の親たちは教育熱心です。学校教育に対して力を入れていたわけです。親は日本人だし日本国籍を持っている。ハワイ社会で活躍するのに限界はあるが、子どもはアメリカ市民権を持つわけですからハワイで成功してもらいたいと親たちは考えるわけです。一生懸命尻を叩いて子どもを公立学校に通わせます。勉強しろ、勉強しろと言って。おかげで日系二世の子どもたちはほとんどが成績優秀だったといわれています。クラスで一番とか二番になるのも決して珍しくないくらい、優秀な子どもたちが結構いたようです。
 当時のハワイ現地の指導者たちは、公立学校を再編してアメリカ主義を徹底していく必要があると考えました。そこで外国語学校取締法が一九二〇年に制定されます。当時、仏教会を中心に日本語学校がどんどん増えていきました。最初は奥村多喜衛がつくったクリスチャンの日本語学校しかなかったのですが、後に入ってきた仏教会は日本語学校を財政的な基盤として布教活動を行っていきましたので、日本人がいる所だったらどこでも日本語学校をつくる、ということが起こります。多くの日系二世の子どもたちは公立学校に通い、放課後に日本語学校に通うというダブルスクーリングをしていたのです。日本語学校の教育はアメリカ主義を日系二世に浸透させていくうえでマイナスになる、と現地の指導者たちは考えるわけです。そういう学校を規制して最終的には廃校にまでもちこんで公立学校一本の教育にしていくべきである、という考え方が鮮明に出てきて、「外国語学校取締法」が制定されます。
 当時、ハワイに存在した外国語学校の大半は日本語学校だったのです。外国語学校と言っていますが、実質的には日本語学校を取り締まる法律が制定されたと考えるべきです。公立学校のカリキュラムのなかで、アメリカ主義を強調するようなさまざまな工夫がなされていきます。そうした大きな流れのなかで奥村多喜衛は、これはえらいことだ、このまま放っておくと日本人社会が現地の白人社会と衝突していく状況が起こりかねない、何とか共存共栄の道はないかと考えるのです。お互いに喧嘩をせずに、利害を共有しながら共存していく道はないかと考えます。まず自分が手掛けなければならないこととして、日本人移民をしっかり教育する必要があると考えたのです。日本人移民がいつまでたっても英語を学ばない、現地社会に適応する努力をしないということがあると、当然、現地社会の側からすると日本人たちは自分たちと仲良くなろうとしていないと感じます。「郷に入っては郷に従えと言うではないか。少しはアメリカの準州に住んでいるのだからアメリカのことを学んだらどうなんだ」という、現地社会からの疑いや恐怖感を払拭することから始めよう。別の言い方をすると、反アメリカ的な日本人移民の行動と思われるものを除去していくことによって現地社会の誤解を解いていこうと考えるわけです。

「日系市民会議」の意義

 当時の異文化理解の基本原則はこうです。なぜ人間は偏見をもったり、差別をするかというと、相手の文化に対する理解が足りないから、誤解が生じるからそうしたことが起こるのだというのが基本的な考え方ですから、誤解を解くために努力をしていく、ということなのです。日本人がまず襟を正すのです。そうすれば現地社会は見直してくれる、評価してくれる。「ああ、日本人も一生懸命やっているではないか」と再評価のプロセスを歩むことができるというわけです。そこで彼が行ったのが「排日予防啓発運動」です。まさに排日的な運動を予防していくための教育運動を行います。彼はプランテーションの各地を回り、講演会を行います。さらに日本人労働者の家庭を回っていきます。家庭訪問をして、日本人移民はこうあるべきである、こうしてくださいと個別的にアドバイスを行う運動をします。その運動の展開の延長線上にあるのが「日系市民会議」であったわけです。
 日系市民会議は一九二七年に生まれましたが、その数年前に排日移民法が制定されています。排日移民法は奥村多喜衛にとって非常にショッキングな出来事でした。まさか友好国であるアメリカが、日本人をターゲットとする排斥法を制定するなど思いもよらなかったことだったのです。同時に、失望しているだけではいけない、何とかこの状況を打開しないといけない。現地社会が一番恐れているのはまさに二世である。二世をしっかり教育してアメリカ市民としてふさわしい資質を育成していくことが我々第一世代、親の務めである、と考えるわけです。
