奨励

飼い葉桶(かいばおけ)にねかされた赤ちゃん

奨励 石川 立〔いしかわ・りつ〕
奨励者紹介 同志社大学神学部教授
研究テーマ 聖書の神学的・哲学的解釈、解釈学、教父学

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

(ルカによる福音書 2章1-7節)

楽しいクリスマスと
みじめな誕生譚

 今年もクリスマスまであと1週間と迫りました。
 12月になり、クリスマスが近づいてきますと、街はイルミネーションで飾りたてられ、明るく楽しい雰囲気になります。商店街だけではなく、普通の家でもご自分の家をイルミネーションで飾っているところがあちらこちらに見受けられます。
 日本人は、キリスト教徒でなくても、クリスマスの雰囲気が大好きで、クリスマスには特別な演出をしようと考えます。キリスト教系の幼稚園がクリスマス会をするのは当たり前ですが、最近は仏教系の幼稚園でもクリスマス会をしないと子どもたちが満足しないようです。
 ただ、クリスマスが何なのか、どういう日なのか、その意味も全く知らずに、ただ雰囲気を楽しんでいるのは、「けしからん」とは言いませんけれども、有り難い大切なことがせっかくこの時に知らされているのに、それを知らないで、ただ「ワイワイ」と楽しんでいるのはもったいない気がします。
 日本はキリスト教徒の数が全国民の1%と言われる国ですが、それでも日本人はクリスマスが大好きで、イルミネーションの光を思い出し、街や家を光で飾ります。なぜでしょうか。その原因はいくつかあるでしょうが、私は、クリスマスの雰囲気が愛される理由の一つとして、イエスの誕生を伝えるマタイによる福音書とルカによる福音書、なかでもルカによる福音書の記述の仕方、筆の力があるのではないかと考えています。ルカによる福音書がかもし出すイエス誕生の愛すべき雰囲気が光を連想させ、キリスト教会で定着して、日本では教会の外にまで広がったのではないか、そんなふうに推測しています。
 先ほど読んでいただいた通り、ルカによる福音書によりますと、イエスがお生まれになったのは住み慣れた家ではありませんでした。住民登録のためにヨセフとマリアがベツレヘムに出かけていった、その旅先でのことでした。旅先ですから、暖かい布団が敷かれた赤ちゃん用のベッドなどはもちろん準備されていません。旅先の貧しさのなかでイエスはお生まれになりました。
 そのとき周りが暗かったのかどうかは書いてありませんが、私たちは普通、イエスは暗い中でお生まれになったと想像します。宿屋に泊る時刻でしたし、次の、羊飼いに天使が現れて救い主の誕生を告げた場面が夜ですから、イエスがお生まれになったときはもうあたりは真っ暗だったと想像されます。生まれた場所は、牛やロバのいる家畜小屋でしたから、灯りはありません。真っ暗闇です。何の準備もない貧しさのなかで、そして真っ暗闇の中でイエスはお生まれになりました。
 しかし、貧しさと真っ暗闇の中にお生まれになった幼子イエスは、ルカによる福音書では周りの闇を照らす光を放っています。物理的に、蛍のように光っているわけではありませんが、この物語を聞く者、読む者は、幼子イエスが希望の光を、救いの輝きを放つのを聞きとる、あるいは読みとることができます。
 ルカによる福音書のイエスご誕生の物語は、このような周囲の闇と、小さな、しかし、強い光の話ですから、このことが人びとの想像力を羽ばたかせ、年末の、日が短く寒い時期に、暗闇の中でイルミネーションが輝く楽しい雰囲気へとつながってきたのではないかと思います。
 イエス誕生の物語、とりわけ、今日のルカによる福音書2章1節から7節の箇所は、今となっては雰囲気のある美しい物語だと思いますが、よく考えてみますと、全世界を救われる救い主がお生まれになる話としては、あまりにも地味で、みじめで恥の多い話です。
 メシアなら、もっと晴れやかな輝かしい場所で、威厳と力をもって誕生されてもよかったのではないでしょうか。ところが、ルカが描くイエスのご誕生は、人から相手にされず、関心も引かず、誕生の場所も譲ってもらえないような、みじめさ以外、何の特徴もないものでした。しかも、メシアは力のない無防備な赤ん坊だと言うのです。
 今日の聖書箇所は、私たちを力強く救ってくださる救い主の誕生物語としては、やはりふさわしくないように思われます。「救い主イエスは、牛やロバがエサをはむ汚れた飼い葉桶に寝かされた、ただのちっちゃな赤ん坊でした!」これでは説得力がありません。つっこみどころ満載です。つっこんでくれるならまだマシで、普通なら、すぐに馬鹿にされ無視されるのがオチです。
 本当にみじめな話です。ルカには読者の同情を誘うという意図でもあったのでしょうか。
 このようなイエス誕生物語は、自分の福音書に書き込まなくても、先輩福音書記者マルコがそうしたように、省略してもよかったのです。成人したイエスから話を始めても、なんら差し支えありませんでした。それなのに、ルカはわざわざ、みじめなイエスの誕生の記事を載せました。

