講演

新島襄とW・T・セイヴォリー船長

講演 本井 康博〔もとい・やすひろ〕
講師紹介 同志社大学神学部教授
研究テーマ 日本近代プロテスタントの歴史(特に同志社・新島襄)

セイヴォリー家族聖書

 去年(2008年)の秋、ニイシマ・ルーム(今出川キャンパスの展示室)で「セイヴォリー家族聖書」が展示されました。マスコミも話題にしていました。
 新島が日本(函館)脱出を敢行する際に、鍵を握っていた人物、それがウィリアム・T・セイヴォリー(W. T. Savory)です。ケーリ(O. Cary)教授(同志社大学)などは、「アメリカの父」、ハーディー(A. Hardy)を上回るかのような大絶賛です。「新島には恩人が多いといえるが、恩人セイヴォリー船長は、その筆頭に立つ人」とベタ褒(ほ)めです(O・ケーリ「新島襄と恩人セイヴォリー」82頁、『同志社談叢』四、1984年3月)。
 この恩人が所有していた聖書が、昨年11月5日、アーサー・G・ブリガム氏から同志社社史資料センターに寄贈されたのです。

新島の署名入り聖書

 ブリガム氏のことは前に紹介しました。セイヴォリー船長の四代目。現在、滋賀県大津市比叡平に住み、同志社女子大学その他で非常勤講師として英語を教えておられるのも、奇遇です(拙著『錨をあげて』38頁)。同氏の尽力で家族聖書が、ようやく4年かかって、同志社のものになりました。
 「ひょっとしたら将来、借用なり寄贈の形で、学内展示できるかもしれません」(同前、42頁)と書いたことが、実現したのです。うれしいですね。
 この聖書は、セイヴォリー旧蔵品、というだけじゃなくて、新島襄の署名が残る点でも、貴重です。新島はアメリカ留学中、何度もセイラムのセイヴォリー家を訪ね、帰国後も交信していますが、これまで署名の件はまったく知られていませんでした。
 この聖書は、中央の数ページが白紙で、戸籍簿よろしく家族の「誕生」、「死亡」欄になっております。その中に新島の署名が混じります。つまり、家族、親族扱いなんです。ハーディー家はもちろん、ヒドュン家でも「家族の正式の一員」として受け入れてもらった新島は(『新島襄全集』10 60頁、以下⑩60)、セイヴォリー家でもまったく同様の扱いを受けたことになります。

「新島約瑟」

 でも、署名に関して言えば、英語表記(Joseph Nee―Sima was born on Feb. 13, 1844.)には謎が残ります。まず書体が、新島自筆のものとは異なります(前に紹介した時は、新島「自筆」としてしまいました)。それ以前の家族の名前が同一書体ですから、おそらくある時期に同一人物により、整理されて書かれたんでしょうね。だからでしょうか、誕生日と誕生年に1年と1日の違いが出ています。陰暦を陽暦に換算する際のミスでしょうか。
 ともあれ、異字体であるという理由で、この署名を新島のものでない、と疑うことにも一理あります。ですが、状況証拠から見ても、これを書いてもらえる人は、新島以外にはとうてい考えられません。単純に代筆、と考えればいいんじゃないでしょうか。
 一方、代筆が効かなかったのが、漢字署名です。日本語署名は「日本江戸 新島約瑟」と墨書されています。正真正銘、新島の直筆です。彼は留学中の1869年頃からこの「約瑟」を使い始めています(⑧59)。読み方は、「ジョゼフ」です。Josephの漢字表記だからです。自分でも、この名前に「ジョウセフ」とルビを振る場合があります。

A・S・ハーディーによる新島伝では

 ところで、ブリガム氏には、新島を助けたためにセイヴォリーが解職されたことは、「想定外」でした。新島と同志社のことを知って初めて知った事実(サプライズ)らしいのです。ということは、セイヴォリー自身が、子どもや身内にそのことをあまり伝承しなかった、ということでしょう。
 新島の伝記(1891年刊)をハーディーの三男(A. S. Hardy)が執筆した際にも、あるいは同様であったのかもしれません。なぜなら、当時、セイヴォリー(ミドル・ネームを間違えてはいますが)はいまだ健在でしたので、取材、あるいは問い合わせをしたと思います。でも、免職のことは伝記に出てきません。興味深いことに、この伝記はセイヴォリーのことから書き始めています。取材の成果が活かされたのでしょう。書き出しは、こうです。

