奨励

山室軍平、若き日の言行

奨励 葛井 義憲〔ふじい・よしのり〕
奨励者紹介 名古屋学院大学人間健康学部長
名古屋学院大学宗教部長・神学博士

 こんにちは。葛井義憲です。なかなか読みづらいですが、この字で「ふじい」と読みます。どうぞ宜しくお願いいたします。
 私が同志社で学び、そして同志社をあとにしてから三十年ほどがたちました。今、私は六十一歳です。
 この私より、ずっとずっと前に、同志社で学んだ一人に、山室軍平(一八七二年九月二十二日~一九四〇年三月十三日)という人がいます。ご存じでしょうか。彼は日本における「社会福祉の草分けの一人」として今日でも、評価されています。その彼が、社会福祉で関心をもち続けた事柄は、「貧しき女性」「病者」「子どもたち」などです。そして彼が、自らの身を置いて活動した場所はキリスト教団体の「救世軍」です。知っていますか。クリスマスのころ、軍服のような制服を着て、皆さんの暖かな献金を「社会鍋」に入れてくださいと、訴える人びとの姿をご存じないですか。
 この救世軍は英国で生まれました。そしてこのイングランドで誕生したキリスト教団体(ブース大将)は、この世の日陰で生きる人びと、また、額に汗して働く生活者の幸せづくり、希望の明日へと向かうエネルギーづくり、そうした手助けをすることを、願うものです。
 山室軍平はこの「救世軍」に終生身をおき、神のみ栄えと、この世の平和と、人びとの救いのために一心不乱に働いたのです。
 この山室軍平の「思想・信仰と行動」の一端を、彼が生きた時代を背景としながら、本日は語らせていただきます。
 山室が身をおくようになります、救世軍が日本に参りましたのは、一八九五年九月四日でした。簡略な年表を参考にしてください。(1)

救世軍来日のころ

 ライト大佐以下十四人の救世軍の人たちが日本服を着て、一八九五年九月四日、はじめて、横浜港におりたちました。
 この「救世軍」来日の時は日清戦争が終わってから、五ヵ月ほどが過ぎたころでした。明治の日本を代表するキリスト者、内村鑑三が日清戦争を「義戦、正しい戦争」と唱え、朝鮮の独立を求め、中国の近代化を求めた、すぐあとのころでした。
 この救世軍来日のころ、「義戦」といわれた日清戦争が、「正義の戦争、踏みにじられた人びとを解放する戦争」でないことが分かってきました。
 日本はこの戦争に勝利して、三億五〇〇〇万円という巨大な賠償金を清から得、台湾などの領土を獲得しました。そしてこの賠償金は日本の工業化を大きく進め、戦争の勝利は財政的にも、領土的にも、国を富まし、人びとを豊かにする手段の一つだと思わせるようになっていきました。
 明治になってからまだ三十年も経たないのに、この国は一〇〇〇年以上も憧れの国であった中国に勝ちました。そしてその勝利は、これまで多くの文化・文明をもたらしてくれた隣国を「おくれた、意味なきもの」と捉えさせていくようにもなったのです。日清戦争を「義戦、正しい戦争」だと捉えた内村鑑三も、こうした国民の変化に驚き、戦争は決して意味ある、良きものなどではないのだ、との認識をもちました。そして内村には、日清戦争を「義戦」だといったことに対する悔いが一生のこりました。
 内村は日清戦争後に生じた、日本の大きな変化を悲しみつつ、次のような文章をつづっています。タイトルは『農夫アモスの言』(一八九五年六月)です。故国ユダが退廃してゆく姿を憂い、立ち直れ、悔い改めよと述べた預言者、アモスを見つめつつ、内村は語るのです。(2)
 内村は戦争に勝ったことで、日本人の心の内に傲慢さが現われ、差別意識が強く現われだしたことを嘆いています。この『農夫アモスの言』を執筆した一八九五年は、内村が、一八九一年の「不敬事件」でおわれ、京都で執筆活動をしているときでした。まだ、東京の「万朝報」を舞台にして、大ジャーナリスト、内村ここにありと活躍する、二年ほど前のことでした。
 救世軍が日本にやってきたこの一八九五年は、日本の未来に大きな影響を与え、日本人の心に傲慢さと貪欲さと差別意識を育てていくときでもあったのです。しかし、この折のキリスト教会は、世の中の人びとを、心の底から打ち、悔い改めを迫る力を、あまりもっていませんでした。
 教会員の数は少ないです。しかし、この小さなキリスト教会が注目されるときがあったのです。日清戦争以前の、この日本にあったのです。世に「鹿鳴館時代」といわれたころのことです。
 明治十六年、一八八三年ごろのことです。明治政府は欧米との不平等条約を改正するために、徹底した「欧化政策」、つまり、「日本の伝統・精神」を捨てて、「欧米の伝統・精神を学ぼうとする政策」をとったときがあったのです。
 キリスト教もその恩恵のもとで、好意的に一時期、国民から迎え入れられました。しかし、それは長くは続きませんでした。明治二十一年、一八八八年頃には、「西欧を模倣するな」「日本国民の忠君愛国を培え」との言葉が国内で頻繁に聞かれるようになりました。こうした、国粋的声があがるころ、日本国家は少しずつ、国家としての基盤を強固にしだしていました。
 一八八九年には大日本帝国憲法が発布され、一八九〇年には、教育勅語が公布されました。ですから、このころになりますと、「鹿鳴館時代」のように、政府の後押しでなく、教会自らが、キリスト教徒自らが、信仰を強め、祈り、伝道に精をだしていかなければなりません。
 これは教会本来の姿です。当然のことといえば、当然のことなのです。
 このころのプロテスタントキリスト教徒はどれくらいか、人口はどれくらいか。一八九一年のキリスト教徒の数と、人口を述べますと、(3)人口は約四〇〇〇万人です。プロテスタントのキリスト教徒は約三万三〇〇〇人ほどです。ローマ・カトリック教会、ロシア・ギリシャ正教会をいれても、五万人はいかなかったでしょう。
 そんななかで、イングランドからやってきた救世軍が日本で伝道を行いはじめたのです。一八九五年九月に発行された、キリスト教系の雑誌、『福音新報』一巻十一号の記事を資料としてあげておきました。内容はお分かりのように、日本にやってきたばかりの「救世軍」についてです。少し読んでみましょう。(4)
 いかがですか。キリスト教会は混迷を呈し、伝道の不振を嘆く声があちらこちらであがっていることが、お分かりでしょうか。そしてキリスト教会は来日した救世軍のキリストの愛に基づく働き、伝道を注目していることも分かっていただけるでしょうか。

