奨励

真理とは誰か?

奨励 越川 弘英〔こしかわ・ひろひで〕
奨励者紹介 同志社大学キリスト教文化センター副所長
同志社大学キリスト教文化センター教授
研究テーマ キリスト教の実践神学(礼拝・宣教・牧会)

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

(マルコによる福音書 10章17―22節)

真理はあなたたちを自由にする

 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
 これが春学期のチャペル・アワーの統一テーマであり、その出典はヨハネによる福音書8章32節に出てくるイエス・キリストの言葉です。
 この「真理はあなたたちを自由にする」という言葉のラテン語訳が、知真館1号館の入口の壁に記されているのを、ご存じでしょうか。
 「VERITAS LIBERABIT VOS」という言葉です。
 このラテン語、あるいは聖書のもともとの言葉であるギリシア語による「真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、いろいろなところで使われていますが、とくに図書館などで一種の標語のようなものとして掲げられていることがあります。それもキリスト教主義の学校だけに限ったわけではなく、国立国会図書館をはじめ、公立の図書館などでも用いられているようです。おそらくそこには、図書館に収められているたくさんの本や情報、つまりさまざまな知識や知恵が、私たち人間をいろいろな束縛や固定観念から解き放ち、自由な発想をもたらし、新たな可能性や成熟した人間形成へ導くものとなるといった理解があるのでしょう。
 それはそれでかまわないのですが、この言葉の本来のコンテキストから言えば、ここで言われている「真理」とは、一般的抽象的な意味での「真理」「知恵」「知識」といったものでないことは明らかです。ヨハネによる福音書が繰り返し使っている「真理」という言葉は、イエス・キリストその人を指しています。つまり、「真理はあなたたちを自由にする」というのは、「イエス・キリストがあなたたちを自由にする」という主張にほかなりません。

「客観的な真理」と「主体的な真理」

 今日の奨励題は「真理とは誰か?」としました。ふつうであれば、「真理とは何か?」とするほうが一般的な表現だと思います。
 しかし、今も言ったように、この聖書の本来の文脈からすれば、「何(・)が真理なのか?」ではなく、「誰(・)が真理なのか?」ということが問題なのです。それはつまり、ここでいう「真理」とは、「客観的な何か」として「そこにある」、あるいは「ここにある」というものではなく、「人格的な真理」として「生きており、活動しており、つねに働きかけている」というイメージを持っているということです。
 さて「真理」という言葉の使い方で混乱しないように、少しここで整理しておくと、私たちが「真理」という場合、大きく分けて二つのタイプがあることを覚えておく必要があります。
 ひとつは、「客観的な真理」です。これは、自然科学の分野における「真理」の場合にいちばんよく当てはまる概念です。
 皆さんも知っておられる例で言えば、有名なガリレオ・ガリレイの話を思い浮かべるといいでしょう。16世紀のイタリアに生まれたガリレオは、太陽が地球の周りを回っているという、中世以来の「天動説」に対して、地球こそ太陽の周りを回っているという「地動説」を唱えました。その結果、当時のカトリック教会の逆鱗に触れて宗教裁判にかけられたという話が残っています。聖書の教えに反する「地動説」は異端的な教えであり、ガリレオはキリスト教に敵対する者として断罪されました。結局、ガリレオはカトリック教会の命じたとおり、「地動説」を撤回します。しかし、その後、裁判所を出たところで、「それでも地球は回る」とつぶやいたとかつぶやかなかったとかいう逸話もよく知られているところです。
 この場合、ガリレオが自説を撤回したことは、自分が発見した「真理」を自ら放棄したということであり、勇気のない行為であり、科学者としての真理探求の姿勢においても誤っているという見解があります。しかし別の見方からすれば、ここでカトリック教会がどう言おうとも、そしてガリレオ個人がどうであろうとも、宇宙の仕組みと法則という「客観的な真理」は、そうした人間世界の思惑とはまったく関係なしに存在するわけであって、やがてさらに時間が経って科学的な技術や思想が発達・普及していけば、いつかは必ずそうした事実がすべての人の前に自ずから明らかにされるときがくるのだから、そのような「客観的な真理」のために命をかけてまで自己の主張を守り抜く必要はなかったのであり、この時のガリレオの態度はそれなりに筋が通っているとする意見もあるのです。
 つまり、「客観的な真理」とは、まさしく客観的に存在するものであり、いつでも・どこでも・だれでも、普遍的に真理と認められるもの、しかしまたある意味では、傍観者的な姿勢からでも「ああ、たしかにそれは真理でしょうねえ」と承認できるたぐいのものだと言えるでしょう。
 これに対して、「主体的な真理」というものがあります。これは今問題にしている宗教的な真理とか、人間としての生き方、倫理、道徳といった価値観に関わる真理のことです。こちらの「真理」は、ガリレオの「地動説」のように、放っておいても、やがて時が経ち、科学や技術が進めば、自ずから、自然に、自動的に、誰もが認める「真理」になるとは必ずしも限らないタイプの真理のことです。こちらの真理は、それを「真理」であると信じる人間自身が、その真理に従って生きてみせること、すなわち真理を実践し体現することが求められるといったたぐいの真理です。
 宗教の世界では、時として殉教ということが起こります。教えに殉ずる。すなわち、特定の信仰を命がけで守り、命がけでその信仰の真理を証明するという出来事です。キリスト教であれイスラムであれ、あるいは仏教であれ、その歴史の中で数知れない多くの殉教者が出ました。それは自分たちの信じる「真理」が、自分たちの生き方と切り離せないタイプの真理であるからこそ起こらざるをえない出来事であったと言えるでしょう(もちろん私は、殉教者が出たから、ただちにその宗教が「真理」であると言っているわけではありません。この点は間違えないようにしてください)。
 こうしたタイプの真理は、他人ごとのように、傍観者的に、問うたり語ったりするわけにいかない真理です。そしてこうした真理との出会いは、私たちの生き方や考え方、価値観に対するチャレンジとして、「私たちが真理によって問われる」という経験として起こるものなのです。
 言い換えれば、こうした真理というのは、それに触れることによって、私たちが何か新しい今までとは異なるリアルなものに気づくことであり、「真理」としか言いようのない何かとして生じる「出来事としての真理」であり、私たちがそれに引きつけられ、それに結びつこうとする「関係としての真理」であると言うことができるでしょう。
 宗教的な真理、あるいは私たちの人生における真理というのは、およそそうした経験によって得られるものであり、「私たちが真理を知る/獲得する」と言うよりも、「私たちが真理によって問われる」「私たちが真理と関係を結ぶ」といったほうが、より適切な性格のものなのです。