「一八六四年の夏のことである。長崎のトーマス・ウォルシュ会社(Thomas Walsh & Co.)所有の二本マストの商船、ベルリン号は、フレデリック・ウィルキー氏(Frederic Wilkie, Esq.)あての商用を帯びて、函館に到着した。同船の船長は、マサチューセッツ州セイレム出身のウィリアム・T・セイヴォリー(William T. Savory)だった」。

セイヴォリー船長の解職

 ベルリン号がトーマス・ウォルシュ会社の所有船であったことが、判明します。これは大事な事実ですから、後でも触れます。続けて―船長が新島のことを聞いたのは、ウィルキー(後述)からであった、とあります。さらに、セイヴォリーは、アメリカで教育を受けたがっている日本人のことを彼から聞かされた時に、日本人を海外に連れ出したことが発覚した場合には、「ゆゆしい結果」(serious consequences)が起こることも同時に伝えられています(⑩9)。
 つまり、船長は確信犯なんです。新島ももちろん、そのことは十分過ぎるほど、分かっております。「自分の船をくびにされる危険を犯してまで」上海行きを敢行してくれた船長の義侠心には、心から感謝しておりますから(⑩46)。
 しかし、ハーディーは伝記のなかで、「ゆゆしい結果」が現実のものになったことについては、触れておりません。知らなかったんじゃないでしょうか。
 実際には、セイヴォリーはトーマス・ウォルシュ商会から解雇され、新島より先にマサチューセッツ州セイラムに帰省を余儀なくされています。セイヴォリーの周辺で、そのことを知っているのは、新島とH・S・テイラー船長(ワイルド・ローヴァー号)でした(ちなみに、ハーディーが新島伝に取り組んだ時には、テイラーはこの世におりません)。

セイヴォリーの承諾書

 さて、セイヴォリーが確信犯であることを傍証してくれる英文資料が、あります。セイヴォリーが福士に差し出したという「承諾書」(いわば、誓約書)です。
 ただ、何かと問題のある根岸橘三郎『新島襄』(203-204頁、警醒社、1923年)しか紹介していない資料だけに、信憑性については問題が残ります。
 だから、慎重な留保をつけたうえで引用(日本語訳)します。

「スクーナー船のベルリン号船長W・Y[T]・セイヴォリーは、一八六四年七月十六日[陽暦]の夜、福士氏の要請により、親切にも新島氏を上海まで連れ出す危険を犯す。夜の函館港で、セイヴォリーは福士氏に、福士氏の願いを実行する印としてこのネガ(negative)を手渡す」(同書、203頁)。

 ネイティヴの英語にしては未熟で、意味がすっきりと通りません。あるいは、福士の作文かもしれません。根岸は「余の一身を賭(と)して、[新島]氏を上海に御同船まうすべしこの決意を表明する為に、余の影像を貴下に呈す」と訳しています。
 それに、日付も(前に見たように)7月15日でなければなりません。このように疑惑のある資料ですが、セイヴォリーが危険を十分に承知していたことだけは、承諾書の有無にかかわらず、容易に推測できます。

新島日記から見る解職騒動

 さて、船長の解職問題に迫ります。いったん上海から出港したワイルド・ローヴァー号が、再度、上海に戻った際、日本からの情報がテイラー船長のもとに届いたようです。それは新島に即刻、伝えられました。新島が当時つけていた「航海日記」には、こうあります。

「ペートル」甲比丹(かぴたん)(新島が英語を聞き取る力が、想像できます)が、自分を函館からここまで連れ出したことが、「先船の主」の知るところとなった、彼は船長が日本の法律に違反したことを怒って、ペートルを「放逐(ほうちく)」し、他の船長と交替させた、ペートルは「船客」となってイギリスへ行った、とのこと(⑤49)。

 これを知った時の、新島の驚愕と悲しみ、さらにはショック、これは相当に大きかったでしょうね。日記の記述の続きからも窺(うかが)えます。

「嗚呼(ああ)、予、先甲比丹をして、不幸に陥らしむるは、実に笑止千万之事なり。然(しか)し、過去の事、如何(いかん)とも難し。多年、学成の後、彼に仕へ、万方其(その)恩を報せば、恐らくハ少しく予、罪を償ふに至らん」(⑤49)。

 新島が将来に期すものが、よく伝わってきますね。渡米後の両者の繋がりの原点は、ここにあるような気がします。それが、先の家族聖書の署名にまで連綿として繋がっていくのでしょうね。

