奨励

自治に生きる

奨励 吉田 亮〔よしだ・りょう〕
奨励者紹介 同志社大学社会学部教授
研究テーマ 移民と教育 宗教と教育

 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

(ローマの信徒への手紙 一二章一―二節)

アメリカの移民

 皆さん、こんばんは。私は、普段は新町キャンパスにおりますので、今出川に来ると新鮮な気がします。私は移民のことに関心がありまして、アメリカの移民の歴史を調べたりしていますが、アメリカの歴史は先住アメリカ人もいますし、黒人奴隷でむりやりつれてこられた人びともいます。基本的には多くの場合、移民という形でアメリカ大陸に諸外国から渡って、その人びとが地に根を張って今日の多民族国家であるアメリカをつくった。そうした歴史のなかで、特にハワイ、太平洋岸に着目すると、一九世紀以降アジアから多くの移民たちが渡ってきて、西部開拓、フロンティアで果敢な働きをしていきます。そのなかに、日本人移民集団もいました。日本からも一九世紀末に出稼ぎ労働者として、多くの移民たちがアメリカ大陸へフロンティアとして渡っていきました。多くの場合、ハワイに行きましたが、一八九〇年以降、アメリカの本土、太平洋沿岸にもたくさん渡っていきました。一九二〇年のセンサスによりますと、大体二〇万人くらいの日本人移民がその当時、ハワイ及び太平洋沿岸で働いていたといわれています。
 移民の人びとは、もともと自国に住んでいて、アメリカという「新天地」に渡ってくるわけです。その時に、旧世界の価値観とかルールというものと距離をおいてリセットするような形で、新世界のルールに適応していくというパターンをたどることが多いです。もちろん完全にリセットされてしまうわけではないのですが、旧世界のルールも少し残しながら、ネゴシエイトして、徐々に新世界のルールのなかで自分のポジションを確保していくというプロセスをたどることが多いです。
 そのプロセスというのは、さほど簡単ではありませんでした。今まで自分たちが信じていたものが、ある日から全く通用しなくなってしまうことが起こるのです。昔と今では日米関係のあり方も違いますし、今は日本人といっても、アメリカナイズした文化を日常生活のなかで使いながら生きています。それに比べて一九世紀末の世界ですから、たとえば広島県の田舎で生まれて、広島のことしか知らない人が、いきなりアメリカのカリフォルニアに渡り、カリフォルニアのルールのなかで生活を余儀なくされていくというのですから大変な努力が必要になります。移民たちは遊びにきているわけではありませんので、一所懸命、朝から晩まで働いているのです。新世界のルールを学ぶ暇がないのです。毎日毎日、忙しく働いていくという状況です。
 また、ともすればいろいろな誘惑にかられたりすることも多々あります。出稼ぎに来たのですが、ほとんど金を稼ぐことができずに自由奔放な生活に走ってしまうこともあるでしょうし、いろいろなパターンが存在します。日本人移民も、そういう意味では全く例外ではありませんでした。そういう移民集団を、ある程度、牽引していく、リーダーと呼ばれる人びとが存在します。その人びとはエージェントとして移民の政治的・文化的・社会的なニーズをちゃんと踏まえながらも、現地社会とネゴシエイトしていく。妥協点を見いだしていく、それによって移民集団が現地社会のなかで、うまく発展していくベースをつくっていくという点において、非常に重要な働きをもちます。ヨーロッパ系移民も、そういうリーダーが存在しました。日本人移民にもリーダーが存在しました。リーダーシップの発揮いかんによって、移民集団・移民コミュニティのありようは大きく左右されていくということすらありました。

