講演

同志社史を複眼で眺める

講演 北垣 宗治〔きたがき・むねはる〕
講師紹介 同志社大学名誉教授
敬和学園大学元学長

はじめに

 同志社スピリットとは何か。真正面からこの問題を取り上げて議論を始めることはもちろん可能ですが、議論は必然的に新島スピリットの問題に行きます。そうすると、次にはピューリタニズムを問題にしなくてはなりません。下手をすると抽象論の泥沼におちいる危険性があります。そこで私は今日、初期の同志社の歴史を具体的な形で取り上げ、抽象論はなるべく後回しにする、という作戦でいこうと思います。
 皆さんに最初に申しあげておきますが、同志社の歴史は極めて面白いものです。私は新島襄の時期の歴史が面白いと思っていますが、新島の死後の歴史もまた非常に面白い。私だけが面白がっていてはだめで、皆さんにも面白いと思ってほしいのです。今日の私の話を聞いていただいて、もし皆さんがなるほど同志社の歴史は面白いと思われたならば、今日の講義は成功、面白くも何ともないと思われたならば、失敗である、ということを前置きにして、これから始めます。

熊本バンド

 私の話の趣旨は、同志社の歴史は複眼で見るべきだ、ということです。ということはつまり、同志社の歴史を、新島襄の下で同志社を形成してきた日本人の目で見ると同時に、同じく同志社の形成にたずさわってきたアメリカ人の目でも見る、ということです。同志社は日本人とアメリカ人が協力して創ってきた学校なのです。それを日本人だけで創ってきたかのように思いこむところから、同志社史の歪曲が起こることを私は恐れています。
 皆さんは「熊本バンド」という言葉を聞かれたことがあるでしょう。熊本バンドというのは、同志社英学校が創立されたあくる年、すなわち明治9年の秋に、熊本洋学校から大挙して同志社に入ってきた若者たちを指します。その人数は30人を上回るほどもいました。彼らは一様に貧しく、頭はぼさぼさ、むさくるしい着物を着ていましたが、ハカマをはかず、足には下駄をはき、薄汚い恰好のままで今出川キャンパスを闊歩していました。彼らはバンカラであり、熊本弁まるだしでしゃべることを恥じませんでした。しかし彼らは熱心なクリスチャンであり、英語がよくでき、当時の同志社英学校のアメリカ人教師だったジェローム・デイヴィス先生が苦心して日本語で講義しようとすると、「あなたの日本語はわかりません、英語でお願いします」と言いました。
 同志社英学校は新島襄とJerome Dean Davisを教師として、明治8年11月29日に開校しました。生徒数は最初8人でしたが、6日目の12月4日には4人増えて12人となりました。その冬のうちに生徒数は40人になったとデイヴィスが書いています。入学試験をした形跡はありませんので、希望者は全員入学させたものと考えられます。このような状態の同志社英学校でしたが、明治9年の秋に今出川の地に初めての木造校舎を建て、そこへ熊本からやってきた30数人を入学させたわけです。
 熊本の若者たちは同志社に来て、その無秩序ぶりに驚きました。規律というものがなく、寮の中で酒を飲む者もいました。勉強する生徒、勉強しない生徒、いろいろな人が交じっていました。年歯のいかない少年もいれば、元警察官であったという大人もいます。目が不自由で、あんまを商売にしている人もいたといいます。熊本の若者たちはそんな同志社英学校に失望し、同志社をやめて、みんなで東京に移ることを考えました。たまたま彼らを熊本で教えたアメリカ人教師が大阪の英語学校に移ってきていたので、彼らはその先生の所に相談に行きました。するとそのアメリカ人教師が言いました。「私は君たちの東京行きには反対だ。学校が無秩序であり、規律がないというのなら、どうして君たち自身で規律を作り、それを校長に提案しないのか。それを校長が受け入れないのであれば、その時こそ東京に移ることを考えたらよい」。
 熊本の若者たちは先生の忠告をもっともであると考え、みんなで相談し、母校である熊本洋学校の制度をモデルにしながら、同志社英学校の規則を作り、新島校長に提出しました。すると新島はそれを丁寧に読み、感謝の言葉を述べてから、その提案をほとんどすべてそのまま受け入れ、実行に移しました。若者たちは新島のやり方に感心し、同志社に留まったのであります。熊本バンドというのはそういう若者たちだったのです。
 熊本洋学校において、この若者たちを単独で育成してきたアメリカ人が、L. L. Janesであります。ジェインズはアメリカの陸軍士官学校出身の砲兵大尉で、南北戦争にも北軍の将校として従軍しました。
 明治維新当時の熊本藩のことを思い起こしてみます。熊本藩は明治維新に当り、薩摩藩や長州藩に先手を取られて、くやしい思いをしていました。熊本藩は遅れを挽回するために次々に手を打っていきました。その努力の一部として、熊本藩は熊本洋学校を建て、新しい日本を建設していく若者を養成しようとしたのです。そのために、先生としてアメリカの軍人を招くことにしました。こうしてジェインズ大尉を招くことが決まり、ジェインズは明治4年の夏に、妻と子供を連れて熊本にやってきました。熊本洋学校は明治4年、同志社英学校は明治8年、ですから熊本洋学校の方が、京都の同志社英学校よりも4年古いことに注目しておきたいと思います。