トーマス・ウォルシュ商会から免職

 めでたくアメリカに入国できた新島は、翌年、アメリカまでの航海記、「箱楯よりの略記」をあらためてまとめています。そこにも、もちろんセイヴォリーの解職のことが出てきます。
「ベルリヨン号」船長が、長崎に戻ったところ、同地の「コンスル」が船長の条約違反行為を怒り、船長を「放逐」して、別の船長に替えた、というのです(⑩75)。
 先の記述との間に大きな相違はありません。ただし、セイヴォリーをクビにした人物が、違ってます。前者では、「先船の主」、後者では長崎の「コンスル」(領事)です。いままで、この差異が問題にされたことは、一度もありませんが、興味ある事柄ですので、検証しておきます。
 どういうことかと申しますと、実はオーナー(船主)とコンスル(領事)は、アメリカ人兄弟なんです。ベルリン号を保有していた船会社は、トーマス・ウォルシュ商会でしたね。長崎でその会社を経営するのが、トーマス・ウォルシュ(Thomas Walsh)とジョン・ウォルシュ(John Walsh)という兄弟です。
 会社名から判断する限り、兄が社長、弟は副社長(格)、といったところです。あるいは、共同経営も考えられます。確かなことは、弟は二束ワラジを履いていて、商社マンの傍ら、アメリカ領事を兼務していることです。

ウォルシュ兄弟

 だから、テイラーや新島が混乱するのも、無理ないのです。セイヴォリーの解職には「先船の主」(社長)と「コンスル」(領事)の双方が、すなわち彼ら兄弟が二人とも絡んでいるからです。ウォルシュ商会の社長、もしくは支店長(ないしはその兄弟)が、領事を兼務している手前、日本の法令違反には断固とした処置を取らざるをえなかったはずです。いや、場合によっては、先に弟(領事)がこれを問題視し、兄に適切な処置をとるよう迫った可能性さえあります。
 ちなみに兄は後に、神戸に転住しますから、墓は神戸北方の修法ケ原(しおがはら)墓地にあります。弟は、長崎における初代のアメリカ領事で、日本人と結婚しました。だから、青山霊園の山口家(妻の実家か)の墓域の中に、記念碑が立てられています。日英両語の説明文のうち、日本語の方を紹介します。

「吾等ノ祖父、ジョーン・グリーア・ウォルシュ氏、初代長崎米国領事就任一百年記念祭ガ、東京聖イグナチオ教会ニ於(おい)テ催サレタルヲ永ク銘記センガタメニ、之(これ)ヲ建ツ。
 昭和三十四[一九五九]年十一月二十八日 山口家」。

 繰り返します。私には、彼がセイヴォリー解職に関してはキーパーソンのような気がしてなりません。

社長の交代

 ちなみに、新島が密出国した翌年には、トーマス・ウォルシュ商会社長(支店長)は、アーウィン(Robert Walker Irwin)という人物に交替しております。もし、この新人社長(支店長)時代の密出国なら、セイヴォリーの犯罪に対してどういう態度をとったでしょうね。場合によっては、解任まで行かなかったかもしれません。領事との繋がりが少ない分、微妙ですから。
 社長交代に関連して、ここで注目すべきは、福士卯之吉の処遇です。セイヴォリーの犯行が、長崎の会社や領事にまで筒抜けであったのなら、函館、とりわけ居留地では新島の密出国は、公然たる秘密となっていたはずですよね。にもかかわらず、密航を手伝った福士(や他の友人)は、お咎めなしでした。少なくとも処罰された形跡はありません。なぜか。この謎は、いまだ誰も解いておりません。福士が無実で終わったとするならば、セイヴォリーはいかにも不運、としか言いようがありません。過酷とも思える処置は、ジョン・ウォルシュの存在抜きには、私には考えられません。

渡米前の交流(函館)

 ともあれ、新島の渡米は、セイヴォリー船長の犠牲の上に成り立っています。不幸中の幸いは、船長自身が、このことでけっして新島を恨んではいない点です。かえって親近感を抱いております。それも、テイラー船長の場合のように、半年以上にわたって生活を共にした、というのならまだ分かります。が、セイヴォリーの場合は、わずか1カ月足らず、正味はせいぜい3週間です。最初に会ったのは、1864年7月15日のことです。新島の日記によると、

「築島」は「米利堅人(めりけんじん)の家」でアメリカ商船の「船頭」(キャプテンのことです)、「ウィルレム・セーウォル」と面会しています。新島は「彼(か)の国之(の)学問修行」と「地球を一周せん」ために渡米したい、と熱心に訴えました(⑤72)。福士が通訳をしてくれました(⑩9)。

 ところで、最初の会見場所となった「米利堅人の家」ですが、福士が雇われていたポーター商会(ポーターはイギリス人商人)と考えるのが、普通です(⑩9、注参照)。ですが、新島伝に出てくるフレデリック・ウィルキーの事務所、とする見解もあります(⑧23)。

