奨励

一八八〇年代前半の同志社英学校

奨励 北垣 宗治〔きたがき・むねはる〕
奨励者紹介 同志社大学名誉教授
敬和学園大学元学長

同志社の奇人、池袋清風

 初期の同志社英学校にはさまざまな奇人がいました。奇人とは、「性質・挙動が普通の人とはちがった人」(『広辞苑』)のことで、「へんじん」、「かわりもの」ともいいます。奇人は同時代の人びとに注目される存在であり、いろいろと記録されてきましたから、奇人に焦点を合わせてみると、同志社のいろいろな特色が見えてきます。今日は初期の同志社の奇人の一人についてお話しいたします。その名前は池袋清風(いけぶくろ・きよかぜ 一八四七―一九〇〇)です。彼は新島襄校長からも一目置かれていましたし、新島校長の父、新島是水(ぜすい)の和歌の指導までしていました。
 池袋清風は一八四七年に今の宮崎県の都城に生まれました。父親は漢学者で、藩の学問を指導する立場にありました。したがって清風は子供の時から学問をする機会に恵まれていました。清風は六歳で藩校、都城明道館に入り、当時の藩校のカリキュラムに従って漢籍や習字を学びました。彼は子供の頃、歌人であった祖父から和歌の手ほどきを受けましたので、幼くして和歌のセンスを身につけたと言えます。しかし彼は医者になるという志を立てて、鹿児島の医学校に入りました。この医学校は、西郷隆盛のあっせんによって鹿児島に来ていた、イギリスの医師ウィリス(William Willis, 一八三七―九四)が指導していたようです。しかし清風は体が弱かったため、医学の勉強は思うように進歩しませんでした。というよりは、清風の英語の力がさっぱりであった、というのが本当のところかもしれません。体の弱い清風にウィリスは毎日浜辺に行って海水を浴びることを奨めました。それを実行してみますと効果がありましたから、清風は毎日の水浴を習慣とするようになり、水浴しないと風邪をひくという有様でした。他方、彼は鹿児島に滞在中に、薩摩桂園派(けいえんは)と呼ばれる人びとと交流したお蔭で、和歌の方は著しく上達しました。しかるに一八七七年に西南戦争が起こり、鹿児島医学校は火事で焼けてしまい、ウィリス先生も帰国しましたから、池袋は医学の勉強を続けることができなくなりました。彼はいたしかたなく、医学校を退学しました。
 池袋はその頃もう三十歳になっていました。彼は教育事業に乗り出す決心をし、友人と組んで英学校を創設しようとしたのです。同志社もまた、はじめは同志社英学校という校名であったことを皆さんはご存じでしょう。英学校というのは、英学を教える学校です。英学とは英語という外国語を通して学ぶ学問のことであって、英語学という意味ではありません。一八世紀の初めから日本でも始まった西洋の学問は、オランダ語を通して入ってきましたから、それを蘭学と呼んでいます。一九世紀の半ばを過ぎる頃から、日本の蘭学者たちは、本当に西洋の学問をするにはオランダ語ではなくて、英語でなくてはならないことに気づきました。一九世紀では文明世界をリードしている国はオランダではなくて、イギリスであるということに彼らは気づいたのです。つまり、英語さえ読めるようになれば、西洋の学問のほとんどすべての分野に入っていけるということがわかったのです。医学から数学、兵学、天文学、化学などの学術に分け入るためには、英語こそが最も強力な道具でした。そのために、英語を学ぶ学校が英学校でありました。

