奨励

「原理主義」について考える

奨励 森 孝一〔もり・こういち〕
奨励者紹介 神学部教授
研究テーマ 宗教を手がかりにして、アメリカを分析する

 神はこれらすべての言葉を告げられた。
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

(出エジプト記 二〇章一―四節)

世界各地で宗教復興が起こっている

 皆さん、おはようございます。チャペル・アワーにおいて、ご一緒に礼拝を守ることに感謝したいと思います。またグリークラブの皆さんの、すばらしいコーラスを聴かせていただきました。
 さて今日は、「原理主義」について考えてみたいと思います。冷戦構造が崩壊するのと、大体時期を一にして、世界の各地域・各宗教において宗教復興が起こってきております。このことは世界の常識ではありますが、日本においてはそれが十分に認識されていません。認めたくないという気風が日本社会にあるのかもしれません。世界各地、各宗教がもっている、宗教復興の中身はどういうものなのかを考えてみると、そこに共通性が見られるように思います。一応、仮にそれを原理主義的宗教、ファンダメンタリズムというふうに呼んでおきたいと思います。どうして「仮に」、と申しあげたかといいますと、原理主義という言葉は、かなり注意して使う必要があるのです。カルトという言葉と同じように、現在、使われている原理主義という言葉の用いられ方は、はじめからネガティブな意味を込めて、なんでもかんでも原理主義だというふうにして切り捨てていくところがありますので、原理主義という言葉の意味を理解してその言葉を用いていく必要があるだろうと思います。
 先程もお話ししましたが、一九八〇年頃、世界の各地域・各宗教において宗教復興が起こっています。あのイランで、ホメイニによるイラン・イスラム革命が起こったのが一九七九年です。一九八〇年に宗教右派の支持を得て、アメリカでレーガン大統領が登場してきます。世界各地、さまざまな地域、さまざまな宗教において、お互いに何の連絡もとりあってはいないのだけれども、およそ一九八〇年くらいから今日に至るまで宗教復興が起こってきています。冷戦の収束、ソ連の崩壊が一九八九年ですが、八〇年代の終わり、冷戦構造の崩壊とほぼ期を一にして、世界各地で宗教復興が起こっているということが言えると思います。このような世界各地で起こっている原理主義的な宗教復興の原因はどこにあるか。あるいは、その意味はどこにあるのかということについて考えてみたいと思います。

