奨励

環境問題とキリスト教が出会う時

奨励 和田 喜彦〔わだ・よしひこ〕
奨励者紹介 同志社大学経済学部教授
研究テーマ エコロジー経済学、エコロジカル・フットプリント分析、核エネルギーの環境影響、戦争と環境問題

 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

(マタイによる福音書 二五章三一―四〇節)

はじめに

 本日は、創立記念礼拝のこの場で奨励の任を務めさせていただくこと、非常に光栄に思っております。本来、創立記念礼拝ですので、同志社の創立と直接関係するお話ができればよろしいのですが、私自身、同志社の歴史研究を専門にしているわけではありません。そこで、同志社の教育の根幹であるキリスト教と、私の専門分野である環境問題の関連性につきまして話をさせていただきます。

深刻化する資源・環境問題

 最近、アジア、あるいはラテンアメリカ等の新興国を中心とする国々の経済発展がめざましく、それに伴い環境問題や資源問題が世界的に深刻化しております。たとえば、工業化が著しい中国の都市部では、大気汚染や水質汚染が住環境を悪化させています。また、皆さんは「パーム油」というものがどんなものであるかご存じでしょうか。油ヤシとも言われていますが、マーガリンやポテトチップス、インスタントラーメン、あるいは化粧品、洗剤などを作る際に不可欠な油です。現在、パーム油の需要が世界的な経済発展の流れに呼応して急増しております。その需要に応えるため、マレーシアやインドネシアでは、パームプランテーションの開発が急ピッチで進められております。それによって生物種の宝庫である熱帯雨林が伐採され、環境問題とキリスト教が出会う時生物多様性が急激に失われるという事態が起きております。
 折しも生物多様性を守るための会議が、(二〇一〇年十月)名古屋で開催されました。これは「生物多様性条約第十回締約国会議」、通称「COP10」と呼ばれる会議ですが、世界中から政治家、官僚関連の企業、NGOなどから八〇〇〇人を越える人びとが参加し、関心の高さが伺えました。この国際会議では地球上の多様な生物とその生息環境をいかに保全し、また遺伝資源の利用から生ずる利益をいかに平等に分配するか、などが話し合われました。マスメディアでもよく採り上げられていたので、ご存じの方も多いと思います。
 一方、資源問題のなかでも最近話題になっておりますのは、レア・アース、これは希土類元素と呼ばれるものですが、この最大の生産国である中国が、資源の枯渇防止や環境汚染の防止を理由に輸出を制限しはじめたことが、最近話題になっています。レア・アースの代表例はインジウムという元素ですが、これは液晶画面の製造には不可欠な元素です。

キリスト教は環境問題の元凶か

 こうした資源問題、あるいは環境問題が発生する根本的な原因は何なのか、ということが時々話題になります。その答えとして「西洋文明の基礎をなす、ユダヤ教やキリスト教の人間中心的な宗教観が環境を破壊してきたのだ」という主張を時々耳にします。その急先鋒は、リン・ホワイトという、アメリカ・カリフォルニア州生まれの歴史学者です。ユダヤ教、キリスト教では、人間が自らのために自然を搾取することは、神の意思であり、その根拠は、旧約聖書の創世記一章二八節であるというのが彼の主張です。
  神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。
 なるほど、ここだけを読めば「人間の繁栄のために、人間が自然を支配し、利用することを神が望んでおられる」という解釈が成り立つのかもしれません。リン・ホワイトは、彼自身もクリスチャンではあるのですが、「このようなキリスト教の教義が、西洋文明圏による環境破壊の根源である」と主張したのです。これは一九六七年の『サイエンス誌』に載せられた記事です。そして彼は「東洋の仏教や神道思想が自然と調和的であり、環境保護に貢献している」とも言いました。しかし、仏教は本当に自然と調和的であったのでしょうか。最近話題になった平城京の立派な宮殿や、大きな寺院などを建設するために奈良や滋賀県の山が禿山になった歴史的事実をどう解釈すればよいのでしょうか。現在でも、台湾の原生林が、日本の仏教寺院の柱材の確保のために切られているという話も、耳にいたします。
 リン・ホワイトの論文の出版の後、世界各地でキリスト教と環境問題の議論が沸騰しました。一九七四年にジョン・パスモアという学者が、リン・ホワイトの主張に反対する有名な論考を発表しました。パスモアは、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州、シドニー近郊マンレー生まれの哲学者、思想家であります。彼は『自然に対する人間の責任』という本のなかで、創世記の一章二八節では人間の自然への支配権が強調されてはいる。しかし、同時に羊飼いとして神によって造られた被創造物たる自然を賢く世話をする(英語でsteward 管理し養うとも訳しますが)義務もあると主張しました。
 確かに聖書には「神が創り給うた自然は人間が責任をもって守りなさい」というエコロジー的思想があちらこちらに書かれています。たとえば同じ創世記の一章三一節、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあり、同じく創世記二章一五節には、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とありますし、また同じく創世記六章から九章に描かれている「ノアの箱舟」の物語には、六章一九節、「また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。」という命令が書かれています。「生物種を絶滅しないように責任をもって管理し、生物多様性を維持しなさい」という命令です。
 はたしてキリスト教は環境破壊の元凶だったのでしょうか。あるいは、その逆で環境破壊の防止に役立ってきたのでしょうか。皆さんは、どのように考えられるでしょうか。私自身は「そのどちらでもあった」あるいは「あり得る」と考えております。時代ごと、地域ごとにキリスト教と自然生態系との関係性は千差万別ですし、また変化をしています。聖書には「自然を支配して利用してもよい」という命令と「自然を保護せよ」という両方の命令があります。解釈する側が、どの命令をどの時点で重視するかという点で、かなり差が出てくると思うわけです。