 日系二世はアメリカ市民権を取れます。ところが多くの日系二世は二重国籍状態にありました。親は日本国籍を持っています。親は当然、自分の子どもに日本人として生きていってもらいたいと思うわけです。しかし同時にハワイの社会で成功してもらいたいとも思うわけです。日本人として生きてもらいたい証として、日本国籍を勝手に取らせてしまうのです、子どもが知らない間に。生まれたときに出生届を出すわけですから、子どもは、気づいたときには日本国籍を持っている。ところがハワイの出生地主義の原則に則ってアメリカ市民権を取ることもできるわけです。必然的に二重国籍状態になります。現地社会からみると、この人たちは一体、どちらに忠誠心をもっているのだろうかという恐怖感があるわけです。アメリカが戦争を起こしたとき、日系二世は日本のために戦うのか。アメリカのために戦うのか。忠誠心が曖昧であり、こういう市民をたくさん抱えていることは非常によくないという考え方を、当時の現地社会のリーダーたちはもっていました。
 二つ目は経済問題です。多くの二世たちは成功したい。親たちもそう願っています。そのためには大学まで進学してホワイトカラー職に就くのが一つのルートです。ところが、現地社会には職業差別が存在しています。アジア人がホワイトカラー職に就くのは至難の技でした。白人といわれる人びと、ヨーロッパ系の人たちは産業界のリーダーとして活躍しているわけですが、日本人が参入することがなかなかできませんでした。日本人はそれでもホワイトカラー職を願っていました。でも現地社会からすると、大量の二世たちがホワイトカラー職に就いたら、自分の子どもたち、白人の子どもたちがホワイトカラー職からあぶれてしまうのです。これは困るわけです。だからホワイトカラー職になる日本人たちの意欲をある程度抑制していく必要があることも同時に考えていました。
 さらに三番目のポイントは文化問題です。放っておいたら日系二世はすべて仏教徒になってしまう。ハワイはアメリカの準州です。しかも宣教師が開いた土地です。アメリカン・ボード宣教師という、同志社大学を設立するにあたって大きくかかわったデイヴィスとかラーネッドなどはすべてアメリカン・ボードの宣教師です。ハワイは、彼らと同じアメリカン・ボードの宣教師によって開かれた土地です。そうしたバックグラウンドがありますので、ハワイにはキリスト教文化・文明が浸透していないといけないわけです。そこに異教徒集団が拡大していく、それを何とか止めないといけないという問題がありました。以上、政治問題・経済問題・文化問題という大きな問題に対して、奥村多喜衛は何らかのアプローチをする必要があると考えたわけです。
 日系市民会議というのは一九二七年から開始されますが、これは個人の運動に止まりませんでした。この運動にはハワイ現地社会のリーダーたちもこぞって賛成します。たとえば当時、ハワイ準州知事が奥村に対して積極的なサポートをします。経済界のリーダー、宗教界のリーダー、教育界のリーダー、すべてのリーダーが奥村に協賛します。毎年八月、ハワイのホノルルで約二、三週間にわたってセミナーを開催しました。各地に散らばっている日系二世の将来リーダーになれそうな資質をもつ人びとをそこに集めてきて、そしてホノルルで徹底的に特訓していくわけです。アメリカ市民としてふさわしい資質を育成するための教育を施したのです。そのプログラムにはハワイ準州知事が講師として呼ばれることもありましたし、ハワイ大学の総長が呼ばれることもありました。現地のリーダーが呼ばれて日系二世とのディスカッションに参加するという、当時の教育運動としては画期的な形態をもつプログラムを展開していました。どこが画期的かというと、ほとんどの移民の教育運動というのは移民だけがこぢんまりとやっていくという形態が多いのです。