奨励

安部磯雄における同志社スピリット

北垣 宗治
〔きたがき・むねはる〕
同志社大学名誉教授
敬和学園大学前学長

安部磯雄とは誰か?

 現在、安部磯雄(一八六五―一九四九)という名前を記憶する人は多くありません。安部磯雄は初期の同志社の誇るべき卒業生であり、卒業後しばらく同志社で教えた人でありますけれども、のちに東京の早稲田大学に移り、早稲田で重要な仕事をいたしましたから、同志社でよりは早稲田で一層有名な人です。早稲田大学には安部球場という野球場がありますし、早稲田大学図書館のすぐそばには安部磯雄の胸像が立てられています。
 安部磯雄は「日本社会主義の父」と呼ばれる人です。彼の社会主義は唯物主義や無神論に基づく社会主義でなく、あくまでキリスト教人道主義に基づく社会主義です。そして、安部がキリスト教に入るために洗礼を授けたのは新島襄でありました。私は安部を同志社の卒業生のなかで、極めて興味深い人物の一人と考えています。彼がなぜ興味深いのか。私はその点についてこれから説明していくつもりです。安部磯雄の残した有名な言葉があります。彼は常々このように語ったといいます。「こんど天国で新島先生にお会いするとき、安部さんよくやってくれましたね、と先生から言われるのが私の第一の願いです」と。
 安部磯雄にはキリスト教人道主義的社会主義者の顔以外に、もう一つの顔があります。彼はまた「学生野球の父」とも呼ばれてきました。一九〇三年から始まった早稲田対慶応の対抗野球試合、いわゆる早慶戦の基礎を作ったのは安部磯雄でした。安部磯雄が一九〇五年、早稲田大学の野球チームを率いてアメリカに遠征したことは、日本の野球史に残る出来事でした。それは当時の学生野球としては破天荒のことでした。それは今のようにジェット機に乗って十二時間以内でアメリカに行ける時代ではなく、船に乗って二週間かけてアメリカに行く時代のことでありましたから。安部磯雄は一九五九年に「野球殿堂」という表彰の制度ができた年に「学生野球の父」として、野球殿堂入りをしています。
 私は最近、安部磯雄の自叙伝である『社会主義者となるまで』(改造社、一九三二)を読みました。そしてそこに同志社人の典型の一つを発見したように思いました。安部が同志社で与えられたものが何であったか、それがいかに彼の生涯を導いてきたか、いかにその影響の下に彼が生きてきたかが、実に明瞭に書かれているからであります。

『社会主義者となるまで』の執筆理由と制約

 安部がこの本を書くに至った動機は、なぜ自分が社会主義者になったのか、その理由を子孫に説明しておく義務があると感ずるからだ、と序文の中で述べています。当時「社会主義者」というのは、一般の人びとの耳には誠に恐ろしい響きをもつ言葉であったことをご理解いただく必要があります。適切な喩(たと)え方ではありませんが、今ならさしずめ「アルカイダ」くらいの響きがあったかもしれません。当時の日本の社会主義者は危険思想の持ち主と見倣され、何か発言すればすぐ警察に捕まる。何か書けばすぐ発売禁止になる。それが社会主義者でした。ではなぜ安部磯雄はその社会主義者になったのか。彼は二つの理由を挙げています。一つは明治維新により、彼の家庭が比較的安楽な生活から急転して、貧乏生活に落ちてしまったこと。今一つは同志社英学校に入ることによって、キリスト教的博愛主義の感化を受けたこと、この二つでした。
 この本はわずか二四六ページの分量にすぎません。内容は、自分の家系のこと、郷里、福岡における幼少年時代、同志社時代、岡山での牧師時代、アメリカとドイツへの留学時代で終わっています。つまり、安部がドイツ留学から帰ってきて、再び同志社の教壇に立ち、同志社紛争に巻き込まれ、東京専門学校に移って早稲田大学教授となり、社会主義運動に積極的にかかわるようになり、早稲田の野球部を組織し、早稲田をやめて社会主義政党の国会議員となり、戦争時代を生き抜き、敗戦後には日本社会党の顧問となる、そのような彼の生涯の、一層重要な後半の部分はこの自叙伝に含まれていないのです。ですから自叙伝としては中途半端であり、安部の生涯をこの本だけで評価することは到底できません。
 たとえば安部は、一九一一年にいわゆる大逆事件で死刑になった幸徳秋水とは、一時期同志として一緒に活動していました。安部は幸徳と結局のところ意見が合わず、袂(たもと)を分かったことは知られていますが、その幸徳のことをどのように考えていたのか、知りたいところです。さらにはまた、安部よりも六歳年長で十二年間もアメリカに留学し、アンドーヴァー神学校とイエール神学校でも学んだもう一人のクリスチャン社会主義者、片山潜のことをどのように考えていたのか、知りたいところです。殊に私自身は、新島亡きあとの一八九〇年代の同志社、特にアメリカン・ボード宣教師たちと同志社との葛藤の時期、彼にとっては恩師に当たるデイヴィス、ラーネッド、ゴードンなどの宣教師たちを、安部がどのように考えていたのかを最も知りたいと思うのであります。

