講演

水沢の熊本バンド
~山崎為徳(やまざきためのり)の生涯

講演 越川 弘英〔こしかわ・ひろひで〕
講師紹介 同志社大学キリスト教文化センター副所長
同志社大学キリスト教文化センター教授
〔研究テーマ〕キリスト教の実践神学(礼拝、宣教、牧会)

はじめに~水沢にて

 東北・岩手県に水沢という土地があります。現在では奥州市という名称に変わりました。今日はこの町で生まれた山崎為徳という人物についてお話しさせていただきます。
 山崎は同志社英学校の最初期の生徒の一人であり、第1回卒業生であり、そのまま学校に残り教員として教えた人物です。若くして亡くなったために、同志社出身の他の有名人に比べるとあまり知られていないかもしれませんが、新島襄は山崎を自分の後継者として嘱望していたと伝えられています。本日はこの山崎の生涯をとおして、明治初期の青年の姿、そして初期の同志社の一面をお話ししたいと思います。
 私の属しているキリスト教文化センターでは、隔年ごとに「熊本キャンプ」という企画を実施しています。2泊3日の旅行で、毎回、10~15名ほどの学生の皆さんと一緒に熊本を訪れています。同志社と熊本と言えば、お気づきの方もおられるかもしれませんが、同志社の源流の一つとなった「熊本バンド」をたずねる旅です。何度か熊本を訪れるなかで、この熊本バンドのなかに一人だけ東北出身の人物がいたことを知り、私はごく単純に疑問と興味を抱きました。それが山崎為徳だったのです。
 JR水沢駅から北の方にゆっくり歩いて20分ほどのところに小さい川が流れています。乙女川といいます。この川のほとりで山崎は生まれました。武家屋敷の集まっていた地域です。その川のほとりに公園があります。「山崎記念公園」と呼ぶ人もいるそうですが、私が訪れた時には公園の名称を記したようなものは見あたりませんでした。
 この公園の一角、木々に覆われた場所に山崎の胸像がひっそりと残っています。この像が建てられてからずいぶん時間がたっているようで、像の下の「山崎」という字はかろうじて読めますが、「為徳」のあたりは少し読みにくい状態になっています。またこの像のどこにも山崎の経歴や像の由来が記されていないために、一般の人が見ても「一体これは誰なんだろう」と思われるのではないかと感じました。
 この公園の近くに「乙女川先人館」という施設があって、山崎の記録が少し残っていました。そこには山崎の解説と共に新島襄の写真、そして同志社や熊本バンドについてまとめたパネルが展示されていました。

山崎為徳の生い立ち

 山崎為徳という人は1857年に生まれ、1881年に亡くなっています。24歳と8カ月の生涯でした。生まれたのは安政4年ですから明治維新の10年ほど前です。幼名を「周作」と言いました。
 水沢は有名な仙台・伊達家の支藩にあたり、大名としては最低の一万石という石高でしたが、伊達一門に属する「留守(るす)家」がずっとこの土地を任されていました。水沢城という城があり、その北方を守る防衛線がこの乙女川であり、その川の周辺に武士たちが住んでいたのです。
 山崎の父親は戦次郎為美(せんじろうためよし)といい、母親は山崎が3歳の時に亡くなりました。1867(慶応3)年から山崎は藩校の立生館(りゅうせいかん)で学んでいます。
 学友にあたる人物に後藤新平と斎藤實(まこと)という人がいて、先に述べた「先人館」では山崎と後藤と斎藤の3人を「水沢の三秀才」として展示していました。後藤新平は後に満州鉄道の初代総督、総裁、内務大臣を歴任し、さらに東京市長として関東大震災後の再建に尽力した人です。ボーイスカウトの指導者としてもよく知られています。斎藤實は海軍大臣、朝鮮総督、後には総理大臣になっていますが、二・二六事件で暗殺された人です。こうした後藤や斎藤に比べると、短い生涯を送った山崎は知名度や実績という面で彼らに及ばないということは残念ながら事実だろうと思います。
 1868(明治元)年まで続いた戊辰戦争では、官軍が京都から東京(江戸)へ、さらに東北へ、北陸へと進撃してきました。白河口の戦いでは留守家の侍も動員されて官軍と戦いました。山崎も父親が率いる軍隊の鼓手としてこの戦いに参加しています。山崎はまだ11、12歳の少年でした。この戦いでは17名の死者が出たと言います。
 明治維新によって各地の行政単位も変わりました。水沢は当初、丹沢県に組み込まれ、山崎はその県庁で給仕としての働き口を得ました。ここで働いていた時、少参事・野田豁通(ひろみち)という人物の目に山崎がとまったのです。山崎が幼いころから優れた学力の持ち主だったことは広く知られていたようです。だからこそ県庁の仕事を得ることもできたのでしょうが、そこでさらに彼の才能を見いだしてくれる人に出会ったのです。野田豁通は熊本の人でした。ここで初めて山崎と熊本を結ぶ繋がりが出てくるわけです。
 熊本藩には横井小楠という幕末に活躍した重要な人物がおりました。小楠がリーダーとなった実学党というグループがあって、熊本や日本の近代化を進めることを志しており、野田はそのグループの流れを汲む人でした。実学党出身の人たちは明治政府で優遇され、日本の各地で行政などにかかわるいろいろな仕事を託されていたのです。
 野田や県庁の人びとは山崎の人物を見込んで、彼を東京へ送り出して勉強させようという計画が持ち上がりました。1871年のことです。どこへ送るのか。東京開成学校、つまり今の東京大学です。この官立学校で学ぶために山崎は故郷を離れて東京にやって来ます。ところが当時の東京の学生の気風は非常に乱脈なものであったといいます。東北出身の素朴な青年が悪い感化を受けて、せっかくの素質が失われるようなことになってはたいへんだ、という懸念が周囲の人びとに生まれました。
 この時、やはり実学党出身の安場保和(やすばやすかず)という人が熊本から東京に上京してきていました。野田はこの安場と相談し、この年の9月に熊本で新しく開校することになっている熊本洋学校に山崎を送ろうということになりました。こうして熊本洋学校の関係者が山崎の身柄を引き受けて熊本へ引き取ることになったのです。山崎は東北から東京へ、さらに九州の熊本へ向かいました。

