講演 |
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新島襄の出会った「キリスト教」
同志社は神への祈りから始まった一八七五年十一月二十九日午前八時、新島襄はデイヴィスと六人の生徒とともに新島の借家で同志社開校の祈祷会を開きました。デイヴィスは「あの朝開校に先立って新島が自宅で捧げたあのやさしい、涙にみちた、真剣な祈りを私は決して忘れることはできない。すべての者が心から祈った」(デイヴィス著『新島襄の生涯』)と書いています。 このように、同志社は神への祈りで始まった学校です。今日から同志社スピリット・ウィークが始まりましたが、同志社のスピリットとは何なのか。それは、ひと言で言えば、キリスト教精神そのものなのです。では、新島襄はなぜ、いつ、どのようにして、キリスト教と出会い、キリスト教を信じるようになり、キリスト教こそが当時の日本に大切な宗教であることを確信して、キリスト教主義の学校を設立する志を立てて帰国し、同志社を設立するにいたったのでしょうか。今日は皆さんと、このことについてご一緒に学んでみたいと思います。 どんな「キリスト教」と出会ったか今日のテーマは、<新島襄の出会った「キリスト教」>ですが、キリスト教のところにカギ括弧をつけさせていただきました。なぜか。それは、キリスト教と言っても、じつにいろいろな教会や教派や神学があるからです。たとえば、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、ロシア正教会、英国国教会、ドイツ・ルター派、スイス・カルヴァン派、オランダ改革派、長老派、メソジスト派、バプテスト派、会衆派、ルーテル派、聖公会、ペンテコステ派、ユニテリアン、無教会などなど、神学にしても、すでに聖書のなかにもいろいろな神学があり、キリスト教の歴史を紐解けば、それこそ多種多様の神学が次から次へと生まれ、生まれては消え、また再生したりして、とても数えきれません。そして、なかには、これでもキリスト教なのかな、と首をかしげるものさえあります。 もちろん、キリスト教である以上、共通点があります。共通点のほうが多いと言ってもいいでしょう。たとえば、古代ローマ教会で生まれ、今日までほとんどすべての教会で守られている「使徒信条」は、大切な共通点のひとつでしょう。しかし、その解釈ということになれば、さまざまな違いがあります。イエスの最後の晩餐に始まる聖餐式のパンとぶどう酒の解釈にしても、残念なことに解釈の違いによってカトリックとプロテスタントのあいだで共同の聖餐を守ることができない歴史が長い間続いていました。このように、同じキリスト教と言っても、相違点はじつに多い。大きな違いもあれば、小さな、どうでもいいような違いもあります。 しかし、どうしてこのように多くの違いがあるのでしょうか。それは、キリスト教の基本となっている聖書やイエス・キリストについての理解の仕方の違いや、教会という組織のあり方についての考え方の違いが、歴史や文化や社会構造の違いと結びついて生じてきているからです。人間にも、歴史や文化や社会の違いによってさまざまな個性があるように、キリスト教にも、集団的な個性や違いが教派や神学という形であるので、神は「一つ」であり、超越的な信仰の次元ではもちろんみな「一つ」なのですが、現実という次元では多様なのです。ですから、超越の次元では「一つ」でありながら、現実には相違や多様性をお互いに認め合い、尊重し合っていくことが大切であり、そのときにキリスト教は素晴らしい働きをするのですが、反対に、人間の罪というエゴイズムによってその働きが妨げられると、キリスト教や教会の現実も醜いものになってしまうのです。 ですから、ただ単にキリスト教であれば、なんでもいいというわけではありません。では、新島襄がこれこそが大切なのだと確信していた「キリスト教」とは、いったいどのようなものだったのか、新島はどのような「キリスト教」と出会い、その「キリスト教」はどのような特色をもっていたのでしょうか。このことを明確に把握しておくことが、じつは新島の志や同志社の歴史と現在を理解する上でとても重要なことではないかと、私は考えています。 