奨励

ミッションによって

奨励 内村 公春〔うちむら・きみはる〕
奨励者紹介 社会福祉法人 慈愛園理事長

はじめに

 ただいま紹介にあずかりました内村と申します。1972年文学部文化学科卒業ですからもう42年前ということになります。紹介していただきましたとおり、現在熊本にあるキリスト教主義の社会福祉施設慈愛園の理事長をしております。今年の3月までは、同じ熊本のキリスト教学校である九州学院で学校長をしておりました。
 最近の同志社との繋がりを言いますと、同志社大学のキリスト教文化センターが主催しています「熊本キャンプ」という企画がありますが、そのお手伝いを少しさせていただきました。また、熊本ではYMCAやプロテスタントの教会、キリスト教学校などが中心となり、毎年、1月30日の早朝、熊本市内西部にある花岡山の山上広場で早天祈祷会を開いております。それはこの場所で、1876(明治9)年の1月30日(29日説もある)、熊本洋学校の35名の有志たちが、キリスト教に入信する誓いを立てたのです。そしてこのメンバーの多くが、その後同志社英学校に進学し、「熊本バンド」と呼ばれることになりますが、それを記念する早天礼拝を毎年行っているのです。ですから、この礼拝の奨励者として、過去多くの同志社の先生方に奉仕していただいております。来年の1月30日の祈祷会は、139回目になります。こうしたことで卒業後も同志社との結びつきができ、感謝しております。
 そのうえ、こうして「同志社スピリット・ウィーク」に招かれ、お話しさせていただくことを、大変光栄に思います。
 それではまず、この「同志社スピリット」についておさえておきたいと思います。
 2005年春学期の「同志社スピリット・ウィーク」で、同志社大学名誉教授、井上勝也先生が、「同志社の創立者新島襄が目指したキリスト教主義教育とは」という題でご講演されています。そのなかで先生は、「同志社スピリット」について次のように説明されております。

これは明治二十二年に新島校長を慕って同志社英学校に入学した山室軍平が最初に使いました。(中略)山室軍平が同志社英学校に学んでいた明治二十二年~二十三年頃の同志社には「同志社スピリット」があふれるばかりであったと言ったことがこの言葉の起こりであります。この場合山室は「同志社スピリット」を「神を愛し、人を愛し、そのために『凡(スベ)ての者の僕(シモベ)』として奉仕する基督教精神」というように定義しています。(中略)新島在世中の同志社英学校で学んだ当時の生徒たちは新島校長がしばしば「世の中のため」になる生き方をしなさい、そして、「社会事業は神の委託事業です」といったというのです。今日の言葉でいえば社会福祉事業は神様が我々に委託されている事業だというのです。
(『Doshisha Spirit Week講演集 二〇〇五 春学期』同志社大学キリスト教文化センター 2006年)

 さて今日は、熊本を中心に社会福祉事業に多大な貢献をした3人の女性宣教師の具体的な働きを紹介することで、「同志社スピリットをもって生きること」について考えたいと思います。そのことが、より身近な形で若い学生の方々の「同志社スピリットをもって生きる」ヒントとなればと思います。