英学の学校同志社

 私は同志社が英学校として出発したという事実は、極めて象徴的であると思います。同志社は最初から、西洋文明に立ち向かおうとしていたのです。同志社の創立者である新島襄は、キリスト教を基盤として文明開化を日本にもたらそうとしました。新島の同時代人の多くは西洋の科学技術文明に魅せられていました。しかし新島はその物質文明の基礎にある精神的なものの方に注目しました。新島がキリスト教を基盤とする学術を探求しようとし、それによって新しい時代を担う若者を訓練することの重要さを見抜いたことは、大変な卓見でありました。
 さて池袋清風と彼の友人たちでありますが、鹿児島に英学校を設置するというせっかくの夢は、残念ながら実現しませんでした。なぜか。資金が足りなかったからです。これに対して、清風よりも四歳年長だった新島襄は、清風よりもリアリストでした。新島は学校を設置するには資金が要ることを初めから理解しており、日本ではとうてい資金は集まらないので、アメリカにいる間にアメリカで資金を集めることを思いついたのです。彼はアメリカ人を深く観察することにより、アメリカ人が教育に熱心であること、またアメリカ人はキリスト教の教えを世界中に広めることにとても熱心であることを見抜いていました。
 新島は神学を勉強して牧師の資格を取り、さらにはアメリカン・ボードという、キリスト教の宣教団体の宣教師となることを志願しました。一八七四年十月、このアメリカン・ボードの年次大会がヴァーモント州のラットランドで開かれて、新島もそれに出席しました。新任の宣教師として新島は、別れの挨拶をする機会を与えられたとき、単なる挨拶をする代わりに、型破りの募金アピールを行ったのであります。そのアピールは大成功を収めました。新島が期待した通り、アメリカのクリスチャンたちは、彼の涙ながらの英語の訴えに対して暖かく反応したのです。その成果が五千ドルの資金でありまして、新島はこうして、その資金によってこの今出川の校地を確保するとともに、教室、寄宿舎、食堂を含む三つの建物を建設することができたのでした。こうして同志社英学校が今出川校地に実現したのです。
 英学校設立に失敗した池袋清風は一八七九年には鹿児島女子師範学校の教員になることができました。彼が何を教えていたのか、つまびらかではありません。しかし彼はそのころ、京都に同志社英学校というものができたことを知りましたので、英学修行の志やみがたく、せっかくの女子師範学校教員の地位を一年間で投げ捨て、はるばる京都に出てきて、同志社英学校に入学しました。そのときの彼の年齢は三十三歳でした。彼は十三歳から十八歳の英学校の生徒たちから、池袋清風翁(・)と呼ばれるようになりました。「翁」すなわちオキナでありまして、現在ならば七十代、八十代のお爺さんを尊敬してオキナというわけですが、松尾芭蕉翁、というように昔は五十歳の人にも尊敬をこめて使いました。ちなみに芭蕉は五十歳で亡くなっています。

池袋の奇人ぶり

 最初に、私は池袋が奇人であったと申しました。どういう意味で奇人であったかといいますと、第一に、彼が毎日克明に日記をつける人だったことです。幸い明治十七(一八八四)年の池袋日記が同志社社史資料センターにあります。それはかつての有能な社史資料室長だった河野仁昭さんの手によって翻刻、刊行されていますので、私たちはそれを読むことができます。第二に、池袋は大変な寒がり屋で、夏でも綿入れの着物を着ていました。冬になると背を猫のように丸くしてちぢこまっていました。彼の日記は、今日はどんなものを着ていたのかについて、克明に記録しています。彼は足が冷えることを極度に恐れ、しょっちゅう足をストーヴで暖めています。それほどの寒がり屋でありながら、池袋は鹿児島以来の習慣を墨守し、京都市内には海がありませんから、冬でも鴨川や、相国寺の中を流れる小川に浸って、水浴をしたのでありました。まことに奇人の面目きわまるという感じがします。第三は、池袋が和歌の師匠として同志社英学校の学生たちを指導し、さらに同志社女学校の生徒たちも弟子入りするようになり、ついには梅花女学校や神戸女学院にまで弟子が出来ました。新島の父上も池袋から和歌の指導を受けたことは最初に述べました。同志社は英学一辺倒の学校と考えられがちでしたが、池袋清風が存在したお蔭で、花鳥風月をめでる日本の伝統的な要素が存在し続け、それが不思議な教育的効果をもたらしました。第四は、勤勉な池袋でしたが、彼は何年たっても英語が進歩しなかったことです。第一リーダーを何年たってもマスターする事ができないくせに、彼の英学修業の意気込みは衰えず、なんとかして留学したいものだと繰り返し日記に書いています。