熊本洋学校とL・L・ジェーンズ

 当時、熊本藩は近代化を推進する人びとを育てるために新たに二つの学校を立ち上げようとしていました。熊本藩は薩摩、長州という明治維新をリードした藩に遅れをとったという意識が強かったのです。その遅れを取り戻そうとして、人材育成のための藩立学校を造ったのです。一つは人文系で総合的な学問を扱う熊本洋学校。もう一つは医学校です。山崎はこの熊本洋学校に入学することになります。熊本城内に造られた熊本洋学校の写真が残されていますが、かなり立派な施設だったようです。石垣の上に大屋根の建物があり、ここで講義が行われました。宿舎、食堂もあります。
 熊本洋学校は大変に厳しいエリート養成校でした。最初の年に志願した応募者は500人を超しました。そのうち入学が許されたのは46人。10倍以上の競争率です。今の中学生もしくは高校生の年齢の少年たちで、46人中、熊本以外の出身者は3人、九州以外の出身者は山崎だけでした。入学した46人のうち、卒業したのは何人だったと思いますか。たった11人です。4分の3以上が脱落するという厳しい学校でした。
 この学校で教えたのが、リロイ・ランシング・ジェーンズ(L・L・ジェーンズ)という人です。「キャプテン・ジェーンズ」とも呼ばれます。もともとアメリカの軍人でしたが、優れた教育者としての力をもっていた人で、横井小楠がいろいろな人脈を駆使してスカウトした人物でした。ジェーンズが教えたのは、次に挙げる諸科目でした。まず英語。熊本洋学校はすべて英語で教育が行われたので、絶対不可欠の科目です。さらに地理、歴史、代数、幾何、測量、物理、化学、天文学、地質学、生理学などです。これらの科目の全部をジェーンズが教えました。先生は一人しかいなかったのです。熊本洋学校は全寮制で、教師と生徒が勉強だけでなく生活のすべての面で触れ合うという全人的教育を実践しました。
 これがジェーンズの写真です。南北戦争にも従軍した20代の青年ジェーンズです。ジェーンズ邸です。最初は熊本城の中に造られたのですが、その後、何度か移転して、現在は水前寺公園の裏手に移設されています。ジェーンズ一家を迎えるために、熊本藩が長崎の日本人大工を招き、見よう見まねで外国風の家を建てたといいます。これは1階の居間で、奥には暖炉も見えます。その上にジェーンズの晩年の写真があります。
 この記念館の一室に、当時のジェーンズの教え方を伝える面白い資料があります。この4コマ漫画です。後に同志社で学んだ下村孝太郎という人が残した、ジェーンズから学んだ少年時代の思い出をもとにして作られた4コマ漫画です。
 まず最初のコマは、ジェーンズ先生が右側にいて、生徒たちに教えます。アルファベットの「A」も知らない子どもたちに英語を教えます。発音から始めて単語を教えていく。ジェーンズは、子どもたち一人ひとりに質問します。答えが正しければOK。間違っていたり答えられなかったりすると、「ネッキスト!」(次の人!)ということになる。前にいた子はうしろへ下がります。チンプンカンプンの子どもに代わって、次の子どもが前に進む。
 皆さんのなかにもアルファベットの発音と英単語の綴りの関係がどうもおかしいという疑問をもった方がいるのではないでしょうか。たとえば、「A」は「エイ」と教わったのに、all の場合は「オー(ル)」となり、an では「ア(ン)」となる。下村という人もそういうことに戸惑ったと記しています。しかしひたすら教えられたことを覚えこむしかない。先生の発音どおり、見よう見まねで習うのです。
 正しい発音ができればOK。しかし何度やってもうまくいかない子どもたちもいます。最後のコマでジェーンズの前に点線が引いてあるのが分かると思います。そこから後の3人は、「君たちはダメ、出ていきなさい」と追い出されます。46名が入学し、卒業までにその大半が退学させられたのにはこういった事情がありました。文字どおりのスパルタ教育です。ジェーンズは彼自身がアメリカのウェストポイント士官学校で受けた教育方法を日本でも踏襲したのです。先のことを言ってしまうと、実はこのやり方を山崎も同志社で使いました。同志社英学校も英語で授業を行いました。山崎もジェーンズにされたように一人ひとりに質問し、よくできる子どもは前に座らせ、だめな子どもは後ろに座らせる。成績は一目瞭然です。そういう厳しいやり方を山崎も経験してきたのです。これは当時の熊本洋学校の生徒たちのノートです。図表や計算式など、お分かりのようにすべて英語で筆記されています。
 しかしジェーンズは生徒たちから尊敬された先生でもありました。とりわけ武士階級だった家の子どもたちから見れば、ジェーンズは「アメリカの侍」であり、軍人として実戦に参加した人物であり、しかも博識の教育者として敬愛されました。ジェーンズも日常の子どもたちの健康、食事などにはずいぶん留意していたようです。