そこで、新島襄が出会った「キリスト教」はどのようなものだったのか、そのルーツとプロセスを少し探ってみたいと思います。 新島青年の聖書との出会い新島の最初のキリスト教との出会いは何であったかと言うと、それは聖書です。日本を脱出する一年前、一八六三年、二十歳の時に、新島はすでに聖書を読んでいたのです。新島はボストンに着いたとき、ワイルド・ローヴァー号の船主であったハーディー夫妻に宛てて、「脱国の理由書」をたどたどしい英語で書いているのですが、その中にこのように書かれています。「ある日友人を訪ねると、彼の書斎で聖書を抜粋した小冊子を見つけた。それはあるアメリカの宣教師が漢文で書いたもので、聖書の中のもっとも重要な出来事だけが記してあった。私はそれを彼から借り、夜に読んでみた」(『現代語で読む新島襄』五三頁以下)。 この友人とは誰なのでしょうか。菅沼総蔵(錠次郎)ではないかと和田洋一先生は推測しておられますが(和田洋一著『新島襄』六三頁)、北垣宗治先生によれば杉田廉卿(れんけい)であった可能性が強いのです(『新島襄全集』10 注解)。新島は十歳から漢学を学びはじめていましたが、十四歳のとき、上州安中藩の藩主、板倉勝明の命令により蘭学を学ぶことになりました。そのとき、新島と共に選ばれたのが、菅沼総蔵と岡村喜四郎でした。ところが、翌年、先生の蘭学者、田島順輔が長崎に移り、菅沼もまた先生について長崎へ行ってしまったため、新島は手塚律蔵のもとで蘭学をつづけるのですが、次第に蘭学への興味を失っていきます。次の年、菅沼は江戸へ呼び戻されて帰ってくるのですが、そこで菅沼は新島に蘭学をしっかりやるようにすすめたようです。その頃(一八五八年)、新島が菅沼宛に書いたと思われる手紙が残っています(全集3 五頁)。新島は十七歳のころ、ふたたび蘭学者杉田成卿(せいけい)、杉田玄端の門に入るのですが、そこで杉田廉卿について蘭学を学び始め、彼と親友になるのです(全集8 一〇頁)。一方、菅沼は新島が航海術の修行をしたとき、上司として面倒をみてくれたのです(全集3 七三九頁)。 新島はさらに書いています。「私の友達は沢山の中国語の書物を貸してくれた。その一冊は北シナ伝道団のブリッジマン博士が書いた合衆国の歴史地理の書物だった。もう一冊は中国におけるイギリスの宣教師のあらわした簡単な世界史。そしてもう一冊はウィリアムソン博士の小雑誌だった。そして私の好奇心を最もかきたてたのは、シャンハイかホンコンで発行された二、三冊のキリスト教の書物だった。私はそれらを熟読した。いくらか懐疑を覚えたけれど、またいくらかは畏怖の念にうたれた。以前に勉強したオランダ語の書物を通して、創造者という言葉は知っていたが、中国語で書かれたこの短い聖書の歴史の中で、神の宇宙創造に関する単純な物語を読んだ時ほど、創造者という言葉が胸にひびいたことはなかった。私たちが生きているこの世界は、神の見えない御手によって創造されたのであって、単なる偶然の産物ではないことを私は知った。・・・神をわが天の御父と認めた以上、私はもはや自分の父母にわかちがたく結ばれているとは感じなかった。・・・私は『もはや自分は父母のものではなくて、神のものだ』と断言した。父の家に強く私を縛りつけてきた強い絆は、その瞬間にばらばらになった。その時私は自分自身の道を進むべきだと感じたのだ。私は地上の両親よりも一層天の御父に仕えなくてはならぬ。この新しい考えが私を力づけ、私は断然藩主を見棄て、また一時的に家をも祖国をも離れる決意をしたのであった」(全集10 三七頁以下)。 このように、菅沼総蔵か杉田廉卿か、どちらか確定できませんけれども、新島はいずれにしても蘭学を学ぶことが契機となって、彼らと出会い、親友となったのです。彼らは新島を自分の家に招いて相談ごとにのったり、貴重な書物をひそかに貸してくれたりしました。新島はそれらの本を読みながら、次第にキリスト教や西洋への関心を高めていき、ときには杉田廉卿や津田仙など友人たちと聖書の会を開いて漢訳や蘭訳のキリスト教の書物を読むまでになり(全集8 一六頁)、やがて日本を脱出することを考え始めたのです。 今年は同志社創立一三〇周年です。