宣教師デイヴィスと
ラーネッド

 ついでに申しますと、新島襄とともに明治8年に同志社英学校をスタートさせたジェローム・デイヴィスも、学生時代にリンカン大統領の呼び掛けに答えて義勇軍に応募し、南北戦争で戦い、瀕死の重傷を負いながらも功績をあげた人です。彼は義勇軍の陸軍中佐まで昇進しました。義勇軍というのは英語でVolunteer Armyであり、義勇兵はVolunteer Soldierといいます。デイヴィスは戦争終結後大学に戻り、卒業後シカゴ神学校で勉強して牧師の資格を取り、アメリカ中西部で開拓伝道に従事していましたが、自分の使命は外国にキリストの福音を宣べ伝えることである、という使命を自覚するようになり、ボストンに本部を置くアメリカン・ボードという宣教団体に志願して宣教師となり、明治3年に神戸に派遣されて来ました。新島襄がアメリカ留学を終え、宣教師として帰国して、キリスト教主義の学校を創る運動を始めたとき、アメリカの宣教師たちの中で、いちはやく新島に協力する意志表示をしたのがデイヴィスでありました。そこへ京都の有力者だった山本覚馬が学校設立に協力し、多大の困難を克服して、千年の都京都に、明治8年11月29日、同志社英学校をスタートさせました。同志社が出発できたのは新島とデイヴィスと山本の3人が協力した結果でありました。3人のうち、誰一人が欠けても、同志社英学校はスタートすることができなかった、ということを銘記したいと思います。
 京田辺キャンパスの図書館はラーネッド記念図書館ですが、この名前は、やはりアメリカン・ボードの宣教師で、同志社で半世紀以上にわたって教えたDwight Whitney Learnedにちなんで名づけられました。そのラーネッド先生は、同志社が本当に出発したのは明治9年、熊本バンドが同志社に入ってきた時であった、という意見の持ち主でした。それほどまでに熊本バンドは、いわば同志社の実体を形成した重要な存在でした。たしかに熊本バンドが同志社に来たことによって、同志社英学校は学校らしくなりました。それだけではありません。熊本バンドの若者たちはジェインズ大尉の影響を受けてクリスチャンになったばっかりに、家族から激しい迫害を受け、そのためにもはや熊本にはいられなくなった連中でした。彼らはキリスト教に深く感動し、その教えを日本中に広めることこそが、自分たちの使命である、ということを誓い合った仲間でした。彼らは同志社英学校で優秀な成績を上げ、そのうちの15人が明治12年に第一回の卒業生として卒業しました。その15人はすべて熊本洋学校から来た人たちでした。

