講演

私と同志社と尹東柱(ユンドンジュ)

講演 徐 正敏〔そ・じょんみん〕
講師紹介 明治学院大学客員教授
元韓国延世大学校教授
博士(神学・同志社大学)

 皆さん、こんにちは。今私は、同志社大学の後輩の皆さんに会えて、こういう時間に話をすることができて、うれしくて胸が一杯です。私にとって同志社大学は、卒業しただけではなく、本当にいろいろな思い出がある大学です。今日は同志社大学今出川キャンパスにある尹東柱の詩碑についてお話をしたいと思っております。テーマが三つあります。私と尹東柱と同志社。一つひとつが全部大きい内容ですが、まず尹東柱の話からしていきたいと思っています。

韓国においての尹東柱

 尹東柱は、韓国の詩人です。現在、今出川校地にある尹東柱の詩碑は「コリアの詩人・尹東柱」と書いてあります。韓国と北朝鮮を含めて一つの単語にするために英語を借りて「コリアの詩人」としています。私は韓国出身ですから、韓国の詩人だと言ったのですが、それは半分の表現ですね。
 尹東柱は、韓国では有名な詩人です。一人の文学評論家が、韓国の20代の若者たちにアンケート調査をしました。「韓国の詩人のなかで一番好きな詩人を3人書いてください」。
 韓国の若者の大部分は3人中の1人が尹東柱の名前をあげています。そして「あなたが覚えている詩は誰の詩ですか」という質問に対して95%以上の人が尹東柱の詩を覚えていました。「どうしてあなたは尹東柱を好きになったのですか」という問いには、「彼の詩が感動的だから」、「彼の生涯、彼の人生、彼の若さ、彼の笑顔、彼の心が好きだから、彼が好きだ」という答えが返ってきました。尹東柱という人は、特別な人物です。すばらしい詩人とか、すばらしい詩を書く文学者というより、彼は、韓国の若い人びとにとって、永遠の恋人というイメージのある人物です。

尹東柱の渡日と同志社

 尹東柱は1942年、日本に留学して、10月に同志社大学文学部文化学科英語英文学専攻(現在の文学部英文学科)に入学しました。約1年勉強している間に思想がよくないということで日本の警察に捕まりました。最後には福岡刑務所で、終戦の直前、1945年2月16日に亡くなりました。彼が亡くなったことについても、まだ歴史的な議論があります。彼は30年に満たない人生を終えました。27歳で亡くなりました。そういう短い一人の人間、一人の詩人、彼は、自分が韓国で有名な詩人になることなど、知りませんでした。本も一冊も出ないまま亡くなりました。友だちに出した手紙、ノートに書いた詩だけです。今も気になるのは警察で自分が韓国語で書いた文章を日本語に翻訳していたという記録はあるけれども、そういう原稿は、まだ発見されていません。それが発見されたら彼の作品は、もっと多くなるかもしれません。日本の警察がそれをなくしたかもしれない。まだ発見されていません。彼の詩は、鄭炳昱(ジョンビョンウク)という彼の友だちに渡ったノートの中にあるものが全てです。

尹東柱と私

 韓国の普通の若者たちが好きになるように、私も子どものころから、尹東柱が本当に好きでした。尹東柱の詩を覚えたり、読んだり、彼に関するいろいろな本を読みました。どうして尹東柱がこんなに好きになったのか。尹東柱を見るとパラドキシカルな感じがします。日本語で正しいかどうかわからないけれども、苦難の美学、美しいけれども、とても寂しい。とても悲しい。彼の詩もそうですが、彼の人生もそうです。私は、いつも尹東柱のことを講演するとき、彼は歴史的障害をもっていた人だと言っています。彼の詩に出てくるいろいろな言葉が、彼が生きていたあの時代、日本の植民地下の韓国です。そういう時代を生きた敏感な人、センシティブな人が感じた歴史的な障害があった。
 私は2歳の時、小児麻痺で障害が残りました。今もあります。今は大分、よくなったのです。はじめはベッドで動くことができない状態でした。頭のなかで考えても身体は動けない、そういう障害を通して、自分の心が、尹東柱の心と重なり、自分に重ね合わせて感じていました。