フレデリック・ウィルキー

 いずれも函館の築地(居留地)にありますから、可能性があるわけです。しかも、福士が働いていたポーター商会の社長(A. P. Porter)がイギリス人であるのに対して、ウィルキーはアメリカ人ですから、同国人としては後者の方が近い関係なんです。A・S・ハーディーは、このウィルキーの名前を新島からではなくて、直接、セイヴォリーから聞き出した、と思われるだけに、今後の調査が必要な人物ではないでしょうか。
 ウィルキーが新島をセイヴォリーに紹介したとする叙述は、O・ケーリのように「A・S・ハーディーの想像にすぎない」(「新島襄と恩人セイヴォリー」84頁)と単純に切り捨てていいものでしょうか。まったくの記憶違いならば別ですが、そう簡単に退けるわけにはいかないですね。たらいの水と一緒に赤子を流しかねませんので、あんまり生産的ではないと思います。ウィルキーの名前の出所や素性を突き止めると、セイヴォリーや新島との絡みが、新たに出てこないとも限りません。

渡米前の交流(上海)

 さて、函館から上海までの船上生活については省略し、上海での別れについて見ておきます。ベルリン号が上海行きであることは、新島も知っておりました。乗船前にセイヴォリーが、「上海まで連れて行く。上海ではアメリカ行きの船に乗れるように手配する」と約束してくれていましたから(⑩9)。
 ところが、不可解なことに、ベルリン号が日本に戻ることは、新島には想定外のようでした。上海に着いて一週間もしてから(8月9日)、船が日本(長崎です)へ戻ることを新島は「ある水夫」から聞いております(⑤73)。びっくりしたような受け止め方です。
 それはセイヴォリー自身の発言とぴたりと符合します。それから2日後(8月11日)、テイラー船長へ新島を託す際に、セイヴォリーは、「此(この)船、無拠(よんどころな)き事件有之、再ひ日本へ帰らねばならぬ故に」と述べた、と言いますから(⑤73)。よんどころ無き「事件」とは、いったい何か。大変気になります。
 大胆に推測すれば、セイヴォリーはこの時点で、函館出港時の犯罪が露見して、長崎のウォルシュ商会から電報で召喚されたのではないでしょうか。いずれにせよ、新島をワイルド・ローヴァー号船長に引き渡したこの9日、セイヴォリーは新島と別れます。函館の出会いから、まだ1カ月も経っておりません。

ボストンで再会

 上海で別れた2人が、再会するのは、翌年(1865年)8月24日のことです。ワイルド・ローヴァー号はすでに1カ月以上前に(7月20日)ボストン港に着いています。でも、新島は上陸できないのです。1年以上かけて、ようやくボストンに入港できたというのに、です。身元引受人が見つかるまで、足止めをくらっていました。
 そんな不安一杯の船中生活のさなかに、セイヴォリーは新島にわざわざ会いに、セイラムから来てくれたのです。まさに「地獄で仏」でしょうね。なぜって、新島が広いアメリカ大陸で知っている親しいアメリカ人と言えば、テイラーを除けばセイヴォリーしかいません。新島の日記には、その日の消息が生き生きと認められています。

「今日、我旧甲比丹、船ワイルト・ロウワルに来り、我を尋ねり。我、喜に堪へす。不覚(おぼえず)大声にて、我が旧貴船主哉と呼上り。船主も亦、我無異健全にして、此地に到れるを喜ひ、慇懃(いんぎん)に種々の話を為呉れり」(⑤68)。

 新島の率直な喜びが、ストレートに伝わって来る文章ですね。よっぽど、嬉しかったんですよ。ただし、長崎で船長を失職した話は、日記には出ておりません。当然、新島は丁重にお詫びしたはずです。
 セイヴォリーは、それに対して、「気にしないように」といった返事でもしたんじゃないでしょうか。いつまでも根に持っているんだったら、だいたい、ボストン港まで会いに来ることもしなかったはずでしょうから。船長の度量の広さが光りますね。まさに「その人格の深さが、もう一段と浮き彫りになる」シーンです(「新島襄と恩人セイヴォリー」85頁)。