第一回卒業生たち

 15人のうち3人が同志社英学校の教員として残りました。山崎為徳、市原盛宏、森田久万人(くまと)です。この3人を教員に加えることにより、明治12年、同志社英学校は教員態勢をととのえました。新島を校長とし、アメリカ人宣教師3人、すなわちデイヴィス、ラーネッド、ゴードン、日本人教師3人、すなわち山崎、市原、森田、この合計7人の教員態勢を取ることにし、アメリカ型のカリキュラムを決め、時間割を決めました。週1度、教員会議を開き、諸問題を民主的に処理しつつ、同志社英学校を運営していきました。教員会議の書記を務めたのはラーネッド先生で、その議事録は今日まで残っています。
 明治12年の最初の卒業生の中で、牧師として圧倒的な働きをした人が3人います。群馬県安中、すなわち新島の父祖の地に派遣された海老名弾正は、そこにキリスト教の有力な中心地を築きました。岡山に派遣された金森(かなもり)通倫(みちとも)は、岡山を中心に岡山県下に有力なキリスト教の群れを作りました。四国の今治に派遣された横井時雄は、今治に有力な教会を作りました。海老名、金森、横井は競争して働いたということができます。この3人に勝るとも劣らない働きをしたのは、東京に二つの有力な教会を作った小崎弘道と、大阪教会を築き上げて影響力を発揮し続けた宮川経輝です。なお、海老名はのちに東京で活躍しますが、東京大学の門前ともいうべき場所に教会を作り、会員に東大の教授や学生を集め、精神界の指導者としてその言動が注目されました。以上挙げた5人の牧師、海老名、金森、横井、小崎、宮川は、すべて熊本バンドの人であり、日本組合教会の中では小崎、宮川、海老名は「組合教会の三元老」と呼ばれた指導者でした。同志社との直接的な関係で言えば、以上5人のうち、小崎、横井、海老名は同志社の社長、総長を務めています。
 以上のすぐれた5人よりは少し後輩になりますが、熊本洋学校でも学んだ徳富猪一郎は、同志社英学校卒業を目の前にして、新島の奨めを振り切って同志社を中退した人ですが、20代で新進の論客、オピニオン・リーダーとして大成功を収め、同志社大学設立のために運動を始めた恩師、新島襄を助けました。ほかに熊本バンドの一員に下村孝太郎がいます。下村は他のメンバーとちがって理工系の人で、アメリカ留学ののち同志社のハリス理化学校の教頭を務め、のちには同志社の社長も務めました。また更に別のメンバーである浮田和民は言論人として名声を挙げました。同志社時代には尋常中学校の教頭を務めました。浮田はのちに早稲田大学に移り、早稲田の名物教授と言われました。

儻不羈の人たち

 新島襄の遺言の中に「儻(てきとう)不羈(ふき)」という有名な言葉があります。そのフレーズがでてくる遺言の項目を引用しますと、「同志社に於ては儻不羈なる書生を圧束せず、努めてその本性に従い、これを順導し、もって天下の人物を養成すべきこと」であります。この「儻不羈」というのは、信念と独立心とに富み、才気があって常規では律し難いという意味です。同志社は儻不羈の若者を押しつぶすことなく導いて、天下の人物を養成する学校であれかしと、新島は念願しつつ永眠しました。新島の遺言に立ち会った小崎弘道にしろ、その遺言を筆記した徳富猪一郎にしろ、儻不羈の見本でありました。新島が儻不羈という言葉を使ったとき、彼の頭の中に熊本バンドのイメージがあったと、私は想像いたします。
 このように見てきますと、同志社スピリットのなかには、熊本の青年たちの伝道精神と、更には儻不羈の精神が入っていると考えるのは当然のことです。そこで私たちは、熊本洋学校でこの青年達を育成したアメリカ人教師、L. L. ジェインズのことをもっと詳しく知る必要があります。ジェインズはいったい、どのような人だったのでしょうか?