尹東柱と延世大学

 原先生が紹介してくださったように私は延世大学出身です。韓国では有名な私立大学が二つあって、一つは高麗大学、もう一つは延世大学です。高麗大学出身と延世大学出身では、人間性が違うというくらいにライバル大学ですが、私が延世大学を選んだのは尹東柱のためです。尹東柱は延世大学出身です。4年間、学部で勉強しました。延世大学には同志社大学にある詩碑のずっと前から、尹東柱の詩碑があります。延世大学で一番有名な場所です。今も延世大学に入りたい人たちは、「私は必ず延世大学に行く」と、尹東柱の詩碑の前で約束をします。なぜかというと、それは尹東柱の出身だから同じ大学に行きたいということですね。専攻はいろいろあって、私は神学を勉強しました。今も韓国の若い人びとから我々の世代まで、尹東柱を兄といいます。尹東柱先生ではないのです。生きていたら歳は90歳以上ですが、今も韓国の若者たちは「尹東柱兄」と言います。そういう親密感があります。私の高校の同級生が「あなたはどうして延世大学に決めたの」と尋ねてきたので「尹東柱兄のためだ」と答えました。それくらい私の心のなかでは、尹東柱が本当に忘れられない人になっていたのです。理由は彼の歴史的な障害が、私の心に痛かったからです。歴史的障害というのは、私がつけた言葉ですが、私個人の障害がそれにオーバーラップして、それだけではなく、その障害を通じて、それを克服することも尹東柱から学んだのです。

尹東柱の笑顔

 尹東柱の研究家たちが調べたところ、彼の顔が出ている写真が40枚くらい残っていることがわかりました。一枚の写真は延世大学で撮った写真です。同志社時代の写真もあります。その写真のうち20枚以上見たのですが、必ず笑顔です。彼の顔には、苦しみや、苦難の顔がない。いつも笑っている。笑顔です。彼が書いた詩は、苦しみ、苦難、悲しみのなかにいるのに、彼の顔は明るい。尹東柱を好きになったから私も、いつも笑顔でいるようにしています。苦しいとき、心が痛いとき、笑う。泣くより笑う。それが幸福の一つの方法だと思っています。私の心が、尹東柱から受け入れた方法です。

尹東柱と私の信仰

 実は私は、高校時代まで両親がクリスチャンで教会に行っていましたが、教会が大嫌いだったのです。クリスチャンが大嫌い。いつも、いつもキリスト教に対して反対でした。さらに、母が私にいつも「あなたが今、他の人と違って、いろいろな苦しみ、障害、悲しみをもっているのは神様が特別にあなたを愛しているからだ」と言う、母の信仰。それが大嫌いでした。なぜ愛している者に、神様は苦しみ、悲しみを与えるのだと。信じても、愛している人に、苦しみ、苦難を与える。これが理解できなかったのです。愛していたら、苦しみを与えないはずだとそのときは思っていました。しかし、高校時代に尹東柱の詩を読んで、考え方が変わりました。彼の詩に出てくる最後の希望、歴史的な苦しみ、歴史的な苦難のなかで唯一の希望は十字架だった。苦難をもっている人びとの最後の希望は十字架にあると書いていました。ああ、そうなのか、最後の幸福、私の実存の最後の希望は十字架にあるのだと。そのとき、尹東柱と私とイエスがつながりました。彼も歴史的な苦難のなか、十字架を最後の希望にかけました。私も私の実存的な苦難を最後に十字架にかけるのだと決心しました。
 私は延世大学に行こう、尹東柱の後輩になろうと決めました。尹東柱が希望にかけた十字架を、私も受け入れて、これから神学を勉強しようと神学部に進学したのです。この話は、同志社大学の後輩の方には初めて話しました。延世大学では秘密にしていました。
 今、告白しますが、実は神学を勉強したのも尹東柱からの影響です。