カトリックの清貧とプロテスタントの勤勉

 歴史を遡ってみますと、中世のカトリック教会が支配的な時代にあっては、清貧、貧しくとも清く正しく生きるという態度が重んじられていました。「天国に宝を積みなさい。カトリック教会に寄付しなさい。個人の世俗生活における物質的な豊かさを求めたり、富の蓄積のために、あくせくするのは罪である。貪欲であるという考え方は悪である」というのが支配的な考え方・教え方でした。結果的に資源消費は低く抑えられていました。しかしプロテスタント教会が勢力を拡大し、産業革命が勃興するなかで、「富の蓄積は本人の勤勉さに対する対価、あるいは報酬として神様が認めてくださるものである。利己的な物質的豊かさの追求は、節度がある限り、過度でない限り認められる」という教えに変わっていきました。利己的な動機であれ、それが勤勉さを促し、かつ社会全体としての生産量が増えること、すなわち経済が成長することで、社会全体のウェルビーイング、あるいは社会厚生が上がるのであれば、その利己心は是認される、とされたのでした。
 実際、経済は成長し、人類の物質的な必要性が、先進国を中心として充足できるようになってきています。その結果、さまざまな社会的指標、あるいは健康の指標が向上しました。これはもちろん部分的な観察で言えることであって、世界を見渡すと、そうでない国や地域がアフリカを中心にたくさん存在しています。しかし、大雑把に見ると、先進国や新興国では、経済成長が貧困問題や食糧問題を解決する手段として、一定の役割を果たしてきたのでした。しかし、同時に人類の資源消費量は莫大な伸びを示すようになり、資源や環境の劣化が引き起こされ始めたのです。

地球の環境収容力と人類のエコロジカル・フットプリント

 そして今日、時代の状況は大きく変わりました。現在、人類全体としての経済規模は、とてつもなく大きくなり、生態系を破壊し、資源を枯渇させる規模にまでに肥大化しました。エコロジカル・フットプリントという指標によると、現在、人類の/経済規模は地球一・四個分の資源を利用しているという数値も出ております。そのような状況下では経済成長を至上目的として、各国ばらばらに、好き勝手に資源消費を増大させていくことで、地球環境が劣化し、生態系によるサービス供給能力が崩壊しかねません。すなわち人類全体が危機的状況に陥る可能性があるわけです。このような状況下にあっては、従来のプロテスタント的な勤勉を旨とする倫理観や、これまでのがむしゃらな成長戦略は通用しなくなってきているのではないでしょうか。地球の環境容量、あるいは環境収容力が、もう一杯になっているからです。このままではキリスト教、特にプロテスタント的な聖書解釈は環境破壊の原因となってしまうでしょう。

