奨励

同志社の宣教師たち
―初期の七人をめぐって

奨励 本井 康博〔もとい・やすひろ〕
奨励者紹介 同志社大学神学部教授
研究テーマ 日本近代プロテスタントの歴史(特に新島襄・同志社)

アメリカン・ボード創立二〇〇年

 今年は、アメリカン・ボード創立二〇〇年、という節目の年です。それを記念して、一週間前の十月二十九日、クラーク記念館内のクラーク・チャペルで講演をいたしました。演題は「アメリカン・ボード創立二〇〇年」、主催は本学の人文科学研究所でした。
 堅いテーマにもかかわらず、珍しく大入り満員でした。入場をあきらめて帰られた人もいらっしゃる、というほどでした。アメリカン・ボード、いや、同志社も捨てたもんじゃない、と思いました。
 と言いますのは、同志社はかつて、このミッションにさんざんお世話になりながら、今年など、記念行事やイベントの企画はゼロ、という無残な状況だったからです。義憤、とは言いませんが、お寒い現状に呆(あき)れて、私は『アメリカン・ボード二〇〇年』(思文閣出版、二〇一〇年)という本を自費出版して、私的に記念、感謝表明しました。

宣教師あれこれ

 先日の講演会では、ミッションのあらましをお話ししました。今日は、突っ込んだ中身のお話、つまり個別の宣教師についてのお話です。ただし、場所柄、京都(同志社です)に来た宣教師に限定します。
 そもそもアメリカン・ボードは、一八一〇年創立という老舗(しにせ)のミッションです。が、日本進出は遅くて、一八六九年でした。以来、一九六一年までの間に、日本(日本ミッション)に四〇〇人近い宣教師を送り込みました。そのうちの二割近くが、京都(同志社)に派遣されています。新島もそのひとり、ということをまず確認しておきます。
 新島のパトロンとなったのは、ボストンのS・H・ハーディーです。彼こそ、アメリカン・ボードの理事長ともいうべきポストに就いていた人物です。新島は、いわば「ハーディーの息子」として日本に送り帰された宣教師であるという事実、これは決定的に大事です。この「親子」抜きに、日本伝道は語れませんから。ハーディーは「日本ミッションの父」である、という評価は、日本の宣教師間ではいわば常識でした(『新島襄全集』6 三一六頁 以下、⑥三一六)。

三年間に八人

 最初に日本に派遣されたのは、D・C・グリーンです。彼は、中国ミッションのR・H・ブロジェットの推薦と並んで、ハーディーの決断が、日本伝道開始の鍵になった、と回想しています(E. B. Greene, A New-Englander in Japan Daniel Crosby Greene, pp.80~81, Houghton Mifflin Company, 1927)。
 このこともあって、最初の三年間日本に派遣された宣教師たちは、いずれもすごい人たちです。グリーン以下、O・H・ギュリック、J・D・デイヴィス、M・L・ゴードン、J・C・ベリー、D・W・ラーネッド、E・タルカット、J・E・ダッドレーです。
 最後の二人は、独身女性です。ラーネッドは、これら八人を「日本ミッションの創立者」と評価しています(『アメリカン・ボード二〇〇年』一二―一三頁)。

同志社にきた宣教師

 先の八人中、三人、すなわちギュリック、タルカット、ダッドレーを除いて、五人が同志社に赴任しています。ギュリックは、まず来る意志がなかった、とみるべきです。大阪を拠点にして、(神戸のH・H・レヴィットと並んで)激しい同志社批判を展開しましたから。関係があるとすると、マイナスの関与です。彼らの攻撃に関して、京都のデイヴィスは、「後ろから鉄砲を撃つ奴がいる」と不快感をあらわにしております(『アメリカン・ボード二〇〇年』一七二頁)。
 一方、タルカット、ダッドレーという女性陣は、主として「神戸ホーム」(後の神戸女学院)の設立と維持に尽力しました。
 とりあえず、今日はまず五人の男性宣教師を取り上げます。ゴードン以外、いずれも(私も編集に関わった)『同志社山脈 一一三人のプロフィール』(晃洋書房、二〇〇三年)に収録しました。この本では別にL・リチャーズとM・F・デントンを取り上げました。彼女らを加えて、全部で七人を紹介します。とりわけ、新島襄との接点を軸にします。