「原理主義」という言葉

 原理主義というこの言葉、用語を注意して使う必要があると申しましたが、我々は原理主義というと、すぐイスラム原理主義を思い浮かべます。しかしイスラムの側は原理主義という言葉を使うのを拒否します。イスラム、アラブには原理主義という言葉はないのか、無理に訳せば、あるのですが、一般にイスラムにおいては、原理主義という言葉は使われません。どうしてイスラムが自分たちの宗教復興運動に対して、原理主義という言葉が使われるのを拒否するのかというと、これは欧米がイスラムに対して勝手に貼ったラベル貼りと理解しているからです。それならどうして欧米やマスコミがイスラムに対して原理主義というラベルを貼ったのかということを考えてみると、世界各地で同時に宗教復興が起こっているからなのです。それもアメリカで起こっているわけです。一九八〇年代、これは福音派と呼ばれる保守的なプロテスタンティズムが積極的に政治に参加していった時代です。これを宗教右派と呼んでいます。宗教右派というものがアメリカの内政において非常に大きな政治的影響力をもってきたわけです。そういう現実があって、アメリカのマスコミは同様に、イスラム圏においても保守的なイスラムの立場の人々が積極的に政治に参加していこうとしている、そのような宗教復興のある一部の論理に対して、原理主義という言葉をラベル貼りしたというふうにイスラムは理解しているわけです。ですから彼らは原理主義という言葉を拒否しております。
 一九八〇年以降使われている、原理主義という言葉を使い始めたのはマスコミです。これはキリスト教や宗教の側ではありません。マスコミが使い始めた言葉であって、そこに共通するものは何かというと、宗教的立場は保守的であるということです。保守的な宗教的立場の人々が政治に積極的に参加しようとしている、そういう運動を称してファンダメンタリズム・原理主義・原理主義者と呼んでいったのだと思います。
 ファンダメンタリスト・ファンダメンタリズム、原理主義・原理主義者という言葉は、いつ、どこで始まったのでしょうか。これはアメリカなんです。一九一〇年代にアメリカの保守的なプロテスタント・グループの人たちに対して、ファンダメンタリストという名称を使って呼ぶようになりました。その時は、キリスト教のある立場を指して使われたものですから、神学用語です。一九一〇年代・二〇年代の原理主義者・根本主義者というのは神学用語です。ところが一九八〇年以降の原理主義という言葉は、神学用語として使われているのではなくて、政治的な、ある立場に対して使われる、政治用語であるといってもいいのではないかと思います。アメリカにおける宗教右派、これはキリスト教理解において保守的なプロテスタントです。福音派が政治化した状態、それを宗教右派と呼んでいますが、宗教右派とアメリカにおけるキリスト教原理主義者は同じ意味です。
 ところが日本のマスコミにおいても、日本におけるアメリカ研究者においても、それらがごっちゃになっている。福音派と宗教右派とキリスト教原理主義者、その違いは何なのかということは全く意識されず、それがぐちゃぐちゃに使われている。あるマスコミの人は、そこにネオコンまで入れて、ファンダメンタリストは全部保守的な人で、だめだという形で切り捨てていく。
 一九八〇年以降の原理主義を理解する上で、一つのキーワードは政治参加です。保守的な宗教者が政治に参加していく、これは八〇年代以降の原理主義者に共通する要素だと思います。アメリカにおけるキリスト教原理主義者である宗教右派の政治参加とは、どのような政治参加なのでしょうか。それは選挙です。大統領選挙において、積極的に選挙にかかわっていくという形での政治参加です。
 それではイスラム原理主義と呼ばれる人たちの政治参加の方法とは何か。それは、一部のイスラム復興運動のなかで過激派が行うテロもそのひとつです。テロという手段を用いて政治に参加していく。選挙とテロという、彼らの政治参加の方法は違うけれども、しかし保守的な宗教者が政治に参加しようとしている。これは一九八〇年以降、世界の各地において起こっている原理主義に共通する要素であると思います。

どうして宗教復興が起こったのか

 最初に、世界における宗教復興と言いましたが次に、どうして宗教復興が起こったのかということについて考えてみたいと思います。これはマルクスをはじめとする近代主義者の予想と全く違う歴史展開です。近代主義者たちは、歴史が進めば宗教はなくなる、衰退すると予想しました。ところが宗教がなくなることを予測した共産主義・共産党が崩壊した。そしてその後に、民族と民族の中心にある宗教が復興して、現在、旧ソ連において民族と宗教の時代を迎えているわけです。近代主義者の予想と全く違う形で歴史が展開されている。それはなぜだろうか。なぜ世界各地、各宗教において復興が起こったのかを考えると、それは人間の本性にかかわっているからだということがわかります。
 人間の本性は何かというと、自分自身の意味を求めるというところにあるのではないか。自分とは何か、自分はなぜ存在しているのか、存在している意味は何か。あるいは自分だけでなく、自分たちの社会、国家といってもいいですが、その自分たちの社会、自分たちの国家の存在の意味というものはどこにあるのか、それを問う。これは人間の本性なのです。善い悪いではなく、人間はそういうものなのだ、つまり人間の本性なのだと思います。「人間は考える葦である」とパスカルは申しましたけれど、考えるということは人間の特徴です。しかしもっと、他の動物にない人間だけにある特徴は何だろうと考えてみると、意味を求めるというところにあるのではないかと思います。
 冷戦の収束、冷戦構造の崩壊と宗教復興が期を一にすると申しましたが、冷戦時代を考えてみると、意味というもの、あるいは国家の存在、個人の存在の意味はどこにあるのかという、その答えがはっきりしていた時代だと思います。共産圏においては、共産主義イデオロギー(共産主義という宗教といってもいいと思いますが)によって国家が存在の意義というものをはっきり示していた。そして、国家の存在の意味・目標を実現するために国民が働く。国民が働くことによって一人ひとりの国民は自分自身の存在の意味を確認できる。そういう時代であったと思います。それでは共産主義陣営ではなくて、自由主義陣営ではどうであったか。悪である共産主義と戦う。その使命をもっているという形で、はっきりとした答えを出した時代であったと思います。
 ところが冷戦構造が崩れる。一九八九年にソ連が崩壊していく。崩壊した後のソ連はどうなったか。十いくつの共和国に分かれた。それぞれの共和国は何をもとに国をつくっていくか。それは民族です。民族意識の核にあるのは何か。それは宗教です。共産主義という宗教が崩壊し、民族と宗教が復興した。これが旧ソ連における宗教復興の状況です。
 ではイスラムはどうか、ユダヤ教はどうかということを考えてみると、やはり宗教復興が起きています。宗教復興が起こる前にイスラエル、アラブ世界、イスラム圏の人々に意味を与えていたものは何だろう。それはナショナリズムだろうと思います。民族主義です。たとえばイスラエルは世俗的民族主義としてのシオニズム、政治的シオニズム。アラブ圏はナセル大統領に代表される汎アラブ民族主義です。これがアラブの人々に存在の意味を与えていた。そういう時代であったと思います。
 宗教がアイデンティティであった時代の次の時代、近代と呼ばれる時代は、ナショナリズムが宗教にとって代わるというところがあったと思います。しかしイスラム圏とアラブ圏のことを考えてみると、ナセル派のアラブ主義というものによって欧米に対抗できたかというと、できない。人々は世俗的民族主義に失望していく。その結果、イスラムにしか戻れない。そういう形でイスラム復興が起こってきたのではないかと多くの人々が考えていますが、その理解は正しいのではないかと思います。