この記念事業の一つとして『新島襄の手紙』が岩波文庫から出版されました。このなかに、一八六七年二月二十九日付で新島襄が父の新島民治に宛てて書いた手紙が収録されています。そこには新島襄が自分の脱国の志を「小子の志」として、こう書いています。「・・・さてその者(=ハーディー)、小子に向かい、なんの望みありてアメリカへ参れしかと尋ねしゆえ、小子取りあえず、私義、貴国へ罷(まか)り越し候は、別義にござなく候、ただただ種々の学科、かつ聖経(=聖書)を修行仕り、国家のため万分の力を竭(つ)くさんと存じ、人情棄て難き父母姉弟朋友に別れ、犯し難き国禁をも破り、身の難儀をも顧みず、衣食住の工風もなく、ただ困窮致し候わば、心力を竭(つ)くし働くべしと存じ、断然、父母の国を去り、遥々の海路をも厭(いと)わず、成業の事のみを期し、ひとえに天運に任せ貴国へ参上仕り候、と答え候わば、彼の人深く小子の志に感じ、・・・」(『新島襄の手紙』四一頁以下)。 この新島自身による脱国の志の説明は、非常に重要ではないでしょうか。たしかに新島は幕末の激変の只中で愛国心に燃えて国を憂い、蘭学(数学、天文学、航海術など)を学び、『ロビンソン・クルーソー』や『聯邦志略』を読み、欧米の知識をさらに得たいと願って、脱国を志したのですが、決してそれだけではなく、同時に聖書を読み、「天の父」「創造者」という神信仰を知り、もっと聖書を学びたいという志を立てて脱国したのです。新島襄が出会った最初の「キリスト教」は、聖書を通して出会った「キリスト教」であったと言えるでしょう。そして、聖書をキリスト教信仰の基盤とみなすのは、プロテスタントのキリスト教であり、とくにピューリタンのキリスト教だったのです。 新島を支援した会衆派のキリスト者たち次に、新島が出会った「キリスト教」は、キリストを信じている人たちを通して出会ったキリスト教です。新島はもちろん、多くのキリスト者と出会っていますが、とくに新島がお世話になったのは「会衆派」と呼ばれる教会に属しているキリスト者でした。 まず新島が函館で乗り込んだアメリカの帆船ベルリン号のW・T・セイヴォリー船長です。一八六四年六月十四日夜、新島が小舟からベルリン号に乗り移ると、セイヴォリーが待ち受けていて、新島を船長室の物置小屋にかくまってくれ、そして上海まで運んでくれ、さらにワイルド・ローヴァー号のテイラー船長にバトンタッチしてくれたのです。セイヴォリーは、じつはセーラムの会衆派第一教会の教会員でした。もし、セイヴォリーが新島の志を受け止め、引き受けてくれなければ、どうだったでしょうか。セイヴォリーは十九年後の一八八三年に、このときのことを振り返り、こう書いています。「私が彼(新島)に最初に会ったときを、また彼が祖国の海岸が視界から消えていくのを見、全ての害からのがれたということを知ったとき、彼が如何に幸福に感じたかを私は決して忘れないであろう。当時彼の唯一の目的は英語を学ぶことであり、それは同胞のためにバイブルを母国語に翻訳することができるようになるためであった」(『同志社百年史』通史編一 三六頁以下)。 ところが、セイヴォリー船長は、上海で新島をワイルド・ローヴァー号のテイラー船長にバトンタッチして、長崎に引き返したとき、新島を密航させたことがばれて、解雇されてしまいます。でも、彼は翌年新島がボストンに着いた時、そのことを聞きつけ、新島を訪ねて来てくれ、非常に喜んでくれました。しかしセイヴォリー船長はその時、「じつは、きみを乗せたために、私は首になったのだよ」などとは一切言わなかったのです。新島は後になってそのことを知り、二度目に渡米した時に、わざわざセイヴォリー船長を訪ね、改めて感謝の意を表しました。一人の向学心に富んだ、そして命がけで聖書とキリスト教を勉強したいと志している青年を密航させる、そのことによって自分が解雇されても、そのことを彼に言わずにかばっていく、新島はこのような自分だけの利害から全く自由な、温かい愛の心をもったキリスト者と出会うことで、キリスト教の何たるかを具体的に経験したのです。 新島が乗ったワイルド・ローヴァー号は、一八六五年七月二十日、ボストンに到着しますが、十月初旬になって新島はテイラー船長の仲介によって船主のハーディーに会いました。