奨励

熊本バンド
―明治の若きサムライたち

奨励 若林 裕〔わかばやし・ひろし〕
奨励者紹介 同志社大学神学部嘱託講師
同志社女子大学学芸学部嘱託講師
桃山栄光教会牧師

はじめに

 同志社は三つの柱によって築き上げられたと言われています。それは新島襄、アメリカン・ボード、そして熊本バンドです。これをラーネッドは「三つの源流」と言いました。ラーネッドとは、ご存じ、京田辺キャンパスの図書館名となっている、半世紀にわたって同志社で教えた先生の名前です。この三つの源流を力に言い換えても、過言ではないと思います。新島襄の創業力、アメリカン・ボードの経済力、そして熊本バンドの人材力、この三つの力が同志社を立てた。このどれ一つを欠いても今の同志社はなかったと思うのです。本日は、特にこのなかの熊本バンドについて採り上げ、その根幹でもある誕生の前史を含む経緯、同志社に来る前の彼らの意義、さらにはそのころの時代状況の一端についても学びたいと思います。
 まず「熊本バンド」のバンド(band)という言い方ですが、普通、バンドといえばブラスバンドとかロックバンドといった音楽のバンドを連想しますが、これはそうではありません。バンドという言葉にはものを束ねる一つの帯といった意味があります。一隊とか一団、群れ、グループのことです。一九世紀のアメリカではそのような言い方が大学内のキリスト教グループなどに名づけられました。イエール・バンドとかアイオワ・バンドとかいう言い方で、たとえば「自分たちはキリストに従ってこう生きる」「海外のどこそこへ布教伝道をする」といった一つの決意の下に一体感をもって集まった集団、信仰者グループを指しました。ですから、ここではバンドを信仰的一体感をもって立つ「信仰者の結盟」ということと理解してください。ただし、「血盟」ではありません。盟約の徴に血判を押した幕末の土佐勤皇党などとは違いました。熊本バンドの人びとは自分たちの決意を表す文書に署名をしました。
 さて、最初に熊本バンドの人びとの時代について少しだけ考えておきたいと思います。彼らが生まれたのは一八五〇年代後半から一八六〇年代の初めです。まさに幕末です。それから青少年期を過ごすのが明治の初め、この時代を担った人びとは、立場の違いも越えて共通の課題がありました。それは、「日本という国を一つの独立国としてどのように諸国に対峙させていくか(万国対峙)」ということでした。幕末においては、そのための国づくりが「公武合体か、王政復古か」と問われていたことは、ご承知のとおりです。また明治初期においては、それをどのような国の仕組みをもってなしていくのか、憲法をもった国なのか、全くの君主制の国でいくのかといったことが重要な課題となりました。国の形の根底を変革し、新たに形成し、己の国の未来を生み出すということです。言葉で言うのは簡単ですが、まさに生みの苦しみのなかに置かれた命がけの作業です。個々人にとっても時代が大きく変わること、そこに希望もあるでしょうが、それにまさる不安もあります。今まで築き上げてきた自分の人生が一変する。輝ける未来ばかりではない。自らの足元が崩れさるようなリスクもあるのです。ちなみに大政奉還(一八六八年)、廃藩置県(一八七一年)を「御一新」と称しますが、ならば、その明治の維新とはいつまでだったのか。士族の最後にして最大の反乱、西南戦争のあった一八七七年、琉球藩を沖縄県とした一八七九年、あるいは一八八九年の帝国憲法発布の時までなどが言われます。どれを取るにせよ、熊本バンドの若者たちが学んだ時代は、その激動の明治維新だったわけです。
 そういうわけで本日のテーマに「サムライ」という片仮名書きの言葉を用いました。それは熊本洋学校の先生、キャプテン・ジェーンズの評伝―ノートヘルファー(F. G.Notehelfer)の記したAMERICAN SAMURAI Captain L. L. Janes and Japan の邦訳書名『アメリカのサムライ L. L. ジェーンズ大尉と日本』から借用致しました。時代の大波のなかで、大きな志と信念をもって学び、生きた熊本バンドの若者の姿に「新たな時代のサムライの心」が示されている。さながら、彼らのその「武士の魂」とは、キャプテン・ジェーンズを通して受けたプロテスタント精神と言えます。従って、そんな彼らを語るうえで、まずは明治にプロテスタント・キリスト教が日本へ入ってきたところから語りたいと思います。

三大バンド(横浜バンド・熊本バンド・札幌バンド)