池袋の日記

 これから池袋の日記の特色をご紹介してみたいと思います。皆さんのなかにも毎日欠かさずに日記をつけている方がおられるでしょうが、池袋はまさしく日記魔でありました。彼はどうやら毎日一時間ないし二時間、場合によってはそれ以上の時間を日記に費やしています。彼にとって、日記を書くことが人生を生きることであった、とさえいえます。それが彼の生き甲斐であったようです。私たちも日記には何月何日、何曜日、晴、曇、雨などと、天候を書き入れます。ところが池袋の場合、何月何日のあとに、必ず旧暦で何月何日であるかを書き加えているのです。ご存じのように明治政府は一八七二年、すなわち明治五年十二月三日をもって明治六年一月一日とすることに定め、従来の太陰暦を廃して太陽暦を採用しました。これにより日本は、明治何年という元号を別にすれば、いわゆる文明世界と共通の暦を用いることになったのです。池袋はこの暦の上での改革を通過してきた人だからでしょうか、日付には新暦・旧暦の両方を書く習慣がありました。なぜか。私の想像ですが、彼は歌人として、旧暦に基づく季節感を失いたくなかったのでしょう。池袋の特色はそれだけではありません。彼は毎日朝、昼、晩と三度寒暖計を見て、その日の温度を記録しているのです。気温は華氏で記入しています。現代の日本は断然摂氏の国でありまして、NHKの天気のお知らせは必ず摂氏です。つまり二五度以上が夏日であり、三〇度を越すと真夏日というわけです。私はアメリカで華氏を経験しましたが、本当に暑い日であるかどうかの目安は華氏では九〇度ということで、華氏の九〇度は摂氏の三二度です。池袋がこうして毎日朝昼晩の三回にわたって温度を書き記すのは、彼の健康保持と関係があるのでしょう。ただし池袋は寒暖計を見ることを忘れることがよくあり、忘れた日には「寒暖計朝午不見」と、几帳面に断り書きをしています。
 池袋は毎朝八時半から始まるチャペルに出席し、誰が奨励したのかを書きとめています。奨励の内容が彼の興味を引けば、彼はそれを要約します。当時の同志社英学校では教員が交替で奨励を担当するのが習慣でした。次に授業に出たことを書きとめ、宣教師グリーン先生の家に行って、先生に一時間、中国の古典で四書の一つである「大学」を教えています。グリーンのところには午後も教えに行くことがありました。こうして月に九円のアルバイト代をもらい、池袋はそれを生活費に当てていました。しかしそれだけでは生活費が足らず、池袋はしばしばグリーン先生から前借りしていることがわかります。
 池袋はこの今出川校地の、現在クラーク館や至誠館の立っている場所にあった寮の中で生活していました。今日は誰が自分の部屋にやって来たか、自分が誰の部屋に行って話したか、その時その部屋には誰々がいたか、などを正確に記入しています。日曜日は午前に教会で礼拝を守ったのかというと、そうではないことがわかります。日曜日は十時半からクラスの親睦会を開くのが常でした。例えば一月六日の親睦会は六人が出席しています。この親睦会には下村孝太郎という先生も出席することがありました。日曜日の礼拝は午後一時半からでありまして、池袋は京都第二教会、すなわち寺町通丸太町上る、現在の洛陽教会が立っている場所まで、御所を通って歩いて通いました。ただし風が強くて雪が舞うような寒い日には、風邪を引くことを極度に恐れる池袋は、教会出席を見合わせています。

