奨励

新島の愛人論

奨励 宮庄 哲夫〔みやしょう・てつお〕
奨励者紹介 同志社大学文学部教授
研究テーマ 近代哲学におけるプロテスタンティズムの影響

 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

(コリントの信徒への手紙一 8章1―3節)

 最初は、「新島の愛人について」という題を考えました。内容はそれで間違いないのですが、現在の日本語としては少し刺激的かな・・・、でも、この題にひかれてチャペル・アワーに来てくださる方が一人でもいれば、看板に偽り、になってもいいかと迷った結果、「新島の愛人論」にしました。もしかして、私の話す内容と全然別なことを期待して来た、とすれば、ご免なさいですが、「しめしめ成功した」と言えるかもしれません。
 さて、愛人論という表現ですが、これは創立135周年記念出版として岩波文庫で刊行されました『新島襄 教育宗教論集』(同志社編 岩波書店 2010年)に収録されている新島の演説原稿につけられているものです。もちろん、いわゆる『新島襄全集』(新島襄全集編集委員会編 同朋舎出版)にも収められていますが、オリジナルのカナ表記よりも読みやすい、ひらがな混じりの文章になっていますので、ぜひお読みいただければと思います。話を戻しますと、愛人論ということで新島に愛人がいたのか、とか、愛人について新島が論じたのか、ではないことはもうお分かりだろうと思います。ちなみに、愛人を広辞苑で調べてみますと、①人を愛すること。「敬天愛人」、②愛する人、恋人。「年下の愛人」、などとありますが、ここではもちろん①の用法です。この愛人という表現は、愛国という言葉と一緒に使ってみると、国を愛する愛国と同じように、人を愛するという意味での愛人の用法がよく分かります。

愛人こそ愛国

 さて、取りあげました「愛人論」で新島は次のように言います。「予請う、愛国はさておき愛人に論及し、実際、愛国の行われんことを希望す」(『新島襄 教育宗教論集』291頁)。つまり、今、愛国、愛国と声高に論じられているけれども、それよりも、まず愛人、すなわち人を愛する、他者を愛することを教え、論ずべきではないか。むしろ人を愛することが本当の愛国になるのだ、と言っています。愛国より愛人だ、否、愛人こそが愛国だ、というのが、新島の愛人論の趣旨でありますし、別の演説原稿に「愛国の主意」(『新島襄全集』1 436頁)というのがありますが、そこでは端的に「愛国は愛人也」と書かれています。
 『新島襄全集』でも岩波文庫版でも、この「愛人論」や「愛国の主意」という演説がいつされたのかは不明とされています。文庫版の解説をしてくださっている同志社大学名誉教授・伊藤彌彦先生によれば、国会開設や自由民権運動などへの言及が多いので、明治10年代半ばごろではないかと推測されています。私も、後で取りあげます板垣退助への手紙が明治16年、1883年の年末ですので、おそらくそのころの新島の心情を表しているのではないかと考えています。そして、ちょうどこの時期、つまり、明治10年代の半ば、正確には1882年11月に同志社英学校を大学に昇格させる運動を始めるのですが、まさに同志社の転換期がこの愛人論という演説の時代背景にあるということを指摘したいと思います。

偏頗(へんぱ)の愛国心

 そこで、愛人論(『新島襄 教育宗教論集』290―299頁)の内容ですが、まず、こう書き始められています。「世上蝶々と愛国を論ずる者、多々有りといえども、その愛国たる多くは書生の空論にして、実切に功を奏せず」、そして、「口にはこれを大言し」、とか「これを以て風雲に登るの階梯(かいてい)となす」、あるいは「これを以て私欲を逞(たくまし)うする」などなど、「世上流行の愛国」は「何等なる奇怪なる者ぞ」とあります。要するに、今、愛国を滔滔(とうとう)と論じているのも、中味のない空論や口先だけの議論、あるいは出世の手段や私利私欲のためである。また「偏頗(へんぱ)の愛国心」ということを新島は強調して、│偏頗とは、偏った、えこひいき、という意味ですから、とかく外国に対して偏狭なナショナリスティックな愛国心ということでしょうが│そうした世の中の愛国論者を、実におかしなものだ、と批判することから始めています。つまり、愛人論が愛国論批判から始まるというところに、新島の愛人論の特徴があるのです。