モード・パウラス

 まず一人目は、現在私が働いております社会福祉法人慈愛園の創設者である女性宣教師、モード・パウラスについてお話したいと思います。
 1889(明治22)年、彼女は、アメリカのノースカロライナ州の農家に生まれました。子どもが9人という大家族でした。両親は熱心なクリスチャンで、子どもたちも信仰深く育ちます。ところが、モードが10歳のとき父親が病死し、母マーガレットは9人の子どもを抱えた未亡人となり、一家は貧しい生活を強いられることになりました。母は家族を養うために朝から晩まで働き、子どもたちも力を合わせ、母を助けました。殊に長女ローザは、大学卒業後、近くの孤児院の保母となって家計を助けています。
 モードが11歳のときでした。日本伝道を行っていた宣教師の報告書を読み、自分も未知の国である日本で伝道したいとの夢を抱いたのです。そしてその夢を実現するために、働きながら大学に進み宣教師となりました。こうしてモードは1918年、ついにあこがれの地、日本にやって来ます。29歳のときでした。
 ところで、そのころの日本は、米騒動という全国的な混乱のなかにありました。人びとは不況のどん底にあえぎ、なかには自分の娘や子どもを売らざるを得ない人びともいたほどでした。こうした大変な社会状況のなかで、モードは宣教師としての仕事を始めることになりました。
 しかし、宣教師の会議で彼女に命じられたのは、思いがけないものでした。それは熊本で、苦しみ、悲しみにある人たちを救うという社会事業の仕事でした。モードは途方に暮れてしまいます。今まで社会事業の勉強をしたことがなく、どうやったらいいか分からなかったのです。そこで、日本にいる宣教師たちを訪ね、やり方を学ぼうとしますが、納得できる答えは得られませんでした。最後に、神戸で社会事業を行っていた「城(じょう)ノブ」という日本人女性を訪ねます。そこでモードは大切なことを学ぶことになります。それは、これからやる仕事は、「神様の仕事をするのであって、私が私の仕事をするのではない。神様のお仕事のお手伝いをするのだ」ということでした。だから「最後は神様が支えてくださるのだ」ということでした。
 まずモードが始めたのは、手ごろな家を借り、目の前にいる身寄りのない子どもたち、売られていった娘たち、橋の下で生活をするしかない老人たちに手を差し伸べ、それらの人たちを預かることでした。次第にその人数が増えていき、その家も手狭となっていきました。そのとき、幸いなことにアメリカの教会の婦人会が多額の寄付金を贈ってくれました。
 1922(大正11)年、その寄付金で、熊本市の水前寺の近くに2万平方メートルの土地を購入し、そこに老人ホーム1棟、婦人ホーム1棟、子供ホーム1棟を新築しました。こうして社会福祉施設慈愛園は誕生したのです。この運営に協力し、慈愛園の命名者にもなったのは、遠山参良(とおやまさぶろう)九州学院初代院長でした。この遠山先生は、熊本洋学校の最後の生徒であり、閉校後は上級生である海老名弾正と共に同志社英学校に進学した人でした。
 さて、慈愛園の施設運営は、当時としては本当に画期的なものでした。それは、貧しいけれど心豊かに育ったモードの大家族生活の経験を活かしたもので、今は当たり前の名前として使用されていますが、各施設を「ホーム」と名付けたのです。つまり「養老院」を「老人ホーム」、「母子寮」を「母子ホーム」、「孤児院」を「子供ホーム」という名称に変え、家族的な施設運営を目指したのです。
 また「老人ホーム」では、老人が自活できるように毎日仕事を与え、それに僅かですがお金を払い、食事も自分で作らせましたし、建物の前に畑を作り、好きな野菜を自由に作れるようにしました。この結果、老人たちの心身の健康状態も良くなっていったのです。こうしたやり方は、著名な社会事業家である賀川豊彦から高い評価を得ました。
 また、慈愛園全体で乳牛や鶏などの家畜を飼い、子どもも婦人も老人も職員も一緒になって世話をし、慈愛園全体が将来少しでも自活できるような方策もとりました。これらは、皆さん想像されるとおり、農家で生まれ育ったモードの経験が反映されています。