ジェーンズの教育と社会貢献

 さてこうした4コマ漫画はジェーンズの教育の一面を示しているだけで、彼は当時の日本では全く初めてと思われる、いくつもの新しい教育方法・学習方法を生徒たちに紹介しました。
 まず「班別学習」と「上級生が下級生を教える」という方法です。班という少人数で、しかも生徒同士で学ぶのです。開校初年のジェーンズは、先ほどのマンガにあったように、一人ひとり英語の初歩から教えたのですが、その後は進級した生徒たちが新入生に向かって、自分たちが学んだやり方で教える側にまわっていきます。皆さんも経験したことがあるかもしれませんが、勉強が本当に身につくのは、どういうときでしょう。それは家庭教師のように、自分が誰かを教える側にまわるときです。教えるためには自分が知っていなければならない。そのために必死に勉強する。おさらいをする。そこで身についていくのです。こうした班別学習というやり方は、教えられる下級生だけでなく、教える上級生にとってもずいぶんと勉強になったはずです。
 次に「自学自習」という教育方法です。教育は与えられるものではなく自ら学ぶものだと考え、それを実践するやり方です。上級生になればなるほどジェーンズは教えなかったと言います。不思議なことですが、その当時の生徒たちの感想によれば、先生はほとんど何も教えてくれなかったと言います。ではどうやって学ぶのか。自分で図書館にこもって勉強する。分からないことが出てくると、その時初めてジェーンズ先生に、「これはどうなっているのですか」と聞く。ジェーンズは的確に答えてくれたと言います。先ほどのマンガに出てくる成績順による席替えも、学習意欲を高めるための工夫だとも言えます。
 次に「演説教育」があります。英語による発表能力の養成に力を入れる。今で言えばプレゼンテーションを一生懸命やらせる。熊本洋学校の出身者が後にアメリカで演説を行った際、アメリカ人が驚いたという話が残っています。演説教育を重視したのはジェーンズだけではなく、当時の日本の多くの学校も演説教育に力を入れていました。もちろん大半は日本語によるものですが、なぜ演説を重んじたかというと、明治政府が国会の開設を約束したというのが背景にあったようです。つまり政談、政治演説をする力を養うということです。
 もう一つ、ジェーンズの教育の特徴として、「男女共学」ということに触れたいと思います。熊本洋学校はもともと男子のための学校でした。ところが、やがて女子が男子に混じって勉強するということが起こりました。これは数人の女子がジェーンズ夫人に願い出たことが発端で、1874(明治7)年、熊本で初めての「男女共学」が始まったのです。当時としては先進的なことでした。ジェーンズが女子を生徒として認めた時、男子から強い反発が出ました。後に同志社総長となった海老名弾正が「女と一緒に勉強したくない」と文句を言うと、ジェーンズは「君のお母さんは男なのか、女なのか。女性を軽んじるのは、自分の母親を軽んじるのと同じことだ」と海老名を諭したと伝えられています。
 ジェーンズについて調べていくと、まだまだ興味深いことがたくさん出てきます。彼は学校だけでなく、農業をはじめとする熊本の近代化のためにさまざまな貢献を行いました。西洋野菜の種を輸入したり、その栽培方法や新しい農具も紹介しています。また印刷機を導入しています。山崎との関連で重要なのは、ジェーンズが英語で著し、それを日本語に翻訳刊行した『生産初歩』と『洋学校教師祝文』という書物です。『生産初歩』は農業全般の入門書と言うべきもので、日本における農業改革のために記した文書です。『洋学校教師祝文』は卒業式で行ったジェーンズの演説をまとめたものです。山崎はこれらのものを他の生徒と一緒に翻訳しました。
 さらに山崎とジェーンズの関係で重要なのはキリスト教の信仰にかかわることです。山崎はジェーンズの影響のもとでキリスト教信仰に目覚めました。このことについてはまた後で触れることにしましょう。
 さて、1875年、山崎は熊本洋学校を卒業します。地元の熊本の生徒たちを抑え、首席で卒業しました。そして改めて東京開成学校に入学することになります。それが同年9月のことです。東京開成学校では最初、理系の勉強を志しました。