聖書の愛人

 もう少し新島の主張を聞いてみますと、経済的な輸出入のアンバランス、あるいは自由民権の人権論や国会開設の願望などを掲げる当時の愛国ないし憂国論は「一日もこれを軽忽(けいこつ)にすべからざるの事なれども」(軽んじてはならないけれども)、「もし誤りてこれを最上の愛国と見做」すならば「これは大きな過誤と云わざるを得ず」と断じています。最近のそこかしこの知事やら市長などの威勢のよい愛国発言に見られるように、時代を問わず浅薄ないわゆる愛国主義者がいるものですが、新島は「これ等の事はただ愛国の一部分にして、愛国の最上点乃ち愛国の精神、愛国の佳境(かきょう)には達するの者とは云い難き也」として、本当の愛国の精神とは、「各人をして愛人の心を抱かしめ、これを行わしむるにあり」と結論づけています。そして、もちろん人を愛する愛人とはキリスト教の教えで、引用ですが、「愛人とは他人を愛する也。且つ如何せば人を愛し得るや。予、西聖基督の語を用いこれに答えん、すなわち曰く、『己れを愛する如く爾(なんじ)の隣人を愛すべし』、『凡て人にせられんと欲する事は爾も亦(また)人にその如く為せよ』」というよく知られた聖書の言葉を挙げます。こうした愛人の心に基づいて、「一人一人を愛するの説は大いに愛国よりは狭きに似たれども、人を愛するは、一国に限らず世界の人をも人と見なしてこれを愛せば、決して区域の狭き者にあらず」と説くことで、「偏頗の愛国心」を克服する、普遍的な真の愛国の精神を主張しています。それこそが「愛国は愛人なり」の意味です。

板垣への批判

 さて、先ほど板垣退助宛の手紙のことに触れましたが、明治10年代半ば、時あたかも自由民権運動盛んなりしころ、暴漢に襲われて、「板垣死すとも自由は死せず」で知られた板垣に新島が手紙を書いています。新版になった岩波文庫の『新島襄の手紙』(同志社編 岩波書店 2005年)にも収められていますが、明治16(1883)年12月31日付けで、暴漢に襲われた、およそ1年8カ月後に書かれたものです。そこでは、新島は自分がキリスト教を主張するのは、キリスト教が「文化の泉源(みなもと)」であって、罪悪にまみれた人類の心を洗い清め、「我が東洋に新民を隆興せしめんと存じ候。新民はすなわち新心を抱く者なり。人にしてこの新心なければ、西洋百般の技芸何の益する所あらん。学術なり民権なり政治なり、総て私慾私心の奴隷となり、早晩腐敗に趣くは、史上歴々見るべきなり」(同書182頁)と言います。そして、大胆かつ単刀直入に、板垣に対して「閣下にして我が東洋改良をもって自任せらるるならば、まず第一に、閣下の御心を新たにするこそ急務中の大急務と存じ候」(同書183頁)と迫ります。そして、自由民権運動の旗頭たる板垣に「自ら新民とならざれば、閣下の事業も芳名も志操も・・・百年を出でざる内、恐らくは高知の浜辺に消滅し去らん」(同書184頁)とまで言います。自由民権を唱えて国を良くしたいという愛国論者の板垣に、それは新しい心に基づいた変革でなければならないこと、そしてそれはキリスト教的な新しい心を抱く新しい人間でなければならず、板垣さんがまずそうならなければ、日本の国を自由な民権の国にすることはできない。そのために「新民はすなわち新心を抱く者」を作り出すことから始めなければならない、という新島の熱い情熱がほとばしるような手紙でした。
 明治初期のともかく西洋と互角に相対したいとするさまざまな愛国・憂国論のなかでも、自由民権運動にはこの板垣への手紙からも新島が一目おいていたということができますが、今紹介したように、キリスト教的な新しい心、すなわち人を愛する愛人の心がなければならないという新島の一貫した思いが、自由民権運動の愛国心にも批判的に主張されているといえます。まさに「愛国は愛人也」であります。

愛人の心の教育

 こうした愛人論が大学昇格運動と期を同じくしているということを先に言いました。愛人論の原稿では、「吾人、愛人主義を論ず。吾人今より愛人を主張、これを全国に波及せしむるにあり」(『新島襄 教育宗教論集』297頁)と書かれています。もう一つの「愛国の主意」の原稿では、「真正ノ教育ヲ子弟ニ施シ、彼等ヲシテ人間ノ要道本務ヲ知ラシメ、特ニ純粋ノ愛国心ヲ養生スルニアリ」とか、「今特ニ愛国主義ノ教育ヲ起スニアリ、此事ハ政府大学ニ望ミ難ク」(『新島襄全集』1 436―437頁)という言い方を見れば、新島が大学昇格運動の重要な動機として、愛人こそが愛国であり、その意味で純粋な愛国心=愛人の心を教育する願いをもっていたということだと思います。そういう文脈というかコンテキストから、あの「大学設立の旨意」を読むと「キリスト教主義の徳育」とか「一国の良心とも謂うべき人々を養成せんと欲す」という文章のより深い意味を味わうことができるように思いますが、いかがでしょうか。
 お読みいただいた聖書のなかに、口語訳ですと「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」という箇所がありました。「大学設立の旨意」で言い換えますと「吾人は敢えて科学文学の智識を学習せしむるに止まらず、これを学習せしむるに加えて、さらにこれらの智識を運用するの品行と精神とを養成せんことを希望するなり」(『新島襄 教育宗教論集』30頁)になるでしょうか。新島が願った教育は、単なる知識の集積ではなく、人を愛する愛人の心に裏打ちされることで一国の命運を背負う良心とも言うべき人物を養成することでありました。それが「愛国は愛人也」であり、「吾人今より愛人を主張、これを全国に波及せしむるにあり」という愛人論の帰結であった、ということだろうと思います。

2012年6月20日 今出川水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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