 さて、三大バンド、横浜・熊本・札幌についてお話しします。プロテスタント・キリスト教の日本への到来、その流入のルートは、大きく言って二つありました。一つは幕末に来日したアメリカ人宣教師によるもの、そしてもう一つは西欧の近代化を学ぶため新たな学校に雇い入れられた「お雇い外国人教師」を通したものです。ちなみに熊本バンドは後者の「お雇い外国人教師」ルートですが、全体像を掴むために、前者の幕末に来日したアメリカ人宣教師たちの働きについて少し触れておきます。日本史を勉強した人は、フルベッキ、ブラウン、へボンといった人たちの名前を聞いたことがあると思います。彼らがやって来たのは一八五九年のこと。前年に日米修好通商条約が結ばれ、翌年、横浜などが開港された。それと同時なのです。日本は既に名目上は開国しています。しかし、まだ切支丹禁制の時代。日本人に直接伝道はできないので、彼らはまずは居留地内で外国人のための礼拝に仕えつつ、日本語の習得に励みました。少し後に、フルベッキは長崎で日本人たちの先生になるチャンスを得ます。ブラウンは横浜で塾の先生になります。この二人を派遣したのはアメリカの「オランダ改革派教会(Dutch Reformed Church)」です。また、アメリカの「長老派(Presbyterian Church)」の宣教師、へボンは医師の資格があったので、日本人に対する医療活動も行っています。なお、これは皆さんご存じかと思いますが、へボンはヘボン式ローマ字の発案者として有名ですね。また英和辞典の編さん、さらにはブラウンらと共に聖書の日本語翻訳などもしています。
 彼らより二年ほど遅れてバラというアメリカのオランダ改革派宣教師が来日しました。彼は横浜で塾を開きます。そのバラのもとで塾生が信仰を誓い、洗礼を受け、そこに日本最初のプロテスタント教会、「横浜公会」が形成されます。一八七二年です。明治政府が太政官布告によってキリスト教禁止の高札を撤去する一年前のこと、まだ禁制下に成立したことになります。これが、日本における最初のバンド、キリスト教信仰者の結盟、「横浜バンド」なのです。当初のメンバーは十一名、なみなみならぬ決意だったと思います。なお、この横浜バンド、押川方義、井深梶之助などという人たちが指導的役割を担っていきます。そして、彼らより若干年少で少し後に加わった植村正久という人がいますが、この人は、この流れの代表的存在として知られる有名な牧師さんです。
 次にお雇い外国人教師のルートについてですが、言いましたように我が熊本バンドがそうです。それと札幌バンドです。まず、札幌バンドについて概観しておきます。一八七六年に開校した札幌農学校(現在の北海道大学)に、クラーク(William Smith Clark)が赴任します。あの“Boys, be ambitious.” のクラーク博士です。彼は農学の先生として八ヵ月ほど在職しました。彼は宣教師ではありません。しかし、その帰国の前に「イエスを信ずる者の契約(Covenant of Believers in Christ)」なる書面を学生たちに提示しました。クラークの感化の下、農学校の一期生全員がその書面に署名しました。これが札幌バンドの始まりです。原文は英語ですが、その日本語訳を読んでみます。「下に署名する札幌農学校の学生は、キリストの命に従いてキリストを信ずることを告白し、且つキリスト信徒の義務を忠実に尽して祝すべき主即ち十字架の死を以て我等の罪をあがない給いし者に、我等の愛と感謝の情を表し且つキリストの王国拡がり、栄光現われ、そのあがない給える人々の救われんことを切望す。故に我等は今後キリストの忠実なる弟子となりて、その教えを欠くることなく守らんことを厳かに神に誓い且つ互に誓う。(後略)」(大島正健『クラーク先生とその弟子たち』新池書房 一九九一年 一一三頁)。「あがない(贖い)」という言葉が気になりませんか。罪や過ちの償いといった意味の言葉ですね。キリスト教信仰においてこれは、自分にある罪、少しずれるかもしれませんが自分のエゴイズムみたいなもの、それに対する神からの罰をキリストが十字架において自分に代わって担ってくれた。簡単に言うと、これが、そのキリスト教の言う贖いなのです。自分たちはこの贖いに相応しく生きたいという、このような前置きがあって、次に伝統的なキリスト教信者の守る約束事として、「この誓約により一個の団体を組織し」、「毎週一回以上共に集りて聖書或は宗教に関する他の書籍雑誌を読み、若くは宗教上の談話をなし、また相共に祈祷会を開くことを誓約す。」(一一六頁参照)と記された敬虔な誓約書です。
 これにサインした、その一期生たちの熱い信仰の情熱は継承されて、翌年入学の二期生たちも信仰を誓いました。その中には後の無教会の指導者・内村鑑三や国際連盟事務局次長として活躍した新渡戸稲造―『武士道(The Soul of Japan)』の著者、前の五千円札に描かれている人と言った方が分かりやすいかもしれません―などもいたわけです。ちなみにこの内村や新渡戸さらにはクラーク博士の三人は、共に新島襄や同志社と少なからぬ縁があります。新島襄はアーモスト大学一年の時にクラークの授業を受けています。一八七七年、札幌農学校での働きを終えたクラークがアメリカ帰国の折に、わざわざ同志社英学校に立ち寄っています。当時、同志社英学校の学生で熊本バンドの一人だった亀山昇は、クラークがその折に新島を「マイ・ボーイ」と呼んでいたと印象的に記していました。
 また、内村鑑三について言えば、彼と新島は、共に本籍を上州(群馬県)とするもの同士です。しかも両者とも江戸の藩の屋敷で生まれています。内村は高崎藩、新島はご存じのように安中藩です。新島の勧めで内村はアーモストに学びます。さらに新島は内村の結婚や就職のことで彼と関わった経緯もあります。ただ二人、タイプが少し異なっていたようです。後に内村は新島に対する批判的な言葉も残しております。なお新渡戸稲造と新島ですが、新島が二度目の欧米訪問の折、一八八五年五月六日ジョンズ・ホプキンズ大学を訪れた際、そこで留学中の新渡戸と出会い、彼に学校案内をしてもらっています。「五月六日 先生、ジョンス・ホプキンス大學總長ギルマンを訪ふ。午餐の際トーマス・キング・後藤・新渡戸及び政治學科の學生等も招待をうけて同席す。此日新渡?の案内にて大學内を見物す」(森中章光編『新島襄先生年譜』同志社校友会 一九四二年 九一頁)。そのような新島と個人的な関わりだけではなく、新渡戸は一九一八年から五年にわたって同志社理事の職を担っております。ただ国際連盟の仕事のため、理事会の出席は物理的には不可能だったようですが、別途、幾度か同志社に来ています。以上のように、同志社は札幌バンドとも少なからぬご縁がありますね。