「宿屋」

 住民登録の命令が出ましたので、ヨセフは身重のマリアを連れてベツレヘムに向かいます。住民登録をするために多くの人がこの町に集まって来ているはずなのに、ヨセフたちがベツレヘムに着いたときは、もう日が暮れて、人通りも少ない。裕福な人たちは、友人の家に温かく迎えられていますが、貧しい人たちは、自分で泊まるところを確保しなければなりません。当時は予約なんてものはありませんから、町に着いたら1軒1軒訪ねていって、部屋が空いているか、聞いて回らなくてはなりません。ふだんこの町は外から多くの人が来るわけではありませんので、本来の宿屋はせいぜい2、3軒しかない。それ以外の宿屋は、普段は普通の家で、住民登録のような特別なときにだけ、民宿のような形で人を泊めて小金(こがね)を稼ぐ臨時の宿屋であったようです。
 ヨセフはまったく要領の悪い人です。身重のマリアを連れているのですから、そのことも考慮して早く出発し、人より先に町に着いて、さっさと部屋を確保すべきでした。競争なのです。今の社会と同じです。人より先んじなければ、取り残されるのです。ヨセフはのんきな人でした。
 ヨセフは最初の宿屋の扉を叩きます。「部屋は空いていますか」。宿屋の主人が出てきて、「もう、いっぱいだよ」と冷たくあしらわれます。身重のマリアを連れて(マリアはさすがにロバに乗っていたのでしょうが)次の宿屋に行き、尋ねます。「泊まるところはありますか」。主人が出てきて、すまなさそうな顔をして「残念だが、もういっぱいなんだ」。また次の宿屋に行って尋ねますと、「こんなに遅く、もうどこも空いてないよ」と無愛想に言われてしまいます。泊り客も顔をのぞかせますが、身重のマリアを見ても、肩をすぼめるばかり。こうして、どの宿屋からも断られ、ほとほと困った彼らは、たまたま見つけた家畜小屋に入り込んで、疲れはてた体を横たえたのでした。
 こんなふうに宿探しの様子を想像しますと、宿屋も、部屋がいっぱいであっても、どこか空間を作る工夫でもして、この身重の妻と夫を受け入れてやったらいいのに、と思います。しかし、これは昔むかしの物語の中だけのことではありません。この宿屋の主人や宿に泊まっている人たちは、実は、救い主を受け入れない人間、私たちをも含めた人間全体のことを表しています。人間は、それぞれの関心や心配事で心がいっぱいで、救い主に関心を示して、キリストを受け入れる余地などもっていません。キリストを拒否する。これは人間一般の姿であり、昔も今も、それは変わってはいません。

「飼い葉桶」

 イエスはお生まれになりました。かろうじて幼子イエスが置かれる場所があったのです。それは人間が用意した場所ではなく、家畜小屋の汚れた飼い葉桶でした。その粗末な飼い葉桶が、私たちの救い主をこの地上で最初に受け入れた「救いの場所」となりました。
 「宿屋には場所がなかった」。つまり、この世にはキリストをお迎えする場所がなかった、ということです。人間は救い主を拒否しましたので、いわば消去法で、家畜小屋ぐらいしか残らなかった、だから、イエスは家畜小屋でお生まれになり、生まれた幼子イエスは飼い葉桶に寝かされるほかなかった。ほかに場所がなかったのだ。そういう書き方をルカはしています。
 しかしながら、神様の側では、消去法で、仕方がないから、ほかに場所がないから、イエスを飼い葉桶に置かれたわけではないのです。神様はイエス誕生の場所として何よりも牛やロバのいる家畜小屋を選ばれた、そして、イエスを最初に寝かせる場所として、何よりも汚れた粗末な飼い葉桶を選ばれたのです。
 神はその独り子、救い主イエスを牛やロバが口をつけてエサをはむ飼い葉桶にお置きになりました。皇帝の住まう宮殿ではありません。軍隊に守られた部屋の中でもありません。裕福な家のフワフワしたベッドの上でもありません。神がイエスの最初の場所として積極的に選ばれたのは、本来救い主がお生まれになるような場所ではない貧しい器でした。
 人間はイエスを拒否しましたが、飼い葉桶だけがイエスを受け入れた、と言うこともできます。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、この飼い葉桶こそが救済の歴史の出発点である、とさえ言うことができるように思います。
 ルカのこの物語は、私たちを、飼い葉桶になるようにといざなっています。多くの心配事、いろいろな配慮、さまざまな関心でいっぱいになり、ほかに何も受け入れることができなくなっている私たちの心をむなしくし、心の部屋をからっぽにして、心の貧しさと謙虚さをもって、神様に対して無防備になるようにと、この物語は招いています。
 立派な人になって偉業を成し遂げるようなことは、私たちにはなかなかできません。しかし、飼い葉桶のようになる、つまり、心をむなしく、貧しくして、主を私たちの魂に置いていただくということは、無力な私たちにもできることなのではないでしょうか。

プレゼント

 いつもいつも、そうなのですが、とりわけクリスマスには、もったいないことではありますが、幼子イエスが、皆さんお一人おひとりにプレゼントされます。
 くれぐれも、「部屋がいっぱいです」と、救い主を拒否するようなことがありませんように。
 また、救い主はちっちゃな赤ちゃんとしてこの世に送られてきました。多くのことに気をとられすぎて、目立たない幼子、小さなキリストの存在に気付かない、というようなことがありませんように。
 また、「私はキリストに来ていただくにふさわしい人間ではありません。おそれ多いことです」と心を閉ざしてしまうことがありませんように。キリストはまず、飼い葉桶に来られたのです。このことの恵みを拒んではならないと思います。
 神様はユーモアをおもちです。私たちを力強く救うメシアを、人間に道具として利用される無力な家畜たちのあいだに、無防備な赤ちゃんとして送られました。
 神様は逆説的な方です。輝かしい栄光の御子を、貧しい家畜小屋の粗末な飼い葉桶の中に置かれました。
 今日のクリスマスの物語に描かれた神様の逆説とユーモアのなかに、私たちは神様の愛を深く感じとりたいものだと思います。

2013年12月18日 京田辺水曜チャペル・アワー「クリスマス礼拝奨励」記録

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