新島襄の説教

 礼拝説教の内容が興味深いものであれば、それを日記に記録しています。例えば二月二十四日には新島が説教しました。池袋はこのように日記に書きとめています。「二時ヨリ新島先生説教、其熱心及ヒ当時の我日本、我基督教ニ就テノ事情至レリ尽セリ。聴衆粛然大ニ感ス、吾ハ感涙屡落ツ、三時ニ終フ。凡氏の如キ説教ハ他人ハ勿論、先生ニ於テモ一年ニ一回モナカリシ。四時前帰ル」。池袋がこれほど賛嘆する新島のこの日の説教は、幸いその内容を『新島襄全集』第2巻で読むことができます。興味をおもちの方は「目を挙げて見よ」という仮の説教題を与えられている新島の説教メモ(全集第2巻一七三~一七七頁)をご覧下さい。新島は、日本開闢以来、現在ほど愉快な時代はない、と言うのです。なぜか。それは見渡す限り稲田が色づき、刈り入れの時期が迫っているからです。今こそは日本の端から端まで救いの福音を説いてまわり、日本社会を一変すべきときだからです。こんな時代に遭遇させていただいた恵を、新島は神に感謝しています。
 そこで新島は得意とするエピソードをもちだします。むかし源氏と平家が讃岐の屋島で戦ったときのこと、ある日平家方から一艘の小舟が漕ぎ出ました。小舟には竿の先に日の丸の扇を高く掲げ、側に立つ官女が手招きしました。源氏の皆さん、この扇を射ることができますか。おできになるならば、射てごらんなさい、という意味です。浜辺に群集する源氏の武将たちは躊躇して、なかなか挑戦する者が出ません。しかしこのままでは源氏の恥であるというので、ついに那須与一という若武者がこの乾坤一擲の勝負に挑みました。彼は八幡大菩薩に祈りをささげてから、波に揺れる小舟の扇の的にねらいを定め、矢を放ちました。矢は見事に扇の的を射抜き、味方は勿論のこと、平家方も船端を叩いて喝采を送ったといいます。「平家物語」に出てくる有名なエピソードで、私も小学国語読本で習いました。新島にとって一八八四年は、沖合いに漕ぎ出した扇の的が手招きする年だったのです。新島は説教壇から、諸君の中に那須与一はいないのか、と問いかけたのです。「射落スヘキ的アルニ之ヲ射サレハ、何レ[ノ]時カ之ヲ射ルヲ得ン」(全集第2巻 一七七頁)というのであります。まるで新島のこの説教に答えるかのように、それから一ヵ月以内に同志社にリバイバルが起こりました。私たちは池袋の日記から、同志社の学生の間に起こったリバイバルの状況を詳細に知ることができるのであります。
 一八八四年一月七日は同志社英学校の第二学期の最初の日でした。当時の制度では学年は九月に一学期が始まりました。従って第二学期は一月に始まったのです。学期の初めで、新島校長が奨励を行っています。池袋は校長の奨励を日記の中に、次のように要約しています。「今回徴兵新令ニ付、諸君憂慮ト共ニ明治十七年ヲ迎ヘラレシナラン。然レトモ人ハ平易ノ時ニハ却テ事成ラズ、時窮シテ節見ハルルハ古来歴史ニ見ル処、蓋艱難ニ遭フテ心胆ヲ錬磨シ大業ヲナスモノ也。故ニ神ハ吾人ノ如キ愛シ玉フ者ヲ用ヒン為艱難ヲ与ヘ玉フベシ。即昔以色列(イスラエル)人民ハ埃及(エジプト)王ノ処遇ニ迫リ、ピュリタン人ノ如キ若シ迫害ナカリセバ今日ノ亜米利加ハナカルベシ。故ニ吾人ハ忍耐シ且ツ神命ナルヲ信シ、却テ喜テ其受ル処ニ勤ムベシ云々。」

徴兵令のインパクト

 この新島の奨励について若干のコメントをいたしますと、富国強兵を国の大方針と定めた明治政府は、徴兵令というものを施行し、それを次々に改正することによって、効果的に日本の軍隊組織を強化していきました。官公立の学校に在学する者に対しては、徴兵延期の措置が講ぜられましたが、私立学校にはその特典が与えられませんでした。明治政府は私学に対してそのような圧力をかけたのです。私学である同志社英学校の在学生たちの間に大きな動揺が起こりました。それに対応する方法は三種類ありました。第一は同志社を退校して公立の中学や師範学校に移ることです。そういう生徒が続出しますと、同志社英学校の生徒数が減っていき、学校の存立が危うくなります。第二は同志社をやめて、外国に留学することでした。外国にいる日本人には徴兵令が適用されなかったからです。第三は子供のないお年寄りをみつけて、その養子にしてもらうことでした。長男で、親を扶養する義務のある者は徴兵を免れることができたからです。このため、当時の同志社の生徒は結婚または養子縁組のために苗字がころころと変わり、宣教師たちは面食らったことを本国あてに報告しています。当時在学中であった、福岡出身の岡本磯雄の如きは、次男坊でしたが、やがて竹内磯雄となり、さらに安部磯雄となりました。すべてその養子縁組の手続は福岡の父が取り、磯雄自身は京都にいて、入籍した竹内家、安部家の人とは顔を合わせたこともなかったというのですから、驚きです。新島は明治政府による圧力を艱難(かんなん)と捉え、艱難のもつ精神的な意味を強調していますが、同時に、同志社英学校の生徒に徴兵延期の特典が得られるよう政府に働きかけ、出来るだけの努力を重ねていたのです。