ジェインズ大尉

 今年、熊本大学の大学院に「熊本洋学校教師Capt. L. L. Janes研究―足跡と功績」という論文を提出して、博士号を取得した女性がいます。彼女はその論文を私にも送ってきて、ぜひ読んで批評してほしいと言いました。私は2週間ほどかけてそれを精読しました。非常によく調べて書き上げた論文で、読み応えがありました。たとえば、明治4年当時、まだ鉄道がなかった時期に、ジェインズ夫妻がどのような経路を辿って熊本入りしたのか、という問題ですが、長崎まで船で来て、更に船で熊本の港ともいうべき百貫港で上陸しています。しかし港から熊本までは15㎞ほどあり、2種類の道が熊本に通じていましたが、どちらの道を通ったかということを、ジェインズ夫人の手紙などを綿密に調べて、当時の地名や川の名を克明に辿り、これまで言われてきた説がまちがっていることを証明しました。
 教師としてのジェインズは、日本語を一切拒否し、最初から英語オンリーで発音と綴りから教えていきました。しかも競争主義を導入し、毎日テストし、生徒を成績順に座らせ、毎日座席を変更していきました。熊本洋学校の生徒たちは、負けじとばかりに、競って勉強に励みました。ジェインズは、成績の悪い生徒は平気で退校させました。科目ごとの成績表が現在まで残っています。こうして1年目が終る頃になると、熊本洋学校の生徒たちはジェインズの英語による講義を理解するようになりました。ジェインズのダイレクト・メソッドは成功を収めました。こうして彼はすべての科目を英語で教えたのであります。
 3年目の頃、ジェインズは希望する生徒を日曜日、自宅に招いて、聖書を教え始めました。数人の優秀な生徒がジェインズの聖書講義に通い始め、ジェインズから精神的な刺激を受け始めました。ジェインズには母親譲りの熱狂的な一面があったようで、何人かの生徒はすっかりキリスト教を受け入れました。クライマックスは明治9年1月30日に訪ずれました。この日、熊本洋学校生徒たちのうち、キリスト教を信じた者30数人は熊本郊外の花岡山に登り、かねて用意の「奉教趣意書」を読み上げ、一人ひとり署名したのです。このなかで、彼らはキリスト教を学ぶにつれ、ぜひともこの教えを我が国に広め、人民を啓発したいと切望するようになった、その為に兄弟の盟約を結ぶことにした、と宣言しています。この「奉教趣意書」は現在同志社に保管されています。
 こうなると、息子が耶蘇になったということで、騒ぐ親が現れました。金森通倫の場合、兄から厳しい折檻をうけた上、座敷牢に入れられました。横井時雄は横井小楠という先覚者の長男でしたが、父、小楠が発足したばかりの明治政府の参与であった明治2年1月、京都の寺町丸太町下るにおいて、刺客の手にかかって暗殺されるという悲劇に見舞われました。未亡人となっていた横井時雄の母は、息子が耶蘇になったのでは、ご先祖様に会わす顔がないということで、息子に短刀をつきつけて、今すぐ自殺することを迫り、息子が拒否すると、それでは私が死ぬ、と短刀を取り上げようとして、もみあいになったといいます。しかし、すべての家で同様なことが起こったわけでなく、下村孝太郎の父は、ジェインズ先生を信頼して息子を預けたのだから、先生の影響で耶蘇になっても、それはやむを得ないと、割り切ったということです。

先生たちを苦しめる

 熊本バンドの人びとは新島先生をも容赦しませんでした。学生時代の宮川経輝は新島の新約聖書講義で、先生に先回りして注解書を読んできて、新島が言い淀んだりすると、「さて、アルフォードは何と言っていますかなあ?」と、先生をけしかけたと言います。また晩年の新島が最も頭を悩ませた問題は会衆主義(Congregationalism)に立つ組合教会と、長老主義に立つ一致教会との合同が提案されたときでした。会衆派の教会も長老派の教会も、もともとカルヴァンの宗教改革の伝統に立つのですが、教会政治の面で、組合教会は民主主義的であるのに対し、一致教会は少数の指導者による集団指導の形をとりました。新島は会衆主義の自由・自治を重んじていたので、二つの教会の合同は時期尚早であると考えていました。しかし熊本バンド出身の牧師たち、特に小崎弘道、横井時雄、金森通倫、海老名弾正らは合同を推進しようと頑張っていました。この問題ではアメリカン・ボード宣教師の間でも意見が分かれました。グリーンという宣教師は1869年にアメリカン・ボードから日本に派遣された最初の宣教師で、のちには同志社でも教えていましたが、そのグリーンとか、ラーネッド宣教師は合同の推進派、デイヴィス宣教師は合同に反対でした。この問題は新島の影響をうけた若いクリスチャンたちが反対したので、実現しませんでした。しかしもし実現していたなら、新島は同志社をやめて北海道に渡って暮らすという、悲壮な決意をしていたのです。
 儻不羈と簡単に言いますが、それはたちまち我が身にふりかかってくるほどの、きつい、厳しいことなのです。