世界の原理主義に共通する要素

 さて原理主義宗教に共通する特徴について、もう少し整理して考えてみたいと思います。国学院大学の井上順孝さんは、原理主義に共通する要素について面白い説明をなさっています。三つのゲンテン主義、つまり世界の原理主義には共通する要素として三つのゲンテン主義がある、というものです。一つは点数を失っていく「減点」です。二番目は本来そこに帰らないといけないという「原点」です。三番目は聖書やクルアーンという宗教的書物、その「原典」。こういうことを重んじているという共通要素があるという説明です。最初の「減点」とはどういうものか。これは歴史観です。だんだん悪い方に進んでいっている、減点しながら歴史は進んでいっているというのが原理主義に共通する歴史理解です。確かにそうだと思うのです。経済的な観点、近代の価値観はだめだと、もう一度「原点」に戻らなければならないという考え方です。イスラム原理主義の指導者のなかには、理系の大学院を出た方がたくさんいます。テクノロジーとしての近代科学は受け入れる。しかし自分の価値観として、西洋的な自由主義の価値観は採用できない。だからイスラムの信仰に戻る。そして近代的な技術を使っていく。これが二つ目の「原点」です。そして、三つ目の「原典」が聖書やクルアーンです。答えははっきりと書かれている。聖書やクルアーンにはっきり書かれてある。誰が見ても明らかだ。それを読めばいい。解釈する必要はない。文字通りそれを読んでそのまま受け止めていけばいいのだ。これが三番目のゲンテン主義だと思います。
 次に、今言ったような特徴をもった原理主義は日本においては存在するのかということについて考えてみたいと思います。宗教原理主義に関する限り、原理主義的宗教は存在しないといえると思います。現在の日本の宗教を考えてみた場合、イスラム世界やアメリカにおけるような、はっきりとした、大きな勢力としての原理主義的宗教は見つけることはできないと思います。しかし今、原理主義の話をしてきたなかで申し上げましたような、今まで信じられて正しいとされてきた価値観が崩れるなかで、崩れさった後に価値というものが存在しない、価値の空白状態ができて、そしてそれを何かによって埋めようとする、こういう動きは、日本においても見られるのではないでしょうか。はっきり見られるのは第二次世界大戦の敗戦だと思います。今まで、これが正しいのだと思っていたものが、翌日には間違いとされました。教科書に墨が入れられる。同じ先生が、昨日までとは全く違うことを教えるということが起きたわけです。これこそ価値の崩壊、価値の空白といっていいと思います。日本社会はそれを何で埋めたのでしょうか。国を建て直す、経済を復興させる、そのために国家目標を経済復興としてやってきました。その経済復興の一翼を担ってきたという形で、戦後の日本人は自分の存在の意味を保ってきた。これは答えがはっきりしていた時代ではないでしょうか。しかしそれに成功して、日本は世界で第二位の経済大国になった。それと同時に、我々は価値の空白の状況を迎えるようになったのだと思います。そういう点では旧ソ連、旧共産圏が現在置かれているのと同じような状態に、今の日本もあるということがいえるかもしれません。