セイラムで

 その後、新島はボストンを拠点として、アンドーヴァーやアーモストで留学生活を体験いたします。したがって、セイヴォリーとの交流も当然、継続するわけです。
 その間、新島は折りにふれてセイラムを訪ねております。判明している限り、少なくとも3度は行っております(逆のケースは、定かじゃありません)。
 最初は1871年10月のことです。アメリカン・ボード第62年会がセイラムで開催されたのに伴う出張です。新島はアンドーヴァーから、養父のハーディーは役員としてボストンから、それぞれ参加しました(⑧79)。
 この年会は、日本に派遣されるデイヴィス(J. D. Davis)に新島が初めて出会った時の感動的シーンが見られたことで知られています(J・D・デイヴィス著・北垣宗治訳『新島襄の生涯』41頁、同志社大学出版部、1992年)。年会は3日から6日まで行われていますので、新島は会場近くのセイヴォリー家に当然、足を運んだと思われます。

二度目の訪問

 その2カ月後の日曜(12月3日)も、セイヴォリーと日曜を過ごすために、アンドーヴァーからセイラムに行くかもしれない、と知人宛の手紙に書いております(⑥94)。実現しておれば、2度目の訪問です。もしもこの時、セイヴォリーの教会で一緒に礼拝を守っておれば、新島はセイヴォリーの教派がユニテリアン(後述)であることを認識できたはずです。しかし、後述するようにこの時点ではそうではなさそうですので、訪問できなかった(あるいは、訪問はできても、礼拝には参加しなかった)のでは、と推測します。そしていよいよ帰国する1874年です。留学生活最後の夏に、新島は「旧友にお別れを言うために」各地を巡っております。9月28日のプリマス訪問を皮切りにアンドーヴァー・ダンヴァース・セイラム・マーブルヘッドを一巡しました(⑥141)。ダンヴァースというのは、テイラー船長の家がある街ですが(⑥236)、すでに船長は他界しておりますので、未亡人に挨拶するのが、目的です。
 次のセイラム訪問は、当然、セイヴォリー家が目当てです。冒頭で紹介した家族聖書への署名は、この時のものではなかったでしょうか。ちなみに、この時の面談では、セイヴォリーの信仰について、新島には新たに重要な発見がありました。後述します。

帰国後に「バード事件」

 さて、新島が帰国してからは、両者の交信はしばらく途絶えます。が、思わぬ「事件」がふたりを再び、結びつけることになります。バード(Isabella L. Bird)というイギリス旅行作家(女性です)が書いた『日本における未踏の地』(Unbeaten Tracks in Japan, Vol.1 & 2, John Murry, Albemarle, London, 1880)という本がロンドンで出版されますが、この出版が引き起こした余波が、京都にまで及んできます。「バード事件」と仮称します。
 どういう事件かと申しますと、書中にセイヴォリー批判が出て来るのです。しかも新島の証言として、です。この本は、当時、アメリカでもよく売れたようで、セイヴォリー自身が問題の箇所を発見したのか、あるいは、新島の周辺の者がまず読んで、セイヴォリーに知らせたのか、その辺りのことは分っておりません。経緯はどうであれ、セイヴォリーは、こともあろうに「あの」新島が自分を批判している、ということを知ってしまったのです。ショックでしょう、これは。
 さっそく新島に抗議というか、真意を問いただす手紙を出します。それに対して、新島が回答、というか、釈明する、といったやりとりが続きます。
 実は、セイヴォリーという実名は、書物の中にはどこにも出ていません。ですが、知る人ぞ知るで、新島を知ってる人なら、誰でも人物を特定できます。こうあります。

「キリスト教を学ぶ、ならびにアメリカに行く、という目的を抱いて、新島氏は蝦夷へ行った。やっとのことで中国行きの船に乗船できたが、アメリカ人船長が宗教について何も知らないことに失望した」(Vol.2, p.233)。

新島発言の波紋

 一読して船長が誰か、新島の周辺では、すぐに分かりますね。これはバードが新島を自宅(今の「新島旧邸」)に訪ねた折のインタビュー記事なんです。録音機なんか、なかった時代のことですから、長い対談中の発言(3頁と10行もあります)が、はたして新島の発言通りに記述されているのか、という懸念は残ります。けれども、この種の発言があったことまでは、否定できません。セイヴォリーにしてみれば、飼い犬に手を噛まれたようなショック、というか裏切りでしょうね。じゃ、はたして真相はどうか。新島自身の弁明、いや釈明を聞いてみましょう。8月1日に京都から出した手紙(⑤212-213)は、まさに「心溢れるばかりの恐縮の手紙」です(「新島襄と恩人セイヴォリー」85頁)。まずはご無沙汰を詫びた後、「貴方のことは、決して忘れたことはありません」と断っています。
 続いて「旧(ふる)い専制国家の鉄鎖(the Iron Chain)から私を解き放すために、私のためにあのような好意的で危険な行為をしてくださった紳士を忘れることは、不可能です。貴方は私のために危険な仕事をしてくださったのです」とあります。
 感謝はさらに続きます。「貴方は実に私の恩人です。セイヴォリー船長は私に偉大なことをしてくださった、ということを胸の中で感謝するだけでなく、しばしば他の人たちに公言しました」。
 詫び状を兼ねるだけに、新島としては過大と思われるくらい、船長への感謝を書き連ねております。自分にとってこれだけ大事な恩人なのに、イギリス女性の記述で傷つけられたと聞いて、すこぶる心外である、というのです。なぜか。「件(くだん)の女性に、貴方が信仰に無智だとか、私がそれに失望した、といったことは、決して話したことがない、と確信するからです。彼女は誤解して、記述しているに違いありません」。