少し拡大版として現地のクリスチャンたち、教育者たちがそこに協力するくらいの規模が一般的でした。ところが奥村多喜衛の教育運動は、ハワイの政財界・教育界・宗教界のリーダーを抱え込んで、ハワイ全体を巻き込むような形で教育運動を展開していったところが画期的だったのです。日系二世の社会で働いている二十代の人びとが参加者の大半でしたが、およそ準州知事とともに同じ席でディスカッションするとか、教育界のリーダー、ハワイ大学の総長と膝を交えてディスカッションをすることも一般的にありえないことです。奥村は、そういうことを体験させることに非常に積極的な意味をもたせます。なぜならば、多くの日系二世は気後れしていたのです。自分は日系二世だし、純粋なアメリカ人と違う半人前だと。いくらアメリカ人になろうと努力しても、所詮(しょせん)は日本人だ。日本人がアメリカ社会から嫌われている、人種差別の対象になっていることで自己イメージが非常に低かったのです。それが悪影響を及ぼしていました。そういう青年をハワイのリーダーたちと会わせてディスカッションすることによって自信をもたせるのです。自分もやろうと思えばやれるのだ、と。リーダーたちとも話ができる、自分の意見を言うことができるんだという自信をもたせることが、教育体験として重要であると考えたわけです。
 結果的にそうした現地のリーダーたちの支援、さらに日本国総領事や、さらに言うならば日本の外務省や渋沢栄一などの支援もありまして、この運動は一九四一年まで続いていくことになります。なぜ日本の外務省や総領事館や渋沢栄一が奥村多喜衛の運動を支援したかというと、日米友好関係を強化するために非常に意味があると解釈をしたのです。日本人移民が問題を起こすと日米関係に悪影響を及ぼす。奥村多喜衛は、日本人移民が現地社会とうまくやっていけるための運動をしているわけですから。

異文化間交流の三つのアプローチ

 次の問題は、奥村はそこで何を言っていたのか、どういう考え方をもっていたのかです。複数の文化が交流接触するときにはいくつかのアプローチ法があります。私の今日の話は現在の話というよりも歴史的な文脈に沿った話です。一九二〇、三〇年代において現地の社会、移民社会がとった異文化間交流のアプローチは三つありました。「強制的同化」「進歩主義的同化」「文化的多元論」です。
 「強制的同化」というのはアメリカ文化中心主義です。「アメリカで生活していたいなら一〇〇パーセント、アメリカ人になりなさい。異文化を持ち込まないでください。アメリカに上陸するときに異文化を全部払いさってアメリカ人になりきりなさい」という考え方です。異文化に対しては極めて不寛容です。一切、その存在意味を認めません。
 それに対して二番目の「進歩主義的同化」は、「そんなひどいことを言っていたらだめでしょう。それは現実的ではない。自分たちが苦労して新しい文化の文脈に入ってきたわけですから、異文化集団が適応していくには時間がかかります、ゆっくりと適応してください。ある程度の衝突は起こるでしょう。文化が違うのだから。でも衝突の後、競争が起こったりすることもあるかもしれませんが、きっとお互いを理解できる段階がやってきます。お互いが存在を理解できる段階が起こったその後、ゆっくりと現地社会のよさを異文化集団は理解するようになり、最終的にはアメリカ社会に同化することができるでしょう」という形で、ステップアップで同化を考え、そのプロセスのなかである程度、異文化の存在意味を認めていく、ある程度尊重していくというのが、二番目のアプローチです。
 三番目のアプローチは、「そうではなく、それらのアプローチはアメリカの精神に反しています。アメリカは自由平等、幸福を追求する権利が守られている国家なのです。アメリカに渡ってきた人はすべて自分の文化を自由に表現する権利をもっているのです。アメリカ社会に参入しても、その異文化は大事に守ってください。その人のもつ異文化を現地のアメリカ社会も尊重します。お互いにリスペクトし合いましょう。リスペクトし合いながらゆるやかにアメリカ人としての共通事項だけを守って、あとはそれぞれの文化を尊重し合いながら共存共栄していきましょう」という考え方、これが「文化的多元論」のアプローチです。
