奨励

胎児は人間なのか


奨励 シュペネマン・クラウス
奨励者紹介 同志社大学文学部教授
研究テーマ 生命倫理と環境倫理

 神は言われた。
  「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
  神は御自分にかたどって人を創造された。
  神にかたどって創造された。
  男と女に創造された。
  神は彼らを祝福して言われた。
  「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

(創世記 一章二六―二八節)


妊娠中絶と法律

 よくあることかもしれませんが、ある女子学生と男子学生が親しくなり互いに好きになって、その女子学生が、自分に子供ができているということに気がつきます。その場合、学生は非常にびっくりして緊張します。どうしたらいいでしょうか。両親は、どういう反応を示すか。自分はまだ学生であり、本当に子供を育てる力があるのか、就職できるのか、結婚はできるのかというような、さまざまな問題が頭に浮かびます。それでまず、最初の考えは、やはり、子供はおろしてもらった方がいいのではないかということです。このような妊娠中絶といわれていることが、本当にいいのかということを少し考えてみたいと思います。

 法律は案外はっきりしています。日本の刑法、これは第二一二条から第二一五条までですが、そこで「堕胎」という言葉が使われていますが、中絶は禁じられているということ、罰則行為だということです。ところが、母体保護法第十四条があり、そこではある条件の下で、妊娠中絶は許されているとあります。この条件は普通、「身体条項」と「経済条項」と呼びます。「身体条項」の意味は、妊娠を法律的に解釈しますと、母体の健康を著しく害する恐れがあるということ。「経済条項」は非常にあいまいな表現で、子供を育てるだけの経済力がないということが普通いわれています。ただ、日本の法律は、案外厳しいのですが、ほとんど守られてはいません。中絶を望む人に中絶をやってくれる病院はいっぱいあるのです。だから、日本は時々「中絶天国」と呼ばれています。不思議ですね。法律があるのにこれを守らないということです。アメリカとヨーロッパを見ますと、もともと日本と同じ厳しい法律がありました。この法律が最近少し変わってきて、妊娠中絶の自由化という言葉が、そこで使われるようになりました。そのために、妊娠中絶の三つの時期、普通「trimester」と言いますが、区別されます。第一は、一ヶ月から三ヶ月までです。一ヶ月と三ヶ月の間はまだ、おなかに入っている胎児はあまり人間らしい形になっていない。場合によって女性は、自分が妊娠しているということを、その段階でまだ、気が付かない事も多いのです。その場合、最初の三ヶ月で妊娠中絶は割に、自由です。普通、妊娠中絶は女性の「自己決定権」に委ねられているという言い方をします。次の時期は、四ヶ月から六ヶ月までです。その四ヶ月になると、胎児の人間らしい形ができあがります。体、手、足、頭が区別できます。そして、病院でおなかをスキャンしてもらいますと、人間になるかわいい姿をもう見ることができます。それで、だいたい四、五ヶ月になりますと、おなかの中の赤ちゃんの動きも始まりますが、場合によっては赤ちゃんをうるさいと感じるお母さんもいます。その時期には、条件が少し厳しくなります。母親の健康に障害が生じる場合、または、胎児に重い遺伝子病がある場合は、妊娠中絶は許されます。七ヶ月から九ヶ月までになりますと、条件が非常に厳しくなります。その時に、赤ちゃんは母体外でも、いわゆる保育器で生存できます。その時に、母親の生命維持に必要な場合以外は、アメリカでも、ヨーロッパでも妊娠中絶は禁止されています。しかし、本当の問題は、法律の問題ではありません。本当の問題は、倫理・道徳の問題です。そして、倫理・道徳の問題は、生命の定義と関係があります。結局は、「胎児は人間なのか」という問題です。胎児が人間であれば、中絶は殺人になるわけです。これは法律の問題だけではありません。やはり、人を殺すこと、人間を殺すことは、通常の考えでは大罪です。