新島襄への憧れ

 この『福音新報』一巻十一号が発行された翌月、山室軍平は東京京橋区新富町の救世軍を訪ねました。簡略な山室の年表を、見てください。(1)
 この「救世軍」を訪ねた時、彼は東京神田区三崎町の伊藤為吉の下にいました。伊藤は建築家で、山室はそこで「大工、左官」の見習いをしていました。彼は、将来、一人前の「大工」となって、毎日汗をかき、そして毎日を懸命に生きる生活者、労働者と一緒に生きよう。そこで、伝道しようとの思いをもっていました。
 その思いを表す手紙があります。一八九五年七月に岡山県高梁の高梁教会の横屋亀子たちに出した手紙です。(5)差し出した場所は四国の今治からです。彼はその時、今治教会の伝道師、「牧師見習い」をしていました。
 今治教会はご存じの方もおられるかと思いますが、小説家、三浦綾子さんの作品、『ちいろば先生』のモデルである榎本保郎先生が牧師であった教会です。山室軍平は榎本先生よりずっとずっと前の伝道師でした。
 山室軍平はこの手紙を差し出す一年ほど前、一八九四年、明治二十七年六月に同志社を退学しました。同志社在学の期間は五年(一八八九年九月入学)でした。彼は同志社に憧れて、同志社に入りました。彼の同志社への憧れを作ったのは、やはり、同志社出身のジャーナリスト、民友社の徳富蘇峰でした。
 山室は同志社入学前は、東京で活版印刷所の職工をし、東京築地にある、築地福音教会へ通っていました。同志社に入学する一八八九年春、この築地福音教会の青年会は、彗星のごとく思想界に登場してきた徳富蘇峰を招き、講演をしてもらったのです。徳富はその時、「品行」について講演をしました。
 その様子を、資料としてあげておきます。(6)
 山室は人間として、キリスト者として、「品行」がいかに大事であるかを、この講演より知らされたのです。そして、この「品行」を十分に身につけている人物がいる。「敬虔」「忠誠」「勤苦」「忍耐」「慈愛」などの諸徳を心身にきざんだ人物が京都にいる。その人物は同志社の新島襄である。その新島襄に会いたい、新島が建てた京都の、あの学校、同志社を訪問したい。そんな思いを、山室はこの時から強くもつのです。
 そしてその望みの時が到来するのです。それは徳富が築地福音教会で講演をおこなって、しばらくたった、一八八九年六月末のことです。この六月末から七月にかけて、京都同志社で、「第一回夏期学校」が開催されました。そこに、山室が参加したのです。そしてこの「夏期学校」で、憧れの新島が講演をしたのです。それは七月四日でした。
 この新島の講演は、山室にとって、終生忘れられないものとなりました。
 その日の新島の講演題は「夏期学校に対する感情」でした。新島は夏期学校が開催できたことを感謝し、夏期学校の意義を、参加者に語りだすのです。(7)
 山室はこの折、キリスト教伝道に関心をもち、人びとの魂の救いを願っていました。そうした山室にとって、この新島先生の言葉、「日本心霊上の維新はまた吾人青年の手にあるものなり」。この言葉は、山室に感銘と励ましを与えるものでありました。
 そしてこの感銘は、同志社での学びを一層、彼に望ませるのです。しかして、その希望は、一八八九年九月以降、現実となります。彼は一八八九年九月、同志社予備学校に入学します。同志社の外では、キリスト教を排斥する声と、「国粋主義」を高らかに叫ぶ声があがっていました。