熊本バンドの定義

 さて、いよいよ本題の熊本バンドに話をすすめます。熊本バンドの概略を頭にいれておきましょう。『熊本バンド研究』に熊本バンドの定義がこんな風に記されています。

熊本バンドとは何であるか。この呼び名(通称)は、明治四年から九年までのあいだに熊本洋学校でゼーンスの薫陶を受け、花岡山上でキリスト教を奉じこの教えを日本国に宣布しようと決意した人びとを中心とする一団が、洋学校閉鎖後明治九年秋同志社に転校して、創立早々の同志社でそのすぐれた学力と粗野ではあるが活発旺盛な気風とによって「非常に目立った特異な存在」を示したとき、当時同志社に在職中の宣教師たちがこの一団を呼び習わしたものであるといわれる。

(篠田一人「日本近代思想史における熊本バンドの意義」三頁)

どうでしょうか。そのすごさが伝わってきますね。

 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店 二〇〇二年 三三三頁)には、神学部の本井康博先生が、熊本バンドについてこう書かれています。

横浜バンドや札幌バンドなどと並ぶ日本プロテスタント史の源流の一つで、日本組合基督教会の支柱。熊本洋学校のジェーンズの感化を受けた学生たちが、一八七六年「奉教趣意書」に署名したことに始まる。なかでも同志社を七九年に卒業した小崎弘道、宮川経輝、海老名弾正、横井時雄、金森通倫(みちとも)、山崎為徳(ためのり)、浮田和民、不破唯次郎などの第一期生(十五人)は全員が熊本洋学校の出身者であった。その信仰は概して国家主義的で、ミッションからの経済的独立に熱心であった。新神学にもいち早く傾斜した。『七一雑報』『六合(りくごう)雑誌』、『新人』『基督教新聞』などのキリスト教系メディアで活躍をする者が多く出た。

 なお、登場する人物の名前ですが、小崎弘道、宮川経輝、海老名弾正は同志社系の日本組合基督教会の三元老と言われ、その柱でした。小崎は同志社の二代目の社長、海老名は八代目(そのころは総長ですが)として知られています。横井時雄は三代目の社長、金森通倫は晩年の新島襄を補佐した人です。山崎為徳は同志社英学校卒業後、学校に残って英学校の先生になるのですが、二十四歳で亡くなっています。また浮田和民は後に早稲田大学の教授となります。早稲田サイドから「同志社からの輸血」と言われた中心的人物の一人です。不破唯次郎は新島の最後を見とった人の一人です。前橋女学校校長を務め、晩年は京都平安教会牧師を為し、最後に失明しています。

横井小楠

 ここで、気づかれた方も多いと思いますが、ことの始まりは熊本洋学校なのです。一八七〇年に肥後、熊本藩の実権を横井小楠の流れをくむ実学党が握ったのですが、熊本洋学校の前史はここから始まります。彼らは「肥後の維新」と称し、横井小楠が理想とした改革に取り掛かります。その教育の目玉として、旧来の藩の学校と医薬施設を廃して医学校と共に立ち上げたのがこの熊本洋学校だったのです。そういった意味では、熊本洋学校は、横井小楠の衣鉢を継ぐ学校と述べてもよいと思います。ですから、熊本バンドを知るうえで、横井小楠を知ることは大切です。少しだけ紹介させていただきます。
 勝海舟がこんなことを言っています。「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。」(『氷川清話』講談社学術文庫 二〇〇〇年 六八頁)と。西郷南洲というのは、ご存じ西郷隆盛のことですが、西郷さんと並んで恐ろしいというか、すごいと言われたのが横井小楠です。彼は幕末の先覚者であり、新たな国家と社会の構想を描いた人物です。この横井小楠の著作集ともいうべき『小楠遺稿』(横井時雄発行者 民友社 一八九八年)に、黒船のペリーの武力を背景とした開国要求に対する批判を、日本の外交のあるべき姿として、こんなふうに書かれていました。「凡我國の外夷に處するの國是たるや有道の國は通信を許し無道の國は拒絶するの二ツ也」(一五頁)と。道理と理屈をもって分かり合える国とは国交・貿易を通して付き合えるが、そうでない国とは無理だということです。この毅然とした態度、今の日本の政治家にも参考になるかもしれませんね。
 横井小楠は、熊本藩の人ですが、熊本においてよりも、むしろ福井藩の松平春嶽らによって重用され、春嶽の顧問として福井藩での藩の改革や幕政改革に貢献した人です。
 『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(徳永洋 新潮新書 二〇〇五年)には、「龍馬が作成した『船中八策』と『新政府綱領八策』は、小楠が幕府に提出した『国是七条』と福井藩に提出した『国是十二条』をそれぞれ下敷きにしているし、また由利公正が起草した『五カ条の御誓文』にも、小楠の『国是十二条』の影響が色濃い。」と書かれています。つまり坂本龍馬も小楠には一目置き、何度も訪ね、貴重なアドヴァイスを受けているのです。NHKの大河ドラマ『龍馬伝』では、春嶽の傍にいる嫌味なおっさんというような感じで一度登場しました。また「船中八策」の回にも回想シーンとして出てきました。それなりに横井小楠について採り上げていたので、少しほっとしたのですが、もう少し登場させて欲しかったです。日本史の教科書などでは、もっと大々的に採り上げられてもおかしくない人物だと私は思うのです。
 余談になりますが、横井小楠は、お酒の席で失敗したことが何度かあったようです。彼は若い時に、江戸で学ぶ機会を得ますが、泥酔したことが原因で藩に送り返されてしまいました。また、酒席のからみではこんなこともありました。春嶽に召し抱えられて江戸の福井藩邸に住み、幕政の改革に取り組んでいたときです。江戸の肥後藩邸、つまり熊本藩邸で、故郷の熊本藩士二人と宴会をしながら意見交換を行った折、覆面をした三人の刺客に襲われた。この日、武士の必需品である刀を持ってこなかった小楠は、あわててその場を逃れ、滞在先の福井藩邸へ引き返し、刀を取り、福井藩士十数名を加勢に引き連れ、現場へと戻るのですが、時すでに遅し。二人は大けがをしていました。熊本藩は、友を見捨てて逃げ出すのは武士にあるまじき行為(士道忘却)と批判します。小楠は、福井藩に迷惑がかからないようにと一八六三年に福井藩の職を辞し、熊本に戻りました。春嶽らの助命嘆願などで切腹は免れましたが、武士の資格は取り上げられ、明治新政府から参与としての招聘を受けるまで、熊本で過ごすことになるのです。どこか人間味も感じられる人ですね。彼はそこで徳富蘇峰、蘆花のお父さんである徳富一敬(かずたか)や、竹崎茶堂、矢島源助といった門人たちの指導にあたったわけです。怪我の功名と言うべきでしょうか。なお、この間にも坂本龍馬は横井小楠を訪ねています。「四時軒」と呼ばれた横井小楠の家塾跡は補修されて、今も残されています。坂本龍馬と会談した部屋が見られます。また隣接して横井小楠記念館があります。来年三月には九州新幹線が開通しますので、熊本へ行く機会がありましたらお勧めの場所の一つです。なかなか景色もよい所ですよ。
 さて、熊本に帰国し、謹慎中のその折に、小楠は門人たちに費用を工面してもらい、二人の甥を長崎の宣教師フルベッキらの紹介でアメリカ留学させるのです。一八六六年、甥たちをアメリカに送るに際して、小楠は彼自身の熱い思いを込めたこのような漢詩を詠みます。