デイヴィス

 まずは、デイヴィスです。名前、聞いたことがない、という本学の学生は、「もぐり」です。入学式でお世話になったはずですから。本学の入学式場は、このところずっと京田辺キャンパスのデイヴィス記念講堂(体育館)です。その壁には、My life is my message.(わが生涯が、遺言なり)という彼のモットーが、記されています(『ひとりは大切』一九七頁以下)。亡くなる際に、娘夫婦(C. B. Olds 夫妻)に与えられた文言です(『同志社五十年史』二三九頁、同志社校友会 一九三〇年)。
 このデイヴィスは、新島襄や山本覚馬(かくま)と並ぶ、同志社の創立者です。来日の順番では三番手ですが、京都(同志社)赴任は第一号です。彼は、新島が帰国する前から、神戸で塾(宇治野英語学校)を開いていました。これが京都での開校に至る伏線です。同志社の最初の生徒八人のうち、数人は神戸でデイヴィスの生徒であった、と言います。乱暴に言えば、同志社英学校は、神戸にあったデイヴィスの塾が、教員、生徒もろとも、京都に移転したようなものです。
 京都の業務は、最初から伝道よりも教育主体でした。その点、最初から特異な伝道拠点にならざるをえません。同志社は男子校から始まりました。デイヴィスはすぐに女学校(京都ホーム)を自宅に設けました。女子教育の開拓者でもあります(『アメリカン・ボード二〇〇年』一五三頁以下)。

「情の人」

 当初からデイヴィスは、新島とは「情の人」という点で相互のつながりが強固でした。ふたりは開校以後も意気投合し、一致結束して同志社を守ろうとしました。ある危機的な学校情勢のなかで、新島は、デイヴィス本人にこう書き送っています。「あなた無しには、私たちはやっていけませんと確信します」と(⑥二一〇)。初期の同志社では、この二人はうってつけのコンビであり、いわば「同志社の父母」みたいなものでした(『アメリカン・ボード二〇〇年』一六八頁)。
 デイヴィスの働きがすこぶる大きいことから、アメリカン・ボードでは、デイヴィスが「陰の校長」、つまり実質的には「校長」とみなしているくらいです(『アメリカン・ボード二〇〇年』一四〇頁)。
 新島の死後いち早く、デイヴィスが英文の新島伝の著者に指名されたのは、ごく自然です(『魂の指定席』一六三頁、一七二頁)。
 一方、デイヴィスの伝記は、息子が著しました。『闘う宣教師』(Davis, Soldier Missionary)という書名は、すぐれて暗示的です。学生時代、休学して南北戦争に四年間も従軍しました。戦後も、デイヴィスはどこにあっても戦士でした。同志社でも「霊界の軍人」でした(『同志社五十年史』二三八頁)。

ラーネッド

 同志社にとって、次なるキーパーソンは、ラーネッドでしょう。
 アメリカン・ボード宣教師としては、日本赴任は二十九人目(夫人は三十人目)でした(『アメリカン・ボード二〇〇年』一七六頁)。以後、同志社に勤続五十二年、というのはすごいです。が、その間の帰米(サバティカル休暇)が、たった二回というのも、驚きです。
 学者として知られ、あの「熊本バンド」の俊才たちからも、一目置かれた存在でした。無類の読書家でしたから、京田辺キャンパスの図書館(ラーネッド記念図書館)に、彼の名前が被(かぶ)せられているのも、きわめて自然です。正面の壁には、彼のモットーが彫られています。Learn to live and live to learn.(生きるために学べ、学ぶために生きよ)。
 イェールを一番で卒業したと伝えられている秀才に相応しい言葉ですね(『ひとりは大切』一九五頁以下、『千里の志』一八七頁)。彼が、同志社が大学になった時の初代学長になった、というのも頷(うなず)けます。

「知の人」

 こういう「知の人」、「理の人」でしたから、多分に「情の人」であるデイヴィスや新島とは、気質的に少し距離がありました。デイヴィスとラーネッドの性格が、「全く相反して」いたことは、衆目の一致するところであった、と言います(『アメリカン・ボード二〇〇年』一七八頁)。新島との関係も同様です。もちろん、新島への尊敬度は高いですよ。けれども、もしもラーネッドが新島伝を著していたとしたら、おのずとデイヴィスの筆とは色調が違っていたはずです(『魂の指定席』一七〇―一七一頁)。
 ただ、あまりにも学者や大学教授のイメージが強すぎるのも問題です。彼も牧師ですから。京都で最初(一八七六年十一月二十六日)に生まれたプロテスタント教会(京都第一公会)は、彼の家庭で生まれており、仮牧師がラーネッドであったことを見逃してはなりません(⑥一七八)。洗礼も立派に施しております。

