奨励

人生の目的


奨励 大谷 實〔おおや・みのる〕
奨励者紹介 同志社総長

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

(フィリピの信徒への手紙 三章一二-一四節)


「命の尊さ、大切さ」

 皆さんにとって記憶に新しいことと思いますが、昨年の十二月十日、現役の同志社大学の学生が小学校六年生の少女を殺害するという、同志社にとって未曾有の事件が発生しました。校祖・新島襄の良心教育を標榜して教育研究の仕事をしている私たち同志社の教育に携わる者にとって、この事件は大きな驚きであり、過去の約一年間は、まさに反省と慙愧(ざんき)のつらい年でありました。どうしてこんなことになったのか、事件を予防する手立てはなかったのかといった疑問や反省に苦しんだ一年でもありました。聞くところによりますと、当該の学生は只今京都地方裁判所で刑事被告人として裁判を受けており、まもなく精神鑑定の結果が裁判所に提出されるということでありまして、事件の真相は次第に明らかになることと思いますが、殺人に至った経緯がどのようなものでありましても、同志社の教育を受けてきた学生が塾の講師として小学生を教えていたのであり、その過程で女子生徒を殺害したのでありまして、同志社総長として、改めて、被害者であるお子さんの霊に対し、そのご冥福をお祈りしますとともに、事件の重大性を謙虚に受けとめ、同志社人として、命の大切さについて考え、今後の戒めとしたいと思うのであります。

 そこで、今日は、「命の尊さ、大切さ」についてお話ししたいと思いますが、それでは、なぜ、命は大切なのでしょうか。「命あっての物種」といわれますように、江戸時代や戦前の全体主義の日本のように、個人の生命が軽んじられていた時代ならばともかく、個人主義が徹底し、「一人ひとりの命」を尊重するという個人主義の社会にありましては、人一人の命が大切であることは自明のことであり、「なぜ、人の命は尊厳なのか」といった問い自体、ナンセンスであると思われるかもしれません。現に日本の憲法も、「すべて国民は、個人として尊重される」と規定し、その内容として、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、国政の上で最大の尊重を必要とする」としておりますし、刑法も「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」としておりまして、人の命を奪う殺人は最も重く罰することにし、生命を厚く保護しているところであります。要するに、今日の個人主義の社会では、生命には絶対的価値があり、生命は尊厳であり、何よりも尊重され、大切にされなければならないということは、自明のことであったといってよいと思います。

それは「自明の理」か?

 ところで、最近、私は友人である精神医学者から教えられて、イギリスのポール・ジョンソンというカトリック宗教家の『神の探求』と題する書物を読む機会を得たのでありますが、一九九四年、彼の妻がオックスフォードで主催した医療倫理の会議で、ある報告者が、「生命の神聖」という言葉を使ったところ、出席していたある頭脳明晰な哲学者が、「生命は確かに神聖でしょう。しかし、私は、それを事実としては知らないのです。できたら生命の神聖について証明していただけませんか」という発言があったそうです。これを妻から聞いたポール・ジョンソンは、背筋が寒くなったと書いています。彼にとって、生命の神聖や尊厳は、カトリック信者として、疑うべくもない自明の理だったからでありますが、しかし、近い将来、この自明の理が失われるのではないかという不安にも駆られたと書いています。

 確かに、「生命の神聖・尊厳」という宗教的・道徳的な自明の理は、現代の人々にとって、自明の理ではなくなりつつあるというのが現実ではないかと思います。体外受精や遺伝子の操作、あるいは安楽死、尊厳死が許されている医療の現場を見ますと、生命は神が与え給うものであるから冒してはならない、したがって生命は尊厳かつ神聖なものであるという考え方は、一般の人にとっても、そして、ほかならぬキリスト者にとっても自明の理ではなくなりつつあるように思うのです。現代人にとって、なぜ命は大切であり、尊厳でなければならないのかは、自明の理として片付けるわけにはいかなくなっているからであります。

 そうだとしますと、「命は大切であり、尊厳しなければならない」という命題は、改めてその根拠が問われなければならないように思うのです。

生命の尊厳の基礎付け

 先ほど触れましたが、憲法で「生命ないし個人の尊厳」が謳われていますから、国民は、法律の命令に従って生命を尊重しなければならないのですが、憲法の規定の根拠は、一七七六年のアメリカ独立宣言にあるといわれています。独立宣言は、こういっています。「すべての人間は、平等に造られている。彼らは、その造り主によって、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられている。それらの権利の重要なものとして、生命、自由および幸福追求(life, liberty and the pursuit of happiness)の権利がある」というものでありますが、ここでの造り主は、キリスト教の「神」を指していることはいうまでもありません。日本の法律家は、人の命は人権の基本であり、国家および社会の基本となる要素であるから最も重要なものとして扱われると説明するのですが、私は、そこから生命の尊厳や神聖は導けないと思います。日本のある高名な民法学者は、「生命の尊厳性」を基礎付けることができるのは、キリスト教しかないと言っていますが、私もそのとおりだと思います。