 しかしそうした騒ぎをよそに、「一国の良心とも謂うべき人びとを養成せん」と望む、同志社大学(一八八八年一月、「同志社大学設立の旨意」)で勉学に励むのです。「神を信じ、真理を愛し、人情、隣人愛を厚くし、この世の悲しみ、弱さに心を寄せる」キリスト教主義学校、同志社で学ぶのです。
 そしてこの同志社を開設した、キリストの僕、新島の薫陶を受けることを願うのです。しかし、敬愛する新島は、彼が入学した翌年の一八九〇年一月二十三日、神奈川県大磯で亡くなります。新島の棺を、山室もかつぎました。
 しかし、山室は先生、新島と一度もこの世で直接声をかわしたことはありません。しかし、山室の先輩で、山室を大変可愛がった吉田清太郎、のちに「愛の伝道者」といわれますが、この吉田を通して、新島からの伝言を受け取りました。それは「まだ、若いから、しっかりやれ」との、山室への励ましの言葉でした。
 山室には、この言葉は一生忘れることの出来ない、大事な、大事な言葉となりました。彼は何かあるとき、この言葉を思い出し、「まだ、未熟だから、しっかりやれ」と、先生、新島はおっしゃっておられると捉え、困難のなかで、厳しい環境のなかで、新島の言葉を思い出しつつ、励むのです。
 しかし、この大好きな同志社にも、その周辺にも、難しい問題が起こってきました。同志社と関わりのある教会、牧師、信徒たちのなかで、科学的、合理的に聖書やキリスト教を研究する「自由主義神学」というものが、大きな影響力をもち出したのです。
 山室には、日々、豊かに聖霊の導きを受け、キリストの大きな愛を実感する、そうした素朴な信仰に強められるところがありました。
 こうした山室を取り巻くキリスト教の変化は、大好きな同志社を去らせることになるのです。

さ迷う日々

 彼は、同志社を去って、どこへ行くのか。岡山の高梁でした。彼の故郷、岡山県則安村の近く、同志社に入る直前の、一八八九年に夏期伝道に参加した高梁でした。
 高梁は岡山から伯備線に乗って、山あいに入ったところにあります。山室が生まれた則安村は現在の新見市で、まだ、なお、電車で山の中を走ります。
 この高梁教会が彼を伝道師として迎えました。この教会は、山室が、横屋亀子を信仰へと導き、教会生活を勧めた所だったのです。
 しかし、苦悩する山室にとって、この心許せる高梁での生活も十分に満たされるものではありませんでした。山室の簡略な年表をご覧ください。(1)
 一八九五年一月、山室は宮崎県茶臼原に移住しております。彼が一生涯尊敬した孤児教育家、岡山孤児院の石井十次がこの茶臼原に農業地をもうけました。そして岡山孤児院の子どもたちで、農業に興味のある子どもたちを移住させようと計画したのです。山室も一農業従事者・指導者として、この地で働こうと考えて出かけます。しかし、ここも彼が骨をうずめる場とはならなかったのです。
 次に、前述しましたように、彼は愛媛県の今治教会での伝道師に就任します。この教会は、織物や、建築業に携わる教会員が何人もいました。そこで、伝道師をしつつ、大工の見習いをするのです。横屋亀子たちに手紙を書いたのが、この時です。(5)