明堯舜孔子之道   堯舜孔子の道を明らかにし
尽西洋器械之術   西洋器械の術を尽くさば
何止富国      なんぞ富国に止まらん
何止強兵      なんぞ強兵に止まらん
布大義於四海而巳  大義を四海に布かんのみ

「堯舜孔子之道」、朱子学を背景とする言葉です。堯舜というのは古代中国の伝説の名君です。そして孔子の道、つまり良き治世を導く哲学、実践の道、理想的な東洋文明精神と言ってよいと思います。その精神を学びつつ、西洋科学技術文明を積極的に取り入れ、これをもって殖産興業や富国強兵を行い、西欧諸国と伍して立つ。まさに和魂洋才ですが、これだけに留まらず、この精神を高く掲げて、日本は世界の道義と安定に貢献すべきだと、これが横井小楠の基本的な立場であったと言われます。天下太平の理想をもって現実世界に実践するのが、彼の実学でした。さらに彼は西欧の「西教」=キリスト教、わけてもプロテスタンティズムに多大な関心を寄せていました。この「堯舜孔子之道」を「其奉る所之天主教之教と全く符節を合侯」(『小楠遺稿』一六一頁)という、注目すべき点です。つまり小楠は、「原始儒教とキリスト教との共通を力説しようとしている」のです。さらに彼は、「西欧民主主義の原理の起源をプロテスタンティズムに求めて」(今中寛司『熊本バンド研究』三三―六五頁参照)いるとも言われています。
 さて、甥たちの留学中に日本は新たな時代を迎えました。小楠は明治新政府の参与として迎えられ、そこで働き始めました。しかし小楠は、一八六九年の正月に参内の帰途、京都御所訪問の帰り道に、寺町のところで後をつけてきた刺客によって暗殺されてしまうのです。その暗殺理由は、小楠が外国と通じ、キリスト教を日本に広めようとしているからだということでした。彼がキリスト教に興味を抱いていたのは事実ですが、立つところは朱子学でした。彼の死は、できたばかりの明治政府にとっても打撃だったと思います。なお、襲われた現場には、遭難の碑が建っています。新島旧邸のそばです。今出川キャンパスに行った折にでも新島旧邸と共に、この碑を是非ご覧ください。なお新島旧邸の敷地は、同志社英学校発祥の地にあたります。つまり、横井小楠が亡くなったそのすぐ近くの場所に六年後、同志社英学校の最初の校舎が建てられた。なんとも不思議なご縁と言いましょうか。また横井小楠の長男、横井時雄は熊本バンドの一人で、後に同志社の三代目の社長になります。時雄の結婚相手は新島八重の妹ですから、横井家と新島家は親戚同士でもあったわけです。