何が「人間」の条件か

 ところが、医学の立場から考えると、一体どうなのでしょうか。「胎児は人間なのか」ということを、医者に聞きますと、個人的な意見として言いますが、医学的立場から答えることはできないと言います。生物学、医学の立場から言いますと、生命は一つのプロセスです。そのプロセスは、受精から始まり、死で終わるわけです。それは、基本的に動物と人間の場合は同じプロセスです。その生命の発展段階で、いつから「人間」と呼ぶことができるかということを、医者は言うことができません。これは最終的に、宗教・哲学の問題となります。そして、宗教・哲学に対して、医学者は普通「中立」と呼ばれている立場をとり、やはり、このことを医学・生物学の立場から判断できないと言います。ところが、今度は哲学から医学を見ますと、実はその考え方や立場はさまざまです。ある学者はこう言います。「人間の命は受精から始まります。だから、おなかの中にできた受精卵は、最初の日からもう人間なのです。だから、妊娠中絶を絶対許すことはできません」。カトリック教会の中にこのような考え方が多いのです。また、今アメリカでブッシュ大統領を支援しているプロテスタント教会の福音主義の保守派の中にも、だいたいそういう考え方があると思います。また、全く違う立場もあります。人間にはいろいろな条件があるという考えです。人間の条件は意識を持っているという考え方です。意識がなければ、人間という言葉を使うことができません。意識という言葉を使いますと、いろいろな段階があります。たとえば、我々が大人として物事を考えることができる、これを普通「理性」と呼びます。小さい赤ちゃんはその意味での「理性」をまだ持っていません。ただし、意識の最低限の最初の段階は「感覚」です。特に痛みを感じることができる能力です。そしてまた、こういう考え方もあります。胎児には感覚がないから痛みを感じることはないので、「胎児は人間ではありません」。そういう考え方を持っているのは、オーストラリア出身のピーター・シンガーという有名な倫理学者です。彼によれば、胎児を堕すことは全く罪ではありません。場合によっては生まれたてで大きな障害を持っている赤ちゃんも人間じゃない。チンパンジーなどのサルは、赤ちゃんよりも、胎児よりも感覚があるから発達の段階でははるかにすごいというのです。だからチンパンジーを守るべきだというのです。しかし、人間には意識がある、感覚があるという条件をつけますと、この考え方では重大な障害を持っている人、寝たきりの老人、または植物人間と呼ばれている人は人間になりません。これは非常に危ない考えです。わたくしの知人は九十五歳で亡くなりました。最後の一年は、ほとんど意識不明で寝ており、自分の力で物を食べることができなくなり、点滴によって生きていました。子どもたちが、病院つきの老人ホームだったのですが、そこへ訪ねて行き、声をかけても全く反応がありませんでした。意識がなくても、わたくしたちの大切な友人でした。人間だった、ということです。人間が持つ性質、人間が持っている能力を人間の条件にすると、簡単に人間を区別する傾向があります。また、差別します。この人はいい人です、ちゃんとした人間です。この人は悪い人です。この人は人間らしくない。この人は人間ではない、という言い方をするわけです。人間の中にある能力を探し、これをいわゆる「人間の条件」にすることは非常に危ないとわたくしは思っています。

条件なしの神の愛

 そこで少し妊娠中の女性のことを考えてみましょう。おなかに入った胎児は、その女性にとっては赤ちゃんです。名前を考え、生まれた後のどういう準備が必要かということを一生懸命に考え、着るものやベッドを用意します。病院に行き検査を受けておなかをスキャンしてもらい、うれしくその赤ちゃんの姿を見ることができます。ある時は実際に赤ちゃんに声をかけて静かにしなさいとか、わたくしも休みたいのよ、と言ったりします。場合によっては、おいしいものを食べ、これは赤ちゃんのためだ、ということも考えたりします。胎児と呼ばれている子は母親にとって生きている赤ちゃんだ、ということです。赤ちゃんを産みたくても、まだ産むことができない女性にとっても、実は胎児は赤ちゃんです。だから子供をおろすことは精神的に非常に苦しいことです。日本の習慣で多くの場合は子供をおろした後、お寺へ行き、亡くなった赤ちゃんの代わりに、お寺で水子を供養する習慣があります。子供が欲しいかどうかということは別にして、母親にとって胎児は赤ちゃんです。

 抽象的に言いますと、胎児を赤ちゃん、小さい人間と思うことは、この胎児が持っている能力とか性質に関係なく、母親の愛だという点は、非常に興味深いと考えるべきことです。キリスト教の立場から考えますと、そこに非常に深い象徴的な意味があると思います。わたくしたち人間を人間にするのは、そして、わたくしたちの命の条件は、我々ができること、我々が持っている能力ではなくて、神の愛によるということです。神がわたくしたちに生命を与えてくださった。そして、欠点だらけであるわたくしたちを、神はそのままで条件なしに認めてくださり、困ったときには必ず道を開いてくださる。そして、死んだ後にいつか新しい命を与えてくださるということをわたくしたちは望むことができるのです。このように神に愛されているからわたくしたち人間は生きることができると思っています。

胎児は人間です

 本来の問題に戻りますと、「胎児は人間なのか」ということです。生物学的にみると胎児はまだ人間ではありません。しかし、生物学的にまだ人間でない胎児でも、元気に生きている人と全く同様に神に愛されている、神がわたくしたちを守ってくださる、わたくしたちの将来を開いてくださるように、この胎児も守り、将来を開いてくださると思います。このように考えますと、「胎児は人間です」ということしか言えません。だから、妊娠中絶は神の愛を無視することで、そして、やはり、人を殺すことになります。特別な場合、妊娠中絶はやむを得ないことです。しかし、そう考えても、胎児は人間であるから、胎児をおろすことは大きな罪だという結論しかありません。簡単なお祈りをいたします。

 天の父なる神様、わたくしたちは愛されているから毎日のこの世における困難に満ちた生活を送ることができます。神様がわたくしたちばかりでなくて、すべての人を愛し、まだ生まれていない人も愛しているということを教えてくださいました。そして、すべての人を大切にして、まだ生まれていない赤ちゃんをも守ることができますように、わたくしたちを導き、そのために力をお与えください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。

二〇〇六年十月十八日 京田辺チャペル・アワー「奨励」記録


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