マザー・テレサの問い

 こうしたことをもう少し具体的に考えてみましょう。
 キリスト教の長い歴史の中で、これまでに何人もの人々がそうした真理を体現した人間として登場してきました。少なくとも、キリスト教の内部の人たちから見れば、これこそ真理を体現していると信じられてきた人びとが何人もいるのです。ペトロやパウロといった最初期の時代の人びとから始まって、カトリック教会やハリストス正教会で「聖人」と呼ばれる人たち、またプロテスタント教会でも信仰の模範とされてきた多くの人びとがいます。私たちはそうした人びとのひとりとして、20世紀後半にインドのカルカッタで活動したマザー・テレサを思い浮かべることができるでしょう。
 マザー・テレサと彼女の組織した「神の愛の宣教者会」という修道会は、「死を待つ人の家」というあまりにも有名になった活動をはじめとして、家のない孤児たちのための活動、ハンセン病患者の人々のための活動など、実に多種多様な働きを担いつづけてきました。マザー・テレサは何度か日本にも来ていますし、その際の彼女の講演集なども何冊か出ているので、関心のある方はどうぞお読みください。
 路上で誰にも看取られることなく死んでいく人びとに対し、生涯の最後の時を人間としての尊厳を持って迎えることのできるようにケアするという、「死を待つ人の家」の働きについて、マザー・テレサは次のように語っています。
 「まずなによりも、いらない人たちではないと感じとってもらいたいのです。この人たちをだいじに思っている、この人たちにいてほしがっている人がいるのだと知ってもらいたいのです。少なくとも、まだ生きていなければならない数時間のあいだに、人間からも、神からもだいじに思われているのだということを知ってもらいたい。この人たちも神の子たちであって、わすれられてはいない、だいじに思って、世話をしてくれる人がまだいて、仕えたいと自分たちをささげる若い人たちのいることを知ってもらいたいのです」。
(和田町子『マザーテレサ』清水書院 1994年 90頁)
 こうしたマザー・テレサの活動は多くの人を感動させ、彼女の運動に共鳴する多くの人びとを生み出しました。今日のテーマとの関連で言えば、彼女の中に「真理」を認めた人びとがたくさんいたということでしょう。
 しかしまた他方、一部にはこうしたマザー・テレサの働きを批判する人びともいました。彼女の働きは、ほんとうはインド社会全体の向上・改善には役立っていない、インドの問題全体から見ればあまりにも小さな活動に過ぎない、設備や医療方法も時代遅れだ、彼女の活動はその評判だけがあまりにも大きく取り上げられすぎている、さらにマザー・テレサは人工妊娠中絶に絶対反対の立場を取り、心身の障がいや発育不良の子どもたちをすべて養育しようとするが、それは現代の人口の爆発的増加という深刻な問題に逆行する態度だ・・・等々。
 マザー・テレサの生き方、その行動が真理なのかどうか。それは必ずしも自明のことではないのです。先ほどから申しあげている「主体的な真理」というのは、「出会いを通じての真理」であり、「関係としての真理」ですから、マザー・テレサに意味深いかたちで「出会い」、また「関係」を持つことのできた人間にとってだけ、初めてそれは「真理となって現れてくる」という性格の真理です。
 そうしたマザー・テレサとの出会いについて、興味深い感想を記した人がいます。ロバート・フルガムというアメリカ人の文筆家が、そのエッセーの中で、おおよそ次のようなことを語っていました。
 マザー・テレサと彼女の働きを想い起こす時、私は自分が叱られているような気がする。しかしまた、同時に強く励まされているような気がする、というのです。
 アンビバレントな感想です。
 「叱られている」と同時に「励まされている」というのです。
 「叱られている」というのは、マザー・テレサの生き方を見て、常日頃の自分の生活を振り返り、こんな生き方で良いのか、と問われ、叱られている思いがするということでしょう。
 「励まされている」というのは、同じ人間として、こういう生き方をすることもできるのだということをマザー・テレサが示して見せてくれている、もしかしたら自分にもそうした生き方ができるかもしれないという希望や可能性を見せてもらって励まされている気がするということだろうと思います。
 「真理」に出会うということは、そんなふうに、今までの自分の立ち位置、生き方、価値観を揺さぶられる経験に繋がっていきます。それはこれまでの土台が揺さぶられて、崩されてしまうような危ない経験であると同時に、しかしまた、何か新しい可能性に気づく喜びや驚きに満ちた経験でもあるということです。