アメリカン・ボードと
同志社の対立

 新島の死後、アメリカン・ボード宣教師たちと、新島の後継者である同志社の指導者の間で対立が生じるようになりました。同志社の歴史を眺めてみると、同志社はアメリカン・ボードという宣教団体が立てた学校であるといっても過言ではありません。形式の上では、アメリカ人宣教師であるデイヴィスもラーネッドも、新島という日本人に雇われている、という形をとりました。そうしなければ明治8年当時、デイヴィスは、日本の内陸部にある京都の同志社で働くことができませんでした。しかし、実質的には新島はアメリカン・ボードの準宣教師であり、新島の給料はアメリカン・ボードから出ており、アメリカ人教師はすべてアメリカン・ボードから給料が出ていました。新島は同志社英学校を維持するために、特にまた同志社大学を設置するために、日本人の間で金を集めなくてはなりませんでした。事実、新島が46歳11か月という若さで亡くなったことの裏には、病を押して募金運動に奔走し、ついに刀折れ、矢尽きたという事情があったのであります。
 アメリカン・ボード宣教師たちと同志社の指導者たちの対立はどのようなものであったかを説明しましょう。アメリカン・ボード宣教師たちは、同志社の周辺、つまり烏丸通や室町通、あるいは御所の東あたりの宣教師館に住んでいました。こうした宣教師館はアメリカン・ボードが宣教師たちの住宅として、建築費を出して建てたものでしたが、名目的には同志社が管理していました。その理由は、当時の日本国は外国人が日本国内に不動産を持つことを固く禁止していたからです。宣教師たちは宣教師館を自由に使うことができましたが、倜儻不羈で独立精神を主張する人たちは、名目的に同志社のものであった物件を、実質的に同志社のものであると主張し始め、どの宣教師館に誰が入るかを同志社の方で決めるべきだと言い出し、ついには同志社の所有する宣教師館なのだから、宣教師は家賃を払うべきである、とまで言い出したのです。宣教師たちがむくれたのは、当然のことであります。
 もう一つの問題は京都看病婦学校と同志社病院の問題です。新島は早くから同志社大学に医学部を創ることを考えて、その計画の中心的な役割を果たすためにJ. C. Berryという、医療宣教師の協力を求めてきました。しかし、医学部を創設することはなかなかの難事業で、新島の力をもってしても十分にお金を集めることができませんでした。新島は出来ることから手をつけることにし、先ず看護婦を養成するための京都看病婦学校を創り、そのそばに同志社病院を創りました。現在KBS京都のある場所です。それらは現在の上長者町通の南側の、烏丸通から室町通にかけての土地に建てられました。この京都看病婦学校は、看護婦の養成学校としては、日本で二番目に古いものであり、ボストンから一流の看護婦Linda Richards女史を教師として招きました。リチャーズ女史はアメリカン・ボードの宣教師として着任し、意欲的に看護婦の養成に乗り出しました。同志社病院長はベリー博士が務めました。
 このベリー先生が休暇でアメリカに帰っている間に、同志社の理事会はベリーに相談することなく、日本人の病院長を任命したのです。同志社病院の院長を任命するのに、同志社の理事会が日本人医師を任命して、何が悪いか、というわけです。しかし京都看病婦学校にも同志社病院にも、相当な金額がアメリカン・ボードからつぎこまれていましたし、これは同志社としては信頼を裏切る行為に外なりませんでした。
 アメリカのコネティカット州のクリスチャン実業家、Jonathan Harrisという人が、同志社の科学技術教育を支援するために10万ドルという、当時として破天荒な金額を寄附しました。これは新島の最晩年のことで、新島はハリスに宛てて鄭重な礼状を書いています。それでハリス理化学校という大学院レベルの学校ができ、将来の同志社大学の理工学部の基礎が築かれました。しかしこのハリス理化学校についても、同志社の理事会は主導権を握ろうとして、寄付のときの条件を踏みにじる行為に出ました。寄付者のハリス氏は、ハリス理化学校の運営を、同志社理事会の任命する3人の委員、アメリカン・ボードの任命する3人の委員を含む8人の委員会によって運営されることを条件としていました。しかし同志社はそのうちにアメリカン・ボードの委員を排除して、ハリス理化学校を同志社理事会の管理下に入れるという動きに出ました。これは大きな信託違反の行為であり、初代教頭としてハリス理化学校を指導してきた下村孝太郎は、熊本バンドの一員ではありましたが、これに抗議して教頭を辞任したのでありました。1895年5月のことであります。
 このように紛糾した事態を解決するため、アメリカン・ボードは1895年の秋に4人の調査団を同志社に派遣してきたのです。調査団と同志社の代表者たちは紳士的にやりとりしましたが、問題は一つとして解決しません。その時アメリカン・ボード側は、同志社のキリスト教はいったいどのようなキリスト教であるのか、それを聞かせて下さい、と要望しました。この質問自体が面白いと私は思います。アメリカン・ボードがなぜそのような質問をしたのでしょうか? それは、同志社はもはやキリスト教の学校ではない、という見方がアメリカまで届いていたからです。アメリカン・ボードとしては、同志社がキリスト教の学校であるが故に、それまで何万ドルという多額を寄付して、同志社を維持してきたのです。しかし同志社がキリスト教の学校でないとすれば、寄付者たちをだましたことになるので、寄附を返してもらわなくてはならない、という意識がアメリカン・ボード代表団にはありました。