大久保真次郎

 実は、日本人移民のそうしたリーダー格の歴史をみていきますと、ここに同志社出身者の人びとの姿を確認することができます。ご存じのように、一八七五年に同志社英学校に始まり、同志社は近代日本の展開過程に対して数多くの優れた人材を輩出してきました。また、同志社の歴史というものを見ていくときに、海外、諸外国で、その国の発展・展開過程にかかわっていった、参画していった同志社人も、同時に数多く存在していたのです。特に日本人集団のリーダーシップを発揮する人材として、同志社人がかかわることによって、現地、アメリカのフロンティアの開発のなかで重要な役割を担ってくることがあったのです。そうした歴史というのは、最近、発掘されてきていますが、同志社一三五年史のなかでは、その部分は、まだ知られていない歴史ということがいえます。
 今日はそうした一つの事例を紹介したいと思います。大久保真次郎という人ですが、一八五五年、熊本に生まれます。彼は医学を志しました。熊本で学びを得て、東京帝国大学の医学校に進みます。しかし彼は突然、医学校をやめてしまうのです。回想録によると、身体の救済だけでは自分は満足できなかった。もっと深い救いを知りたかった。そこに到達したかったと述べています。彼は同志社に入学しました。同志社に入学しますが、新島襄と喧嘩をしてしまって、やめてしまいます。その後、自由民権運動やそのほか、いろいろなことにかかわっていきます。目的が定まらない。自分は一体何を目指して生きていったらいいいのかわからないという時期を長く経たうえで、あるとき、妻から「聖書を読んだらどうですか。祈ってみたらどうですか」と言われて、聖書をむさぼり読みます。そのなかで、彼は一つ、大きな発見をするのです。自分のように何も明確な目的も定められない、いい加減な生き方しかできない人間にすら、神は、イエス・キリストを介して自分を救われるものの一人としてカウントしてくださる。これほどすばらしいことは他にあるのだろうか。そのとき、大久保は恵みに満たされました。
 彼は一つの大きな決心をしました。自分は伝道者となって、世のために働きたい。魂の救いのために働きたいと思うのです。彼は新島に長い手紙を書きます。一回目の非礼を謝り、そして自分はぜひとも、もう一度同志社で勉強したいと、熱い、熱い手紙を書きます。新島はそれに対して涙をもって歓迎してくれました。彼はそうして同志社に戻り、そして同志社卒業後、埼玉県大宮、群馬県高崎の牧師として働きます。その後、一九〇二年に、当時、ハワイのホノルルに移民によってつくられた日本人教会がありまして、そこの教会に招聘されます。二年間働いて、一九〇四年、カリフォルニア州オークランド(サンフランシスコ湾岸地域の都市)の日本人教会に招かれて、牧師として十年間勤めます。最終的に彼はカリフォルニアで天に召されました。

啓発運動

 彼は、この十年間、一体何をやっていたのでしょうか、二つのことをしています。一つは日本人に対して一所懸命、啓発・教育活動を行いました。一九世紀の末に日本人たちがたくさんカリフォルニアにやってきたわけですが、新しい世界のルールに馴染むことができず、無秩序の状況のなかで移民たちは生活していました。彼は、そこに霊的な秩序が必要であると実感したのです。当時、日本人移民のなかで「悪徳」(インモラル)とされる売春・賭博・飲酒がはびこっていました。その点で日本人移民が特殊であったかというと、必ずしもそうではありません。カリフォルニアというのはフロンティアですので、この地域は、東海岸とはまた違った風土がありました。東海岸の人びとは西海岸を見て、あそこは不道徳の巣窟である。あんなところはとんでもない。アメリカとして恥ずかしい地域であると批判されるくらい、カリフォルニアというのは不道徳といわれるものに溢れていました。一つのものの見方にしかすぎませんが、日本人移民も、そうした風土の影響を受ける部分もあり、無秩序の状況のなかで誘惑に負けてしまったという側面もあります。
 日本人移民が新ルールを獲得するうえで、大きな障壁になった、もう一つの要素があります。それは排日運動です。一九〇〇年頃になりますと、日本人の数が増えてくるのですが、当然、現地の白人労働者との間で賃金格差をめぐって対立が激化していきます。日本人が農業において大成功していく、そのことも反感を買っていくことになります。その他、諸々の理由によりまして、白人労働組合は日本人排斥を決議し、それに地元の政治家が加担することによって、大規模な排日運動が展開していくことになります。そうした状況のなかで日本人が、「悪徳」に誘惑されて生活していくことは排日運動家の恰好の材料になったのです。それみたことか、日本人はインモラルである。こういう連中がアメリカ社会にいることはアメリカにとって危険なことである。だから排斥しなければいけないという考え方が蔓延していてくことになるわけです。
 そうした状況のなかにあって、大久保は移民たちに「自分を大切にしなさい。日本人としての自覚を持ちなさい。自分をしっかりマネージできるようになりなさい。自覚をもって生きるようになりなさい」と各地の田舎を回って教え、説いていく生活を、日々送ることになります。大久保は日本人たちが、もっと自覚をもって自立心をもって、自治心に溢れることによって、しっかりとカリフォルニア、フロンティアの地に根を張ることが可能になる。根を張ることによって、少しずつ新しい世界のルールを獲得することが可能になる。そういうことが起これば、現地社会の見方も大きく変わっていくに違いないという思いを強く感じて、そのような啓発運動を盛んに展開していきました。