「奉教趣意書」と「熊本バンド」

 1876(明治9)年1月29日(一説には30日)、熊本の花岡山で一つの事件が起こります。この写真は熊本城の天守閣から北の方向にあたる花岡山を写した写真です。現在、この山の山頂に「熊本バンド奉教之碑」があります。同志社が設置しました。この日、ジェーンズのもとで学んでいた熊本洋学校の生徒数十名がこの山に登り、「奉教趣意書」という文書に署名し、結盟するという出来事が起こりました。「奉教」、すなわち「キリスト教を奉る」ということです。「自分たちはキリスト教の信仰によって結ばれるものとなり、キリスト教の信仰をもって日本の近代化に努めようと決意した」という趣旨の文書です。こうして後に「熊本バンド」と呼ばれるようになったグループが誕生しました。
 ジェーンズは自宅でキリスト教についての勉強会、聖書の学びを行っていました。学校の中でキリスト教を教えることは禁じられています。熊本藩もそんなことは望んでいません。キリスト教は江戸期を通じて「邪宗門」でしたから、キリシタンになることは許されざることだったのです。ところがジェーンズの教えや人柄に敬服した生徒たちのなかから、彼の人格や精神の背景にあると思われたキリスト教の信仰に興味をもつ者が出てきました。そして生徒から願ってジェーンズ邸の私的な会合に参加するようになったのです。山崎もその一員でした。こうした生徒たちの思いが徐々に高まっていきます。そしてジェーンズが勧めたわけではないにもかかわらず、自発的な信仰のグループを形成していきました。その結果が花岡山における「奉教趣意書」に繋がっていったのです。
 このことは熊本藩で大事件になりました。人びとの頭の中にはまだキリスト教は邪宗門であるという意識が強く残っています。熊本洋学校という藩をあげてのエリート養成校の中からおかしな連中が出てきたのです。とりわけ生徒の親たちは驚き慌てて、子どもたちに棄教を迫ります。家族や親族がこぞって説得するだけでなく、母親が息子に刀を差し出し、「これで自決しなさい。私も死ぬからお前も死になさい」と迫ったというすさまじいエピソードも残っています。
 この事件に関してジェーンズも責任を問われ、リストラされてしまいます。「お前が生徒たちに変なことを教えるからだ」ということでしょう。そればかりか熊本洋学校そのものが廃校となってしまいました。「奉教趣意書」はそれほどの衝撃を熊本藩と関係者たちに与えたのです。
 さてしかし熊本洋学校が廃校となると、残った生徒たちをどうするかという問題が浮上してきました。「奉教趣意書」に署名した生徒たちには行き先がないのです。熊本にいては安心できません。ジェーンズは教え子の身の振り方について頭を悩まし、アメリカから来ていた宣教師仲間と連絡をとりました。そして、前年の1875年11月に京都でキリスト教主義の小さな学校が開校したという情報をキャッチしました。それがこの同志社だったのです。ジェーンズは彼の教え子を京都に送ろうと考えました。その結果、相前後して40名ほどの生徒たちが熊本から京都にやって来ることになりました。
 同志社英学校は創立に際して8名の生徒しかおりませんでした。それがいきなり大所帯になったのです。しかもやって来た生徒は熊本で厳しい教育を受け、厳しい競争を勝ち抜いてきた優秀な若者たちばかりです。これによって同志社は量的な面ばかりでなく質的にも一変しました。現代的に言えば、中学から高校レベルの教育をやっていた学校が、一気に大学レベルの生徒たちを迎えたと言えるかもしれません。やって来た生徒たちの年齢はばらばらです。10代半ばから20歳を超えた人もいました。この熊本バンドの加入によって、同志社は質量共に学校としての実態を整えることになったのです。

