奨励

人生、生きてみる価値があります

奨励 金 度亨〔きむ・どひょん〕
奨励者紹介 日本キリスト教団ゴスペルハウス伝道所牧師

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

(マタイによる福音書 一三章四四―五〇節)

ライフ・イズ・ビューティフル

 一九八八年に制作された『ライフ・イズ・ビューティフル』というイタリアの映画があります。イタリアでは「九〇年代のチャップリン」と呼ばれているロベルト・ベニーニが主演、監督をつとめた映画です。
 この映画の主題は「人生」であります。私たちに与えられた人生、そのものが美しいということがこの映画の内容です。言い換えれば、私たちが生きている今のこの人生、あるいは生きること、生かされていること、それ自体が大事であり、美しいということです。「私たちの人生、いくら辛くても生きる価値があるのだ、生きる意味があるのだ」、これがこの映画の主題であります。
 ところが、このごろはこの「生きる」ことに対して価値や意味を見失っているような人びとがいます。自分の人生がどうなってもかまわないと思い、自分の人生を否定してしまう人が大勢います。自分がなぜ生きなければならないのか、自分がこの世に存在する理由は何なのかを知らないまま生きている人が多いように思います。
 『ライフ・イズ・ビューティフル』では、どんな状況においても肯定的な考え方を忘れないことを私たちに教えています。映画では戦争という極めて困難な状況を設定しています。どのような時代においても戦争より厳しい状況はありません。しかし、映画の主人公はこの極めて困難な状況のなかでも笑うことができれば、その人は幸せな人であると語っています。状況が問題ではありません。私たちに与えられた人生は、それ自体が尊いものであり、美しいものであり、意味あるものなのです。映画の最後の場面で、主人公の犠牲によって生き残った息子が、母親に再会した時に語ったひと言が未だに耳に鮮明に残っております。父親が、いつも自分を笑わせてくれていたことを嬉しそうに語る姿が、鮮明に残っております。
 戦争のなかにおいても、極めて困難な状況においても、私たちは笑えます。私たちは幸福を感じることができます。だから「人生は美しい」のではないでしょうか。

畑に隠されている宝を見つけた人

 本日の聖書箇所でも「人生は生きてみる価値がある」と私たちに教えています。四四節には、「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。この箇所のなかの「天の国」という言葉の代わりに、「幸せな人生」あるいは「価値ある人生」に入れ変えて読んでみてもよいと思います。「天の国のような人生」は比喩的に、一番美しく、幸せな状態を現す表現であります。つまり、私たちがこの世で天の国のような人生、幸せな人生、価値ある人生を生きるということは、畑に隠された宝を見つけることのようです。その宝を見つけた人こそが天の国のような人生を、価値ある人生を生きていけるのです。
 では、その「宝」が何なのかと言うのが問題になってきます。キリスト教では「宝」は「真理」であり、「真理」はイエス・キリストであります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。「真理」があなたたちの人生を価値あるものにするという意味であります。イエス・キリストと出会った人びとは、「宝を」見つけた人のように価値ある人生を過ごすことができます。「真理」に対する渇望がある人、価値ある人生を生きたいと願う人、天の国のような生き方をしたい人にイエス・キリストの「真理」があなたたちを自由にし、価値のあるものにします。

あなたが宝です

 また、違う聖書の箇所には「宝」というのは私たちであると語っております。旧約聖書のイザヤ書四三章四節にはこのように書いてあります。
 「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂のかわりとする」。
 神は私たちを「宝」と言います。この「宝」を見つけた人は幸せな人です。天の国を所有した人であり、喜びが満ちあふれます。
 愛する皆さん、私たちの人生が幸せではない、無意味であり、生きることに何の意味を見つけることができないと思ったことはないでしょうか。もしそうであるならば、その人は、まだ、「宝」を見つけていないからなのです。この「宝」を見つけるためにも、私たちの人生は生きてみる価値や意味のあるものです。
 また、皆さんに知らせます。皆さんが「宝」そのものです。皆さんは神さまにとって尊い存在であります。その事実に気づいているかどうかによって、人生は変わってきます。
 『あなたは愛されるために生まれた人』というゴスペルソングがあります。このフレーズの意味をよく考えてみてください。私たちがこの世に生まれた理由、私たちの存在目的は、愛されるためです。この事実に気づいたとき、私たちの人生は幸せで、美しきものへと変わります。
 さらに、「私自身」が「宝」ということに気づいたとき、「あなた」という存在もやはり「宝」であることに気づきます。私が無視してきた「あなた」、私が軽く思ってきた「あなた」という存在が「宝」であることに気づきます。「私」が「宝」であり、また「あなた」が「宝」になるような人生は幸せなものです。
 人生は、生きてみる価値があります。「宝」を見つけることができなかった人は、その「宝」を見つけるときまで、もっと頑張って生きてみる価値があり、もうすでに見つけた人は見つけたその「宝」のゆえに生きる価値があるのです。
 最後に、イエスは真珠のたとえで生きることの大切さを教えています。真珠というのは貝の中に入った異物質で、貝の中に砂が入り、その異物質によるその痛みに貝が忍び耐えて作りだした結晶物が真珠となります。
 私たちの人生が辛いとき、痛みを感じているとき、そのときこそ生きる意味が無いのではなく、むしろ人生の真珠を見つけることができるときであることを忘れないでください。「苦難なしで、人生で大事なことを見つけることはできない」という言葉を覚えましょう。私たちに与えられたこの短い人生を、幸せで、意味あるもの、価値あるものにしたいと思います。

二〇一〇年十月六日 京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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