ジェーンズと熊本洋学校と

 ところでアメリカに留学中の横井小楠の甥の一人、大平はアメリカで結核に罹り、療養のために三年間の在米の後に帰国せざる得なくなりました。新政府、唯一の熊本出身者の横井小楠は亡くなっています。帰国後の大平は、国家のために有為な人物を輩出し、小楠亡き後の国の中央に熊本の存在を大きくアピールすべく、アメリカから教師を迎えて洋学校を開設するために病身押して東奔西走しました。その甲斐あってウエストポイント陸軍士官学校の出身で、南北戦争に従軍したキャプテン(大尉)・ジェーンズを新設の洋学校の教師として招くことができました。ただし大平は、ジェーンズ到着の三ヵ月前の四月に亡くなっています。
 一八七一年九月、熊本洋学校が開校されました。実学党の人びとは、生徒たちに「堯舜孔子之道」と「洋才」の取得を願いました。そこに齟齬があったかもしれません。先生のキャプテン・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes 一八三七―一九〇九)は、実に熱い人で、陸軍学校スタイルの厳しい指導を行いました。あえて通訳も拒否して、オールイングリッシュの授業だったのです。一方、入学を許可された生徒は四十五人、年齢は、ほぼ十歳から十五歳です。学校は全寮制です。ジェーンズ先生は彼らにとって初めて見る西洋人、「異人は膝が曲がるのだろうか」と観察する生徒もいたそうですが、ともかく彼らは必死で英語だけの授業についていけるよう勉強した。一年目はこの英語の徹底的な習得です。スペリング、文法、リーダーが教えられました。そのスペリングの授業に関して六代目同志社社長にもなった下村孝太郎は「なぜba がベーで、be がビー、bi がバイか分からないが必死になって暗記した」と言っています。一期生でありませんが亀山昇は、その五十年後の同窓会の席において、「つづりを覚えるのによく勉強したものだ」とすらすらとincomprehensibility(不可解)といった長い単語のスペルを言ってのけて、皆を驚かせたと言います。とにかく成績順に教室に入って、成績順に席に座らせ、毎日が「試験」という状況、しかも全部英語。見込みのない生徒はどんどん退学させられました。結果、四年後に卒業できた一期生は四十五人中十一人だけでした。ちなみに二年目は、地理、歴史、数学の基礎、三年目は午前中が代数、幾何、三角法、測量で、午後は歴史でした。四年目の午前中は哲学(物理)、天文学、地質学で、午後は化学、生理学に英文学だった。二年目から土曜日は、特別科目の作文、対話、朗読、演説まであったと言います(『アメリカのサムライ』一八七頁参照)。全部、ジェーンズの担当です。もちろんすべて英語です。
 ところでスピーチ(speech)という英語の言葉に「演説」という訳語をつけたのは福沢諭吉だと聞いたことがあります。あの慶応義塾の創始者です。福沢は集会を開き、自分の意見を述べ、議論・討論へと導く「演説」を大変重要視したと言います。明治の時代、「演説」は、時代を切り拓く教養人の武器となっていた。その大切な「演説」を、熊本洋学校の生徒たちは、英語でやってのける力まで身につけたのです。このようにして生徒の視野が拡げられていきました。自らの思いを日本語のみならず英語でも発信できるようになった。ジェーンズによれば、この時点で彼らはアメリカの同年輩の学生と遜色のないレベルにあったそうです。国の未来は青年たち自身の努力によって成し遂げるべきものであるという自覚を、彼らに植え付け、日本の近代化の重要性について語りつつ、同時に日本が無制限に西洋化して自らの日本人としてのアイデンティティを決して失ってはならないと教えました。そういう意味でジェーンズは「日本を軽蔑する日本人に、とくに批判的だった」(一九三頁)と言われます。それは単に西洋技術文明だけを大事にするのではなく、それをもって日本の道義を高めることを述べた横井小楠の思いと重なるようにも思います。