私の尹東柱研究

 大学で私は、キリスト教の歴史を勉強しました。普通、韓国でキリスト教の歴史を書くときは、人物研究でも偉い牧師先生、神学者、キリスト教宣教に大きな貢献をした人たちを研究します。私はキリスト教史の人物として尹東柱を研究することにしたのです。私は最初の本を書いたとき、キリスト教史的な観点から尹東柱の思想、尹東柱の詩、尹東柱の生涯をまとめることを一つの重要なテーマにしました。
 尹東柱に対する研究をしているうちに、具体的な機会が訪れました。原先生も先ほど紹介してくださいましたが、1990年から1992年春まで私は同志社大学に留学し、勉強しました。どうして私が同志社大学に留学したか。第一は、2008年に亡くなられましたが、土肥昭夫先生がいらっしゃった。原誠先生の先生であり、私の先生であるけれども、土肥昭夫先生は日本のキリスト教の歴史についての第一人者です。土肥先生のもとで勉強したいという目的がありました。第二に、尹東柱が同志社大学に留学していたからです。彼は、延世大学を卒業して日本に留学しました。はじめは東京にある立教大学に行きました。立教大学で勉強し、その後、同志社大学がもっているキリスト教主義に関心をもっていて、京都の同志社大学に移ったのです。同じとき彼の従兄の宋夢奎(ソンモンギュ)も京都大学で学んでいました。尹東柱が最後の人生を終えたのが、同志社大学時代です。私は、日本に留学するとき、尹東柱のあとを追って行くというくらいの気持ちで同志社大学に来たのです。私が延世大学に進学したのは尹東柱のおかげ、それ以後、日本に留学して同志社大学に来たのも尹東柱の影響を受けたということです。

私の京都留学

 1989年10月には、日本に来て、日本語学校で日本語を勉強していました。そのとき、尹東柱が歩いていたと思うところを探して散歩をし、哲学の道や、御所と今出川キャンパスの間、鴨川など歩いては、いつも尹東柱のことを考えていました。彼がこの道を歩きながら何を考えたのかなという気持ちでいっぱいでした。警察に捕まって拷問を受けて苦しみを受けて、彼が泣いて、笑った痕跡を訪ね歩きたいと思いました。
 でも当時、本当に残念だと思ったのは、私にとっては、そういう重要な尹東柱の痕跡、尹東柱のにおいがする大学なのに、同志社には尹東柱の痕跡は全然なかった。土肥昭夫先生の研究室に行ったのが1990年5月でした。先生に「君は何を書くのか、発表するテーマは決めたのか」と尋ねられ、「テーマはまだ決めていないけれども、他に相談することがあります。先生、同志社のどこにも尹東柱が、ここで勉強した痕跡、においがするものが全然ないのです。尹東柱がこの学校にいたという証(あかし)を、同志社大学のキャンパスのどこでもいいから、残していただけませんか」と答えました。日本では、あまりはっきり、イエス・ノーを言わない。夏休み前にもう一度先生に会って「前にお伺いしたのですが、いかがですか」と尋ねると、先生は「今すぐに自分が決めることができない。同志社を卒業したいろいろな人が、自分が研究したところに証をつくってしまうことになるので難しい」と言われました。

尹東柱勉強会

 そこで、いろいろ別の方法を考えてみました。当時、韓国の留学生が、同志社大学の学部と大学院に、50名から60名くらいいました。彼らの何人かに尋ねました。「あなたたちは、尹東柱をどう思いますか」。彼らも韓国の若者たちですから、全員、尹東柱が好きでした。「彼がこの大学で勉強したことは知っていますか」。半分くらいは知っていました。「あなたたち、尹東柱が同志社で勉強した証を見たことがありますか」。みんな見たことがありませんでした。「我々は、同志社大学の尹東柱の後輩になるのだから、これから尹東柱勉強会をつくろう」と提案しました。最初3、4人が集まりました。その後、在日の同志社で勉強する留学生と日本人の友だちが何人も加わり増えていって、10名くらい集まりました。休みのときは別にして毎月2回、学生会館や食堂、天気がよいときは、今の尹東柱の詩碑がある場所にも集まりました。尹東柱に対して自分たちが考えたことを話し、尹東柱の詩をハングルで読んで、尹東柱の詩集は日本語に翻訳されて出版されていましたから、それを読んだりしました。私が中心的に尹東柱の紹介と彼のキリスト教について発表しました。彼らと勉強するために尹東柱の本を読んで、いろいろな資料を探しました。その勉強会の内容をまとめたのが、最初の私の論文『尹東柱とキリスト教』です。勉強会はずっと続けました。人数の少なかった年もあります。勉強会が終わって、東九条に行って飲んで、食べて、それが楽しみで来る人もいる。彼らのなかの一人が、後に後継者になる。勉強会は、1992年まで、不定期的ですけれども、続きました。