 ハワイにおいて、どういうアプローチが圧倒的だったか。一番目のアプローチが圧倒的に強かったのです。ほとんどの地域がそうでした。たとえば外国語学校取締法は、日本語学校を潰していこうという考え方です。日本語学校は異文化を代表するものです。異文化の存在は一切認めません、という強制的同化の考え方です。しかし、それだけではなく、ハワイのキリスト教会の進歩的なリーダーたちはこうした考え方に反対していました。キリスト教の原則に依拠して世界同胞主義の考え方、神のもとですべての人びとが平等なのだ、同胞なのだという考え方に対応しながら最終的にとったアプローチ法は、進歩主義的な同化というアプローチです。

奥村の「文化的多元論的アプローチ」

 奥村多喜衛はどうなのでしょうか。奥村多喜衛はこう言っています。同化と米化を同じ用語であると理解して聞いていただきたいのですが、奴隷的な同化はナンセンスであると考えました。二世は「其生活様式に於て、其教育に於て、其宗教に於て凡ての点に於て米化」する必要がある。しかしアメリカのものを何でも取り入れるということではなく、「無論米国の善くない所は遠慮なく之を捨て其良き点を」摂取せよ。「これに加へて我民族が三千年禀(う)けついで来た優秀なる特性を米化させて持参」することで「一〇〇パーセントアメリカ市民として大に米国家に尽くすべき」であると言っています。強制的同化はまさにアメリカのものだったら何でも受け入れなさいという考え方です。奥村多喜衛はここで「強制的同化はナンセンスである」という考え方を表明しています。
 彼は同化のなかでも特に「精神的な同化」という側面を非常に重視します。「百パーセント米化は唯外形の米化でなく精神的米化である」。「米化」とは「唯米国風の衣食住」をしたり「唯英語を話すこと」ではなく、「民主思想、代議政治、自由宗教、自由教育を認め、公共に対する各個人の責任を感じ、米国旗に忠にして、一旦事あれば至誠米国家に奉じることである」。これはアルバート・パルマー牧師の言葉の引用です。日系市民の責任は「アメリカ建国の精神を知り之に順応すること」。「アメリカ国民の祖先ピューリタンは自由の天地を求めてアメリカに来り、おのが住む茅屋ができると同時に教会と学校を建てた。自由宗教・自由教育は彼等の理想であった。自由教育と云ひ自由宗教と云ふのは、何でも教へてよい宗教は何でも信じてよいと云ふのでない。箇人の自由を重んずる教育、真理は汝に自由を得さすと云ふ基督教を意味するのである」と説明しています。自由教育という概念は新島襄が遺言のなかで言っているキーワードの一つです。ここで言っていることは、単に英語が話せたらいいとか、洋服を着てアメリカ的なファッションを身につけたらいいとか、外面的なことではないのです。精神性の問題を言っているのです。アメリカの建国の精神というもの、すなわちキリスト教精神、別の言い方をすると、ここでは自由宗教・自由教育というものをしっかりと身につけること、体得すること、それをしなかったら「あなたはまだアメリカ市民としてふさわしくありませんよ」ということを彼は言おうしています。
 「ではアメリカ市民になるということは、アメリカの精神性に一〇〇パーセントどっぷり漬かることなのですか」、さらに「それだったら精神的な次元における強制的同化と同じではないですか」という疑問が起こります。奥村はそうではありません。アメリカの建国の精神性、ピューリタンの精神性を重んじるだけでは、まだアメリカ市民としては十分ではないと。そこで「武士道」の米化という表現を使います。日本の伝統から継承すべき「優秀なる特性」は「二千五百年の間に養ひ来た精華」、「祖先伝来の美点」であり、それは「忠誠心に厚い」、「義理堅い」、「礼儀正しい」というような「祖先伝来の武士道精神」であり、それによってアメリカ社会が「嘗て有らざりし立派なものかできたと感嘆せしめ得る者」となれ、という説明をしています。