留学する秀才たち

 コメントの続きとしてもう一つ指摘したいことがあります。それは、この状況で、同志社英学校の優秀な生徒の何人かは留学の道を選んだということです。一八八四年四月の同志社英学校生徒名簿を見ますと、総数一二九人で、池袋清風は邦語神学生の一人です。英語神学生のなかには大西祝(はじめ)のような大秀才がいました。大西は卒業後東京大学に入り、東大卒業後は早稲田大学の前身である東京専門学校で教えた人です。しかもこの大西は和歌の道では池袋の弟子でありました。この年の英学校最上級生である五年生には数名の秀才がいました。なかでも村井知至(ともよし)は新島の母校でもあるアンドーヴァー神学校に留学し、のちに東京外国語学校教授となり、「村井・メドレー」の名で知られる有名な英語参考書を書きました。同級生の岸本能武太(のぶた)はハーヴァード大学に留学し、やはり東京専門学校の教授になりました。同じクラスの重見周吉はイエール大学に留学し、帰国後学習院の英語の教授になりましたが、そのポストを何と夏目漱石と争って勝ち取ったといういわくつきの人です。同級生の安部磯雄はハートフォード神学校とベルリン大学に留学し、同志社でもしばらく教えましたが、東京専門学校に移り、早稲田大学の名物教授として、野球部長を務め、大学野球の父であるとともに、日本における社会主義の父として、不滅の足跡を残しました。ただいま名前を挙げたうち、大西祝、岸本能武太、安部磯雄の三人は早稲田大学で重要な働きをしましたが、このほかにも初期の同志社の卒業生で早稲田の教壇に立った人に、家永豊吉と浮田(うきた)和民(かずたみ)があります。
 当時の留学事情をうかがわせる記述を池袋は残しています。九月二十四日に彼はこのように書いています。「夕飯后、庭ニテ竹内磯雄氏ノ話ニ、重見周吉ハ出港(翌日人ヨリ聞ク、今日午后二時英艦何号ニ乗込、欧洲ヲ経テ米国ノ新約克(ニューヨーク)ニ遊学ノ由。但当人姉婿ヨリ百円許、大阪ノ宣教師ヨリ船賃千円ヲ恵与。而シテ船ハ無賃ニテ乗スルノ都合成リ、殊ニ人々ハ太平洋ノ方ヨリ往ク故サンフランシスコニ着スルヤ、米国東海岸迄ノ汽車賃幾ント船賃ト匹スルヨリシテ往ク能ハサル者多キモ、重見ハ西方ヨリナレバ少シモ陸路ナク、一銭ヲ費ヤサズシテ米国大都ニ達スルハ甚上都合也。併シ幾分カ船中ニテ使役セラルベシ。又彼地ニテモ使役セラレテ学費ヲ得ベキ也。又、三好文太ハ米国ニテ文章ヲ著ハシ、彼地学者等大ニ感シ、或人ハ二百五十弗褒金ヲ与ヘタリト。吾ハ此等ヲ思フテ自ラ慨嘆ニ堪ヘサルノ情一時発セシモ、吾病ヲナセシモ亦天命ト、基督ヲ観テ止ム)」