 さらに子供ホームでは小舎制の養護方法をとりました。台所を備えた一戸建ての家に8人の子どもと保母が住み込み、保母が母親のように世話を行う家族主義の養護方法です。小舎制児童養護法を学んだ妹のエーネや、孤児院で保母をしていた姉のローザのやり方なども参考にしたのです。後にはこうしたホームを八つ設置し、それぞれのホームの周囲には、畑、花壇、野菜園を設け、ホームに住む保母、児童指導員、児童によって花や野菜が作られ、できたものはそのホームで自由に使いました。また、保母を「お母さん」と呼ばせ、児童は保母の手伝いをし、全員で食事作りも行いましたし、年齢によってホームでのそれぞれの配置を考え、本当の家族のような関係を作れるように努力しました。家族生活を知らない児童に、できるだけその体験をさせてあげたいということで、現在の児童養護施設のモデルとなりました。
 慈愛園の中にはモードの洋風の家が残されています。よく見ると、周りに塀はなく、窓が多く、中を覗き込もうとすれば、できるようになっています。どうしてこんなプライバシーが守られにくい家に住んだのでしょうか。もちろんこれには理由があります。それは「西洋人は、人の生き血を飲んだり肉を食べる」という当時の人びとの偏見を払拭するためでした。それほど当時の人びとは、まだ古い因習の世界に住んでいました。だから、孤児や盲・ろうあの人たちに対する偏見・差別は、現在では考えられないほどひどかったのです。また、慈愛園には門もありません。地域の誰にでも開放することで、自分たちがやっていることについて理解を得ようとしたのです。こういう大変な苦労のなかで、モードは社会事業に取り組んでいきました。
 戦争による中断はあれど、モードの事業は拡大していきました。共に働く日本人スタッフにも恵まれ、戦災孤児を収容するために熊本市郊外に「広安愛児園」、大分県別府市に「別府平和園」、熊本県荒尾市に「シオン園」という三つの児童養護施設を作り、また、保育園を四つ、幼稚園を二つ、目や耳に障がいをもつ子どもたちの施設「ライトハウス」、そして知的障がいの人たちの施設「のぞみホーム」など、15の施設を作りました。
 1959年、70歳になったモードは、モードを助けた日本人の職員に施設の運営を引き継ぐために、宣教師、そして慈愛園の仕事から引退し、愛する日本、愛する慈愛園に別れを告げ、アメリカに帰って行きました。日本の社会福祉事業は、日本人自身が担っていくべきだと願ったのです。
 ミッションに提出した最後の報告のなかで、その思いを次のように語っています。
 「この報告の中で、聖パウロが言ったように、少しだけ誇ることを許していただきたいと存じます。それは、この41年間、モード・パウラスがなしとげてきたことをではなく、私の主イエスが、世の終わりまで、私と共にいるとお約束をお守りくださったことを、誇りたいのであります。(中略)
 愛の種子が、荒れた耕されていない土にまかれました。私達はそれに水を注ぎ、神が育てて下さいました。そして何という収穫を、神はこの小さい愛の園に働く人々にお与え下さったことでしょう。
 この大きな事業に参加し、私を自分の肉親のように受け容れ、愛し、苦闘や希望を分かち合ってくれた人々、宣教師であると日本人であるとを問わず、男といわず女といわず、キリストの偉大なご臨在の意義を学んだ人々と、手を取り合って共に働き、共に歩んだこと、これは言葉に言いあらわせない特権でありました」(モード・パウラス著 稲冨いよの訳『愛と福祉のはざまに』聖文舎 1979年)。
 1980年、ノースカロライナの故郷で、モード・パウラスは天に召されました。91歳でした。
 繰り返しますが、このモード・パウラスが夢を抱いて日本にやって来たとき、与えられたのは思いもかけない使命でした。今まで学んだことのない未知の分野の仕事でした。戸惑い悩むなかで、一人の婦人をとおして気付かされたのは、「自分のためではなく、神様の仕事のお手伝いをする」ということでした。「目の前にいる苦しみ、悲しみのなかにいる人の為に生きる」ということでした。
 このモード・パウラスが社会事業に踏み出すきっかけとなった聖句があります。ヤコブの手紙2章の17節からの言葉です。
 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。