洛北教会

 さらに二十世紀になりますが、ラーネッドの邸内で教会があらたに生まれております。今の洛北教会(日本キリスト教団)です。一九〇七年のことです。
 それより三年前の一九〇四年に大宮季貞という牧師が、新潟から呼ばれて、ラーネッドの助手(私設秘書)になります。二人は二十五年にわたって新約聖書講解(全二十二巻)を完成させました。まさに偉業です(竹中正夫『良寛とキリスト 大宮季貞の生涯を辿って』一四八頁以下、考古堂、一九九六年)。
 大宮は、ラーネッドの口述筆記や翻訳をするだけでなく、ラーネッドの指示と協力を受けて、邸内で伝道を始めました。本来が牧師ですから。当初は、地名をとって「今出川教会」と呼ばれましたが、のちに洛北(鞍馬口通り)に転出して、いまの洛北教会になりました。
 これに加えて、忘れてならないのは、夫人です。来日したのは、なんと十八歳ですよ。夫とともに出町幼稚園(デントンが創設)を邸内に引き取ったり、邸内の今出川教会を助けたりといった活躍をしております。前者は同志社幼稚園として、後者の洛北教会と同様に、いまも健在です。

グリーン

 日本ミッションの第一号宣教師です。一八六九年の来日で、神戸に最初の拠点(ステーションと言います)を置きました。当初は中国に派遣されるはずでしたが、急遽(きゅうきょ)日本になりました。
 アンドーヴァー神学校を卒(お)えるや、すぐに按手礼を受けて、牧師に認定されます。翌日、結婚です。日本への赴任旅行が、新婚旅行代わりです。花嫁(Mary Jane Forbes)にとっては、それまで外国はもちろん、ニューヨーク州の西部から西へは行ったことがない、という未踏の旅行でした(A New-Englander in Japan Daniel Crosby Greene, p.82)。彼らの労苦が偲(しの)ばれますね。
 神戸で開拓的な働きをしたのち、新島が帰国した一八七四年末には、グリーンは他教派との聖書翻訳共同事業のために横浜に移っていました。だから、新島を横浜港で出迎えた宣教師のひとりが、グリーンでした。
 新島はアメリカから帰国する時には、神戸に行くことがほぼ決まっておりました。しかし、横浜に戻って以降、グリーンから大阪へ行くようにとの指示が伝えられたようです。当時、大阪にもステーションが形成されたばかりでした。その大阪に新島が赴任したこと、それが、京都に同志社が創設される伏線になります。

レンガ校舎

 その後、グリーンは横浜から京都に転出します。同志社での功績は、何といってもレンガ作りの校舎を三棟(彰栄館、チャペル、有終館)設計し、資金をボストンから確保したことです。彼に続いて、イギリスとドイツのプロの建築家が設計したのが、ハリス理化学館であり、クラーク神学館(現クラーク記念館)です。これら五棟は、国の重要文化財に指定されています。
 グリーンと新島は、同年齢。しかも誕生日も一日違いです。ですが、こと教派観に関しては、ふたりの見解は両極端でした。一方は寛容派、他方は厳格派です。したがって、例の教会(教派)合同問題では、両者は対立した立場に立ちました。
 合同に批判的な新島は、大勢の宣教師たちがグリーンに感化されて、合同支持に回っているのを苦々しく眺めておりました。「残りの者たちは、グリーンに引きずられています。ああ!!! ああ!!!」といった有様です(⑥三一八)。