家系・少年時代

 安部磯雄は福岡の黒田藩の武士の家に慶応元(一八六五)年に生まれました。父、岡本権之丞は二〇〇石の禄を受けて、黒田藩の子弟に柔道、剣道等を教えていました。岡本家では下男を三人、女中を三人置いていたといいますから、裕福であったといって差し支えありません。ところが明治維新となり、全国の武士は一斉に武士の身分を失い、没落してしまいました。安部の父は一家を養うためにいろいろな商売を試みましたが、どれにも失敗し、とうとう最後には写字という仕事で福岡県庁に雇われて、辛うじて一家を支えていきました。写字とは何かといいますと、当時はまだ活版による印刷術が普及する以前でしたから、書物はすべて木版で作られていたのです。磯雄の父は細字を楷書で書くことが上手でしたから、出版業者に雇われて、書物にするための、木版用の原稿を書くことで生計を立てたのでした。また当時の福岡県では、町村で戸籍帳簿の書き換えを盛んにしていましたので、父は仕事にあぶれることはありませんでした。
 安部磯雄は、はじめ家の近くにできた小学校に通っていましたが、のちに福岡県の師範学校付属小学校が出来るとそちらに移りました。この付属小学校は、県内からよくできる小学生を集めたエリート校でありまして、師範学校の先生が教えました。磯雄はここで初めて競争主義というものを経験しました。
 安部はこの付属小学校で四人ばかり、非常によい友人ができたと述べています。その一人は山座円次郎という人で、のちに東京大学を出て外交官となり、小村寿太郎外務大臣の右腕といわれ、一九一三年には中国公使になった人です。これらすぐれた同級生のなかで、吉川弘文館の『国史大辞典』に項目として出ているのは、この山座と安部磯雄だけです。
 安部は付属小学校卒業後、約三か月間、二十四キロほど離れたところにある漢学塾に塾生として寄宿しました。塾の主催者は小学校の校長をしている人で、塾では授業というものは行わず、七、八人いた塾生たちは、それぞれに自主的に勉強し、わからないところを先生に質問する、というやり方でした。わずか三か月でしたが、安部磯雄はこの間に『十八史略』『唐宋八家文』『論語』『孟子』その他の中国古典を読了したといいますから、彼はこうして明治期の日本人としての伝統的な教養を身につけたといってよろしいと思います。
 ちょうどそのころ、安部に同志社英学校に行かないかという、願ってもない誘いがありました。それはこういうことでした。磯雄の姉は浅香龍起という福岡人と結婚していました。浅香は、海軍兵学校に入って海軍軍人になるという志をもっていました。海軍兵学校に入るには英語ができないといけません。浅香は裕福な家の坊ちゃんでしたから、同志社英学校に英語を習得するために入ったのでした。その浅香が夏休みで福岡に帰っていたとき、磯雄の父に向かって、自分は海軍軍人になるために同志社で準備していますが、磯雄君も海軍軍人にしませんか、その準備として同志社に行かれるのであれば、及ばずながら浅香家でもいくらか補助します、という申し出をしたのです。これは磯雄にとっては、天にも昇る喜びでした。当時の福岡の少年にとって、東京または京都の学校に行けるということは、現在ならば欧米留学に匹敵するほどの出来事でした。ただし浅香は、同志社がキリスト教の学校であるということは一言も磯雄の親に告げませんでした。一八七九年八月、磯雄は義兄の浅香龍起に連れられて、博多から神戸まで船で行き、神戸から汽車で京都に入り、首尾よく同志社に入学したのでありました。