ハンナ・リデル

 さて二人目は、このモード・パウラスより34年前、日本では幕末にあたる1855(安政2)年、イギリスのロンドンで誕生したハンナ・リデルです。幼いころから父の影響で、インドに興味をもち、将来は宣教師としてインドの人びとのために役立ちたいとの夢をもっていました。この夢の実現への努力が実り、リデルは宣教師となることができました。
 ところが、リデルに英国伝道局から与えられたのは、思いがけないものでした。願ったインドではなく日本伝道という使命でした。それも一番行きたくなかった熊本だったのです。これには理由がありました。リデルは地震が大嫌いでした(もちろん地震が好きな人は世界中誰もいないと思いますが)。リデルが日本へ派遣される前、伝わってきたニュースがありました。それは「阿蘇山の爆発で、熊本に強烈な地震があった」ということでした。だから日本は恐ろしい所だと思い込み、最悪日本へ行くことになっても、熊本だけには絶対に行きたくないと思っていたのです。ところが、与えられた使命は、その熊本へ行け、というものでした。悩み苦しみ祈った末、最後にはこれも神より与えられた使命であると受け止め、日本行きを決意します。
 1891(明治24)年神戸に到着します。まず同じ聖公会の学校である大阪の普溜女学院(現プール女学院)で3カ月の準備期間を過ごし、第五高等学校(現熊本大学)の英語を教える教師として熊本に赴任しました。
 1893(明治26)年の春、リデルにその後の人生を決定づける出来事が起こります。その日、咲き誇る美しい桜を鑑賞するために第五高等学校の教師仲間の案内で、桜の名所である熊本市の本妙寺境内にやって来ました。ところが、そこで目にしたのは、桜の美しさではなかったのです。リデルは次のように語っています。
 「麗しき花の下には何物があるかと見ますれば、それは此上もない悲惨の光景(ありさま)で、男、女、子供の癩病人が幾十人となく道路(みち)の両側に蹲(うずくま)って居まして、(中略)稚(おさ)ない子供も親に教えられて、小さい痛ましい手を出して往来の人に恤みを乞うて居ります」(志賀一親著 内田守編『ユーカリの実るを待ちて リデルとライトの生涯』リデル・ライト記念老人ホーム 1990年)。
 リデルは、ショックで一晩中眠れないまま瞑想します。「自分は最初日本に来ることも、熊本で働くことも余り本意ではなかった。然るに自分がこの地に来ることになったのは神の導きであらねばならぬ。そして今日はあの惨憺たる光景を見せられた。これは自分に、これらの憐れむべき人達、悲惨の極みにあるこれらの人々の救済を天職とせよとの神の尊き啓示ではなかろうか、そうであれば、至難の事と雖も、神はこの事業を必ず成功させて下さるであろう」(飛松甚吾『ミス ハンナリデル』リデル・ライト両女史顕彰会 1993年復刻)。
 こうしてハンセン病患者の救済に身を捧げる決意をすることになります。
 その後、リデルの献身的な働きが始まります。まず、その寺近くに臨時救護所を開設すると同時に病院設立を計画し、母国イギリスの知人たちに寄付を呼びかけます。さらにその救護活動は、ハンセン病だけでなくその他の病人たちの救護にも及びました。先ほどのモード・パウラスのときにお話ししたように、当時の日本の状況を考えれば、その苦労は想像できないほど大変なものでした。しかもモードより約30年も前のころです。
 1895(明治28)年11月12日、寄付によって集まった基金と自らの私財を投げ打って、熊本市北部にある立田山山麓の地に、ハンセン病患者のための病院を創設します。病院名は、回る春と書いて「回春病院」。彼らの暗黒の人生に再び春が回(めぐ)るようにとリデル自らが名づけました。
 その後、リデルは宣教師を辞任し救済活動に打ち込みます。それだけ病院の運営が大変になってきたのです。ちょうどこの時期日露戦争が勃発し、日本の勝利に終わるのですが、欧米諸国から列強の仲間入りをしたと思われた日本に、母国イギリスからの送金はストップします。それからは、常に借金に悩まされることになりました。そのためリデルの仕事は、寄付集めが中心となっていきました。そんなリデルにとって、病院での患者一人ひとりとの交流こそが、唯一の安息の時だったのです。
 リデルが家族のように患者を思ういくつものエピソードが残されています。
 患者たちが亡くなった後、その遺骨を引き取る家族はいません。だから死後の心配をする患者のため、病院の敷地内に納骨堂を建てました。そして自らの遺骨もそこに納めるように遺言しました。文字どおり日本の地に骨を埋める覚悟の活動でした。事実、現在その納骨堂の側にリデルと後で紹介するライトのお墓が建っています。
 「リデル先生は患者を、『私の子供』と常に呼んでいた。昭和六年十一月、山県侍従を回春病院にご差遣になるということが起こった時に、その時の条件は、当日は患者は外出禁止ということだった。リデル先生は、『もしそういう条件なら、お断り申し上げます。私だけが栄誉を受ければ、私は永久に母親としての誇りと資格を失います』と言われ、結局当日は患者は自由ということで決着した」のです(澤正雄『日本の土に ハンセン病者のため日本に骨を埋めた―リデル、ライト両女史の生涯』キリスト新聞社 1995年)。
 また、病院内に1924(大正13)年に建てられた教会は、正面入り口がスロープになっていて、その横に階段が付けられました。まず障がいをもった患者が優先という考え方です。今でいうバリアフリーです。ここにもまた「患者と共に」という生き方が示されています。
 患者を「私の子ども」と呼び、「患者と共に」生きようとするリデルを患者たちは、本当の母親のように慕ったのです。
 70歳を超えたリデルにとって、日本やイギリスでの募金活動は厳しいものでした。
 1933(昭和8)年2月3日、多くの人びとの篤い祈りも空しく、リデルは天に召されました。
78歳でした。このリデルの死について、ある新聞は次のように報じています。「一国の総理大臣の死に際してはその後任者を得ることがさして難事とはしないが、ミス・リデルを失うことは、絶対の損失である」と(『ユーカリの実るを待ちて リデルとライトの生涯』)。