新島の釈明

 こう書いてきて、次に新島は三つの証拠を列挙いたします。バードに語った内容を、あらためて自分の言葉でセイヴォリーに直接伝えよう、というのです(⑥213)。

一、たとえキリスト教を勉強したくても、当時の英語力では無理。だから、船長が宗教について何も知らないからといって、私が失望するはずがない。
二、船長が私を非宗教的に取り扱ったことは、一度もない。彼は私に荒っぽい言葉をまったく使わなかった。逆に、親切に扱ってくれ、船室(cabin)に置いてくれた。数本の銀のスプーンを海に流してしまった時も、怒らず、寛大に許してくれた。
三、女性(バード)から船長の信仰を尋ねられた際、彼の信仰は正統的な会衆派(the regular orthodox)とは幾分違っているので、否定的に答えた。ただし、それに気がついたのは、前回、セイラムで彼と面談した時であって、ベルリン号の船上ではない。当時は、船長が信徒であるかどうかを知る術(すべ)が、私にはまったくなかったので、失望する訳がない。

 以上の証拠を列挙することにより、「アメリカ人船長が宗教のことを何も知らないので、私は失望した」という発言を自分はしなかったことを認めてほしい、というのです。バードその人には、ハーディーを通して事実錯誤を訂正してもらうように手配したい、とも付言しています。全体として受ける印象は、「苦しい弁明」であるのは、否めません(「新島襄と恩人セイヴォリー」87頁)。「バード事件」以後の経過は、はなはだ不鮮明です。セイヴォリーからの返事は、なんと1年半後(1883年3月7日付)ですから、かなりの冷却期間が経っています。
 なぜそんなに返事が遅れたのか。船長が「最後の航海に出て、不在だったため」です(同前、92頁)。返信によると、ハーディーは新島の懇請を受けて、ちゃんとセイヴォリーに手紙を出していたことが、分かります。
 さすがに「アメリカの父」ですね。可愛い息子のためにきちんと取り成しの労をとっていますから。これを受けたセイヴォリーの返事には、バード事件に触れるような文言は一つもありません。「あなたからの親切な手紙」とか、「あなたの優しいお言葉、大変光栄に思います」といった表現はあっても、です。
 ちなみに、バードの本はその後も版を重ねますが、問題箇所は訂正されてはおりません。セイヴォリーの「名誉」は回復されないままです。匿名だからいいようなものですが。

ユニテリアン

 ところで、「バード事件」の底流には、セイヴォリーの信仰(ユニテリアン)と新島のそれ(会衆派)が「幾分違っている」(新島)という認識が横たわっております。
 船長がセイラムで所属していた教会は、第一教会と呼ばれており、教派としては、ユニテリアンです(現在の名称は、端的にThe First Church in Salem, Unitarianです)。元々は会衆派でした。と言うよりも、アメリカ大陸に誕生した最初の会衆派教会という、実に由緒ある教会なんです。創立は1629年です。
 その後、ボストン中心に会衆派教会のなかから、次々とユニテリアンに転化する教会が続出した時代がまいります。新島が世話になった人たち(あのハーディーを始め)は、殆んどが、正統的な会衆派の信仰や教理を守る立場に立っていました。ですから、新島もユニテリアンには違和感を抱いております。伝統的な三位一体という教理を肯定するか、否定するかが、最大の分かれ目なのですが、ここでは時間の関係で、両者の詳しい差異は省きます(さしあたっては、拙稿「新島襄と同志社が目指すもの」『三田評論』1117、慶応義塾、2008年11月、を参照ください)。
 セイヴォリーがユニテリアンであることを最初に指摘されたのは、井上勝也『新島襄 人と思想』(26頁、晃洋書房、1990年)です。晩年は保養のためフロリダ州に転居し、デランドで亡くなっていますが、葬儀はやはりセイラムのこの教会で執行されています(同前、23頁、25頁)。