しかし、英語がうまく通じないので、彼はどうして密航を企てたのか「脱国の理由書」を書かせます。それを読んだハーディー夫妻は非常に感動して、早速、新島の希望どおりにキリスト教を学ぶ機会を与えるために、ハーディーが理事をしていたフィリップス・アカデミーに入学させたのです。 ハーディーは、若いときから牧師になりたい、宣教師になって外国に出かけ、キリスト教を伝道したいという夢をもっていたのですが、フィリップス・アカデミーに在学中病気になり、中退しなければならなくなりました。けれどもその後、銀行や商社の経営によって莫大な利益を得るようになり、その利益をキリスト教教育や外国伝道に寄付するようになりました。ですから、きっと新島の「脱国の理由書」を読んで感激し、自分の若いときの夢を新島に託そうとしたのでしょう。ですから、親が子どもの成長と活動を援助するような思いを込めて、新島を懸命にサポートしたのです。 新島は父親にこう書き送っています。「ハーディー氏は深く私の志に感動し、・・・必要な衣服などを買ってくださり、ボストンの東北十里あまりの一村アンドーヴァーという所の大学校(=フィリップス・アカデミー)へ私を連れて行き、以来、月謝や筆記用具代なども払ってくださいます。そのため私は今は気持よく学問を修め、少しでも早く志を達成して帰国し、深くて高いご恩に報いることを楽しみにしています。・・・このハーディーという方がこのように私を世話してくださるのは、全く『天上独一真神』への信仰からです。また日本のためだ、と言って多くの雑費も払ってくださり、全く対価を望まず、私を全く客として手厚く取り扱い、そのうえ五年でも十年でも私のために学費を出そう、と前から約束してくださっていますので、どうぞご安心ください」(一八六七[慶応三])年三月二十九日付「新島民治への手紙」『現代語で読む新島襄』七一頁)。 ハーディー夫人のスーザンも、新島をほんとうに愛してくれました。新島は、「奥様を神が与え給うた母と呼ばせてください」と一八六六年七月二十四日付の手紙に書いているように、「アメリカの母」でした(全集10 六五頁)。また、一八六六年十月二十七日付の手紙には、自分の息子のように多くの物や教育を与えてくれ、それでいて何の報いも求めないハーディー夫人は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録二〇章三五節)というイエスの言葉を実行している愛の人であるとして、「天からの報いが増し加えられることを確信しています」と感謝の手紙を書き送っているのです(全集6 一一頁)。 このハーディー夫妻は、ボストン・オールド・サウス・チャーチという会衆派教会の会員だったのです。ハーディーはフィリップス・アカデミーだけでなく、アンドーヴァー神学校の理事もしていましたが、これらの学校は同じキャンパスにあり、当時のハーヴァード大学の神学部がキリストの神性や三位一体を認めないユニテリアンの思想に傾いていったのに対抗して、オーソドックスなニュー・イングランド神学を堅持するために建てられた会衆派の学校でした。 ニュー・イングランドで会衆派の神学を学ぶフィリップス・アカデミーに入学した新島襄のホームステイを引き受けてくれたのは、ヒドゥン家の人びとです。ミス・メアリー・E・ヒドゥンと、その弟とおばさんで、この家庭にも非常にお世話になっています。このメアリー・ヒドゥンが新島のアメリカの第二の母です。異国で何もわからない孤独な青年を預かって、まごころを込めて二年近くも世話をしてくれました。新島が彼女に宛てた手紙は現在、四十七通も残っています。彼女は、フィリップス・アカデミーに隣接する会衆派の女子校アボット・アカデミーの卒業生でした。そして自分の所属する会衆派のオールド・サウス・チャーチの日曜学校で奉仕活動をしており、新島をそこに連れて行ってくれました(井上勝也・北垣宗治共編『ニュー・イングランドにおける新島襄ゆかりの場所』二六頁)。 新島がヒドゥン家にホームステイをしていたとき、新島の家庭教師をしてくれたのは、ヒドゥン家に同居していたフリント夫妻でした。もちろん会衆派のクリスチャンですが、その頃、フリントはアンドーヴァー神学校で勉強していたのです。