原理主義のもう一つの特徴

 さて原理主義に共通するもう一つの特徴として、非常にシンプルで単純な答えを求めることがあると思います。その単純な答えを真理であるとして、私は真理を得ている、この真理を他の人に伝える、もしその人がこの真理を受け入れないなら、この人を排除して構わないという結論に至る。これが原理主義に共通する一つの特徴ではないかと思います。戦後、日本における価値を与えてきたものは経済復興だったと言いましたが、経済復興が一応成功して、それが終わった後の時代、教育の現場ではどういうことが価値になっていったのか。ここに集まっている学生諸君もそうですが、高校まで、学校には一つの価値しかない。それは何か。偏差値です。非常に単純で、はっきりしています。偏差値という価値、そして高い偏差値をとることのみに意味がある、そういう教育を受けてきた。教育する方は簡単です。偏差値が高くなるように鍛えればいいだけなのですから。そういう教育は一種の原理主義だと思うのです。偏差値原理主義といってもいいくらいの原理主義なのです。そしてその偏差値という価値観から外れていく、嫌な言葉だけれども、それを「落ちこぼれ」という。それを排除していく。これも原理主義に共通する一つの特徴です。これは間違っている、偏差値原理主義は間違っていると気づいた人たちが、オウム真理教に惹かれていきます。彼らは非常に高学歴の人たちです。でも偏差値原理主義はおかしいと思って、それから自分の身を引いた、そういう人たちです。そして真の価値をどこに求めたか。麻原彰晃にその価値をおいたわけです。非常に単純なことです。今まで偏差値の原理主義だった、しかし麻原に乗り換えた。しかもすぐに違うものにいく。これも原理主義のもう一つの特徴です。シンプルな答えを得ようとするだけではなく「待てない」、これが原理主義者の特徴の一つです。本当は真実とか、真実なるものは、なかなかはっきりしない。白か黒かというものではない。ほとんどは灰色なのです。その灰色のなかで、何とかはっきりしたものを求めていきたいという気持ちはあります。しかし待てない。すぐに単純なものに飛びついていく。これが原理主義のもう一つの特徴ではないでしょうか。

一神教の基本

 さて、今日与えられた聖書の「出エジプト記」二〇章を学びました。この章は皆さんよくご存じの有名な十戒です。今日読みました四節までは、その前半部分です。一般に日本においては、一神教―ユダヤ教・キリスト教など―というのは、唯一の神である、そして排他的な性格をもっていると捉えられることが多いです。私はそうじゃないということを今日、申し上げたい。この聖書の箇所、三節をもう一度読んでみたいと思います。
 「あなたには私をおいて他に神があってはならない」。この「出エジプト記」二〇章の十戒は、ユダヤ教においてもキリスト教においても非常に重要な教えとして、我々はこれを尊重しています。イスラムではどうか。イスラムでもこれと同じような考え方をもって大切にしています。イスラムの最も根本的な信仰告白は二つあります。一つは「アッラーの他に神なし」。もう一つは「マホメッドが真の預言者である」。この二つがイスラムにおける中心的な信仰告白です。「アッラーの他に神なし」と「私をおいて他に神としてはならない」とはよく似ています。十戒においては「私をおいて他に神としてはならない」。イスラムにおいては「アッラーの他に神はなし」。非常に原理主義的だと思われるのではないでしょうか。この神しか神としてはいけない。他の宗教は認めない。自分だけを「絶対」としている。これこそ原理主義的宗教の中心的な教えであるというふうに考えられるかもしれません。
 しかしそのような理解は正しくないということが、三節に続いて四節に書かれています。四節で「像を刻んではならない」、すなわち偶像礼拝を禁止しているわけです。「神のみを神としなければならない」という教えと「像を刻んではならない」という教え、それらが対になるわけです。これはどういうことか。アッラーしかり、ヤハヴェもそうですが、絶対者としての神なのです。絶対なるものは神しかない、と言っているのです。絶対なるもの以外のものを神としてはならない。そして偶像を刻んではならない。我々は偶像礼拝というと、像とか絵画とかモノが偶像と考えてしまいますけれど、こういうふうに考えたらどうでしょうか。人間がつくったものを絶対としてはいけない、と。宗教は人間がつくったものです。ですから、宗教を絶対としてはいけない。絶対なるものは神しかない。だから、宗教は絶対ではない。組織としての宗教、教えとしての宗教、テキストとしての宗教、それは絶対ではないのだ。絶対なるものは神以外にはないのだ。これが一神教の基本なのです。原理主義者の間違いはどこかというと、絶対なるもの(神)と自らの宗教を同一視していることです。自らの宗教というのは人間がつくったものなのに、それを絶対なるものとする。これが原理主義的宗教の特徴なのではないかと思います。