二度目の渡米中に

 さて、再度、「バード事件」に戻ります。これは、セイヴォリーと新島の友好関係にあやうく罅(ひび)が入りかけた事件です。したがって、その後も新島の心のなかでしこり、というか蟠(わだかま)りになったと考えられます。できれば、船長に直接逢って疑惑を解きたい、と願ったでしょう。
 事件から4年後(1885年)に、ついにその機会が訪れます。二度目の渡米中のことです。新島はイギリス(リヴァプール)からアメリカ(ニューヨーク)に着いた翌月(1884年10月)、さっそくダンヴァースとセイラムを訪ねております(⑤333)。
 ダンヴァースでテイラー船長の未亡人と面談した後、「セーロル[セイラム]ニ恩人ヲ尋ヌ」と新島は書き残していますが、不在で会えませんでした。

「夫(それ)ヨリセーロルニ趣キ、是モ同ク廿一年前ニ日本脱走ノ時、箱館ヨリ船ニ乗セ、支那(しな)迄連レ行カレシ船将ノ家ヲ尋ネシニ、生憎(あいにく)、船将ハ当時[現在]航海中ニテ家ニオラズ、其(その)細君ハ去年、死去セラレシ。気ノ毒千万ト思ヒ、空(むなし)ク帰レリ」(⑤333)。

 釈明の機会を奪われた落胆振りが伝わってきますね。新島はもちろん諦めません。リベンジを敢行します。翌年(1885年)夏、ついに再会を果たします。7月4日、テイラー船長宅を訪ね、4泊しますが、この間(7月7日)に一度、セイラムに出かけています。その時の消息は日記、ならびに妻(八重)宛の手紙から判明します。

最後の面談

 まず日記(英文)です。「七月七日、火曜日 セイラムに九時十四分に行く。エセックス通一〇九を訪ねる。セントラル・ステーション近くのウォーター通へ行く。ラングメイド氏[不詳]が三時間待つ。ウィリアム・T・セイヴォリー船長に面会。クラブ・ハウス(Club House)で船長、ラングメイド氏と夕食。ボストンへ行く」(⑦255)。
 ついで、留守宅(八重)へ出した手紙です。

・・・ママ去る七日にはテーロル氏之所より二里程の町なるセーロムと申す所に(之は東大の教師たりしモールス氏の郷里)参り私を日本より盗み出し呉候一小船の甲比丹セーヴオリー氏に面会し、永く昔話なして互ひに喜び申候・・・ママ」(③353)。

 この手紙は原物が所在不明で、柏木義円が筆写したものしか残っていません。これ以降の本文は、残念ながら省略、というか筆写が許されなかったようで、不明です。だから、肝心の「バード事件」の顛末(てんまつ)が分からないのは、残念です。とは言え、信頼回復が実現したことは、十分に予測できます。ちなみに、問題の根岸橘三郎『新島襄』(204-205頁)には、1885年4月に船長に面会した新島が、福士へ出した葉書の文面が紹介されています。人名表記(セボリー、とは書きません)や面会日、ならびに住所(後述)が事実と相違している点で、これまた偽物(ウソ)臭い匂いがします。だから、『新島襄全集』には再録されていません。ですが、この種の葉書が送られても不思議ではないので、参考までに紹介しておきます。

「前略。米国にては小生を日本より連れ出し呉候も甲比丹セボリー氏を相尋ねて同氏方に一両日滞留、縷々(るる)昔話をなし、又、貴兄の事など相(あい)談じ、甚相楽しみ申候。同氏も久々にて相尋候故か、殊(こと)の外喜び呉候。同氏は、当時[現在]はユーヨーク州ブルックリン府に滞在被在候。
福士成豊(なりとよ)[卯之吉改め]賢兄新島襄」。

 前述したほかにも、「一両日滞留」(事実は、テイラー家に4連泊)など事実誤認が散見されます。ですが、ブルックリンの住所(時期が早すぎるとは言え)に言及している点など、なかなかの情報通です。