そして、卒業してヒンズデールの教会の牧師をしているときにも、新島を自宅に招いたりして、いろいろと世話をしてくれました。 新島は、このように会衆派の人びとに出会い、会衆派の学校で学ぶうちに、洗礼を受け、正式にキリスト者になることを考えるようになり、一八六六年十二月三十日、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、会衆派教会の会員になったのです。 やがて新島はアーモスト大学に入学しますが、この大学もまた、ハーヴァード大学がユニテリアン化したので、ピューリタンの信仰を堅持するために、「敬虔の念と才能をもった貧しい青年を牧師にする」ことを目的として一八二一年に設立され、会衆派教会と密接な関係をもったリベラル・アーツ・カレッジでした(『同志社百年史』通史編一 四七頁)。 アーモスト大学では、入学当初からホスト・ファミリーとなって新島を息子のように大切にしてくれたのが、道徳哲学教授のシーリーとその夫人エリザベスです。エリザベスが新島のアメリカの第三の母です。新島は一八七〇年七月二十五日付で、シーリー夫妻に宛てて、こう書いています。「・・・私は貴方のもとでは哲学を学びませんでしたが、しかし私は貴方と共に長くいることによって或る程度貴方の信仰深い人格とキリスト者としての愛を学び取る非常な特権をえました。・・・貴方がたが私にキリスト者としての愛を示されることが、私を刺激し、私が他者に対しても同じことをするようにさせるでしょう」(『ニュー・イングランドにおける新島襄ゆかりの場所』三八頁以下)。 新島はアーモスト大学を卒業後、ただちにアンドーヴァー神学校へ入学しますが、ここは会衆派教会系の最も古い神学校です。新島はここで、道徳哲学と組織神学のE・A・パーク教授のもとでピューリタニズムとコングリゲーショナリズム(=会衆派主義)を基本とするニュー・イングランド神学を徹底的に学びます。新島が几帳面に書き記しているノートを見れば、彼がどんなに真剣に学んでいたか、一目瞭然です。 ニュー・イングランド地方は、一六二〇年、メイフラワー号に乗ってニュー・イングランドにやってきたピルグリム・ファーザーズの伝統に生きるピューリタンの人びとの影響が強く、人格の尊厳、良心、自由、平等、自主独立、自治、愛など、ピューリタニズムとデモクラシーの両方の伝統が息づいていました。とくに会衆派に属する人びとは、英国の国王や国教会からの迫害を逃れ、信仰の自由を求めて大西洋をわたり、聖書の教えに基づく共和国の建設をめざした先祖たちの自由の精神、デモクラシーの精神を忠実に受け継いでいました。彼らは、個々の教会というものは、いかなる信仰的・世俗的な権威からも自由であって、いかなる教会的伝統や教理的信条にも拘束されないで、自治と自由とお互いの連帯を尊重することを旨としていたのです。ですから、会衆派の教会は、一つひとつの教会が自主独立しており、信仰の自由を何よりも大切にしています。自分たちが信仰の信条を決め、牧師を決め、役員を決め、その上でほかの教会との連帯をはかるのです。その意味では徹底的に民主的なのです。会衆派主義の特質は「教会の独立と自治、教会員の平等と人格の尊厳、個人の悔改めの自覚及び良心及び良心の自由を尊重する点にあり、現実社会で神の意志を追求し、神の栄光を実現させる実践活動を重んずる」(『同志社百年史』通史編一 五四頁)ところにあったのです。しかし、そのような民主的な組織が成り立ち、運営していくためには、そこに集まる人びとの人間性が何よりも問われることになります。ですから、会衆派の人びとにとっては教育が大切であり、しかも知識だけでなく、徳育を重視する教育こそが大切なのです。 この会衆派の神学を代表するニュー・イングランド神学によれば、人間の自由は人格の中核をなしており、「人間の内面的意志の自由を意味し、道徳的責任の主体として人間に本質的なもので、キリスト・イエスにあってもつ自由であり、良心に束縛された自由」(『同志社百年史』通史編一 五四頁)なのです。人間は自由だからといっても、自分勝手なわがままの自由では破滅してしまいます。