トップスリーの墓

 以上の三人は、誰が選んでもトップスリーに一番近いと思います。が、もしも上位ふたりとなると、グリーンは選外でしょうね(『同志社五十年史』二三三頁以下)。
 上位三人で言えば、「同志社墓地」(洛東の若王子山頂)にある外国人の墓として、独立した墓碑が立っているのは、先のトリオだけです。その他の人たちは、「共葬墓碑」に一括して埋葬されております。
 ただし、その陰で悲しい、というか辛い出来事があったことは、記憶しておくべきでしょうね。グリーン夫妻の墓が無管理だから、という理由で、東京の青山霊園から追い出されそうになったことがありました。その際、その管理を申し出たのが同志社でして、最終的に若王子に運びこみました。
 あそこはすでに満杯でしたから、既存の墓を取り除く必要が生じました。犠牲になったのが、M・F・デントンの墓でした。用済みとなった墓石は、現在、同志社女子大学の今出川キャンパスの一角に据えられています。かつての「デントン・ハウス」前の日本庭園に庭石っぽく、記念碑のような形でひそやかに佇(たたず)んでいます。

ゴードン

 四人目は、ゴードンです。医療宣教師です。同志社ではあまり知られていません。『同志社山脈』にも収録されていません。同志社の教員としても、目立った功績がありません。ですが、新島の帰国前後には、なかなか大事な働きをしております。
 たとえば帰国直前の新島に宛てて、最初に日本からラブコールを送ったのは、大阪にいたゴードンです。日本語で自由に説教できる新島を、首を長くして待っている、と言うのです(⑥一三五)。
 事実、新島の赴任地が大阪と決まった際、宿舎を提供したのはゴードンです。川口居留地脇の雑居地に借家を構えていたゴードンの家に、新島は落ち着きます。

京都立地

 さらにゴードンの手引きで、京都で山本覚馬に逢えたこと、これは特筆すべき出来事です。なぜなら、これで京都開校への伏線がくっきりと明確になるからです。これも、ゴードンが京都博覧会見物を兼ねて、毎年(新島が帰国する前のことです)、京都に出かけ、三ヵ月会期中、京都に居住したことが、背景にあります。
 一八七九年に至って、新島はゴードンを京都(同志社)に教員として招きます。申請を受けた政府は、森有礼と寺島宗則(外務卿)の間で見解が真っ二つに割れました。キリスト教嫌いの寺島は、同志社を「外国の学校」、新島を「名目的な所有者」と見なして、滞在許可証(パス・ポート)の発行を渋ったのです。
 最終的には、留学以来、旧知の仲である森の尽力で、ゴードンの同志社赴任が決まった、という経緯があります。勤続期間は、二十年でした。ゴードンと新島は同年齢のうえに、同じ神学校(アンドーヴァー)を出ておりますから、気があったのかもしれません。
 夫人(D. Agnes)のことを付け加えます。京都で初めての幼稚園を始めた人です。それが、現在も続く相愛幼稚園です。

デントン

 女性では、なんといってもデントンです。帰米休暇中のゴードンから誘われて、来日しました。以後、主たる働き場は、同志社の女子部でした。
 同校のそもそもの前身は「京都ホーム」というミッション・スクールでした。創設者はA・J・スタークウェザーという女性なんですが、いまでは、開校後十年以上たってから赴任してきたデントンの方が、圧倒的に有名です。それほど、すごいんです。
 まず、勤続年数です。なんと六十年です。これは今後、決して破られない記録です。定年後はもちろん、アメリカが日本の敵国になったとき、すなわち第二次世界大戦中も、なかば幽閉状態ではありましたが、京都に居続けました。特高(特別高等警察)による厳しい監視がついたことは言うまでもありません。
 まさに同志社女学校命(じょがっこういのち)です。「殆ど恋愛的と言ひ得る程の熱情を以て学校を愛し、之(これ)を離れることは、死を意味する程である」と言われたりします(『同志社五十年』二三四頁)。
 それに、募金活動もすごい。あらゆる伝手(つて)、手づるを求めて募金し、女学校の建築資金に充てます。ジェームズ館、静和館(旧)、栄光館などです。
 同時に、幼稚園の開拓者でもあります。出町幼稚園(一八九七年、現同志社幼稚園)、マクリーン幼稚園(一九一九年)は今も健在です。

ベリー

 男性に戻ります。ベリーは医療宣教師、すなわち医師です。眼科医でした。当初は大阪で医療活動をしておりました。ついで、岡山県の高崎五六県令(知事)から招かれて、岡山病院の顧問を務めます。中川横太郎という実にユニークな県庁高官が、仲介者として活躍した結果です。
 岡山から京都へベリーを引き抜いたのは、新島です。来るべき同志社大学の医学部構想を描いた際、まずは病院と看護学校から着手しようというのです。
 新島がベリーに期待するものは、何でしょうか。招聘状には、次のような期待が、書いてあります。
 「日本ではほとんどの医者は、悲しいほど腐敗しています。だから、キリスト教を彼らに届けて純化させ、彼らを高尚にして、この気高い職にもっと相応しくさせることを望みます」(⑥二一五)。