花岡山の結盟

 さて、開校以来、初めの三年間はキリスト教のことに関して一切の言及をしなかったジェーンズですが、一八七四年の秋ごろから、生徒たちの知的関心にも応える形で自宅での聖書の勉強と、次に礼拝を開始します。また祈祷会も始めます。何人かの生徒がこれに参加するようになった。中には切支丹には昇天の術というものがあると聞く、聖書を学んでその術を我がものにしようと、出かけた生徒もいたそうです。ともあれ彼らのキリスト教への思いは高揚してくるわけです。ただ、このような動きを極度に警戒する生徒たちもいました。そのような生徒たちは、キリスト教信仰は絶対だめだと危機感を抱き、反対派の徒党を組みました。さらには、もちろん学校の維持運営に多大な力を尽くしてきた小楠一門の実学党の人びとも困り果てました。実学党の人びとは、生徒たちが週日は洋学校でジェーンズから「洋才」を徹底に学び、日曜日には竹崎茶堂ら実学党の先生たちの下で儒教や漢学、それこそ「堯舜孔子の道」を勉強し、将来は中央政界で活躍することを望んでいたのです。それが日曜は礼拝に行き、邪蘇に凝ってしまった。キリスト教は小楠がその疑いをかけられて暗殺されただけに、彼らの困惑には想像以上のものがありました。しかし燃え上がったキリスト教熱は簡単に消せませんでした。
 一八七五年末の冬休みが終わり、新年に学校に戻ったときのことを、金森通倫はこう語っています。「各家庭より、学校に帰ってきた生徒たちは、燃ゆる火の如くなっていた。まだリバイバルや聖霊については、何も知らぬものたちである。しかし、彼らは黙していることができなくなり、誰でもかまわずに道を説くにいたった」と。消すことのできない火のような熱いものが、彼らのなかに燃え始めてきたのです。彼らは何かに突き動かされるように立ち上がったのです。そして花岡山での結盟、三十五名の奉教趣意書への署名へと至るのです。それは一八七六年一月三十日の日曜日、孝明天皇祭の日のことでした。花岡山は、現在のJR熊本駅の北西にある標高一三三メートルほどの小さな山です。ジェーンズの礼拝に参加していたメンバーは、日曜礼拝の後にこの花岡山に行っていたそうです。ですが、この一三四年前の一月三十日はいつもとは違った思いでした。秘密裏に準備をしていたのでしょう。彼らは強い決心をして、行動を起こすのです。そこで反対派に知られないように、なにくわぬ顔をして、三々五々、それぞれが登りました。しかし、反対派の生徒たちも彼らの異常な熱気に何か感ずるところがあったようです。同じ日に反対派は市内の水前寺公園に集まって気勢を上げたと言います。なお、この日の花岡山の結盟イコール熊本バンドということではありません。後に同志社の二代目の社長になり、熊本バンドの代表格とされる小崎弘道はこの日、登っていませんし、奉教趣意書にもサインしておりません。ですが、熊本バンドにとって最も記念すべき象徴的な出来事として、この花岡山の結盟が語り継がれているのです。
 さて、花岡山に登った彼らは一緒に、英語の讃美歌“Jesus loves me”(日本語の「主、われを愛す」)を歌い、聖書のヨハネによる福音書一〇章、次に奉教趣意書が読み上げられ、祈りが捧げられました。現在その場所には、一九六五年、同志社創立九十周年に建てられた「熊本バンド奉教の碑」があります。奉教趣意書の冒頭です。「余輩嘗テ西教ヲ学ブニ頗ル悟ル所アリ 爾後之ヲ読ムニ益感発シ欣戴措カズ 遂ニ此ノ教ヲ 皇国ニ布キ 大ニ人民ノ蒙昧ヲ開カント欲ス」。実に格調高い文章ですね。ここに日本という国家とキリスト教、また彼ら自身の使命が書かれています。次に現代語訳で見ましょう。今年の一月三十日、一三四周年記念早天祈祷会に参加した折に頂いたものです。「この際、我ら、新しい大きな使命をになう青年は、一大決心をし生命がけでキリスト教が公明正大な宗教であることを、明確にしてゆかねばならない。この決意の実行に、我々はもっとも力を尽くすつもりである。」とあります。(最後に『奉教趣意書』と口語訳『キリスト教を信じる宣言文』を全文掲載)
 ある方がこの奉教趣意書について、「熊本バンドの精髄は、止むに止まれぬ信仰的熱情と愛国の至誠によるキリスト教伝道の一事であった」と述べていましたが、自分たちの信仰が日本を対象とした宣教という形で述べられています。なぜなら、学ぶべき西洋文明の根底にキリスト教があると理解したからです。このキリスト教をもって悪しき旧来の陋習(ろうしゅう)を打ち破り、新たな近代日本構築の礎とするのだ、ということです。つまり近代日本のための「新たな倫理」としてのキリスト教の受容が述べられているのです。現代語訳の最後の段落「一 今日、我が国の多くは、キリスト教を拒否している。それ故に我らの内、たとえ一人でもキリスト教をすてる者は、世間の物笑いになるだけでなく、我らのせっかくの決意をもふみにじり、実行不可能にしてしまう。ともども、努力しようではないか。」と、この決意に命をかけ気高く生きようという、まさにサムライ魂です。
 一方で信仰という面においては、あの札幌バンドの「イエスを信ずる者の契約」にあったような「あがない(贖い)」、いわゆる十字架による贖罪というものがありません。つまり赦しがない。逆に神の戒律に逆らったら罰が下るとさえ語られています。そこに彼らの切迫した思い、何としてもこの教えを守り、後には絶対に引けないという真剣な決意と、また強い同志的結合、さらには大変な緊張感が伝わって来るような思いがいたします。まさに「肥後もっこす」の精神です。
 この後に彼らに対する大きな反動が起こるのです。学内の反対派の生徒たち(「正義派」と称される)が花岡山結盟グループ(「西教派」)の学校からの追放運動を公然と始めたのです。自分たちが黙って学校をやめれば事は収まるのかと、彼らは悩みました。海老名弾正はジェーンズに相談します。すると、ジェーンズはこう述べたそうです。「無抵抗主義はキリストの言葉を取り違えたものだ」「人汝の右の頬を打たば、汝人の左を打ち返すべし」「君たちは断じて戦うべし」と。それにしても大変でした。迫害の嵐が起こり、家に連れ戻されて座敷牢に入れられたり、親から死ねと命じられたり、大変なことになりました。結果的に、この花岡山の出来事が契機となって、熊本洋学校は廃校されるのです。学校が無くなるのは反対派、花岡山結盟グループを問わず、生徒たち皆にとって本当に辛いことだったと思います。そして、その信仰を誓った者たちの多くが同志社に移っていくことになる。中には反対派で頑張っていた生徒も考えを改めてこれに加わったりしました。反対派大将の吉田作弥もそうです。こうして熊本から三十数名の生徒たちを迎えたのは同志社にとっては幸いなことでした。