安部の同志社時代

 安部磯雄は一八七九年九月に同志社英学校に入学し、一八八四年六月に卒業しました。当時の同志社では学年は九月から始まり、三学期制でした。すなわち一学期は秋学期で九月中旬からから十二月二十日頃まで、二学期は冬学期で一月十日頃から三月下旬まで、三学期は春学期で四月上旬から六月下旬まで、夏休みはまるまる二か月と十日もある長いものでした。同志社英学校の生徒数は当時一二〇~一三〇人というところで、そのほとんどはキャンパスの中にある三つの寮のどれかに住んでいて、下宿する生徒はむしろ例外でした。安部の義兄の浅香龍起は、寮生活の窮屈さに堪えられず、やはり福岡からきた原恒太郎という生徒と一緒に学校の外に下宿していましたから、安部もまたこの二人の先輩と一緒の下宿に入りました。安部は基本的に真面目な学生でありました。同志社の授業はさぼることなく、まじめにきちきち出席しました。当時の安部の日記には、森田久万人という教師から教わったことの内容、またキリスト教講話を聞いたときはそれのあらましが几帳面に書き残されています。
 この一八七九年の秋学期というのは、同志社英学校としての体制が整った時期でありました。教員組織としては新島襄を校長として、アメリカ人宣教師のデイヴィス、ラーネッド、ゴードンの三先生、それにその年の六月に英学校予科(神学部)を卒業したばかりの若い教員たち、すなわち山崎為徳、市原盛宏、森田久万人、この七人教員態勢が確立し、教員会議が毎週開かれることになり、教員会議の書記にはラーネッドが指名されました。安部は市原盛宏から英語の読本を習ったと書いています。またデイヴィスからはWebsterのSpelling Book を習いました。新入生の数は二十五人くらいだったようですが、デイヴィスの教授法は極端な競争主義で、全生徒を一列に並ばせ、左の方から一人ひとり当てて単語のスペルを言わせました。答えられないと、次の生徒に答えさせ、正しく答えたら二人の位置を交代させました。こうしていくと、好成績の者は一日のうちに最高位に昇り、成績不良の者は忽(たちま)ち最下位に落ちる、という有様でした。安部磯雄としては競争主義は師範学校付属小学校で経験済みでしたから、同志社でも大いに競争意識を出して愉快に頑張りました。ラーネッドの記録した教員会議記録を見ると、一年生はラーネッドから福音書を習ったはずですが、安部はそれには触れていません。
 安部は同志社での一年目は秋学期と冬学期に出ただけで、春休みに義兄と原恒太郎について福岡に帰り、春学期は出席しませんでした。これは義兄にそそのかされての帰郷で、福岡で一学期分しっかり勉強して秋の試験に合格すれば、春学期を済ませたことにしてもらえる、ということだったようです。浅香自身は一八八〇年の秋からは東京に行くつもりでした。このため、安部は一八八〇年四月十三日に起こった新島の自責の杖の事件を経験しませんでした。彼はすでに福岡に帰っていたからです。彼は福岡では先輩の原の所に通って英語を勉強しました。原はのち宮内省に入り、侍従になった人です。一方義兄の浅香龍起ですが、彼はハンサムで女性にもて、意志が弱くて学問は中途半端、ついに海軍に入ることなく、身を持ち崩してしまい、安部の姉とも離婚しました。安部にとって、浅香は彼が同志社に入学するきっかけを作ってくれた恩人でしたけれど、彼としてはいかんともし難いことでした。海軍に入るという夢はいつのまにか消え、安部は同志社教育の流れのなかを懸命に、しかし愉快に泳いでいました。
 安部磯雄は同志社英学校の二年目を一八八〇年九月から始めたわけですが、義兄も原も同志社をすでに自主退学していました。安部は当然のこととして寮に入りました。寄宿舎生活をすることによって、安部の本当の同志社生活が始まったといえます。同志社には二階建ての寄宿舎が、東から数えて第一寮、第二寮、第三寮と三棟ありました。それぞれ二階だけが寄宿舎になっており、第一寮の一階は事務室、応接室、教員室。第二寮の一階は教室。第三寮の一階は図書室と教室として使われていました。寄宿舎の部屋は八畳と六畳の二種類があり、八畳には三人、六畳には二人の学生を収容しました。部屋には広さとか日当りとか、いろいろの点で生徒たちの入りたがる部屋と入りたがらない部屋がありましたから、公平を期するため、一学期ごとに部屋替えをする習慣でした。このため学生たちは部屋替え委員というものを互選し、委員は各寮生が前の学期、前の前の学期にどの部屋にいたかを参照して、新しい部屋を決めました。また室内の監督者という意味で、五年生四年生を各部屋に配置して、新入生のみが一部屋に入るということは許しませんでした。これらはすべて学校が決めるのでなく、学生の自治活動としてやったのでした。また年間を通して、午前五時半に起床、午後十時に就寝という習慣が厳重に守られました。当時はまだ電燈というものがなく、学生たちはランプを用いていました。私が非常に感心するのは、当時の同志社の学生たちは、午後五時半ごろに夕食が終わり、三十分くらい散歩したあと自室に帰り、ランプの下で午後六時から十時までの四時間をみんな静かに、熱心に勉強した、ということです。室内で喋るものがあれば、ただちに寮長が注意を与えたといいます。