 ところで、キリスト教におきましては、人間の尊厳の根拠は、聖書のいたるところに求めることができますが、直接には、「人間が神の像」としてつくられたからという創世記一章二六節に求められるというのが、一般の理解だと思います。そして、造り主の救いの愛によって、人間は神に似せて作られたのであり、キリストの十字架と復活とによって、「一人ひとりが救いの対象とされ、小さなキリストとして天国に導かれるものであるからこそ、尊く、かつ神聖なものとして扱われなければならない」。これが、人間の尊厳の根拠であると考えるのです。だから、人の命を奪うことは最大の神に対する冒涜であり、罪であるというわけです。

 ところが、先ほど紹介したポール・ジョンソンの話でも分かりますように、この生命の尊厳、神聖または不可侵性を絶対に正しいと考える絶対主義が批判にさらされ、それを相対化する動きが、他ならぬキリスト教の世界においても現実のものとなりつつあります。

 どうしてそうなったかと申しますと、第二次世界大戦後、キリスト教主義の国は、程度の差はありますものの、豊かな社会を求めるのと並行して、個人の福祉ないし幸福を追求するために、従来のキリスト教的なモラルを問い直して、自由な社会、開放社会といった価値意識の下に、幸福を追求する自由をできるだけ広げ、個人が幸せと思うことをやってよいというように、大きく変わってきているのです。その結果として、堕胎や体外受精は本人たちの自己決定によって許され、また、事前の意思表示があれば「尊厳死」として、延命医療を拒否することも認められるということになってきているわけです。一口で言えば、「生命の尊厳」は、世俗的な幸福の追求という功利主義的な考え方によって修正されつつあるというのが現状だと思います。

 それでは、このような考え方は、否定されるべきでありましょうか。私は、そもそも宗教は人を救うためにあるのですから、キリスト教の生き方の中に功利主義的な要素が入ってくることは当然であり、アプリオ的に生命の尊厳を語るのは適当でないと思います。生命の大切さも、「自明の理」としてではなく、世俗的な根拠を持ちうるものでなければならないと考えるのです。そして、生命の大切さや尊厳を根拠付けるものとして、人生の目的を考えてみようと思うのであります。

人生の目的とは

 ところで、スイスの聖人といわれたカール・ヒルティは、「古来、生きとし生ける者は、人間であれ、動物であれ、はたまた植物であれ、皆すべて幸福を求めて生きる」といいました。「人が意識に目覚めたときからその終わりに至るまで、最も熱心に追求してやまないものは、実にただ幸福の感情だけである」、そして、「幸福こそは実に人間の生活目標である」と断言して、幸福追求こそ人生の目的でなければならないと説いています。問題は、その幸福の中身であります。国語辞典によりますと、「幸福とは、満ち足りて幸せと感ずること」だと説明されていますが、では、私たちはどういうときに「幸福」と感じるのでしょうか。

 裕福になったり、よき結婚相手とめぐり合えたり、事業が成功して名声を得るといった、いわば「この世の栄華」に浸ることは、確かに人間をハッピーにします。しかし、それはあくまで一時的なものに過ぎません。特に年老いて目標を失った人間の絶望感は悲劇であります。そうだとしますと、一番大切なことは、どんなにつらい災難・不運に見舞われても、また、不治の病気になり、余命いくばくもない状態でも、希望を持って前向きに生きられる本当の意味での幸福は、神によって与えられた自己を実現し、人格を完成させるために生きるという人生の目的を持つことではないかと考えるのです。そして、この幸福をもたらしてくれるものこそ、キリストのアガペーすなわち愛であり、人生行路は、まさしくキリストのような人間に至るための人格完成への旅路であると考えるのであります。人間は神に似せてつくられたものとして、各自がそれぞれの個性を持って自らの人格を完成させる権利を持っているのであり、それゆえに人間は神聖であり、尊厳を有するのであります。今日は、生命の大切さを人生の目的の観点からお話しいたしました。

二〇〇六年十一月二十一日 火曜チャペル・アワー「創立記念礼拝奨励」記録


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