重見周吉と和歌

 イギリスの軍艦に乗り込んでアメリカに留学した人はここに記録されている重見周吉だけのように思います。イギリスの軍艦がそう簡単に日本人を乗せるとは考えられませんので、重見は恐らく艦長のキャビン・ボーイとか、他のサーバント式の契約を結んで乗り込んだのではなかったでしょうか。新島校長自身がそれより二十年前に函館でアメリカの商船ベルリン号に乗り込み、上海でワイルド・ローバー号に乗り換えてボストンまで行ったことを思えば、重見は新島の真似をしたと言えなくもありません。重見は英語がよくできたようで、イエール大学留学中に、A Japanese Boyという自叙伝を出版して評判を取り、それの印税を学費の一部に当てたと言われています。重見は学習院で教えていた頃、『学習院輔仁会雑誌』に和歌を投稿していますが、その和歌は私の見るところまさしく池袋流の和歌です。サンプルを示します。

[雨中落花]静にも雨にしめりて桜花 梢はなるる夕まぐれかな
[卯花]  空蝉の世をうの花はあし曳の わが山陰に咲きみだれつつ
[閑中春雨]つれづれとふる春雨の淋しさに 昔の文もひらきつるかな
[題志らず]異国の学の道を行人も やまと心はかはらざりけり

 池袋の日記を読んで一つ奇妙に思うことがあります。それは和歌の師匠として相当有名であった池袋ですのに、日記の中に和歌の作品を全然記入していないことです。和歌を作ろうとして、苦しんだとか、頭脳を大いに絞った、といった記述も皆無です。そこで、池袋の作品のサンプルをここで紹介しておきます。池袋の和歌の弟子のなかに、日蓮宗の総本山本圀寺の住職、三村日修という人がいました。この人はのちに日蓮宗の管長となった人です。この日修上人の還暦のお祝いが本圀寺で催されたときの池袋の歌です。

 千代の坂越ゆらむ君に敷島の 道の上にてあふか嬉しき

 次の歌は池袋がシャツや着物を何枚も重ね着していたことを意識した歌で、ちょっとユーモラスな作品です。
 うつせみの此の世の夏のいつをまちて 薄き衣に吾は更ふらむ
 私が重見の歌に池袋的要素を見出すのは、この「うつせみ」という表現からです。美しい日本語ではありますが、廃れてしまった詩語(poetic diction)にすぎません。池袋は和歌にかけてはあくまで伝統主義者であって、そのような詩語を多用する傾向があります。
 さきほど本圀寺の三村日修上人について触れましたので、池袋がキリスト教の隆盛に対する仏教の衰退について、日修が述べたことを記録していることをご紹介しておきます。これは七月二十三日の記述です。「今日聞ク処ニ拠レバ、吾和歌ノ一門人本圀寺住職権大教正三村日修翁ハ、先日寺内数百ノ僧徒ヲ集メテ曰ク、近来耶蘇教盛ニナリ、恐ラクハ政府ヨリ採用シテ国教トセンノ勢ナレバ、我仏教ハ棄ラルベシ。就テハ衆僧将来ノ糊口ニモ迫ルハ必然也。其期ニ投シテヨリハ更ニ困難ナレバ、各早ク僧ヲ止メ帰郷シ、農工商ノ如キニ還俗スベシ、是レ即禍ヲ免ルノ良法也。然レドモ必死仏教ヲ奉センノ精神アル人ハ遺ルモ随意タルベシ云々。吾聞テ憫然ニ堪エス、嗚呼二千有余年ノ仏教ハ、今日我国ニ於テ終焉ヲ告ルガ、此時ニ際シタル僧侶誠ニ不幸也。然レドモ時勢ヲ知ラサル若年ノ僧侶ヲシテ此事ヲ秘シ、他日落城ノトキニ空シク困死セシメンヨリハ、日修翁ノ心情ハ仁愛アリテ且活眼也。他ノ万僧ハ決シテ然ラズ」このような仏教滅亡説を演説した日修は偉いと思いますが、どうも私には日修が、キリスト教の勢いを利用して、日蓮宗の生ぬるい坊さんたちに発破をかけているように思えてなりません。明治政府がキリスト教を日本の国教にするなどということは、ちょっと考えられないことですが、そのように感じた仏教の人びとも存在した、ということの傍証にはなるかと思います。