 同志社英学校ではこれが月曜から金曜まで五日間続き、土曜日には授業が無く、生徒たちは盛んに遠足に出かけ、比叡山、鞍馬山、愛宕山、大文字山、笠置山、近江の三上山等に登りました。安部は比叡山には何度登ったか思い出せないといいます。日曜日には殆どの学生が教会の礼拝に参加して、魂をリフレッシュいたしました。同志社はこうして知育・徳育・体育の三方面に配慮した教育システムを作り上げていたのです。同志社スピリットはこのようにして養成されたのだといえます。
 さらにもう少し詳しく同志社英学校の授業体制を見ておきましょう。しかしこの点では安部が自叙伝で書いていることと、ラーネッドの教員会議記録との間にずれがあります。まず安部はこのように述べています。「我国の中等学校に於て毎週約十三課目と約三十時間の授業が課せられて居るに反し、同志社は毎週二課目乃至三課目を課し、授業時間は僅かに十五時間に過ぎなかった。これがため課業は毎日午前中の三時間で終り、午後と夜分は全く予習のために費すことが出来た。即ち自修主義と集中主義が徹底的に行はれて居たのであるから、僅か五年間で私共は普通学を修むると共に英語にも可なり上達するようになった」(p.5)。面白い制度だと思いませんか。安部の記憶では、同志社の授業は午前中の三時間だけで、午後はすっかり自習にあてることができた、というのですが、ラーネッドの記録を見ますと、授業はすべて一時間の単位で、午前八時、九時、十時、午後一時、二時、三時というふうに、午前・午後各三時間の時間割になっています。宣教師のグリーンが教師陣に加わるようになってから、彼はどうも十一時の授業が好きだったとみえて、彼の授業はよく十一時に組まれています。したがって、午後の授業がなかったかのようにいうのは、安部の記憶違いであるといわざるを得ません。しかし、当時の学生が普通、二ないし三科目を取り、毎日その授業があったというのはラーネッドの記録に照らして本当です。私はこのことから、アメリカの大学の制度を思い出します。たとえばアーモスト大学では、学生が一度に取る課目は普通四科目です。それ以上の科目を取ることは可能ですが、各科目とも予習復習がきついので、ついていけなくなります。私はかつてアーモストに一学期間留学したとき二科目を取りましたが、時間的にはそれだけでも目一杯で、それ以上の余裕は全くなかったことを思い出します。つまり同志社英学校のカリキュラムは、おそらくアメリカの学校制度を基準にして作られていたのです。
 安部が三年生、四年生、五年生のときに取った科目を紹介しますと、三年の一学期で万国史・代数・演説、二学期に万国史・幾何学・演説、三学期に英国史・三角学・演説。四年の一学期に物理学・修辞学・英作文と演説、二学期に物理学・化学・英作文と演説、ほかに論理学が毎週一時間、三学期には欧州文明史・生理学・英語会話、ほかに漢学、五年の一学期に心理学・論理学・経済学、二学期に心理学・天文学・政治学・倫理学、三学期に地質学・英文学史・倫理学でありました。演説という科目の多いことは少し奇異に響きますが、これは重要な科目でした。安部の取った科目のうち演説、英作文、経済学、政治学以外はすべて英語の教科書を使いました。当時京都には洋書を売る店はなく、いちいちラーネッド先生が米国から取り寄せ、学生は先生のお宅まで伺って購入しました。
 当時の同志社英学校に関して非常に面白いことは、各教師が自分の専門以外の学科を担当したことです。森田久万人という先生は哲学が専門でしたから、心理学をも担当したのは不思議ではありませんが、安部は森田から算術・代数・幾何・三角法・修辞学・地質学を習いました。ラーネッドは非常に幅広く授業した人でしたが、安部のクラスには英語演説・英国史・政治学・経済学・天文学を教えました。ゴードンは医学博士でしたから生理学と化学を教えたのは当然としても、彼はそれ以外に倫理学を教えました。デイヴィスは神学が専門でしたが、論理学と英文学史を教えました。山崎為徳が若くして亡くなったために、化学者の下村孝太郎が教壇に立ち、物理学と欧州文明史を担当するとともに、随意科目としての論理学を教えました。安部は三年生のとき新島襄から万国史を学んだと述べています。これはどういうことかといえば、一つには同志社は普通教育を目的としており、教師は英語の教科書を学生に理解させることが目的であり、学生は自主的に教科書と取り組み、教師はその補助者にすぎない、という考え方の反映だったのであります。