帰国後の交流

 いずれにせよ、セイヴォリーと念願の再会、面談をすませて、新島はすっきりとした気持ちになって、秋に帰国できたものと考えられます。ただし、「宿題」をもらっての帰国でした。後述するように、日本の金貨を1枚、送ってほしいというのです。
 新島は日本に帰国し、一段落した時(1886年1月か)に、セイヴォリーに手紙(所在不明)を出しました。その返事(「新島襄と恩人セイヴォリー」92頁以下)を2月20日にセイヴィリーは認めています。それによると、最後の航海を終えて陸(おか)に上がったはずの船長ではあったが、新しい仕事が見つからないので、「あまり気乗りはしないのですが、もう一度、海に出ざるをえないのでは」と弱音を吐いています。
 もう一点、見逃せないのは、引越しです。セイラムからブルックリン(クインシー通222番)へ移っています。しかも、5月1日には再度、転居することになっています。この封筒には、新島自身の筆で、受けとった日(4月3日)と返事を出した日(9月6日)が書入れされています。5カ月後の返信とは、新島の反応も鈍すぎますね。
 ブルックリンでこれを受理したセイヴォリーは、10月16日に返事を書きました(「新島襄と恩人セイヴォリー」94-95頁)。依然として失業中です。不本意ながら船に乗ることも選択肢に入れてはいるものの、それさえ就職口がない、と嘆いています。「かなり意気消沈」というか、弱気になっています。その証拠に、ついには、新島に就職口の斡旋を依頼に及びます。「日本では如何(いかが)でしょうか。そちらで何か私にも職が見つからないものでしょうか」。
この辺りになりますと、帰国後、不遇な生活に陥った恩師のジェーンズ(L. L. Janes)のために、募金活動や就職活動を展開した「熊本バンド」のことが、想い浮かびます。彼は、小崎弘道たちが探してくれた仕事(第三高等中学校の英語教員)に就くために、来日して京都での生活を始めたことは、よく知られています。セイヴォリーの場合、新島校長でも、彼を同志社に雇用する術(すべ)はなかったようです。

大判、小判をプレゼント

 手紙の最後は、かねての「宿題」の催促です。「もう小判は見つけて下さいましたか」。この封筒に、新島は受理した日付(11月25日)と共に、「黄金小判ハ已(すで)ニ呈ス」というメモを書き残しています。すでに送った、と書きながら、次に見るように、翌年(1887年)春に金貨を送っています。この点は、どう理解すべきでしょうか。途中で紛失、あるいは盗難という事故でもあったために、改めて再送する、ということなのか。あるいは、催促状とも言うべき一年前の手紙に、あとでメモ書きした、とでもいうのでしょうか。
 いずれにせよ、新島が金貨を送ったのは、セイヴォリーと約束をしてから二年後になります。詳しく申しますと、1887年3月に東京出張のために横浜に上陸した際、彼はアメリカに帰国する女性宣教師(F. A. Gardner)に金貨(大判と小判の2枚です)を託します。この件を横浜からセイヴォリーに報じる手紙(⑥307-308)には、「貴方への敬意のささやかな印として受け取っていただきたいと願います」とあります。さらに新島は、件(くだん)の女性宣教師が直接、金貨を届けられなければ、ブルックリンに住む彼女の姉妹の家に出向いて受け取ってほしい、と依頼しています。前述したように、セイヴォリーはこの頃、ブルックリンに居を移しております。このときのやりとりを最後に、両者の交流を窺わせるようなものは、三年後の新島死去まで、何も残っておりません。

さらにトランクやデスクも

 それにしても、新島は金貨の運送には、えらく慎重な姿勢をとってますね。郵送や宅配じゃなく、あくまでも手渡しで、というのですから。よほど値が張る「お宝」だったのか、あるいは、それ以前に何か不幸な事故があったか、です。
 プレゼントと言えば、新島が贈った家族写真はもちろん、夫婦用の蓋(ふた)つきの湯飲みと受け皿(いわゆる夫婦(めおと)茶器)を孫が大事に保有していることも確認されています(「新島襄と恩人セイヴォリー」88頁)。
 最近では、家族聖書や前に紹介した船長用トランクのほかに、「お宝」がまた出てきました。
 ポータブル・デスクを遺族が保管していることが、判明したのです。船中に持ち込んで使う小形デスクです。中に新島の署名入りのメモがある、とのことです。
 新島が船長に贈呈した可能性があります。像のレリーフ入りですから、どこかのお土産じゃないかと推測できます。聖書と違って、こちらはいただけません。でも、トランク同様、粘り強く「おねだり」していくつもりです。
 それらは、ふたりの交わりの深さと濃さを象徴的に示すものです。新島を義侠的に、というか自分を犠牲にしてまで助けた船長は、実に立派です。一方、そういう気持ちを相手に抱かすキャラや人柄を新島がもっていることも、事実です。これまた、立派です。どこに行っても「朋友」に恵まれる、と新島は言っておりますが、その典型的な例の一つが、セイヴォリーとの交遊です。

2011年5月31日 同志社スピリット・ウィーク春学期
今出川校地 「講演」記録

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