尹東柱と韓皙曦先生

 同志社大学神学部出身の在日の方で、韓皙曦(ハンソッキ)先生がいました。先生は尹東柱と同じ年代です。彼は戦前に同志社大学神学部で勉強して、尹東柱には一度も会ったことはないけれども、同じ時期に同志社キャンパスを通ったかもしれない。日本キリスト教団の長老になられたのですが、彼も歴史研究家で、同志社大学で博士号も取得されています。私が留学したときに、身元引受人になってくれました。私が尹東柱勉強会をやるのを彼は知っていて、「あの時、同志社今出川キャンパスのどこかで尹東柱と自分の腕がぶつかるようなことがあったかもしれない」という思いをもっていて、自分が尹東柱勉強会をもっと大きくして尹東柱のために何かをしたいとおっしゃってくださいました。そういうことから1991年12月、同志社での留学生活を終えて、韓国に戻ろうとするとき、私の最初の本を先生の研究機関での日韓キリスト教史研究会のメンバーたちと協力して、私の書いた本を日本語に翻訳し出版していただきました。尹東柱のほかに、韓国の8名のキリスト者たち、彼らの人生やキリスト教思想について書いたもので日本基督教団出版局から出たのです。その機会に、韓皙曦先生が、徐正敏の本を日本語に翻訳して出版したから記念会をやろうと京都駅の八条口近くにある新都ホテルで出版記念会を開いてくださいました。そこには尹東柱勉強会に参加した若者たち、キリスト教史を研究する仲間たち、土肥ゼミの学生たち、同志社同窓会のなかで韓国の在日の人びとが集まってくれました。先生の影響力で100名くらい集まりました。出版記念会で、韓皙曦先生が組織をするということで「コリアクラブ」をつくろうという話になりました。創立式は別の日ですが、成案ができたのは出版記念会でした。そして同志社校友会コリアクラブとして、先生が多くの費用を出してくださり、それをベースに、韓国の在日の同志社出身の人びとが、活発に活動しました。その第一目標は何か。「同志社大学の中に尹東柱の詩碑を建てる」ということです。当時コリアクラブの幹事は朴世用(パクセヨン)でした。彼は当時同志社の社会福祉学科博士課程におり、彼が中心になって幹事をやりました。尹東柱研究会の初期のメンバーです。はじめ彼は、尹東柱のことはあまり好きではなく、関心もなかったけれど、勉強会が終わったら、おいしいものを食べてマッコリを飲む、それが楽しいから参加していました。でもその後、彼が中心になって尹東柱記念の仕事をやるようになりました。彼が幹事、私は韓国にいて連絡をしながら、コリアクラブの仕事をしていました。第一の課題は詩碑の建設です。

尹東柱と同志社の
コリアクラブ

 1992年にスタートして、1995年2月16日、尹東柱が亡くなって50年になります。その日に詩碑を建てようという目標を立てました。いろいろなことがうまくいって、コリアクラブが、同志社大学の総長、理事長、学長に会って提案し、承諾を得ました。もう一つありがたかったのは、延世大学にある尹東柱の詩碑は縦長な形なのですが、その設計者は建築家の尹東柱の弟だったことです。その設計を延世大学が受け入れて建てたのですが、彼が設計するとき、二つ案をつくってあった。もう一つ横長な形の設計図が残っている。彼と連絡ができて、朴世用が彼を訪ねて設計図をもらったのです。延世大学にある尹東柱の詩碑の設計者と同志社にある尹東柱の詩碑の設計者は同じ人物です。尹東柱の弟です。彼が、ソウルでその設計図を持って私の研究室に来て、2人で喜びました。彼は日本に帰って、同志社のなかで、うまく話をして、場所も決まりました。詩碑ができる。どういうふうに置くか、コリアクラブが相談して進めていきました。1994年頃には、完成する予定だと聞きうれしかったです。しかし問題が起こりました。詩碑を「韓国の詩人・尹東柱」にするか「朝鮮の詩人・尹東柱」にするかで揉めたのです。在日には、韓国国籍の人びとと、朝鮮国籍の人びとがいます。私だけの夢ではなくて、いままで尹東柱の詩碑を立てるために努力してきた人びと皆の夢なのに、朝鮮半島の分断で、寸断されて、できないかもしれない。不安な気持ちで手紙を書きました。「二つの方法がある。一つは国籍を書かないで、そのまま詩人・尹東柱でいきましょう。どんな国籍もない。それが一つの方法。もう一つは、これから朝鮮半島はいつか統一ができるかもしれませんから、その時までは他の言葉で、コリアの詩人・尹東柱にしましょう。それは一時的で、統一の時まで、という条件をつけます。同志社の尹東柱詩碑はコリアクラブが約束したのだから、統一したときには、その国の名前で、もう一度書くことにしましょう」ということを提案したのです。それを、同志社大学の同窓会の韓国国籍、朝鮮国籍の人も全部受け入れて、そこまで配慮をもってようやく「コリアの詩人・尹東柱」でいきましょうということで完成しました。