エダ・ハンナ・ライト

 さて、もう一人の宣教師エダ・ハンナ・ライトは、1870(明治3)年、イギリスのロンドンで誕生します。リデルの姪にあたります。幼少より家庭的に恵まれず、親戚に当たるリデル家に引き取られたこともあり、伯母であるリデルからはわが子のように可愛がられました。
 こうした関係もあり、1896(明治29)年、伯母の仕事を助ける目的でライトは来日します。26歳のときでした。1923(大正12)年から、ライトは伯母リデルの片腕として本格的に回春病院を手伝っていきます。
 リデルの召天後の回春病院の運営は、院長に就任したライトに委ねられました。リデルに比べ小柄で温和であったライトは、患者たちにリデルに負けず劣らずの愛情を注ぎ、患者たちもリデルと同じく母のように慕っていきました。そのころのこんなエピソードが残されています。
 1937(昭和12)年6月1日のこと、来日中のヘレン・ケラーが回春病院を訪問しました。彼女は教会堂で患者たちの前に立ち、「私は今まで自分が、世界中で一番不幸な人間だと思っておりましたが、今日ここに来て、まだまだ私より不幸な方々がいらっしゃるということが分かりました」と言って、はらはらと涙を流したのです(『日本の土に ハンセン病者のため日本に骨を埋めた―リデル、ライト両女史の生涯』)。そしてライトの献身的な奉仕の業(わざ)に感激したヘレン・ケラーは、1939年に発行した自叙伝の扉のページに、「ミス・エダ・ライト女史へ。彼女の勇敢なる仕事に対し、愛をこめた賞讃をもって捧ぐ。ヘレン・ケラー」と書いて送ってきたほどでした。
 しかし、ライトや回春病院を戦争の影が覆っていきました。欧米人はすべてスパイと見なされ、手紙もすべて開封され、家宅捜査も受け、刑事が常時泊まりこむようになっていきます。もちろんライトも例外ではありませんでした。イギリスやアメリカからの送金は途絶え、これ以上経済的にも病院を維持することが難しくなっていきました。
 1941(昭和16)年、回春病院を解散することを評議員会は決定します。ライトは礼拝堂に集められた患者たち一人ひとりに、「すみません。すみません。お体をお大事に」と涙ながらに詫びて、病院解散を告げていきました。そして政府の手によって、患者たちはそれぞれの施設に収容されていきました。ライトは患者たちを運ぶトラックにしがみつき、引きずられながら別れを惜しんだのです。この日のことを、ライトは涙と共にこう記しています。
 「政府は、私から愛する患者たちを奪った。病院は、空になった」と(『日本の土に ハンセン病者のため日本に骨を埋めた―リデル、ライト両女史の生涯』)。
 戦争のせいとは言え、叔母のハンナ・リデルが苦労して創り上げた回春病院を、姪である自分が潰(つぶ)したことになったのです。
 ライトもまた、英国大使館からの指示で、止むを得ずオーストラリアに退去することになりました。すでに71歳でした。別れの日、こう告げています。
 「自分はこの老齢で日本を去るのであるからもはや、再び日本の土地を無事に踏むことは望めますまい。自分は世界の何処におっても回春病院とその患者さんのことは念頭から忘れ得ないことでしょう。そして、伯母の遺骨も患者さんと共に眠っているのだから、若し自分が彼地で世を去ることがあれば、遺骨は日本に送るから、どうぞ皆と一緒の処に眠らせて下さい」と(『ユーカリの実るを待ちて リデルとライトの生涯』)。
 戦争が終った3年後、ライトは高齢を理由に心配する人たちを振り切って、再び熊本へ帰ってきます。愛する患者たちと回春病院を再建するためでした。ところが、回春病院は見る影もない状態でした。また彼女を母と慕う患者たちは、いくつもの施設に収容されていました。そこでライトは78歳という年齢による肉体の衰えをおして、患者一人ひとりを訪問して回ったのです。このことだけが、彼女の喜びでした。
 1950(昭和25)年2月21日、NHKラジオで、ライトのお別れの言葉が流れました。訪ねて行けない施設にいる患者たちへ、最後の呼びかけをしたのです。