「小さき者」に福音を

 どうですか。「模範的な労働者」になるのだとの強い思いが記されていますでしょう。先ほど、キリスト教は小さな集団だと言いました。国粋主義にあおられ、青息吐息の集団だと述べました。
 しかし、国粋主義の大風が吹く明治二十年代後半、一九〇〇年の少し前ごろより、キリスト教会は、社会のなかのインテリ層、都市の学歴のある中流層のなかに入っていきました。そして反対に、「労働者」「職人」が教会の門をくぐることが難しくなっていました。それは明治三十年代でも、都市にある大教会で見受けられる光景でした。
 「主婦之友」社という雑誌社がありますね。この雑誌社は石川武美という人が作りました。彼は一九〇七年に本郷教会で受洗しました。当時の牧師は海老名弾正、後の同志社総長になった優れた牧師です。この海老名の弟子には、東京帝国大学教授、民本主義者の吉野作造がいます。そして、本郷教会の青年会には、東京帝国大学・第一高等学校・東京女高師(後のお茶の水女子大学)の優秀な学生が多く集まっていました。そうした教会で、石川は教会生活をしていました。そして、その日々を、石川はつづっています。大変素直な文章です。(8)
 山室軍平は、こうした石川のような人びと、苦学して働く人びと、労働者に、キリストの福音を告げ知らせることを使命としていました。
 主イエスは二〇〇〇年前のパレスチナで、この社会の片隅に生きた人びと、踏みにじられ、見下された人びとに愛の福音を語り、癒し、慰め、救いの働きをなされました。山室もキリストの弟子として、愛の福音を、癒しの働きを、キリストの十字架のあがないと救いの言葉を人びとに伝えたかったのです。
 それも、当時の教会へ行きにくかった人びとに伝えたかったのです。山室の心にも、マタイによる福音書一一章二八―三〇節のキリストの言葉が響いていました。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 キリストに捉えられた山室にとって、キリストが温かなまなざしで、見つめつづける「片隅の世界、小さき者の世界」は最も大事な世界でした。この世界に救いを、キリストの愛を届けたい。そのためには、その世界の人びとの生活、その人びとの心を知るために「労働者」になろう。この世界の人びとの心をつかむために、俳句を、人情話を、義太夫を会得しよう。この世界を精神的に、物質的に改善しよう。彼の心は、「労働者」の世界、「平民」の世界に向けられ、その建て直しと、救済に一途だったのです。
 そしてその関心は、四国の今治にいた時代だけでなく、一八九五年十月に、東京の伊藤為吉を訪ねたときも続いていました。この一八九五年十月、山室は、新富町の救世軍を訪ねたのです。「救世軍」来日の翌月のことです。その時、彼は、救世軍のパエル書記長から、『軍令及び軍律、兵士の巻(Orders and Regulations for Soldiers of the Salvation Army)』という英文小冊子をもらいました。その内容は彼の心を捉えました。この小冊子の読後感を、山室は記しています。(9))
 「平民社会」にキリストの愛を届け、この社会を改善したいとの思いがここに記されています。これは大変な喜びようです。