同志社の尹東柱の詩碑

 最後の返事がきました。「コリアの詩人で決まりました。両方が支持しました」と。うれしかったです。1995年2月16日、尹東柱没後50周年に同志社キャンパスに尹東柱の詩碑ができました。当日に、本当は行きたかった。いろいろ事情があって、詩碑を建てて数カ月後の3月に、私一人で同志社に来ました。土肥昭夫先生もその事情をご存じですから、先生も喜んで、尹東柱の詩碑の前に行きました。7、8時間ずっと、そこにいました。私一人で、笑って、泣いて、笑って、泣いてという経験をその時にしました。
 あの時、私にとって自分の人生、自分の歴史に対する愛情、いろいろなものが複雑に関係する尹東柱の詩碑が同志社にできたということで、自分の人生の一つの目標が達成できたという、うれしさがあったのです。そういう感激を自分の周りの何人かには簡単に報告しましたが、公の場では初めて申しあげます。尹東柱の詩碑に関して、発起人は私ですと申しあげる気はございません。それは、誰が言ってもいい。誰が中心になったと言ってもいい。私には同志社のなかに尹東柱の詩碑があることだけで、うれしいです。

同志社と鄭芝溶

 次に鄭芝溶(チョンジョン)についてお話しします。彼も同志社大学出身です。私の妻は延世大学の文学部国文科出身です。彼女の専門は韓国詩です。尹東柱の研究をしているときは、彼女にも助けてもらいました。妻が私に「韓国で1位、2位の詩人の出身が、2人とも同志社出身です。同志社は詩と関係がありますか。不思議ですね」と言っていました。確かに何かあるのかもしれない。また、これも不思議なことですが、私は明治学院に勤めておりますが、李光洙(イグァンス)と金東仁(キムドウイン)という韓国の1位、2位の小説家が明治学院出身です。日本でいえば夏目漱石のような小説家です。コリアクラブを、東京でもう一度、組織しなければならないですね。
 鄭芝溶も人生の苦しみがあった。彼はクリスチャンではないけれども、同志社大学出身です。彼は朝鮮戦争のとき、強制的に北朝鮮に連行されました。我々が中高時代、韓国の詩について勉強したとき、鄭芝溶のことは勉強できませんでした。鄭芝溶の詩を読むこともできませんでした。あの厳しい反共の時代では北朝鮮に強制的に拉致されてしまった人のことを研究すると、それは共産主義になるということでできなかったのです。鄭芝溶の詩を読むことができたのは1985年以後です。文学史、歴史的には鄭芝溶の詩は文学的に高い評価を受けています。専門家の妻の話では「尹東柱の詩と鄭芝溶の詩は比較ができない」、「尹東柱が上ですか」「その反対です」。びっくりしました。私は尹東柱の詩が最高と思っていたのですが、韓国の専門家の間では鄭芝溶の詩は文学的レベルでは上であると、そう言います。1980年代以降、鄭芝溶の詩を韓国人が自由に読むことができるようになって、現在でも鄭芝溶の人気は高い。『鴨川』という詩があります。京都で書いた詩です。今、尹東柱の詩碑の隣に詩碑があります。鄭芝溶の詩碑まで同志社にできたのです。