キリスト教とエコロジー経済学

 しかし、一方でそのような新しい時代の状況下で、新しいキリスト教のあり方、新しい経済システムのあり方を模索する動きが、キリスト教徒、キリスト教神学者たちから提案されてまいりました。たとえば、アメリカの二〇世紀を代表するキリスト教神学者、ジョン・B・カブJr.博士と、エコロジー経済学者の重鎮、ハーマン・デイリー教授などです。カブ博士は、カリフォルニア州のクレアモント神学大学院の名誉教授ですが、有機的なキリスト教神学である「プロセス神学」を打ち立てたことでも有名です。八十五歳の高齢ながら、ご活躍されています。
 持続性、あるいは英語でsustainability、あるいは持続可能な開発、英語でsustainable development という言葉は、一九八七年のブルントラント報告書がきっかけで世界的に有名になりました。しかし実はこれは、カブ博士と彼の息子、クリフ・カブがそれより十年以上前に、世界教会評議会(WCC)で使い始めたのがきっかけと言われています。カブ博士は、宗教、学問分野の間の壁を取り除くため、宗教間、宗派間あるいは学問と宗教の間の対話、あるいは学問分野同士の対話や横断的な研究を進めておられます。その一つの例が、仏教とキリスト教との対話、そしてキリスト教と生物学、経済学との対話です。
 熱心なキリスト教徒であるハーマン・デイリー教授は、エコロジー経済学を主流経済学者に認めさせるのに多大な貢献をしてこられました。地球の環境収容力の範囲内で世界経済をやりくりできる経済のあり方を提言し続けています。たとえば世界の貧困問題の解決は、経済成長という旧来の戦略ではなく、「分配の平等性」という新たな戦略によるべきだという提言です。具体的には「モーゼの十戒」に続く第十一番目の戒律を提案されています。すなわち「汝、私有財産の分配において、無制限の不平等を許すなかれ」。すなわち地球の資源の有限性が顕在化しているときだからこそ、経済の更なる成長は難しい。ではどのような戦略で、貧困問題を解決すべきであろうか。資源の不平等な分配を改善することでしか問題は解決されないと主張されています。
 より具体的には、最高賃金制度の設置を提言しています。最低賃金制度というのは、各国で存在するかと思いますが、最高賃金制度はあまり耳にしません。デイリー博士は「初任給と組織の一番トップにある方の所得の差の許容範囲として十倍程度までは許される」としています。実は、古代ギリシアの哲学者プラトンは当時、四倍程度という提言をしていたということがわかっております。もともとキリスト教の考え方、あるいはユダヤ教の環境問題とキリスト教が出会う時考え方には「私有財産は認めつつも、極端な不平等は認めない」という思想が伝統的に存在していました。その一つの具体例が、ヨベルの年、安息年、五十年節とも呼ばれておりますが、五十年に一回、借金の棒引きをするという、いわゆるリセットの時期を五十年に一回、持つということが提案されています。これは旧約聖書のレビ記二五章に書かれております。二〇〇〇年に、アフリカの多重債務国の借金を棒引きにしようという運動がおこりましたが、これもヨベルの年を現代に復活させていこうという動きの現われであったわけです。
 そのほか次のような記述もあります。

 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。

(レビ記一九章九―一〇節より)

 ミレーの「落穂拾い」のモチーフは、この聖書の箇所からきております。最低限の生活を保障できるような仕組みが、旧約聖書のなかに具体的に提案されていたわけです。

新島襄と田中正造

 このように聖書には環境問題を解決するための、いろいろな知恵が散りばめられています。私は、今日創立記念礼拝のなかで、ひとつ同志社の精神と同じ精神をキリスト教の聖書のなかに見つけることができました。先ほど読んでいただきましたマタイによる福音書二五章四〇節の最後です。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」という言葉があります。最も小さき者、この人にしてくれた施しというのは、実は王様あるいは神様にしてくれたものと同じことである。それだけ重要なことなのだということをこの箇所では言っていると思われます。
 そしてマタイによる福音書の一八章には似たような記述がございます。

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。(一〇節)
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(一四節)

 新島襄は、創立十周年記念式典で「諸君ヨ人一人ハ大切ナリ」と述べたと伝えられています。ここにある精神、これは環境問題と深いつながりがあります。それは公害問題が発生したときにも活かされてきました。具体的には、足尾銅山鉱毒事件の被害者を救済する環境問題とキリスト教が出会う時ために生涯をかけた田中正造の生き方にそれが表れています。田中正造は彼自身、キリスト教の信者とはならなかったのですが、彼の死の床には、数少ない所有物が袋の中に残されていたと言われています。その袋の中には新約聖書、マタイによる福音書、そして日記と石ころが数個あったのだそうです。彼の生き方、公害の患者を救うために全力を尽くした生き方、これは、先ほどの聖書の箇所、あるいは「人一人ハ大切ナリ」という精神の具現化したものであると私は考えております。
 キリスト教の教えのなかで、創立記念日に思い起こすべき言葉がもう一つございます。それはイエス・キリストの生き方というものが、律法主義というものを批判したことであります。すなわち律法主義とは自分の頭を使って考えず、ただ権力、あるいは為政者が言うことを、それを鵜呑みにして従う。それを良しとする考え方であります。イエス・キリストは「それではない。良心に基づいて、自治、自立の精神によって本質をよく考えて行動しなさい」と言っています。もし、既存の権力が間違ったことをしていたら、各自の良心に従って、それに対して抵抗する。これはもちろん非暴力的抵抗であります。イエス・キリストは、そういう意味では改革者、変革者でした。私たちもイエス・キリストの生き方を学びつつ、この大学の創立の精神を思い起こしていかなければいけないと思います。キリスト教の教えによって田中正造は、自分の行き方に確信をもつことができました。私たちも、もし今の政治経済のあり方が、自分の良心に従って間違っていると思えば、それを臆せず言葉に出し、且つ行動を起こす。そういう生き方をしなければいけないのではないかと、私は思っております。新島がお墓の中で、そう考えているのではないか、私たちにそう伝えたいと思っているのではないかと考えております。このことを創立記念の礼拝のなかで考え、思いおこしていただけたらと願っております。

二〇一〇年十一月十七日 京田辺水曜チャペル・アワー「創立記念礼拝奨励」記録

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