神風連の乱

 ところで、この奉教趣意書の出来事が起こった年の十月、洋学校を終えたジェーンズが熊本を離れた直後に神風連の乱が起こります。神風連、その正式名称は敬神党です。彼らは自らの信じる日本固有の精神を大切にすると共に、形をも徹底的に重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体でした。林桜園という本居系の神道学者でかなりカリスマティックな人物の流れを継いだものです。神風連の中心綱領は「敬神、尊皇、攘夷の三項に要約される」(渡辺京二『神風連とその時代』洋泉社 二〇〇六年二九頁)と言います。構成員の多くが元は経済的に貧しい下級武士でした。そんな彼らが、新たな開花の時代に就ける仕事はありません。彼らは神官になり、熊本の神社で奉職することを考えます。その神官採用試験が行われた折に、「国家正しき道へ進めば、元寇の時と同じく神風が吹き夷荻を誅すること間違いなし」と全員同じ内容の答えを書いたといいます。これを見た試験官は驚き、これはまさに「神風連」だと言ったのが神風連と呼ばれるきっかけになったそうです。
 さて十月の神風連の乱の直接の契機は、同年三月の「帯刀禁止令」の太政官布告でした。彼らにとって刀は単に武士の象徴ということではなく、日本の象徴(武神の国の霊物)でもあったのです。彼らは「神事が本、人事は末」と固く捉えていました。彼らは維新政府に復古的な神政政治を願ったのですが、彼らの目には欧化政策、封建制の解体といった新たな政府のやりかたが、逆に日本の伝統をないがしろにするに映り、激しい憤りをおぼえました。大きな危機感をもって神社で「宇気比」(古来、行われて来た神さまの御旨をたずねるある種の「うらない」)を立てたところ、挙兵を認める宣示が下ったとして一七〇名ほどで立ち上がり、熊本鎮台(鎮台というのは陸軍部隊の単位で後に師団となりますが、それが熊本に駐屯していた)を攻めたのです。まさに旧士族の反乱です。彼らは鎧兜に身を固めあるいは烏帽子をかぶり、槍、なぎなた、刀をもって武装したのです。さらに首謀者、太田黒伴雄は軍神の御霊代(みたましろ)、すなわち神棚を背負いました。文字通り、「神、共にあり」とでも言いましょうか。これで西洋式近代兵器をもつ明治政府の軍隊に立ち向かって行った。結果は、はなから見えていました。それでも頑張った。
 一八七六年十月二十四日深夜、鎮台司令官や熊本県令の自宅などと共に熊本鎮台を襲撃し、二〇〇名をこえる人びとを負傷ないし殺害し、大混乱に陥れたのです。彼らの戦死者は三十名にもなりませんでした。しかし翌朝には本格的な反撃を受け、首謀者の太田黒も銃撃で重傷を負い、付近の民家に避難したのち切腹した。また指導者を失ったことで、他の人びとも退却し、多くが自らの命を絶った。一七〇名の半数以上が自決するという凄惨な結果に終わったのです。
 作家・三島由紀夫の遺作ともいうべき作品『豊饒の海』、輪廻転生を主題とした壮大な四部作にわたる長編ですが、その第二部『奔馬』に「神風連史話」というストーリーが挟み込まれています。なかなか興味深く読めます。三島の神風連に対する入れ込みと影響、それは彼自身の最期からも推測できます。ところで、この『奔馬』のなかに「神風連史話」を受ける形で熊本バンドへの言及もあるのです。「神風連の思想とは正反対ながら、ここにも、同じ純粋な心情の別個のあらわれが見られるではありませんか。」(『奔馬』新潮文庫 一九七七年 一二〇頁)と。いかがでしょうか。『熊本バンド研究』にも書かれています。「熊本バンドの青年たちにとっては、神(キリスト教の)の支配する近代的民族国家とすることが、彼らのいわゆる『神の国』化であった。それは、神風連の人びとのめざす『敬神愛国』という理念の枠の中に、キリスト教と、近代国家の概念をはめこんだもの、換言すれば、それらによって、転質新装したものと、いえば、いい得るものであった。また、その主張を貫く姿勢に於いても、神風連の一党が、死を期して蹶起した如く、バンドの人びとも、死を以てするほどの反対迫害に耐え忍びつつ、その理想を、どこまでも、守り抜いたのであった。それらは、さらに言葉をかえていえば、ともに国家の革新―新国家の創造をめざしつつ、一方は、泰西の宗教の示す世界に、一方は、自国の古代に、目標をすえての、浪漫主義の思想と、その実践とであった」(辻橋三郎『「奉教趣意書」の成立とその後』二〇二頁)。熊本バンドと神風連、互いの在り方は、言えば、ポジとネガではないかということです。また、両者の出身出自も対照的です。熊本バンドの若者たちの家は開明派の士族か、豪農出身の比較的裕福な士族の出です。神風連は言いましたように微禄、貧しい武士の家の子だった。そういった違いもあります。ただし、スタイルは反対でも一脈通じるものがあった。これは余談ですが、キリスト教信仰に燃えた熊本バンドのなかには、その神風連のところにまで伝道に行った猛者もいたようです。太田黒と共に神風連の主要メンバーであった加屋(かや)霽堅(はるかた)のもとに行った彼らは、自らの信仰の情熱の思いを語り、加屋を大いに感動させたそうで、加屋は「ぬしどん(君達)の神は、おつどん(俺達)の神と同一だ」と述べたと言います。ただし、そこで加屋は刀を手にとって、しかし「おつどんはこれでいく」とその刀を示したとのことです(潮谷総一郎『熊本洋学校とジェーンズ』熊本年鑑社 一九九一年)。互いの「純粋な心情」という一点においては、確かに一致していたように感じます。

まとめ

 熊本バンドの青年たちの思い、それは日本という国の近代化をプロテスタント・キリスト教精神によって成し遂げようと願ったことです。西洋の進んだ文化、文明の支柱にプロテスタント・キリスト教があることを覚え、自らそれに帰依し、近代日本の変革を願ったのです。新渡戸稲造が「武士道」を「過去も現在もわが国民を鼓舞する精神であり、原動力」(岬龍一郎訳『武士道』PHP文庫 一七五頁)と言いましたが、明治のサムライであった彼らは近代国家の新たな道、すなわち「新たな倫理」としてキリスト教を受容し、それに鼓舞され、そこから時代を切り拓く「高い志」と「固い信念」とを得て、未来に立ち向かっていった、と述べても過言ではないでしょう。その後の彼らおよび同志社の歩みには、幾多の困難も伴いました。しかし、そのスピリットは失われることなく、時代を超えて、同志社のなかに確かに生き続けていると思います。
 今、私たちも新たな質の時代へと、転換期のさなかを生きています。未来を見通し得ない不安と焦り、また閉塞感もありますが、これからの時代を築いていくのは、私たち一人ひとり、わけても若い皆さんの力にかかっています。より良き未来を構築するために、明治の若きサムライたちの開拓者精神に思いを馳せつつ、私たちには、「何が必要で、何を引き受け、何を変革すべきか」を真摯に問うてみましょう。そこに、同志社大学での学びに対する新たな意欲が生まれてくるはずです。