新島校長

 安部はチャペルの時間に、新島襄の演説や説教を何度も聞いています。新島の演説や説教はしばしば声涙共に下るという調子のものでしたから、聞く者は非常な感銘を受けました。安部の学生時代、新島は三十六歳から四十一歳といった時期でした。新島は実に堂々とした容貌の持ち主であり、文部大臣などが学校を訪問して演説することがあっても、新島校長の風采の方が明らかに勝っており、学生らは誇りを感じた、と述べています。新島は全学生の顔と名前を記憶していました。安部は二年生のとき鼻と唇の間に腫れものができ、府立病院で手術を受け、寮の部屋で寝ていました。すると新島校長が安部の部屋にやってきて種々慰め、見舞い品として沢山の蜜柑を与えたのでした。福岡の付属小学校で安部の同級だった男が同志社に入学していまして、チフスにかかり、府立病院に入院しました。安部と友人たちが交代で看病しましたが、その生徒はついに亡くなりました。夜が明けてから新島校長に連絡したところ、校長はすぐに病院に駆け付けました。葬式の準備に取り掛かると、新島夫人は棺の中に敷く白布の布団を作って贈ったのでした。しかも葬式では新島自身が故人のために追悼演説をし、聞く者は感激いたしました。新島と同志社学生との関係はこのようでありましたから、新島が亡くなったとき、彼の棺を京都駅から寺町の新島邸まで学生が交互に担いだこと、そして同志社での葬儀ののちには、新島の棺を同志社から、若王子墓地まで担いだことは、彼らの新島に対する愛慕の気持ちの自然な表われであったことがわかるのであります。