原理主義の克服という  我々の課題

 最後にこのような原理主義というものを我々はどうやって克服していくのかという点についてご一緒に考えてみたいと思います。今日の世界の宗教が直面している最大の問題は原理主義的宗教の問題だと思います。原理主義的宗教が自分の宗教以外のどこかにあるということではありません。それにどう対応したらよいのかという話をしているのではないのです。自らのなかにある、自らの宗教のなかにある原理主義というものを、どのように克服していったらよいのかということを考えなければいけないということについてお話ししているのです。宗教における反原理主義の立場は宗教的リベラリズムであると思います。リベラルな宗教的立場といってもよいと思います。同志社のキリスト教はリベラリズムの立場に立っています。これはどういうことか。私たちは神を知りたいと思う、真理を知りたいと思う、そのために一生懸命努力をする。そしてある時、「得た」と思うことがあるかもしれない。しかし私たちが得た確信というものは、永遠なる神からすれば、ひょっとすると、それは間違っているのかもわからない。こういうある種の謙虚さ、これがリベラリズムの特徴なのではないだろうか。本当の宗教的リベラリズムというのは、今申しあげたような、私たちが確信したと思っている真理も、永遠なる神から見るならば、それは過ちがあるかもしれない、というふうに自らを批判していく態度ではないかと思います。
 原理主義的宗教にどのように対峙し、克服していけばよいのかということは、今日、宗教が直面している最大の課題であり、キリスト教にとっても全くそれは同様です。そのために、我々はさまざまな神学的な営みを行っているわけですが、一つだけ問題点、といいましょうか、それを克服していくことが我々の課題ではないかということを指摘しておきたいと思います。原理主義的宗教の特徴というのは、相手を自分と同じ型にはめていくというあり方です。自分たちは真理を知っている。この真理を相手に伝える。伝えるということは、相手を自分たちと同じ型に入れるということ、これが原理主義の特徴です。これは同化という言葉になります。相手を自分たちに同化させていく。原理主義の特徴です。
 キリスト教における伝道についても同じことがいえるのではないでしょうか。今までのキリスト教における伝道というのは同化ではなかったか。相手を自分たちと同じ形に変えていく。これを克服していく一つの重要なポイントは宣教概念、伝道概念を我々が新しくとらえ直していくことです。同化ではない宣教論とはどういうものなのか。これについて考えていくことが非常に重要な課題ではないかと思います。どうやって原理主義的宗教を克服し、どうやって共存していけばよいのかという課題は、四十年前のキリスト教の世界では盛んに研究されていました。数えられないくらいの著作があり、数えられないくらいの宗教会議が行われました。しかし考えてみると、キリスト教の現場・教会においては全く変わっていないのです。原理主義的宗教をどう克服していったらよいのか、共存するために、どのようにキリスト教が変わるべきなのかという研究成果が、そこでは全く活かされていない。昔ながらのキリスト教を伝えて、相手を同化しなければいけないということしか行われていないのです。新しい形の宣教論とはどういうものなのか。それが今、神学にとっての最大の課題です。
 共存のための神学、これを対話の神学とも言いますけれど、宗教の神学、対話の神学は、今までは組織神学において行われてきた。次の課題は、実践神学として、それをどのように実現するか。宣教すべきか。それが今、我々に与えられている最大の課題だと思います。

二〇〇九年十月二十一日 水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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