東京における山崎為徳

 この時、山崎は先に述べたように東京にいました。彼は「奉教趣意書」の事件には直接かかわりませんでしたが、熊本で起こった事件はもちろん知っていました。山崎は1875年から1877年にかけての2年間に、彼の人生においてとても重要な経験と学びをしています。
 まず一つは洗礼を受けたことです。キリスト教に対する山崎の関心はジェーンズによって始まりましたが、この東京の時代に正式にクリスチャンとなります。それは1876(明治9)年4月以降のことと推測されますが、カナダのメソジスト教会のコプランという宣教師から横井(伊勢)時雄と一緒に洗礼を受けました。横井時雄は小楠の息子で、「奉教趣意書」にも加わった人ですが、山崎より1年遅れて東京開成学校にやって来て学んでいました。山崎為徳はこの前後の時期から同志社に転校しようと考えるようになります。
 次に英文学への関心が深まっていきました。東京開成学校(途中から東京大学に改称)に入学した山崎は、先ほど述べたように、最初は理系の化学科に入っていました。最初の年はきちんとその分野を学んでいます。しかし2年目になるとほとんどそちらの単位を取らずに、文学関係の単位を取り始めました。ミルトンやシェイクスピア、英国の詩人といった、まだほとんど日本に紹介されていなかった英文学に関心を向けていったのです。彼の学習ノートの中には、表紙は理系のタイトルなのに、中を開くと文学の講義を記録しているというようなものまであります。
 また神学的問題に関する関心も深まっていきました。この当時、キリスト教会では「進化論」の問題が大きく取り上げられていました。さらにこうした自然科学の問題と関連して、「神の存在証明」や「無神論」が大きな議論となっていました。東京大学の初代総長・加藤弘之は反キリスト教的な立場に立っていた人であり、山崎はそうした大学の反キリスト教的な雰囲気も嫌だったのだろうと思われます。山崎はこの当時、進化論の講義も勉強しており、それは彼の後の神学研究に反映されていくことになりました。
 1877(明治10)年7月末、山崎は東京大学に退学願を出します。8月に退学願が受理されました。総長の加藤弘之はキリスト教に反感をもっていたのですが、山崎には「退学を思いとどまるように」と個人的に説得したと言いますから、彼の学識はかなり注目されていたのでしょう。水沢の友人である斎藤實も山崎の能力を惜しんで「東京にとどまれ」と忠告し、その他何人もの人が思いとどまらせようとしました。しかし山崎はそうした言葉を振り切って京都へ向かいました。彼は斎藤實にこういう言葉を残したと言います。
 「君にはわからん。僕が勉強したいと思う学問はこの学校にはないんだよ」。