安部の回心

 それでは安部はどのようにしてクリスチャンとなったのでしょうか。安部の回心はどのようにして起こったのでしょうか。それは先ほど述べた、鼻と唇との間にできた恐ろしい腫れもののために、生死の間をさまよったことが原因でした。府立病院で彼は医師から、彼と同じくらいの年頃の女性が顔の腫れものの手術をしたが、手遅れだったために死亡したことを聞きました。安部は、二十日間かかって回復できたことは実に幸運だった、と書いています。こうして、病気回復後からは、キリスト教に対する彼の態度は一変しました。聖書を真剣に読むようになり、日曜日の礼拝には忠実に出席し、キリスト教の集会には努めて参加するようになりました。彼はクリスチャンになりたいと思いましたが、それには洗礼を受けなくてはなりません。当時は教会員になるためには実に厳重な試験が行われました。これは現在の状況と非常に異なります。試験は単なる信仰の問題だけでなく、人格の問題にまで及びました。日頃の品行が吟味され、友人間の評判においても欠点があってはなりませんでした。入会志願者に対し、教会員全体がさまざまな質問をしました。質問が終わると教会員だけで、入会させるかどうかを決めました。もしこの試験に落ちるようなことがあれば、大変な恥でした。ですから、当時は自ら進んで志願するよりは、上級生が薦めてくれるまで待つ方が安全だと考えられていたのです。安部の場合は洗礼を受ける決心をしてから十か月も待って、ようやく同志社の第一教会で一八八二年二月五日に新島襄から洗礼を受けたのでした。この日、同時に受洗した七人の名前を同志社教会員名簿で調べてみますと、安部の同級生である新原俊秀及び岸本能武太、同志社の大紛争のあとで同志社の専務理事として厳しい状況を乗り切った山中百、新潟県新発田に伝道して新発田教会の初代牧師を務めた原忠美、そして澤山保羅の弟の澤山雄之助がいます。岸本能武太と安部は後年、早稲田大学教授として、同僚となりました。 一八八四年に同志社にリバイバルが起こり、学校中にその騒ぎが広がりました。リバイバルは集団的に熱狂する宗教現象で、多くの生徒は、ただちに外部に伝道に出かけたがりました。新島は冷静にこれを諭し、春休みになるまで待つようにと説得しました。木村経夫という学生などはリバイバルから精神に異常をきたし、新島邸の二階の部屋に収容され、安部はその看病をしたことを記録しています。安部自身はどうしてもそのような白熱的信仰をもつことができなかったといいます。安部は罪の意識という問題には触れていません。
 要するに、安部磯雄が同志社時代に得た最大の収穫は、キリスト教に出会ったことでありました。安部の同志社スピリットの中心にはキリスト教の博愛主義がありました。安部は同志社時代、朝食後に相国寺の境内を散歩していて、宿るところがないために松の木の下で一夜を明かした乞食を見ました。空腹を訴えて、もはや動くことのできない旅人を見ました。当時の京都には失業者も貧乏人もたくさんいたのです。たしかにキリスト教は人類を精神的に救うけれども、物質的な救いにまでは及びません。どうすれば人類を物質的にも救うことができるのか。これが安部の直面した問題でした。彼は卒業演説の題目に「宗教と経済」を選びました。彼は卒業後にラーネッドの経済学の講義ノートを読み返してみて、ラーネッドがすでに社会主義の問題に触れていることを発見し、なぜあのときにもっと注意を払わなかったのかと深く後悔しました。安部は社会の物質的救済という大問題を心に刻んで同志社を卒業したのでした。彼はこの問題を卒業後も、そしてアメリカ留学中もずっと追い続けてきました。