彼は出生からして、儒教を始めとして当時の士族の子どもが当然受けるべき基本的な論語などの教育は受けています。「武士道」という表現は概念が曖昧模糊としていますが、彼は、武士道こそが日本人のもつ一番の美徳である「精神性」であると理解していて、それをあえて言語化するならば、儒教的なエートス、倫理観によって構成されると考えました。儒教のことを二世に説明してもわかりません。二世は儒教のことを勉強していないわけですから。でも武士道という概念は聞いたことがあるわけです。新渡戸稲造が『武士道』という本を英語で出しています。多くの日系二世の子どもたちも、武士道という言葉だけはさまざまな機会に聞くチャンスがあったわけです。その言葉を二世にわかりやすくするためにあえて使って、日本人の精神的な美徳というものを二世たちに継承させたい。それによって、普通のアメリカ市民以上に立派なアメリカ市民、別の言い方をすると、自由宗教や自由教育をしっかり習得すれば一〇〇パーセントのアメリカ市民になれるかもしれない。しかし奥村は一二〇パーセントのアメリカ市民を目指したのです。誰が見ても日系二世はすごい、こんな人はいてもらわないと困る、現地社会に大歓迎だ、しかも単にアメリカ人の真似をしているのではない、自分のしっかりした精神性をもっていて、その精神性を、社会をよくするために積極的に使って貢献しようとする―そのような立派な日系二世を育てたいと彼は思い、ゆえにそれを「先祖伝来の武士道精神を受け継ぎなさい」という形で表現したわけです。
 武士道精神といっても、概念としては二世たちの頭の中に入ってくるのですが、どうもリアリティがありません。この時期になりますと、ハワイの移民社会で日本留学が流行します。一九三〇年代になりますと、武士道という考え方を日本で体験し、学習していた二世もいましたが、そんなに多くはなかったわけですから、ほとんどの二世はよくわからなかったのです。
 奥村多喜衛はマキキ教会を設立しました。どんどん信徒数が増えていきます。奥村多喜衛は伝道活動において秀でた才能をもっていたのでしょう。他の日本人教会とは比較にならないスピードで信徒数が増加しました。当時、ホノルルには大きい教会がありました。セントラルユニオン教会というアメリカン・ボードの子孫たちがつくった、ハワイを代表する最大規模の教会です。マキキ教会はそれに劣らなかったのです。古い会堂では信徒を収容しきれない状況になって、新しい教会を建築しようという募金運動を興します。ハワイの現地の指導者や、移民の人びとからもたくさんの寄付金をもらって教会をつくります。それがマキキ天守閣です。高知城に準(なぞら)えた天守閣をもつキリスト教会を設立するのです。一九三二年のことでした。日系市民会議を始めて、五年後には天守閣をもつキリスト教会を建設したのです。彼はこういうふうに言っています。
 「青年をしてマキキ天守閣を仰がしめ、武士道の精神を連想せしめたい」。武士道精神と言っても、もう一つピンとこない二世の人びとに対して、これが武士道なのだと。まず視覚に訴える。目で学習させる。そして教会に来てもらう。教会堂の中はまさにお城のような感じですが、武士道を体感してもらおうという思いをもって天守閣をつくった。彼のなかでは、キリスト教と武士道が見事に融合した建築形態としてマキキ教会が存在していました。当時の現地のキリスト教会の指導者たちもそういう見方をしています。武士道とキリスト教の精神には、合意できる部分、類似点がたくさんある。別の言い方をすると騎士道精神です。武士道は、西洋の文脈による騎士道精神である。キリスト教の考え方に似た部分があると。それが混淆(こんこう)のような形で融合したからといってそれほど不思議ではない。そのような教会がハワイにあった方がいいのではないか、というのが現地社会の反応でした。