金持ちの男とイエス・キリスト

 先ほどお読みいただいたマルコによる福音書の物語の中で、イエス・キリストは、「永遠の命」という、言わば「真理」を求めてやって来た金持ちの男に向かって、財産をすべて処分し、そして「わたしに従いなさい」と語りました。
 イエス・キリストのもとにやって来たこの人物は、おそらくイエス・キリストのなかに何らかの「真理」を見出した人なのでしょう。そして、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストと関わることを通して、真理を自分のものにすること、真理に生きることを望んだ人なのだと思います。
 しかし、イエス・キリストがこの人に語った言葉によれば、真理の代償として支払わなければならないものは、この人にとってあまりにも大きなものでありすぎました。結局、この時の経験によって、彼は自分の人生の土台となっているものが、自分の財産であり、自分の所有物であることを、いやと言うほど思い知らされ、イエス・キリストのもとから去っていきます。換言すれば、彼は財産や所有物に縛られている自分、その意味では決して自由な存在ではない自分を見出したのです。
 イエス・キリストという真理との出会いは、私たちがいかにいろいろなものに囚われているかという事実を教えてくれます。そしてイエス・キリストはそうしたものを捨てなさいと言うのです。それはマザー・テレサとの出会いが一面で、「叱られている」感じがするということと通底する経験かも知れません。真理との出会いは、私たちにとって苦い経験を伴わざるをえないのです。
 しかしまた、真理との出会いは「励まされる」経験でもあります。イエス・キリストは自分が出会ったこの人物を決して見捨ててしまったわけではありません。立ち去ったこの人がもういちどイエス・キリストのもとに立ち帰ってくる道は閉ざされてしまったわけではありません。イエス・キリストはいつでも開かれた姿勢で、彼がふたたびやって来るのを待っていてくださるはずです。
 イエス・キリストは、私たちを自分自身の囚われから解放して自由なものとし、そして私たちが今までの囚われた視点からでは見えていなかったもの、想像もしていなかったような生き方へと導き、また伴い歩んでくださる方です。
 マザー・テレサ自身、こうしたイエス・キリストに出会ったことによって、あのような生き方へと導かれていった一例なのです。
 「真理はあなたたちを自由にする」。そしてまた真理は、私たちに新しい人間として生きる希望と可能性を与えてくれるのです。私たちもまたこの物語に登場する人物と同じようにイエス・キリストに出会い、願わくはイエス・キリストに従う決意を与えられる者となることを祈り求めたいと思います。

2011年7月27日 京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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