同志社のリバイバル

 池袋の日記が貴重な記録であることはおわかりいただけたと思いますが、なかでも最も貴重であると考えられるのは、この一八八四年二月の終りから三月にかけて、同志社英学校で起こった顕著なリバイバル、信仰復興の事実を池袋が詳細に記述しているからです。皆さんは「リバイバル」といえば、リバイバル映画、あるいはリバイバル・ソングの事を考えられるかもしれませんが、本当のリバイバルというのは、人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していくことを指します。キリスト教の歴史には世界の各地でしばしばこういうリバイバルが起こりました。この前の日曜日、五月三十一日は、キリスト教ではペンテコステといいまして、初代のキリスト教徒たちに聖霊が下り、教会が誕生したことを記念する日でありました。新約聖書の「使徒言行録」第二章にその状況がいきいきと描かれています。
 同志社のリバイバルのことが池袋の日記に初めて登場するのは三月二日の記録からです。この日は日曜日でした。池袋は午後、足が冷えるのを怖れて礼拝堂に入りました。恐らく礼拝堂にはストーヴがあったのでしょう。礼拝堂には二年生で、鹿児島出身の山路一三という生徒が一人いて、池袋を見ると興奮しながら、十字架の愛を悟ったことを語ってきかせました。池袋はまだ十字架の愛を味わうことができませんでしたが、ともかく二人で第二教会の礼拝に出席しました。教会からの帰り、池袋は英語神学生の竹原義久と一緒になりましたが、竹原もまた十字架の愛を感じたと言うのです。竹原のところにその朝、五年生の新原俊秀がやってきたので、信仰の話をしたところ、新原は突如として悟ることができて、大いに喜んだというのです。その時点で池袋は、同志社英学校のクリスチャンである教員生徒のなかで、この十字架の愛を味わったのは新島先生と竹原義久、英語神学生の上原方立、山路一三、二年生の海老名一郎、この五人くらいであるけれど、自分はこれでもう五、六年も熱心に聖書を研究してきたのに、まだその域に達していないと、大いに自分のことを嘆いています。
 その翌日になると、十字架の愛を悟ったのはこのほかにも四年生の原忠美がいることを知ります。しかし五年生の村井知至はそんなことはまったくわからない、といいます。池袋はその日もまた、どうか十字架の愛を悟り、敵を愛することのできる信仰を与えて下さい、と真剣に祈っています。翌朝池袋は夢を見ます。夢の中に故郷都城の父が現れ、にこにこして京都の市街を見渡しながら、「お前はこの京都で長らく伝道したらよい、私はいつでもお前と一緒にいるから」と告げたところで目覚めました。池袋は神に感謝し、ぜひとも神のために生涯尽力したいと考えます。そして「嗚呼吾神恩ニ依テ天国ノ愉快ノ一端ヲ窺ヒ得タリ」と日記に書いています。
 三月十一日の日記を見ると、池袋は十字架の愛を悟っている四人の信仰上の先輩、即ち年齢からすれば四人とも自分よりも若い連中ですが、先ほど挙げた山路一三、原忠美、新原俊秀、海老名一郎を招き、涙を流しながら、自分の信仰の状態を告白し、何とかあなたたちのような天国の愉快を得られるよう、祈っていただきたい、と頼みました。(これから先、私は池袋の日記を現代風に訳してご紹介します。)すると原忠美は池袋を叱って言いました。「池袋さん、あなたはわれわれが天国の愉快を得たことを羨ましがって、それを今すぐ手に入れたがっていますね。しかしそれは自己中心主義というものですよ。どうしてそんな心の状態で天国に入れますか」と。それから四人はかわるがわる池袋に質問し、池袋がそれに答えます。新原俊秀が言いました。「あなたはまだ自分の罪を感じていませんね。罪の意識なしで十字架はわかりっこありません」。他の三人もその言葉に大いに賛同しました。「その通りです。いま愉快を得ている人は、初め非常な罪を感じ、胸がふさがって食べ物もノドを通らぬくらいで、眠ることもできず、まるで泥の中で塗炭の苦しみを嘗めるような経験して、初めて突如として、十字架の意味がわかり、それまでの肉体は罪とともに十字架につけることができ、天国に生まれるという経験をしたのです」。池袋は大いに驚き、涙ながらに友人たちの言葉を聞きました。四人は池袋のために熱心に祈り、最後に池袋が泣きながら祈りました。
 しかし池袋にも遂にその日がきました。三月十七日の日記にその状況が克明に記録されています。概略を私の言葉でまとめて説明します。池袋は鹿児島時代の話を思い出します。鹿児島の若い武士たちが政治的な争いに巻きこまれ、兄弟のうち弟の方がそれに連座して座敷牢に入れられました。彼には切腹の命令が下りました。彼の兄が座敷牢の番をしていたのですが、弟を憐れみ、密かに弟を福岡へと逃がしてやりました。この兄は不行き届きを上司から責められて、切腹したのでした。このような実例がキリストと父なる神の関係を深く理解するのに役立ちました。池袋はクリスチャンと称しながらも、いかに自己中心的な生き方をしてきたかを思いました。キリストは父母よりも、自分自身よりもこの私を愛さないものは天国に入る事はできない、と言われたことを思い出しました。まさしく自分は偽クリスチャンだった。このことを悟り、自分の罪を赦していただけるようにと、池袋は又も泣いて祈りました。すると急に心が晴れ渡り、重荷は肩から落ち、喜びに満たされたのでした。