キリスト教の定義

 この、同志社のキリスト教を定義して下さい、というアメリカン・ボード代表団の要求に対して、時の小崎弘道社長は「それはできません」と答えました。そして小崎はこのように補足しました。「私個人であれば、もちろん答えることはできます。しかし、同志社の社長としては答えられません。なぜなら、もし私が同志社のキリスト教はこういうものである、と答えるならば、その考え方に賛成できない教員たちがそれに抗議して同志社を辞めるであろうからです」。皆さんは、この問答の背景がお分かりになりますか?
 問題は福音主義をめぐる論争でありました。キリスト教は伝統的に三位一体という考え方を奉じてきました。父なる神、子なる神、聖霊なる神は三つであるが一つである、という教義です。特に、イエスはすべての人間の罪を一身に負うて、十字架上の死を遂げた。このイエスを救い主として信じることを通してのみ人間は救われる、という使徒パウロの考え方が福音主義の基本なのです。イエスこそはキリスト、すなわち救い主であるというのです。このようなキリスト教の教義を扱うのが神学という学問であり、アウグスチヌス以来、何人もの神学者があらわれました。ところで新島襄やデイヴィスが教えた神学は、アメリカのNew Englandに伝えられてきた神学でありまして、それはしばしばピューリタニズムの神学と呼ばれるものでした。ピューリタニズム神学にはいろいろな流派がありますが、中心にはしっかりと福音主義がありました。アメリカン・ボードはこのニュー・イングランドの神学に固く立つ団体でした。
 しかし19世紀のなかば頃から、福音主義に批判的な新しい神学がドイツで起こり、それがだんだんと勢力を拡大し始めたのです。神学もまた自然科学の影響を受け始め、科学的に厳密な学問であることをめざしていきました。聖書という書物を、神の言葉を記した神聖な書物としてでなく、厳密に、分析しつつ批判的に読むといういとなみが始まりました。そうすると、新約聖書に記されているいくつもの奇蹟をどう解釈するのかという問題が出てきました。イエスを神の子と信ずることはできない、と主張する神学者も現れました。そこへもってきて、イギリスの生物学者Charles Darwinが19世紀の中ごろに進化論を提唱し、旧約聖書の最初のところに記されている植物・動物や人間を神が創ったという説を間接的に否定いたしました。哲学者ニーチェは、「神は死んだ」と公言しました。
 熊本バンドの学生たちが同志社で学んでいたとき、彼らには宣教師の神学が古臭いものに感じられたといいます。一例を挙げれば、同志社英学校のごく初期に、Edward T. Doaneという宣教師の先生がいて、旧約聖書を教えていました。あるときドーンが創世記に記されている天地創造は紀元前4004年のことである、と言ったとき、熊本バンドの学生はげらげら笑い出したといいます。小崎弘道らは熊本洋学校時代にジェインズから旧約聖書について学んでおり、従来旧約聖書の最初に置かれている「創世記」「出エジプト記」「民数記」「レビ記」「申命記」はモーセの五書と呼ばれてきたけれど、著者はモーセではない、ということをジェインズから聞いていました。小崎の証言によると、ジェインズは新しい神学のことも勉強していたようです。熊本バンドの人たちはデイヴィスの神学もまた古いと感じていました。ただラーネッドの聖書神学について、熊本バンドがどのように反応したか、私は掴んでいません。
 デイヴィス宣教師がしばしば洩らした不満は、同志社の卒業生たちがアメリカの大学に留学すると、必ず新しい神学にかぶれ、福音主義を捨てて帰ってくる、ということでした。熊本バンドの中でも、横井時雄や海老名弾正や浮田和民が早くから新しい神学に傾いていました。金森通倫も同様でしたが、彼は妻を病気で失ってから急にかつての福音主義に復帰した顕著な例です。私は下村孝太郎のエッセイをいくつか読んだことがありますが、彼の科学者としての精神は、キリスト教の新神学に親近性を感じていたことは明らかです。
 このような状況を背景にして考えると、新島亡きあと同志社を代表していた小崎社長が、アメリカン・ボードの代表に向って同志社のキリスト教を定義すると、リベラルな浮田和民を初めとして何人かの教員が同志社を辞任する可能性があったことは、事実であろうと考えます。結局アメリカン・ボード代表団は成果を得ないで帰国し、交渉の結果を詳細なレポートとして公表しました。これに対し、同志社の指導者たちはこの公式レポートに対する痛烈な反論を発表しています。
 1896年の夏、アメリカン・ボードと同志社の関係がここまでこじれてしまった同志社にもはや宣教師がとどまることは意味がないということになり、宣教師であるアメリカ人教員は同志社から一斉に引き揚げました。同時に、それまでアメリカン・ボードからきていた助成金がこなくなり、同志社はたちまち財政的にピンチにおちいりました。