垂直・水平の関係

 山室軍平が尊敬する人物の一人に新渡戸稲造がいます。この前の五〇〇〇円札の人です。新渡戸は第一高等学校校長、国際連盟事務局次長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長ほか数々の要職についた、高名な人物です。内村鑑三とは札幌農学校の同級生、また、キリスト教のクエーカーの熱心な信徒です。新渡戸も山室を尊敬していました。新渡戸もこの世の「小さき世界」に救いと愛の光がさすことに心を用いた人物でした。山室はしばしば、新渡戸のことをこのように言っていました。「新渡戸博士は、最も早くから、最も理解あり、同情ある軍友として、救世軍を助けられた」と、言っていました。
 この新渡戸が、人間が生きるにあたって大事なことは、「垂直の関係と水平の関係」だと言いました。これはとりわけ、第一高等学校の学生に語ったことです。
 「水平の関係」とは、どういうことか。それは隣人愛です。この世をともに生きる人びとが、少しでも喜びをもち、幸福を感じ、明日へ向かって生きる力を持つことを願い、祈り、働くことです。私たち一人ひとりが、私たちの周りの人に心を寄せ、自分と同じ大事な存在だと見なして、生きることです。「水平の関係」は、私たちの周りに愛の輪を広げさせ、幾重にも、幾重にも、その輪を作らせていきます。
 しかし、私たちはこの「水平の関係」だけではいけないのです。「垂直の関係」がなければならないのです。私たち一人ひとりが神様に祈ってゆく、キリストの罪のあがないと、救いにあずからせていただく。自らの罪を悔い、キリストがともにいてくださることを深く感じ、聖霊の導きのもとで今日を、明日を歩んでゆく。キリストはこの私とともにおられ、今も導いていてくださる。神と強く結びつき、神を深く信頼して、喜びもって、日々を生きてゆく。
 山室は、新島や新渡戸と同様、「神を敬い、人を愛する」、「敬神愛人」、「神との垂直の関係、人との水平の関係」の意義を深く知っていきます。
 この山室に救世軍への紹介状を書いてくれたのが、一八九〇年に、島根県松江に宣教にやってきたバックストンでした。彼はイギリスの国教会の人でした。救世軍の創設者、ブース大将と同じ、英国の人です。
 そしてこのバックストンもまた、祈りの人でした。霊性を重んじる人でした。「神との垂直の関係」をもっとも大事にする人でした。
 新渡戸やバックストン、そして新島も、そうでした。同志社の初期を築いた、ディヴィス博士は「新島は、晩年、聖霊を大変重んじるようになった」と証言しています。これは山室が同志社に入る前ですね。
 新島、新渡戸、バックストンに共通する、この「霊性」「スピリチュアリティー」への強い思いは山室にももたらされていくのです。
 山室が救世軍に入隊するのは一八九五年十二月ごろです。そしてその翌年の、一八九六年八月、彼は神奈川県富岡で次のような体験をします。(10)

 生けるキリストとの一体感を表しています。ガラテヤの信徒への手紙二章一九―二〇節の言葉が響き渡っています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。山室の苦悩、悲しみが晴れていくのが分かります。
 主イエスの十字架によって罪が贖(あがな)われ、心身ともに清められ、そしてキリストの霊は山室の心に宿る。彼は聖霊の導きのうちに、キリストの愛の生活が展開できる。そのことに気づくのです。
 これは、新渡戸的にいえば、「垂直と水平の関係」をしっかりと身につけて、聖霊に導かれつつ、祈りつつ、愛の働きをなしていくことの用意ができたということです。「救世軍の人たち」がしばしば言う、「心は神に、手は人に」との「信仰と愛の働き」を一途になしていけるようになったのです。

『平民之福音』

 それから、救世軍に入ってから三年の月日がすぎます。一八九九年十月、山室の名前を全国に知らせる出来事が起こりました。彼の信仰が深まり、祈りつつ、働きつつ過ごす日々の生活のなかから素直な、清き、温かな書物がでました。彼の代表作、『平民之福音』です。
 彼はこの年、一八九九年六月、岩手県花巻出身で、明治の最高の女学校、明治女学校卒業の佐藤機恵子と結婚しました。岩手は新渡戸稲造の故郷(盛岡)でもあります。また、山室の妻、機恵子が学んだ明治女学校は東北出身の同窓生を多くもっていました。新宿中村屋のおかみ、相馬黒光は仙台の出身です。『婦人之友』、自由学園の創設者、羽仁もと子は青森県八戸の出身です。
 二代目の明治女学校校長は、巌本善治という人です。彼の妻、ペンネームを若松賤子とつけた、巌本嘉志は、日本の初期の児童文学者で、福島の会津若松出身です。新島襄の妻、八重と同郷です。
 同志社出身の明治女学校教員には、青柳猛(有美)がいます。芸術に造詣が深く、巌本善治の補佐役を務めた英語の教員です。彼は女学生に大変人気がありました。作家、北村透谷や島崎藤村が明治女学校から去った後、青柳が明治女学校教員の中心的役割を果たします。
 この明治女学校校内に、一八九九年十一月、つまり、山室の代表作『平民之福音』が出版された翌月から、一人の青年が暮らすようになりました。
 その若者は後年、日本の彫刻会に大きな影響を与えた荻原碌山、荻原守衛でした。校長、巌本は長野県穂高の地から、美術を勉強するために上京した、この荻原に住まいを与えたのです。
 その荻原が、一八九九年十一月十一日の『碌山日記』に次のようなことを記しています。
「夕食後平民之福音読了。大いに感激する所あり。」
(『碌山日記』荻原碌山の一八九九年十一月十一日の条)
 「労働者、平民」に向かって宣教する山室の姿は、青年、荻原に大きな勇気を与えるものでした。荻原もまた長野県穂高の、中くらいの農家の子でした。地元の高等小学校を卒業し、東京に出て、これから美術の世界で羽ばたこうと志しても、やはり、その倍ほどの不安と心配に悩まされる青年でした。
 その青年の不安な心に、山室の生き方、言葉は勇気と励ましを与えていくのです。二〇〇〇年前、キリストが愛のまなざしを向けた「社会の片隅」「貧民、弱者」の世界に、山室もまた神の愛の光をともそうとして働きます。この山室の姿は、荻原に、親しいものと映ります。山室が希望の光のように、思えるのです。