同志社「助教」としての山崎為徳

 1877年秋、山崎は基礎教育を終えた人が入学する同志社英学校余科に入りました。生徒として学ぶ一方、すでに京都に来ていた熊本バンドの仲間たちと共に、「助教」として他の生徒たちに教えました。助教は生徒であって教員ではありません。当時の同志社にはそういう制度があり、下級生を教える役割を担いました。山崎が教えた科目は、数学、科学、文学などであったようです。
 このころの山崎の逸話がいくつか残っています。徳富蘆花という人がいます。徳富蘇峰の弟で、後に小説家になった人で、彼が自分の同志社時代のことを書いた『黒い眼と茶色の目』という小説があります。自伝的な小説で、いろいろな事実を反映した記述が残されています。その一つとして、蘆花が九州から上京し、同志社に入学する時の話があります。11歳で同志社英学校を受験したのですが、最初は不合格になりました。蘆花の試験をしたのが山崎でした。この当時、同志社では入学希望者がくるとマンツーマンで試験をし、合否判定をすることもあったようです。小説の中に「バイブルクラス第一の秀才と呼ばれた天崎(あまざき)さん」という人が登場してきます。名前が一字変えられているだけで、これが山崎為徳のことです。小説では、「天崎さんに、二寮階下の教場で一度も読んだことのない萬國史略で入学試験をされ、天崎さんの眼鏡越しに光る眼と尖々しい癇癪声に肝を消し、ドギマギして再三躓(つまづ)いた」(岩波書店 1943年)とあります。歴史のテキストを読まされた。山崎の雰囲気がきつかったのでおびえてしまい、とうとう失敗したというのです。おそらく事実なのでしょう。不合格になった翌日、新島校長は蘆花を呼んで、もう一度試験をしてくれたそうです。新島は温情主義で、一度落ちた蘆花を再試験し、下級組として入学許可しました。蘆花は「新島によって拾われた」のです。入学後も蘆花は山崎に対してしばらく違和感を抱いていましたが、山崎の方が蘆花に対して親しみをもって接したために、後には両者の関係はずいぶん良くなったようです。
 もう一つのエピソードを紹介しましょう。岸本能武太(きしもとのぶた)という生徒がいました。後に早稲田大学教員になった人ですが、この人がやはり同志社英学校の2年次編入試験を受けて落第した時のことです。岸本は次のように書いています。
 「非常に強度の近眼鏡をかけた、頭の小さい、顔の長い、顎の前に突き出た、色が黒くて黒光りに輝って居る様な、一見阿房と思はれる人が、突然大きな声で、『あなた落第』と云ふたので、私は大変腹が立つやら残念で、心の中で此馬鹿野郎と思った。処が一年の稽古に出て、スペリングを教へるのは此先生であった。其教へ方の闊発な、其問答の明白なのには実に感心したが、是が彼の有名な天才山崎為徳先生であった」(同志社社史資料室編『創設期の同志社』同朋舎 1986年)。
 ほめているのかけなしているのか分からない文章ですが、これらの文章からすると、眼鏡をかけた山崎為徳という人は、厳しい、ぶっきらぼうな、あるいはいささか冷たい印象の人だったようにも感じます。しかし才識や教え方はさすがに畏敬されていたのでしょう。
 しかしまた山崎には次のようなユーモラスな一面もあったようです。当時の同志社の敷地内には原っぱがありました。ある日、生徒が火遊びをして、その火がバッと燃え広がった。するとそれを見ていた山崎が、「ああ、美しいな」とつぶやいたと言います。翌日、新島校長が、「昨日、火遊びをして燃やした人がいるそうだが、そういう連中は重々気をつけるように」という訓話をしたので、それを聞いた山崎がしょんぼりしたというエピソードです。
 さてここで、当時の同志社の建物の写真を見ていただきましょう。これは同志社英学校の最初の建物の写真です。これは現在の今出川校地にあるクラーク館の周辺付近に建っていた寮と食堂です。創立当初の同志社英学校は寄宿学校で、大半の生徒が一緒に住んで勉強していました。生徒は寮の2階で寝泊まりし、1階で勉強しました。この写真は第二寮の写真です。有名な新島襄の「自責の杖」の事件が起きたのもこの第二寮であり、最初の同志社の卒業式もここで行われました。第二寮は解体されて、その資材は今でも京田辺校地の方で保管されていると聞いています。組み立て直して、当時のことを想い起こすよすがになればと思うのですが、残念ながら実現していません。山崎も寮生活を送りながら同志社における学びを深めていきます。
 当時の同志社の生徒たちの多くはクリスチャンでした。入学してから学校や周囲の人びとの影響を受けて入信する人たちが多かったのです。夏休みなどの長い休暇に入ると、そうした生徒たちが自主的に各地に出向いてキリスト教を伝道するということが起こりました。山崎も仲間と共に伝道に赴いています。1878年6~7月にかけて福知山へ、8月には岸和田へ出かけています。この時代に同志社の生徒たちによって立てられた教会のいくつかは現在でも残っています。