関係断絶後の同志社

 小崎社長は何とか同志社の現状を立て直したいと、あらゆる努力を試みましたが、成功しません。理事たちの間で、小崎社長のなまぬるいやり方ではだめだという声がささやかれ始めます。小崎社長が次年度の予算を理事会に提出した時、理事会はそれをあっさりと否決しました。それは社長の不信任案を通過させたのと同じことでした。小崎自身は、これは自分を追い出すためのクーデターであると感じました。彼は今まで力を合わせてきた同志たちに裏切られました。彼は見送る人も殆どない状況で、家族をつれて京都駅から東京行きの汽車に乗って、悄然として京都を去っていきました。
 小崎社長のあと、同志社の第三代社長になったのは横井時雄でありまして、この人も熊本バンドの一員でした。1890年代といえば、1894年から95年に日清戦争が起こり、その10年後に日露戦争が起こるという時期でしたから、日本は軍事力増強のために、さまざまな施策を実施していました。日本国民は男子であれば、兵役に服する義務があったのです。しかし官立・公立の学校の学生には徴兵延期または徴兵免除の特権が与えられていました。同志社は私立であったため、その特典がありません。そのため同志社には学生が集まらなくなりますし、在学生も退学して、官立・公立の学校に移る者が続出しました。文部省は特にキリスト教主義の学校に対して圧力をかけてきたのです。対策として横井時雄新社長は同志社の憲法である通則に一部変更を加え、同志社があたかもキリスト教主義ではないかのように読める文言に変更しました。これは、この通則が作られた時、変更してはならないと規定していた部分の変更であり、従ってゆゆしい変更であったわけです。
 これに対していち早く抗議の声を挙げ、同志社がキリスト教の看板を下ろしたとして、信頼を裏切ったことをきびしく非難する声明を新聞に発表したのは宣教師のジェローム・デイヴィスでした。同志社の卒業生もこの問題をめぐって賛成派と反対派の二派に分裂しました。内村鑑三は同志社の堕落を、口をきわめて非難攻撃しました。

訴訟問題

 そこへもってきて、もう一つの深刻な問題が起こりました。アメリカン・ボードは、同志社が信頼を裏切った以上は、いままでの寄付金を返還せよ、そのためには訴訟も辞さない、ということになりました。アメリカン・ボードはかつて横浜でアメリカ総領事を務めたニコラス・マッキーヴァーという人に全権を依頼しました。マッキーヴァーは日本に到着するとすぐ、大隈重信総理大臣に会って、自分の目的を伝えました。彼は駐日アメリカ公使とも密接に協力し、しかも当時一流の弁護士である増島六一郎という人を確保して着々と訴訟の準備を進めていきました。大隈総理は、同志社の問題にひどく心を痛めました。その背景はこういうことです。同志社に対するアメリカン・ボードの訴訟が公になると、必然的に日本国がキリスト教学校を圧迫しているという事実が明るみに出ます。明治政府ができて以来、幕末に徳川幕府が米英露仏蘭等との間に締結した不平等条約の改定は、歴代の政府の最重要課題でありました。不平等条約を改定するために、寺島宗則、井上馨、青木周蔵、陸奥宗光、小村寿太郎といった外交官、外務大臣の払ってきた努力は実に涙ぐましいものでした。ようやくその努力が実を結び、不平等条約は徐々に改定されていきました。このように外国との関係に日本政府がぴりぴりしていた時期に、同志社問題が起こったのです。日本の相手国としては、キリスト教学校を圧迫するような国とは平等につきあえない、従ってこれまでの条約を改定するわけにはいかない、と言い出すことがあれば一大事だったからです。マッキーヴァーが大隈総理に会って、同志社が犯した信託義務違反のことを説明したとき、大隈は身もだえし、この問題をどうかぜひ法廷に持ち出さないでいただきたい、と要望しました。同志社の問題で身もだえするほど苦しんでくれた総理大臣は大隈重信だけです。
 大隈は横井社長を呼んで、和解することを強くうながしましたが、それはとうてい無理でした。文部省もまた、文部省の立場から同志社問題を真剣に検討したことが記録に残っています。訴訟は開始の一歩手前まできていました。マッキーヴァーは作戦として、同志社理事会全体を相手取るのでなく、個々の理事を相手取るという作戦に出ました。理事会全体が相手であれば、同志社として公金が使えますが、個々の場合はそれができないだろう、との読みからです。アメリカン・ボードにあれほど頑強に抵抗してきた同志社の理事会でしたが、大隈総理からきびしく要請され、内村鑑三からは徹底的に叩かれ、商業新聞からも非難され、校友会がまっぷたつに分裂した状況で、もうこれ以上進めなくなりました。1898年12月28日に同志社の理事会は、全員が総辞職しました。アメリカン・ボードが勝利しました。しかしそれは苦い勝利でした。なぜなら、アメリカン・ボードには、理事全員の総辞職後の、いわば戦後処理と同志社を再建するための義務が残されたからです。(私にはアメリカがイラク戦争やアフガニスタン問題の後始末に手を焼いてきた状況が思い出されてなりません。)