東京大学・改姓・同志社退学

 安部磯雄に関して、あと三つのことを付け加える必要があります。その第一は、彼の在学中、生徒の間に東京大学に対する憧れの風潮が強くなったという事実です。東京大学は政府の建てた唯一の大学でしたから、政府の財政的措置が実効を示し始め、東京帝国大学こそが日本の最高学府であるというイメージが定着していきました。安部は同志社英学校を卒業したら、あとなお十年間ぐらい勉強を続け、最後にはキリスト教の伝道者になることを漠然と考えていました。彼は卒業後東京大学で勉強し、その後は東京の築地に設立される予定のキリスト教主義大学に入ることを夢見ていました。築地のキリスト教主義大学というのは、明治学院なのか、それとも青山学院なのか、はっきり致しません。ところが安部の同志社英学校卒業とともに郷里の父からの仕送りが止まり、安部はようやく、父が相当な無理をして自分の同志社生活を支えてくれていたことを知りました。結局彼は卒業式後の夏休みには丹波でのキリスト教伝道に日々を送ったのであります。
 第二に、岡本磯雄がなぜ安部磯雄になったのか、という問題です。彼は安部を名乗る前にはしばらく竹内を名乗っていたので、話は少しややこしくなります。当時の学生たちの多くが苗字を変えました。それは兵役を免れるための手段でした。今の日本は徴兵制度というもののない、ありがたい国です。しかし、明治政府は日本を軍事的に強化するために徴兵制度を敷き、徐々にそれを改正して強化していきました。同志社では、軍人になろうとするような生徒はほとんどいませんでしたので、安部自身、海軍に入るという最初の目的はいつのまにか忘れてしまったほどでした。彼は一八八三年二月に竹内と改姓しました。当時の徴兵令によれば、家族を扶養する義務のある者は兵役を免ぜられることになっていましたから、岡本磯雄のように次男として生まれた者は適齢に達すると徴兵されることになっていたのです。そこで磯雄の父親は磯雄のために、名義上の結婚をさせる手続きを取りました。郷里の父は独身の女戸主を探し出して、十円か十五円払って磯雄をその人の戸籍に入れてもらったのです。時に磯雄は十九歳、相手の竹内という女性は三十三歳。こういうことをしても、当時では誰も非難したり、警察が取り締まることもありませんでした。ところが一八八三年十二月に再び徴兵令が改正となり、適齢者は扶養すべき両親があっても徴兵されることになりました。同志社の未婚の学生たちは混乱に陥りました。結婚するか、外国に留学するか、どちらかを選ばないと徴兵されることになったからです。一八八五年にまたもや徴兵令が改正になり、徴兵免除の特典は、結婚していて、六十歳以上の老人を扶養する義務を負う者に限ることになりました。竹内家には六十歳以上の老人がいないので、竹内家で離縁してもらい、六十歳以上の老人のいる家を八方探しまわり、とうとう注文どおりの家をみつけ、十五円払ってその家の養子にしてもらいました。それが安部という家でした。しかし安部磯雄自身は、竹内家の名目上の妻とか、安部家の老女には一度も会ったことがありません。当時同志社で教えていた宣教師たちは、休暇が終わってみると、多数の生徒が新しい名前になっていて、大いに戸惑っていることを本国あてに知らせています。
 第三の点は、少し深刻です。安部は一八八四年六月に同志社英学校を卒業し、夏休みは郷里に帰らずに丹波で伝道しながら過ごし、九月には同志社神学校に入りました。神学校は三年間の課程で、牧師を養成するコースでした。ところが、このコースに入ってすぐに、安部とその仲間たちは神学コースに大きな失望を感じました。安部たちはキリスト教に熱中していましたから、神学そのものに大きな価値があると信じていたのですが、教えられる内容は保守的で古臭く、魅力のないものでした。そこで安部は友人の村井知至と共に神学生を代表して、学校当局者に二つの要求を提出しました。一つは三年間の課程を二年間に短縮してほしいこと、もう一つはグリーン教授の旧約聖書の授業を他の先生に変えてほしい、という要求でした。新島はこのとき欧米旅行中で留守であり、市原盛宏が校長代理を務めていました。市原は、その要求には応じられないと答えました。そこで神学生たちは一斉に退学することに決めました。しかし、ストライキでもって学校を苦しめてやろうという気持ちはありませんでしたから、安部と村井とが代表して退学し、あとの神学生は学校に残ることになりました。市原校長代理としても、新島先生の留守中に波乱を起こしたくない気持ちが強かったのです。
 このようにして安部は福岡に帰り、数か月、福岡県内の学校で一年間英語を教えていました。しかし同志社のゴードン先生から同志社英学校で教えないかという手紙が届き、安部は晴れて母校の先生になることにしたのでありました。それは一八八六年一月からのことで、すでに新島はアメリカから帰ってきていましたから、新島との接触も密接になりました。同志社英学校で教え始めた安部が最初に担当したのは二年生の『万国地理』と、邦語神学生のための『万国史略』でした。
 しかし同志社での教師生活は一年少々で、彼は岡山教会に牧師として赴任しました。岡山教会は同志社の第一回卒業生である金森通倫の努力でスタートし、四〇〇人の会員で隆盛を誇っていたのですが、新島が同志社を大学にするための運動に着手すると、同志社の教学の中心となって活躍する人物が必要となり、新島は金森にその任務を託したのです。そのような事情から、安部は金森の後を埋めるために岡山に赴任したのです。安部は岡山教会で四年間働いたあと、同級生たちに遅れてようやくアメリカ留学の夢を果たすことができました。彼の留学先はアメリカのコネティカット州にあるハートフォード神学校でした。三年間留学のあと五か月間ドイツのベルリン大学で学んでから帰国し、岡山教会に復帰しました。それから再び同志社で教えました。一八八九年に安部は同志社を辞任して東京専門学校に移りました。友人の岸本能武太に誘われたからです。早稲田には同志社の出身者として、家永豊吉、大西祝、岸本能武太、浮田和民と、四人もの錚々(そうそう)たる学者が教えており、すでに家永と大西は早稲田を去ったあとでした。しかし早稲田の歴史家は、これら五人の同志社人は早稲田に同志社の血を輸血して、早稲田に独特の学風を形成してくれたのである、といって感謝しています。しかしながら、この人たちは、もはや同志社内部の紛争の結果、同志社にはいられないと感じた人たちでした。安部もまたその一人です。しかし安部の新島襄に対する思慕の念は死ぬまで衰えなかったことも事実です。