教師としての山崎為徳

 1879(明治12)年6月、同志社英学校の第1回卒業式が行われ、15名が卒業しました。この時に山崎は英語による「日本学術論」を講演しました。当時の同志社の卒業式では一人ひとりが自分の志を語る演説が英語で行われたようです。それは朝から始まって夕方まで続きました。
 卒業後、山崎は教師として同志社に残ることになります。最初の卒業生たちのなかにはキリスト教の伝道者として、東京、四国、岡山など、各地へ送り出されていった人びとがいます。また後進の指導にあたるために学校に残った卒業生たちもいました。その一人が山崎だったのです。彼は同志社英学校で、神学、数学、化学、歴史、文明史、修辞学を教えました。そのなかでも特に力を入れたのが英米文学です。シェイクスピアをはじめとしてカーライル、マコーリーといった人たちの文学を講じています。なかでも彼が関心をもったのがピューリタン文学として有名なジョン・ミルトンの『失楽園』(パラダイス・ロスト)という作品でした。全12巻ある『失楽園』の3巻までを山崎は英語で暗唱できたと言います。学生と一緒に御所を歩きながら山崎がミルトンの詩を暗唱したという逸話が残されています。
 この年の6~9月、山崎は故郷・水沢に戻っています。妹・春野さんを京都に連れてくるためで、妹さんは同志社女学校に入学しました。この時の山崎の訪問がきっかけになり、水沢に教会が生まれることになりました。それが現在の日本基督教団水沢教会です。直接、山崎が造った教会ではありませんが、山崎なしには考えられない教会でもあります。水沢の信徒の人たちは、自分たちのところに伝道師を送ってほしいと新島襄に依頼しました。新島もこの要請に応えようとしたのですが、いろいろないきさつがあって、なかなかうまくいきません。そこで水沢の方から、自分たちの代表を同志社に送って学ばせようという計画が持ち上がります。こうしてその代表者が水沢に戻って牧師となり、教会が形成されていきました。この写真は教会が初期のころに礼拝を行っていた内田家という信徒の方の邸宅です。たいへん立派な武士のお屋敷で、現在では「奥州武家住宅資料館」になっています。たくさん座敷がありますが、その中の上座敷で礼拝が行われたといいます。その上座敷のところだけ、ふすまの取っ手が「十字架」をかたどったものになっており、とても興味深いことでした。現在、教会堂は別の所に移転しています。これが現在の水沢教会です。
 さて山崎は同志社で教員、研究者としての働きを続けました。
 まず『七一雑報』という、当時のキリスト教の専門雑誌に「天地大原因論」という論文を9回にわたって執筆します(1880年8月12日まで)。後にこの論文がまとめられて、山崎の唯一の著作として残ることになりました。
 1880年12月12日、同志社で日本初のシェイクスピア劇「ベニス商人」が上演されました。同志社大学の学生の皆さんはあまり知らないかもしれませんが、同志社女子大学ではシェイクスピア劇の上演は大切な伝統の一つになっています。これももとをたどれば山崎がシェイクスピアを紹介し、それを上演したことが始まりと言えるでしょう。宮川経輝(つねてる)がシャイロックというユダヤ人役をやり、横井時雄がアントニオ、山崎為徳が侯爵、金森通倫(みちとも)が女性役のポーシャをやりました。ある評論家によれば、「当時の同志社の実力をもってすれば脚本がなくても英語劇としてシェイクスピアの台本のままやることが十分できた。見ている学生も英語は理解できる」と述べています。
 1881年7月、山崎は京都府立病院で結核と診断され、直ちに入院しました。山崎の病勢は急激に悪化し、入院中もどんどん体力が衰えていきました。山崎の容態を案じた新島は、8月23日、彼を自宅に引き取りました。新島襄・八重夫妻が山崎を看護しました。この時、山崎は自分の症状を日々記録しています。医師に診せるためだったと思われますが、自分の熱や状態を死ぬまで克明に書いています。9月1日から11月8日までです。この間に彼の書いた『天地大原因論』増補版が出版されました。
 11月9日、山崎為徳は24歳8カ月の短い生涯を終えました。遺言にあたるものが残されています。それは臨終の2、3日前、見舞いに訪れたゴードン博士、新島夫妻をはじめ友人たちが取り巻くなかで語った言葉で、「私は神の人格性と霊魂の不滅を信じます」という信仰の告白であり、これが彼の辞世の言葉にもなりました。