超越的な存在である神の意志に従い、良心をとぎすまし、キリストによってエゴという罪から解放されなければ、ほんとうの意味で自由にはなれませんし、またその自由は互いに愛をもって大切にし合わなければ成り立たないのです。そこで、このような自由と愛を大切にする人びとが集まって、会衆派の教会をつくり、フィリップス・アカデミーやアーモスト大学やアンドーヴァー神学校など会衆派の学校を設立し、世界にむけて伝道をするためにアメリカン・ボードを組織したのです。 『同志社百年史』には、「新島の思想の中で重要な自由及び良心の概念は、このようなニュー・イングランド神学との関係で理解されなければならない」「新島の生涯を通して、彼の生き方の中にこのようなコングリゲーショナリズムの特質を多く見出すことができる」と書かかれていますが(通史編一 五四頁以下)、このことはどんなに強調しても強調しすぎることはないと思います。 新島はアンドーヴァー神学校を卒業してからまもなく、一八七四年九月二十四日、ボストンのマウント・ヴァーノン教会で会衆派の牧師となる按手礼を受けたのです。 一人の老農夫の二ドルの献金さて、新島襄と会衆派のキリスト教との関係で重要なのは、アメリカン・ボードという米国外国伝道団体です。一八〇六年八月、会衆派系のウイリアムズ・カレッジの学生五名が森かげでアジアの人びとへの福音伝道のために祈っていたところ、突然雷雨に襲われ、近くの干し草の積場(ヘイスタック)の下に雨を避け、そこで熱心に祈りをつづけました。そして、この祈りを契機として、ウイリアムズ・カレッジのなかに「兄弟会」が結成されたのですが、このなかの二人がアンドーヴァー神学校へ入学して、そこで外国伝道団結成の計画を立て、その結果、一八一〇年、アメリカン・ボードが結成されたのです。最初は、長老派のなかの進歩派やオランダ改革派の人びとも加わった超教派の組織でしたが、やがて会衆派の人びとが中心となって活動するようになりました。一八四〇年代以降は、「奴隷制は倫理的な悪であり、キリスト教的観点から罪である」と、一貫して奴隷制に反対の立場をとりました(メソジスト派とバプテスト派は南北に分裂。長老派、ルター派、聖公会は南北に分裂し、あとで再び一致を回復)。(詳しくは、塩野和夫「一九世紀アメリカン・ボードの宣教思想 Ⅱ」西南学院大学『国際文化論集』二〇巻一号 二〇〇五年八月参照)。 アメリカン・ボードは、一八六九年十一月ダニエル・クロスビー・グリーン夫妻を日本に派遣し、グリーンは翌一八七〇年三月から神戸に住んで伝道を始めました。その日本伝道に参加したのが、ジェローム・ディーン・デイヴィスです。デイヴィスは若いとき、南北戦争で義勇兵として北軍に参加し、奴隷解放のために戦った経験をもっていましたが、一八七一年十月、アメリカン・ボードの大会がマサチューセッツのセーラムで開かれたとき、そこで自分もまた日本の伝道に献身したいとの決意を語りました。じつはそのとき、新島襄もそこに出席していたのです。新島はデイヴィスのもとに群衆をかきわけて近より、デイヴィスの手を握り締め、流れ落ちる涙を拭おうともせず、「自分も遠からず帰国し、キリストのために働きます」と、その決意を伝えたのです。ですから、このセーラムでの二人の出会いが、京都で同志社を設立するための強いきずなとなったのです。 新島は、帰国する直前の一八七四年十月九日、ラットランドのグレース教会で行われたアメリカン・ボードの大会で、海外伝道に向かう宣教師のひとりとして紹介され、スピーチをしました。その時、新島は思い切って日本にキリスト教主義の学校を設立するという夢を語って、涙を流しながら、必死で献金を訴えました。「一片の精神と感激の涙を以て訴えた」と新島は後で書いていますが、新島のスピーチが終ると、会衆の中から、「自分は千ドル捧げよう」「私も千ドル」「五百ドル献金しよう」「三百ドル」「二百ドル」と次々に声が上ったのです。そしてなんと総額五千ドルの大金が直ちに集まったのです。 新島が感謝と別れの言葉を述べ、壇を降りようとした時、一人の年老いた農夫が新島襄のもとに近づいて来て、そっと二ドルを手渡し、こう言いました。「これは自分の帰りの汽車賃だ。持ち金はこれだけだ。なに、わしの足はまだ衰えておらん。歩いて帰る。