安部に感銘する四つの点:結び

 同志社スピリットとの関連から、私が安部磯雄に感心する点を四つ述べて、本日の話を締め括りたいと思います。第一に、安部は一貫して、自分自身が同志社で得た問題を追求する人であったことです。彼には宣教師の教えたキリスト教が古いものに見えましたから、科学的に立証できるキリスト教を追及するために、新しい神学の本場と彼が考えたドイツの、ベルリン大学まで勉強に出かけました。そして一応納得できる答をみつけました。彼が社会主義者となったのは、キリストが教えた「汝の隣人を愛せよ」という言葉を実践に移すためでした。この社会から貧困をなくすためには、政治的な解決がどうしても必要だと感じて、彼は社会主義政党の代議士として働きました。同志社の卒業生のなかから社会事業に献身する人が沢山でていることは、キリスト教主義同志社の重要な伝統です。
 第二として、安部は同志社教育を受けることによって、自分自身を教育する力を身につけました。彼は知育・徳育・体育のバランスが教育に必要であることを身をもって知り、それを実行しました。彼はハートフォード神学校に留学中、全校の学生四十人のうち、テニスは三番目に強かったと書いています。同志社時代野球のことを知らなかった安部が、早稲田では一九〇一年十一月に初代野球部長となり、早稲田の野球部を育てあげました。日露戦争中の一九〇五年には早稲田の野球部員を引き連れて渡米し、各地で親善試合を行い、また野球部員たちにアメリカ野球の技術を修得させました。この積極的な実行力は、安部独自のものでした。
 第三に、安部は力まない国際人でした。彼は同志社在学中から、アメリカ人の講演の通訳をするほどに英語ができました。ハートフォード神学校に留学中に知り合ったアメリカ人学生とは、親友として生涯つきあっています。外国人の友人をもたない国際人は存在しません。同志社の外国人教師のうちで、安部がおそらく最も尊敬していたのはラーネッドです。彼は渡米したときには、カリフォルニアで引退したラーネッド先生を親しく訪問しています。
 第四に、安部は人の悪口を言わない人でした。安部の親友だった岸本能武太は堂々と他人の悪口を言いました。私は、安部が自叙伝のなかで、もう少し他人の悪口を書いておいてくれたら、もう少し当時の状況がよくわかるのに、と思ったほどです。しかし安部に批判精神がなかったわけではありません。彼は同志社の教師のうちで、グリーンの授業内容の保守性に失望しましたが、問題は保守的な神学にあるのであって、グリーンにあったわけではないような書き方をしています。一九一九年二月のことですが、同志社理事会では原田助総長の退陣した後、早稲田大学の安部磯雄教授に次期同志社総長就任を依頼いたしましたが、安部はこれを辞退しました。この時安部は五十四歳の働き盛りでした。彼がなぜ同志社総長を引き受けなかったのか、彼自身の考えを確かめる術(すべ)がありませんが、推測することはできます。彼はすでに社会主義者としての活動を始めており、本務校である早稲田大学に迷惑をかけてはいけないという考えから、学内の要職に就くことは要請があっても断り続けていたのです。唯一彼が引き受けたのは野球部長で、これならば政治とは無関係でした。安部の同志社総長就任辞退の背景には、安部の母校愛から生じる、そのような配慮があったことを、私は感じずにはいられません。
 私のお話は以上です。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇八年六月五日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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