モルフィを訪ねる

 荻原に希望を与える山室は、着々と愛の働きをしていきます。山室は、『平民之福音』を出した二年後の一九〇〇年七月、救世軍のプラート大佐たちと一緒に、名古屋を訪ねています。それは、懸命に「廃娼事業」、「貧しさゆえに、我が肉体を売らなければならなかった」人たちの自由獲得のために働く、一人の教師を訪ねるためでした。その彼は名古屋英和学校で教えていたモルフィです。そのモルフィの「廃娼事業」に加わり、支援するために、救世軍士官、山室たちが名古屋を訪れたのです。
 明治時代、社会福祉が大きく展開するのは、一八九一年十月、名古屋の地域を襲った濃尾地震以降です。そこに、多くの孤児たちが残されました。
 また、親を失ったために、「わが身を売る世界」へと身を沈めてゆかなければならない、孤児の女の子たちがたくさんでました。
 牧師で、和歌山出身の作家である沖野岩三郎は、大逆事件(一九一〇年)にも係り、一九三〇年に『娼妓解放哀話』という書物を出版します。その中で、彼はこんな文章を記します。「一八九八年、明治三十一年頃、日本全国で娼妓を最も多く出した県は愛知・岐阜の両県である。これは明治二十四年、一八九一年の両県における大震災のとき、憎むべき人買いが両県下へ渦をなして流れ込んだためである」と。沖野は『娼妓解放哀話』にこう記しています。
 一八九一年十月、多くの尊いいのちが奪われ、多くの悲しみが、愛知、岐阜にもたらされたのです。全国から多くのキリスト者が、救済活動のために、名古屋、岐阜を訪れました。山室が尊敬する石井十次は、一八九二年一月、名古屋に「震災孤児院」を設けます。立教女学校教頭、石井亮一は、孤児の少女を救出し、東京に「孤女学院」を開設します。その後、この学院は日本最初の知的障害児学校、「滝乃川学園」になって行きます。そして、まだ、同志社在学中の山室軍平も、震災地を歩き回り、石井十次が行う「震災孤児」救出を手伝うのです。
 しかし、こうした愛の活動が行われても、「苦界」へ身を沈める女性たちはいました。名古屋英和学校教師、モルフィは、そうした「わが身を売らなければならない人びと」に手を差し伸べ、「娼妓の解放」、「自由廃業」、「娼妓を自由にやめることのできる取り組み」を行っていたのです。
 こうしたモルフィの地道な働きは、山室や、救世軍の人びとを名古屋のモルフィのもとへと赴かせるのです。キリストの愛に生きようとする山室。平民社会に生きる一人ひとりが大事にされ、その社会がキリストの愛で満ちあふれることを祈る山室たちにとって、この訪問は当然のことでした。
 そして、この一九〇〇年の名古屋訪問は、「救世軍」が「心を神に、手は人に」との思いで、社会の救済と、神の愛の伝道へと一層励むきっかけとなるのです。