 さらに興味深い事実はリンカーンの存在です。奥村はこういうふうに言っています。「私は『サムライ』の家庭に生まれ、幼少期より武士道の思想を教えこまれた。二十歳のときにはじめてキリスト教を知り、私はキリスト教が世界宗教に純化した武士道(Bushido refined into world religion)であると思った。こうした思いが私の中で大きくなり、ついに私の生涯を変え、イエス・キリストに仕えるよう決心するまでに至った。同時に私はリンカーンの精神や行動を益々心の奥底で理解できるようになり、彼に本当に『キリスト教の洗礼を受けた』武士道(“baptized” Bushido)が働いているのを知り、彼の熱心な崇拝者になった」。確かに彼の説教集を読みますと、リンカーンがやたらに出てきます。最初、何でこんなに彼はリンカーンが好きなのか、よくわからなかったのですが、日系市民会議を調べていく過程でこういうことを彼は言っているのです。ですから、彼がリンカーン崇拝者になっても決しておかしくないのです。彼にとっては人間としての一つのモデルだったのです。リンカーンはアメリカ人なのですが、日系二世に対して「この人こそがロールモデルなんだ」というならば、それはリンカーンだと。そこに見事に武士道とキリスト教の精神が融合しているのだと。しかも、良質の部分、美点がうまく融合している。もちろん武士道には問題点もたくさんある。すべていいとは決して言っていないわけですが、一番いい部分がうまく融合しているのがリンカーンだったという解釈が、ここで行われています。
 このように見ていきますと、彼のポジション・異文化交流に対するアプローチ法はおよそ強制的な同化ではない。進歩主義的な同化かというと、そうでもなさそうです。というのは、彼は異文化の良質の部分を常に兼ね備えていく人の方がアメリカ市民としてふさわしい、いい市民だという考え方をもっているわけです。単一文化だけではだめである。アメリカという多文化国家のなかでは、複数の文化をうまく使いこなせる方が市民としてふさわしいのだ、資質としてすばらしいという考え方なのですから、およそ進歩主義的な同化ではない。つまり当時のハワイ現地のキリスト教会のリーダーたちと共同戦線を組んではいるのですが、実質的にその認識には大きな違いが存在していると言えます。
 こうしたアプローチ法を、あえて一つのカテゴリーで説明するとするならば「文化的多元論的アプローチ」ということになります。もちろん日本人にとっては大和魂ですけれど、中国人にとってはまた別のものでしょうし、ポルトガル人にとればまた別のものであるでしょうし。アメリカ社会を構成するそれぞれの文化集団が、自分たちの一番よい文化的な資質というものを発揮してアメリカ社会に貢献していく、それをそれぞれが尊重し合っていく、そういう社会こそが理想的なアメリカ社会、あるべきアメリカ社会ではないかと説いていたのだと思います。
 「てきとうふき(てきとうふき)」という言葉はあまりにも有名な言葉で、新島襄の遺言といえば「てきとうふき」、「自由教会・自治教会・両者併行・国家万歳」という概念が常に出てくると思います。奥村は自治教会という表現を用いず、自由宗教という言い方を使っています。すべての国家権力から自由になる。もちろんそれは単に自由になることではなく、信仰における、真理を探究する姿勢において自由になることを意味します。そうした考え方を彼が新島襄の遺言を読んでいたかどうかはわかりませんが、ハワイという社会状況のなかで一つの具体的な問題に直面しながらも、独自に表明している。「てきとうふき」というのは信念と独立心をもち、安易に人に左右されない人びとのことです。彼は多くのハワイの白人リーダーたちと仲良しになって、強いプレッシャーを受けながらある意味で協調していたのですが、しかし彼は独自の道を歩もうとしたのです。ハワイの現地のクリスチャンリーダーが進歩主義的な同化論を取ろうとしたのに対して、彼はあくまでも文化的多元論こそがハワイを生かすことになる、日系移民が生きるだけではなくハワイ全体が生きることになる、という信念のもとに行動した人であると総括できるのではないかと思います。

二〇〇八年六月五日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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