京都の名所尹東柱詩碑

 同志社が尹東柱の詩碑をもっていることは、韓国の若者たち、韓国の苦しみ、歴史をもっている韓国の人びとの心を、同志社がもっているということです。同志社の真ん中に韓国の心があるということです。旅行会社関係の仕事をしている後輩がいて、彼は、京都、大阪、奈良などの関西地域の旅行プランを立てるとき、いままでは京都の案内に、同志社大学を入れていませんでした。歴史的な場所、寺や神社ばかりだったのです。しかし、今はどの旅行会社のプランのなかにも、同志社大学の尹東柱の詩碑の見学を入れているそうです。皆が写真を撮っていく。尹東柱の詩碑が同志社大学の中にあることを、韓国で有名なテレビ番組がとりあげて以降、同志社大学は韓国の若い人びとがよく知っている日本の大学になりました。延世大学の学生たちは100%、同志社大学を知っています。「どうして知っているの」と聞くと、「尹東柱の詩碑があるじゃないですか」と言うくらいです。現在も、皆さんと同じ世代の韓国の若者に「あなたは詩人のなかで、歴史的な人物のなかで、誰が好きですか」と聞くと、必ず、尹東柱が出てきます。今も第1位です。詩人のなかでは無条件に1位です。
 なかには、韓国の詩人の詩碑が、どうして同志社の大学のキャンパスの中にあるのか、不思議に思う学生がいるかもしれません。でも、尹東柱から説明できるのです。戦前の韓国と日本の関係、尹東柱がいたからこそ、新しくできた日韓関係があるのです。その真ん中に同志社がある。もちろん同志社で尹東柱が勉強したという歴史的事実から生まれたものですが、それで詩碑ができ、尹東柱が最後まで若い命をかけた希望を、後世に広く伝えることができるのです。

尹東柱と韓国の近代史

 尹東柱の思想、詩、文学は、そのまま韓国のキリスト教の歴史です。韓国のキリスト者がなぜ、30%近くいるのか。日本はどうして1%なのか。私は今、そのようなことを研究しています。現在は違いますが、戦中の一時期、日本人は、クリスチャンになると「非国民」と言われていました。日本の歴史と韓国とは大きな違いがあります。韓国のクリスチャンは民族を愛することでした。民族の未来の希望、唯一の道が、キリスト教だったのです。それが尹東柱の詩に表現されています。尹東柱を研究してキリスト教史を勉強した私にとって、尹東柱の詩がそのまま韓国の戦前のキリスト教の歴史だったと言えます。今の韓国のキリスト教は、民族キリスト教とは言えない。韓国の民族主義はあまり良い状況とは言えません。

韓国の民族主義と尹東柱

 戦前の韓国の民族主義は苦難の民族主義です。十字架の民族主義です。今、韓国の民族主義はちょっと危ない。資本主義的なものになっている。韓国より苦しみがある他の国に対しても、いろいろな悪影響を及ぼしています。今の韓国の民族主義を、私は支持しません。でも苦難の時代、韓国が植民地の時代を生きていたとき、韓国の民族主義は、攻撃的な民族主義とは別の弱い実存をもった民族主義でした。自分たちを守るための民族主義です。あの時代の韓国のキリスト教も、そういうふうに説明できるということです。そういうイメージは今もあります。韓国人としてクリスチャンになるのは、韓国の社会では、本当に良いことです。いろいろな理由、説明もできるけれども、日本と韓国のキリスト教の宣教の結果、社会的評価が違ったということは、歴史的な背景からも説明できます。

尹東柱とキリスト教

 尹東柱は満州(現在の中国東北部)の明東村(ミョンドン)で生まれました。国境に近い地域です。10年前、1週間ほど行ったときに尹東柱の通っていた明東小学校と教会を訪問しました。明東小学校は、当初、ソウルの尚洞(サンドン)教会の中にある尚洞学校から、キリスト教主義であればOKだという条件で先生が一人派遣され、創立されました。そこからキリスト教教育が始まりました。尹東柱は生まれた時からキリスト教の雰囲気、キリスト教と民族を愛する雰囲気のなかで育ったのです。その後、日本に留学し、京都でもキリスト教教育のもとで学んだ経験をもって、福岡刑務所で亡くなりました。
 尹東柱と私。尹東柱の後輩になったことだけでも、うれしいけれど、同志社に尹東柱の詩碑があり、皆さんにも見て、考えていただけることがうれしいのです。私は、延世大学にある尹東柱の詩碑の前で、今の妻と結婚することを決めました。私と尹東柱の関係、私と同志社の関係、私と延世大学の関係は、そういう流れで、最後には教会堂の十字架に、その希望をかけるような人生なのです。
 私のプライベートな話が、皆さんにどんな意味があるかと考えたのですが、理論的なものより、具体的に伝える方が、後輩の皆さんにとって意味があるかなと思って話をしました。ありがとうございました。

2012年5月30日 同志社スピリット・ウィーク春学期
京田辺校地「講演」記録

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