 「全国の患者の皆さんへ
 全国療養所の皆さん。お元気ですか。
 私は皆さんのことをいつも神様の前に覚えて居ります。私は戦争中、オーストラリヤに居りましたが、心はいつも皆様のことで一杯でした。
 私は皆さんにお目にかかりたいですけれども、私の足は弱くなりました。どうぞ皆さま、主の十字架と甦りを信じて下さい。神様の良い子供になって下さい。
 私は天国でお目にかかることを楽しみにして居ります。
 皆さんさようなら、御大事になさいませ」(『ユーカリの実るを待ちて リデルとライトの生涯』)。

 1950(昭和25)年2月26日、エダ・ライトは天に召されていきました。80歳でした。

「使命によって」

 ご紹介してきましたように、モード・パウラスにとって、ハンナ・リデルにとって、またエダ・ライトにとって開かれたのは、自らが望んだものとは全く異なる道、使命でした。しかし、彼女たちは悩みながらも、そこから逃げることはせず受け容れ、雄々しく歩いていったのです。特にエダ・ライトにとっては、叔母が立ち上げた病院を失うという試練が待っていたのでした。しかし、それでも患者たちに寄り添う姿勢は変わりませんでした。
 それでは彼女たちは、私たちとかけ離れた「特別な人」だったのでしょうか。
 たとえばモード・パウラスの場合、こんな弱音も吐いています。「私の心は混乱していた。―― 私には、慈善のワーカーとして出会うすべての問題に対処していく忍耐があるだろうか。働ける身体を持ったこれらのアル中の人たち、この人たちも私の仕事の一部なのか。もし私が、自分の息子を橋の下で死なせようとするような母親に会う事になったら、かんしゃくをおさえることができるだろうか」(『愛と福祉のはざまに』)。
 こうした彼女たちを支えたものは何だったのでしょうか。それは「自分のためではなく、神様の仕事のお手伝い」ということでした。「目の前にいる苦しみ、悲しみのなかにいる人の為に」ということでした。苦しみ、悲しみにあえぐ人たちを目にしたとき、同志社の創立者新島襄の言う、「自己の良心に恥じない生き方」を選んだのです。その生き方を自分に与えられた「使命」として受け取ったのです。そして繰り返しますが、その生き方は、自ら選んだというより、与えられた「生き方」でした。
 さて、ここに集まった皆さんと共に、私も同志社教育の原点としての「同志社スピリット」を改めて学びなおし、「人生の試練」に立ち向かいながら、「一国の良心」となれるよう努力したいと思います。ご静聴ありがとうございました。

2014年10月29日 同志社スピリット・ウィーク秋学期
今出川校地「講演」記録

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