山崎の思想と業績

 最後に山崎為徳の思想や信仰について、彼が残した著作などから引用しつつ概観してみたいと思います。
 先ほども述べたように、山崎はジェーンズからキリスト教信仰を伝えられました。ジェーンズが開いていた聖書を学ぶ会で感化を受けたのが始まりです。正確な時期は分かりませんが、1875年のある朝、熊本洋学校の寮の洗面所で、山崎はポツンと一言、次のように漏らしたと言います。
 「やはりゴッドはあるようだ」。
 神は存在するらしいとつぶやいたと言うのです。この言葉を他の生徒たちが聞きました。洋学校の生徒たちは全員がキリスト教に好意をもっているわけではありません。むしろ国粋主義的な立場からキリスト教に反対する人たちもいました。そんなところで下手なことを言うと大変な騒動になるわけです。「やはりゴッドはあるようだ」という山崎の言葉を聞いて、友だちの小崎弘道は「そんなことをいうんじゃない」と叱りつけたといいます。このように神の存在を言葉としてはっきり告白したのは山崎が最初だったようです。これが山崎のキリスト教信仰のスタートであったと言えるかもしれません。
 山崎が信仰と学問の関係について考察した「日本学術論におけるキリスト教と学問」という講演記録が残っています。これは同志社英学校卒業の時の彼のスピーチの日本語の翻訳文です。「キリスト教と学術の両立は可能か」をテーマとして掲げ、山崎がこれに対して「可能だ」と主張しているスピーチです。その一部を読みましょう。
 「吾人は寧ろ彼等が堅城鉄壁として恃む所の学術城裏に大胆に切込み、彼等の武器を執て巧に彼等を攻撃せざる可らず」(同志社社史資料室編『追悼集Ⅰ』同朋舎 1988年)。
 当時のキリスト教に対する批判者たち、すなわち「進化論」や「無神論」など、学術的にキリスト教を攻撃する人びとのことを、ここでは「彼ら」と表現しています。山崎は「キリスト教は迷信だ、時代遅れだ」という人たちに対して、「彼らの武器」とする「学術」を自分も学び、それをもって「彼ら」に反論するであろうと述べています。
 「吾人をして聖書と共に学術を研究せしめよ、吾人をして天然と摂理と黙示とに就き十分なる教育を受けたる学生たらしめよ」(前掲書)。
 「吾人をして学術、基督教の生命を得ざれば往々誤謬と危険に陥り、基督教、学術の光明を借らざれば亦暗弱と迷信に傾き、此二者相待て始て尤も善且大なる好結果致す可きを世界の面前に説明せしめよ」(前掲書)。
 学問と信仰は両立するのだ、互いに支え合う関係にあるのだということを、山崎は語っているわけです。この文章の前後で、「信仰なき学問は無意味だ、学問なき信仰も危うい」と山崎は述べています。それは新島襄の考えとも通底するところがあると思います。
 次に『天地大原因論』という山崎の主著を見てみましょう。山崎の著作でまとまったかたちで出版されているのはこれしかありません。1880年10月、山崎の亡くなる直前に出版されています。初期の同志社神学部のテキストとして使われました。当時、日本のプロテスタントのリーダーとしてよく知られていた植村正久もこの本を高く評価したと言われています。その内容はキリスト教会のなかで議論を巻き起こしていた「進化論的無神論」に対する反論を趣旨とするもので、キリスト教信仰、とりわけ有神論を弁証することを意図した著作です。この著作では進化論(当時、「変遷論」と称した)や進化という現象を認めながら、他方、それだけでは「生物界ノ事実ヲ悉ク究明スル事能ハザルモノノ如シ」と述べ、神の意思や目的にそって天地万物が生成することを主張したものです。つまり進化論や自然淘汰といった理論だけではこの世界の万有を証明することはできないのであって、そうした現象の背後に神が存在し、神の意思が働いていることを論じて、神の存在を証明しようとしています。
 論文としては、「道心は人の心の主宰たる説」というごく短い文章が残されています。これは1878(明治11)年に書かれました。山崎は人間の心を知恵・情欲・道心に3分し、善悪を見分ける道心というものがあると説きます。知恵というのは知的精神・知的能力、情欲とは感覚的感性的なもの、そして道心とは良心と考えていいだろうと思います。この道心こそが他の二者を抑制・統御する働きをなすものであり、これこそが神に由来するものであると論じて、山崎は人間に道心を与えたものとして神の存在証明を行っています。『天地大原因論』とはまた別の角度から人と神の関係を説こうとしているわけです。先ほど述べた植村正久は良心の問題と進化論や有神論の問題を結びつけた議論を行っていますが、ある意味で山崎の思想を展開していった先にそういう主張が生まれたと言えるかもしれません。

結びにかえて

 私は今日、同志社の最初期の生徒であり教員の一人であった山崎為徳を皆さんにご紹介しました。私たちの大先輩にそういう人がいたことを覚えておいていただきたいと思いますし、私たちが山崎の生涯から学ぶべきことはいくつもあると思います。
 たとえば幅広く学ぶということの大切さです。理系の学問、文系の学問、そのなかから本当に自分の学びたいことを探し出していく姿勢です。広い総合的な学びの重要性です。
 また出会いの重要性です。新島襄と同じように、山崎の場合もいろいろな人との出会いがその生涯を彩っています。水沢に生まれた少年が人との出会いをとおして、東京で、熊本で、そして京都で人生を歩んでいきます。そこには必ずキーパーソンになる人たち、野田、ジェーンズ、新島襄、熊本バンドの仲間たちがいました。出会いの機会をきちんと受けとめ、その出会いから与えられた機会を活かして自分のもてる力を発揮していったのです。
 さらにまた山崎の信仰も覚えておいてほしいと思います。大変な秀才でしたが、自らの知性や理性を絶対視することなく、キリスト教信仰をもって山崎はその生涯を送りました。人生の一貫した支えとなる信仰を、山崎はその死に至るまで守り抜いた人だったのです。

〔参考文献〕

高橋光夫『山崎為徳の生涯』2010年
高橋光夫『山崎為徳傅』2007年
山崎為徳『天地大原因論』1881年

2014年10月28日 同志社スピリット・ウィーク秋学期
今出川校地「講演」記録

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