同志社の再建

 1899年、同志社の戦後処理で最も目覚ましい働きをしたのはデイヴィス宣教師でした。彼は新島襄とともに同志社を創った人でしたから、このまま同志社をのたれ死にさせることはできませんでした。横井時雄社長が変更した同志社憲法の条文は元にもどされました。しかし、横井のあと誰を社長にするか、の問題がありました。宣教師たちのなかにはデイヴィス自身こそが同志社の社長にもっともふさわしいと考えた人もいました。今までの歴史から眺めると、それももっともな考え方です。しかしデイヴィスは、アメリカン・ボードが同志社を占領するかのような印象を世間に与えてはならない、同志社の社長は日本人であるべきだ、と確信していました。小崎弘道は社長に帰り咲くことをねらっていましたが、デイヴィスは小崎が社長になれば、もとの黙阿弥になるだけだと考え、面と向かってそれに反対しました。熊本バンドからは、結局下村孝太郎が宣教師たちの支持を得て、短期間の臨時社長を務めますが、デイヴィスはクリスチャンで衆議院議長であった片岡健吉こそが社長にふさわしいと考えました。片岡は土佐の出身でした。
 片岡はデイヴィスからの要請を受けて、同志社の社長を引き受ける気になりましたが、小崎弘道が、片岡が組合教会員でないことを理由に、反対を唱えました。やむをえず片岡は自分の同志で、やはり土佐の出身である、西原(さいばら)清東(きよき)を推しました。こういうわけで、組合教会員であるけれども、同志社の出身ではないクリスチャン衆議院議員の西原が同志社の四代目の社長となったのです。
 『同志社百年史』を見ますと、西原清東という、同志社からすればよそ者が、なぜ同志社の社長になったのかということが、どこにも説明されていません。それを説明するには、今日私が皆さんの前に描いてみせた、アメリカン・ボードと同志社の不幸な軋轢のことを考えなくてはなりません。熊本バンドは独立心が旺盛で、儻不羈の人びとでした。
 この間ずっとアメリカン・ボードの宣教師たちはボストンの本部にあてて同志社のことを詳細に報告しています。ボストンの本部は京都から送られてくる複数の宣教師からの手紙を読み比べながら、状況を把握する、という方策を取っていました。それらの手紙は現在すべてが残されており、読むことができます。西原社長は何とか3年間社長を務めましたが、3年たつと辞任して渡米いたします。その尻拭いをする形で、片岡健吉衆議院議長が第五代目の社長になりますが、1年たつかたたないかで、病気であっという間に亡くなります。そのあと下村孝太郎が第六代社長になり、社長がいなくても学事が進むような態勢を作ってから、2年で辞任します。日本は日露戦争に突入し、下村は品質のよいコークスを作ることに成功しましたから、日本政府は軍需産業の面で下村のすぐれた手腕を必要としたのでした。そしてそのあと原田助(たすく)第七代社長が登場して同志社に和解をもたらし、同志社はようやく安定期に入ります。しかし、そのあたりの面白い歴史をお話しする時間はもうありません。
 同志社の基礎が定まるまでの嶮しい道のりは、日本側の資料とアメリカ側の資料をしっかりと調べてみないと、真実はなかなかつかめません。私は、同志社史を複眼で読まなくては理解できない、ということを最後に強調して、この話を終ります。
 ご清聴有難うございました。

2012年5月29日 同志社スピリット・ウィーク春学期
今出川校地「講演」記録

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