リバイバルの大混乱と新島襄

 こうして池袋にも聖霊が下ったのでしたが、学校内は異常事態へと移っていきました。チャペルで夜通し祈る者、まだ聖霊を受けていないクラスメートに聖霊が下るようにと攻撃的に攻め立てる者、今ただちに学校を飛出して、伝道に出掛けようとする者が続出して、同志社英学校は大混乱に陥りました。新島校長は、地方伝道に出掛けるのは、春休みになるまで待つようにと説得しましたが、生徒たちは聞き入れません。とうとう妥協が成立し、二年生の海老名一郎、四年生の原忠美、邦語神学生の辻籌夫の三人が、代表ということで大阪に向けて出発し、それから三田、神戸、岡山、高梁、今治等を巡回することになりました。他方英語神学生の綱島佳吉と、五年生の木村恒夫は狂信的な言動をするようになりました。綱島の如きは「池袋清風!」と大声で呼び、「貴様は悪魔かそれとも聖霊か? おれはイエス・キリストだぞ」と言って睨みつけ、とたんに大声を上げて泣き出し、その場で倒れてしまう、といった出来事も起こりました。綱島はやがて回復しましたが、木村恒夫の方は精神を病み、新島邸に収容され、精神病院に入れられ、ついに七月四日に息を引き取りました。
 新島をはじめとする教員たちは同志社のリバイバルを比較的冷静に受け止めました。学生の中でも、五年生の安部磯雄、岸本能武太、重見周吉のように、熱狂的になることなく、しかもクリスチャンとしての生活を続けた人もありました。新島はこの年の四月の初めからヨーロッパまわりで渡米することになり、リバイバルの経験をそれぞれの学生に書かせ、それをみやげにしてアメリカに行くことにして、それをまとめるようにと、池袋に宿題を与えました。池袋は何時間もかけて若い友人たちの証言をまとめて清書し、それを新島がロンドンで入手できるように郵送しました。
 リバイバルで信仰復興を経験した人たちのうち、綱島佳吉はのち福島県の伝道に尽くし、東京に出て霊南坂教会や番町教会で牧会に当たりました。原忠美は新潟県新発田で伝道し、のちには明石教会で牧会に当たりました。竹原義久はのちに井出義久と姓を改め、私が現在所属している京都教会の初代牧師となりました。しかし、安部磯雄のような、リバイバルの影響を受けなかった学生も、ずっとクリスチャンとして押し通し、彼の社会主義は唯物主義でなく、キリスト教社会主義と形容すべきものを信念として、生涯をつらぬきました。新島の伝えたキリスト教は、キリスト教の福音主義と、社会救済主義(社会の底辺の人々を救済しようとする博愛主義)の両方を包含することのできる、活力に満ちた、しかもふところの深いキリスト教であったことを最後に申しあげて、今日のお話を終ります。

二〇〇九年六月四日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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