「一国の良心」

 山室には、新島が説く、「一国の良心」「神によって供えられる良心を手腕に運用する人物」に少しでもなれたらとの、願いがありました。「平民」世界に愛のまなざしをそそぎ、一人ひとりの足を洗い、一人ひとりを大事にするキリストの僕、新島のあとを少しでも辿ることができたらとの願いがありました。
 彼の心には、しばしば、新島の言葉がよみがえってきます。それは、先生、新島が『同志社大学設立の旨意』(一八八八年十一月)の中に記した、「一国を維持するは、決して二、三英雄の力にあらず、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざるべからず」との言葉。また、「まだ、若いから、しっかりやれ」と、山室に伝えられた新島の言葉。幾たびも、幾たびも、聞こえてくるのです。
 『平民之福音』の著者、山室の救済活動は、その後、多くの人びとの関心を集め、全国へと広がってゆきます。
 その山室の心のなかに、ヨハネによる福音書一五章一二―一四節のキリストの言葉が鳴っています。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。
 ご清聴ありがとうございました。同志社がますます神様に祝され、世の光、地の塩としての人材を多く輩出されますことを祈ります。

(注)
(1)山室軍平の簡略年表
一八七二年九月、岡山県則安で誕生。
一八八九年春、徳富蘇峰が築地福音教会で講演。
一八八九年六月二十九日~七月十日、同志社で、第一回夏期学校が開催された。 
一八八九年七月、同志社の吉田清太郎らと、岡山県高梁で夏期伝道。
一八八九年九月、同志社予備学校入学。
一八九〇年一月二十三日、新島襄が神奈川県大磯で死去。
一八九一年十月二十八日、濃尾地震がおきた。
一八九四年六月、同志社退学。一八九四年九月または十月、高梁教会伝道師。
一八九五年一月、岡山孤児院(責任者、石井十次)農業部が宮崎県茶臼原(一八九四年四
月)にできたので、指導員として出かける。
一八九五年七月、今治教会伝道師。
一八九五年十月、建築家伊藤為吉の所に身を寄せる。同年同月、バックストンの紹介状を携え、東京新富町の救世軍を訪ねる。(一八九五年九月四日、ライト大佐たち救世軍の人たちが横浜港に降り立つ)
一八九五年十二月前後、救世軍に「入隊」。
一八九六年八月、神奈川県富岡での「霊的体験(霊性の深まり)」。
一八九九年十月、『平民之福音』を刊行。この年、佐藤機恵子と結婚。
一九九〇年夏、名古屋のモルフィ(「廃娼運動」に尽瘁)を訪ねる。
(2)「農夫アモスは熱心燃ゆるがごとき愛国者なり。彼がこの記を作るの目的は、隣邦の積悪をたださんがためにあらずして、彼の特愛の生国なるユダ国を警戒せんとするにありき。西方アジアにおける昔時のユダヤ人は、東方アジアにおける今日の日本人のごとく、彼らは特種の歴史と国風とに誇り、異邦の民を見るに常に劣等人種の念慮をもってし、言う、われらは神国の民なり、列国滅ぶるに至るも、わが国の危殆におちいるのおそれなし」と。

(内村鑑三著『農夫アモスの言』一八九五年)

(3)日本の総人口(内務省調査 一八九一年十二月三十一日現在)
  四千七一万八六七七人
日本のプロテスタントの信徒数(一八九一年末)
  三万三三九〇人(「基督教新聞」第四二五号 一八九二年三月)
(4)「われらは救世軍の方法を採用せんと欲するものに非ず。ただ旧套を墨守し、之に姑息して、伝道不振の嘆声を青き呼吸とともにもらすのほかなす所を知らざる現今の基督教徒も救世軍の新奇なる方法に刺激せられ、伝道の世界も存外に広きものなるを見出し、自ら奮って新創の組織を案出し、改革の方針に用意して、伝道の活気を盛んならしむるに至るの利益少なからざるべきを望むのみ。救世軍は基督の福音を確守し、悔改して義に進むの道を専一に説くものなり。彼らは神学を講ぜざれども、福音の真理を直説せんことを務む。彼らはいたずらに感情的の信仰を説かず、悔改作業の実効を奨励するに熱中せり。これらは救世軍が日本の基督教徒を警醒するをうべき所にあらずや。」

(『福音新報』第一巻第十一号 一八九五年九月)