【参考資料】奉教趣意書

余輩(ヨハイ)嘗(カツ)テ西教(セイキョウ)ヲ学(マナ)ブニ頗(スコブ)ル悟(サト)ル所アリ 爾後(ジゴ)之ヲ読(ヨ)ムニ益(マスマス)感発(カンパツ)シ欣戴(キンタイ)措(オ)カズ 遂(ツイ)ニ此(コ)ノ教(オシエ)ヲ 皇国(コウコク)ニ布(シ)キ、大(オオイ)ニ人民(ジンミン)ノ蒙昧(モウマイ)ヲ開(ヒラ)カント欲(ホッ)ス 然(シカ)リト雖(イエド)モ西教(セイキョウ)ノ妙旨(ミョウシ)ヲ知(シ)ラズシテ頑乎(ガンコ)旧説(キュウセツ)ニ浸潤(シンジュン)スルノ徒(ト)未(イマ)ダ尠(スクナ)カラズ 豈(アニ)慨嘆(ガイタン)ニ堪(タ)ユベケンヤ 是時(コノトキ)ニ当リ苟(イヤシク)モ報国(ホウコク)ノ志(ココロザシ)ヲ抱(イダ)ク者ハ宜(ヨロシ)ク感発(カンパツ)興起(コウキ)シ 生命(セイメイ)ヲ塵芥(ジンカイ)ニ比(ヒ)シ以(モッ)テ西教(セイキョウ)ノ公明正大(コウメイセイダイ)ナルヲ解明(カイメイ)スベシ 是(コ)レ吾曹(ワガソウ)ノ最(モット)モ力(チカラ)ヲ竭(ツク)スベキ所(トコロ)ナリ 故(ユエ)ニ同志(ド ウシ)ヲ花岡山(ハナオカヤマ)ニ会(カイ)シ同心(ドウシン)協力(キョウリョク)シテ以(モッ)テ此(コ)ノ道(ミチ)ニ従事(ジュウジ)セン事(コト)ヲ要(ヨウ)ス

一 凡(オヨ)ソ此(コ)ノ道(ミチ)ニ入(ハイ)ル者(モノ)ハ互(タガイ)ニ兄弟(キョウダイ)ノ好(ヨシミ)ヲ結(ムス)ビ百事(ヒャクジ)相(アイ)戒(イマシ)メ相(アイ)規(タダ)シ悪(アク)ヲ去(サ)リ善(ゼン)ニ移(ウツ)リ以(モッ)テ実行(ジッコウ)ヲ奏(ソウ)スベシ
一 一度(ヒトタビ)此(コ)ノ道(ミチ)ニ入(ハイ)リテ実行(ジッコウ)ヲ奏(ソウ)スル能(アタ)ハザル者ハ是(コ)レ上帝(ジョウテイ)ヲ欺(アザム)クナリ 是(コ)レ心(ココロ)ヲ欺(アザム)クナリ 如此(カクノゴト)キ者ハ必(カナラ)ズ上帝(ジョウテイ)ノ譴罰(ケンバツ)ヲ蒙(コウム)ル
一 方今(ホウコン) 皇国(コウコク)ノ人民(ジンミン)多(オオ)ク西教(セイキョウ)ヲ拒(コバ)ム 故(ユエ)ニ我徒(ワレラ)一人(イチニン)此(コ)ノ道(ミチ)ニ背(ソム)ク時(トキ)ハ衆(シュウ)ノ謗(ソシリ)ヲ招(マネ)クノミナラズ終(ツイ)ニ吾(ワガ)徒(ト)ノ志願(シガン)ヲシテ遂(ト)ゲザラシムルニ至(イタ)ル 勤(ツト)メザルベケン哉(ヤ) 欽(ツツシ)マザルベケン哉(ヤ)

キリスト教を信じる宣言文

 我々が、キリスト教を学んだところ、大変教えられるところがあった。以後、これを学べば学ぶほど喜びが得られる。そこで、このキリスト教を日本の国中に伝道し、文明を知り文化を得てほしいと考えるに到った。
 しかしながら、キリスト教の深い真理を知らずして、古い伝統と習慣にしばられている人々が少なくない。我ら新しい真理を知った者として、この真理を知らない人々の現状を見るに、いたたまれないもどかしさを感じる。この際、我ら、新しい大きな使命をになう青年は、一大決心をし生命がけでキリスト教が公明正大な宗教であることを、明確にしてゆかねばならない。この決意の実行に、我々はもっとも力を尽くすつもりである。
 そこで志を同じくするものが、花岡山に登り、一致協力してキリスト教の信仰を守ってゆくために、次の約束をする次第である。

一.キリスト教を信じる者は、お互いに兄弟としての交わりをもち、生活全般にわたって、互いに戒めあい忠告しあいながら、良い行いを実行しなければならない。

一.いったん、キリスト教の信仰を持ちながら、信仰にふさわしい生活ができない者は、神をあざむくことになる。また、自分自身の心をもあざむくことになる。こうした者は、必ずや神の罰を受けることを知らなければならない。

一.今日、我が国の多くは、キリスト教を拒否している。それ故に我らの内、たとえ一人でもキリスト教をすてる者は、世間の物笑いになるだけでなく、我らのせっかくの決意をもふみにじり、実行不可能にしてしまう。ともども、努力しようではないか。

一八七六年一月三十日 日曜日 記す

(奉教趣意書口語訳)

【主要参考文献】

『小楠遺稿』横井時雄発行者 民友社 一八九八年五月十日再版
『熊本バンド研究―日本プロテスタンティズムの一源流と展開』同志社大学人文科学研究所編 みすず書房 一九六五年
『近代日本の青年群像―熊本バンド物語』三井久著・竹中正夫編 日本YMCA同盟出版部 一九八〇年
『アメリカのサムライ― L. L. ジェーンズ大尉と日本』フレッド・G・ノートヘルファー著
飛鳥井雅道訳 財団法人法政大学出版局 一九九一年

二〇一〇年十一月四日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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