自治・自給の教会

 もう一つ彼がやったことがあります。それは自分自身が移民の模範にならなければならない。そのために自治・自給の独立教会を日本人の手で建設しようということです。「自治、自治」と人にいって説きながら、自分自身が自治できているか。自分で自分をコントロールできているかと問われていくわけです。自分自身がモデルにならなければならないと考えました。
 当時日本でも、アメリカの移民社会においても、キリスト教会はたくさんあったわけですが、初期の時代ですので、外国伝道局、アメリカ人の宣教師の庇護のもとで教会は運営されていました。日本におきましては、一八八〇年代以降、徐々に日本人の独立教会をつくろうという動きが出てきます。その急先鋒になっていったのは同志社の卒業生たちであるわけです。大久保真次郎も例外ではありませんでした。彼は自治・自給教会をつくるべきであるという考え方に賛同して、高崎教会を自治・自給の教会にすべく、盛んに努力をしました。その後、彼はハワイに渡りますが、ハワイでもホノルル教会を、見事、自治・自給教会にしてしまいます。さらに彼は、その後、オークランドに渡るわけですが、オークランドの教会でも一所懸命募金活動をやりまして、日本人に自治教会の必要性を説き、賛同を得て、最終的には自治・自給教会をオークランドの地に完成させます。日本人が日本人の力で自治教会をつくっていく例は珍しいケースです。日本人労働者は経済的に不安定な状況ですので、献金を集めるといっても大変な作業だったわけですから、よほど大久保のリーダーシップが発揮された結果として、そこまでのお金を集めることができたという解釈が成り立つかもしれません。

自治・自給の精神と同志社

 彼自身、自治・自給の精神のモデルを提示していく作業を行いました。ここで言われている自治という考え方、これは大久保が同志社で学んだ考え方です。新島襄も、自由教育・自治教会という言葉を、好きな言葉としてよくあげています。自治教会、この考え方は、もともと新島がボストンにいたときに、そこの会衆派教会の体験を経て、自由・自治という考え方を習得して、それを日本にもち帰ってきたものです。二〇世紀初頭、新島が日本にもち帰ってきた、同志社で教えた自治の精神が、弟子である大久保によって、またアメリカのフロンティア、カリフォルニアの地に、トランス・プラントされて、そして日本人移民労働者、まさにフロンティアで一所懸命に働く労働者たちのスピリットになっていったということです。
 私が思うに、大久保という人は新島の大好きな「てきとうふき」を生きた典型的な例ではないかと、それを自治の精神でもって生き抜いた人ではないかと思います。
 今日の聖書の言葉のなかでも「神の御心のままに生きていく。神に喜ばれる生き方をしなければならない」という言葉がありましたが、大久保こそ、そのことを常に念じながら、神との対話のなかで、自分の方向を探りながら、自治の精神に生きることが神の御心と信じて実践した人物ではないかと思います。グローバル化する社会、とよく言われますが、この自治の精神というのは、我々にとっても、大事にすべきスピリットではないかと思います。

二〇一〇年六月一日 同志社スピリット・ウィーク
火曜チャペル・アワー「奨励」記録

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