同志社医学部構想

 日本人信徒で西洋医、あるいはドクター(医学博士)が不在の時代ですから、新島はベリーを同志社病院の院長に据え、すべてを託します。病院は御苑の西側(今のKBS京都の辺り)に設けられました。
 しかし、新島の死後、ミッション離れを試みた後継者たち(かつての熊本バンドです)により、アメリカン・ボードとの絶縁状態が生じます。この結果、ベリーは院長を追われ、したがって、病院は廃止の憂き目をみます。
 京都時代で興味があるのは、ベリー家で飼われていたペットです。「弁慶」という名の犬です。奇しくも新島が飼った犬と同じ名前です(K. F. Berry, A Pioneer Doctor in Old Japan, p.142, Fleming H. Revell Company, 1937)。

リチャーズ

 ベリーと共に、看護の分野で活躍したのは、リチャーズです。アメリカン・ボードが日本に派遣した最初の看護婦です。当時、彼女はボストン市立病院看護学校の校長という要職に就いていました(『アメリカン・ボード二〇〇年』一六五頁、一六七頁)。
 彼女は、アメリカでも看護師の草分けです。アメリカで最初の看護学校に入学した五人のひとりで、卒業したのは彼女一人、ですから、まさにパイオニアです。イギリスに渡った時には、あのナイチンゲールにも逢って、指導を受けております。
 そんな彼女を同志社はよくぞ、招くことができた、と思います。なにしろ京都はもちろん、関西にその種の看護学校はまるでゼロ、という未開発地帯ですよ。京都看病婦学校は、日本で二番目か、三番目に古い看護学校です。
 彼女の勤務は足掛け五年(一八八六年から一八九〇年まで)でした。宣教師として来日しましたから、本来は伝道本位で活動したい気持ちがあったようです。子どもたちのための日曜学校や、バイブル・クラスにも積極的でした。ただ、新島との関係は、あまり深くはありません。

新島襄の特異性

 以上、主として同志社に関わった宣教師を七人、紹介しました。
 大事なことは、彼らはすべて新島の「同僚」でした。それも、二重の意味で、です。つまり、同志社のスタッフであるばかりか、同時にアメリカン・ボードのメンバーです。
 歴代の同志社スタッフで、この手の共通項をもった日本人は、後にも先にも新島だけです。いかに彼が特異な地位にいたかが、お分かりいただけたか、と思います。極論すると、新島は半分日本人、半分アメリカ人(宣教師)みたいなものです。

蜜月から断絶へ

 これが、彼の後継者との大きな違いです。たとえば、同志社社長(今の総長)を見てみますと、例の「熊本バンド」の人たちは、小崎弘道(二代目社長)にしろ、横井時雄(三代目社長)にしろ、日本人一〇〇パーセントです。おまけに国家主義の信奉者ときていますから、外国人の助けを受けないことをむしろ誇りとし、ミッションと抗争を繰り広げます。その挙句(あげく)、両者間に亀裂が生じ、ついには破局に至ります。
 新島社長の期間を「蜜月時代」と呼ぶならば、それ以降は、「抗争時代」あるいは「断絶時代」です。とりわけ、一八九六年から一八九九年までの三年間は、完全な絶縁状態が続きます。ラーネッドはこれを「暗黒の日々」と呼んでいます(『アメリカン・ボード二〇〇年』一四九頁)。世紀末に、ようやく両者の関係が修復されます。

一九六一年に解散

 二〇世紀は、新たな関係が始まります。そうした関係は、基本的に一九六一年まで存続します。同年、アメリカン・ボードは、他派のミッションと合同しました。同志社との密接な関係は、ひとまずそこでストップいたします。
 つまり、同志社は一八七五年の開校から、一時の破局期間を除いて、七十数年にわたってアメリカン・ボードの援助を受けてきた学園です。その起点に、新島襄がいたことを私たちは今一度、銘記したいと思います。

二〇一〇年十一月二日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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