(5)横屋亀子あての手紙(一八九五年七月)
「私にして今何か一つの労働に身をゆだね候得ば その結果必ず七、八年の間に於て一個模範的の労働者となるを得べく候、一個の模範は十個の空言者にまさる かくて都合よくゆかば 一職工群の職長となり 一会社の社員となり 都合悪くとも最も敬虔にして最も勤倹なる一職工となりて 身をもって同輩を教化し また将来に起こり来るべき職工などの困苦疾痛に向ふては、これが代言人となり代表者として之を天下に告白し これが救済策を講ぜば 一生の能事」だと。
(6)徳富氏は私共の青年会に来て、「品行」といふ演説をしてくれられた。
「信仰ではない、品行である。信仰の話は諸君が平生、沢山聞いて居らるることゝ思ふから、私はわざと品行のことを話すのである」と説き起し。さて言はるゝやう、「今の日本では、品行といふ語が甚だ軽く用ゐられて居る。巡査や、村役場の書記の履歴書を見ても、皆品行方正、品行端正とかいふことが書いてあり、それはいかなる意味かと問へば、余り酒を飲まないとか、又は余り不道徳をしないとか、いふより以上のものではないらしい。しかしながら、私が謂ふ所の品行とは、英語でいふキャラクターである。敬虔、忠誠、勤苦、忍耐、親切、慈愛などの諸徳を、身に備へることをいふのである。ただ今京都に新島襄といふ先生が居られ、私共がその側に行って、何でも好いから三十分ほどもお話をして帰ると、あと一週間くらい、何となく気がすがすがしたやうに覚える。(中略)これは新島先生が、其の品行を有する人物だからである」と、こういふ意味の演説をせられた。
(山室軍平著『私の青年時代―一名、従軍するまで』救世軍出版及供給部 一九二九年)
(7)「それ日本明治維新の功業は実に青年書生の手にありしなり、将来日本第二の維新、日本心霊上の維新はまた吾人青年の手にあるものなり(中略)吾人青年は全国力を協て、第二維新を全ふせざるべからず、日本元気を振起するに力を尽さざるべからず、いやしくも基督の元気を拝し基督の招に入りたるもの、あに安閑として坐視すべきの時ならんや、各自
の職業に従ひ神に犠牲となりて働かざるべけんや(後略)。」

(『新島襄全集』2 一九八三年)

(8)石川武美が「本郷教会創立五十年」に寄稿した文章。
「男女学生の中に角帯、前垂姿の一小僧の私など、当時としては異色のある求道者の一人であったかもしれませんぬ。そして、自分ではかなりに引け目を感じました。」
(9)「私はこれまで、日本の基督教が、とかく空理空論に流れて、私どもの日常生活を、どんなに営むべきかという如き実際問題を、閑却しているのを遺憾に思い、スマイルズの著書19世紀のイギリスの社会改良家、思想家、サムエル・スマイルズ。明治の若者が読んだ『西国立志編』などを愛読して、それらの点に関する、若干の暗示をえたように覚えたのではあれど、それにしても、これらの書物は、概して言えば、私どもがいかにこの世に成功すべきかを教える、つまり、一種の処世訓に過ぎず。私どもがいかに神を喜ばせ、また世を救うために生くべきかという如き、宗教方面の教訓に至っては、全然ないわけではないが、余り多くは教えていないことを憾んでおった。然るに、『軍令及軍律、兵士の巻』は、私が平生物足りなく覚えておった、それらすべての欠陥をことごとく充たしてくれたのである。」

(山室軍平著『私の青年時代―一名、従軍するまで』救世軍出版及供給部 一九二九年)

(10)「私は東の空に面して座っておったと見え、ふと眼を開けば、紅い太陽今あたかも、海の中から姿を現わそうとする所であった。見ているうちに海を離れて、高く、高く、昇ってゆくと思うと、はや山も、水も、野も、原も、草も、木も、一面にその光をかぶらざるはないのであった。しかして私の霊魂の状態がまた、丁度それと同じく、私の胸の中には今『義の太陽』なる基督が、その輝くみ姿をもって臨み、またそのみ光をもって、隅々、隅々までも、あまねく照らしたまうこととなったのである。「我は世の光なり、我に従う者は暗き中に歩まず、いのちの光を得べし。」また「神は光にして少しの暗き所なし、もし神の光の中にます如く、光の中を歩まば、我ら互いに交際を得、またその子イエスの血、すべての罪より我らを潔む」などいう、神の約束は私の上に応験せられたのである。」

(前掲書)

二〇〇九年六月一日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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