この二ドルをあんたが建てようとしている大学のために役立ててくれ」。新島は「この二ドルこそが同志社の核となった」と書き残しています。 ところで、アメリカのキリスト者たちはどうしてこのように日本伝道のために多額の献金をしたのでしょうか。聖書やキリスト教の考えによると、神(キリスト)は、この世界に関わる時、貧しい人の姿をとって、貧しい人と共に苦しむような仕方で、愛が必要とされるところに、われわれに先行して働いておられる。したがって、貧しい人びとへの慈善や愛の行為は、神に仕え、神の愛にこたえることにほかならないというのです。つまり、この世界の現実のなかで愛が必要とされているところでは、私たちの目には見えないけれども、神はすでにそこに行って働いておられる、あるいはキリストがそこで人びとのために苦しみ働かれているのだということが前提となっていて、そのキリストの働きに私たちも参加することが大切なのです。この考えが一九世紀のアメリカではアジアやアフリカへの海外伝道という形で強く働いていました。明治初期の日本は、アメリカからみれば、政治は混乱し、戦乱と殺し合い、貧富の差、人権無視、強烈な身分差別、思想、信条、教育、居住、旅行など各種自由の制限に満ちており、社会福祉施設も病院もほとんど無きに等しい状態でした。そういう日本の状態を知って、アメリカのキリスト者たちは、自分たちは今、何をすべきなのだろうかと、神に問いかけ、また自問自答する中から、このようなキリスト教の理解にもとづく献金や伝道や奉仕の行為を行っていたのです。ですから、あの老農夫も、新島が帰国して働こうとしている日本で、すでに神が働いておられ、そこに自分も参加させていただきたいという神への奉仕のスピリットをもって二ドルを捧げたにちがいありません。 「宿志」の実現のため帰国するこのように、新島は多くの会衆派教会の人びとと出会い、会衆派の学校や教会や団体を通して人間的な交わりや学問や信仰の研鑽をしていったのです。そして彼らの人格や思想の感化を受け、いかにキリストの教えが自由と自治の精神をもたらし、愛の連帯を生みだすものであるかを身をもって経験し、そのような貴重な経験をした最初の日本人として、みずからも会衆派の牧師となり、アメリカン・ボードの宣教師のひとりとなって日本へ帰国したのです。もし、新島がこのような経験をしなければ、自由と自治を大切にする教会を日本各地に設立し、さらにそのための牧師を養成するだけでなく、真誠の自由を愛し、良心を手腕に運用する人間を育成するためのキリスト教主義の学校を設立しようとする志は、新島の心の中に芽生えなかったにちがいありません。 もちろん新島は、たまたまハーディーをはじめ会衆派教会の人びとと出会い、アンドーヴァー神学校付属の教会で洗礼を受けて教会員になり、会衆派の学校で学んだわけですから、出会いという偶然的な要因で会衆派主義を信奉したという面があります。しかし、ただ単にそれだけではないのです。というのは、新島は一八七二年三月から一年半ほど、岩倉使節団の田中不二麿文部理事官と一緒に、アメリカやヨーロッパの大学や高校、中学校、小学校、幼稚園、図書館、博物館、美術館、病院など教育、文化、医療、社会福祉などの視察旅行をしました。そのとき、教会も訪れているのですが、どういう教会を実地体験しているかと言うと、バプテスト教会のように、会衆派教会に似ている教会はもちろんですが、ユニテリアン派、メソジスト派、長老派、ローマ・カトリック教会、イギリス国教会(聖公会)、ドイツ・ルター派、スイスやオランダの改革派、ロシア正教、ニューヨークのユダヤ教、さらに帰国の途上ではソルトレイクのモルモン教の教会など、カトリックであろうとプロテスタントであろうとユダヤ教であろうと、新島はいろいろな教会や教派に出掛けて行って、そこでさまざまな経験をしたうえで、やはり会衆派主義こそが、自分の理解しているキリスト教の中では最も相応しい神学であり、教会の制度であると確信して、キリスト教主義の学校を設立する「宿志」を実現するために、日本に帰ってきたのです。 新島と覚馬を結びつけたもの一八七四年十一月二十六日、アメリカから帰国した新島襄は、翌年まず大阪でキリスト教主義の学校を設立しようとしたのですが、大阪府知事の反対でうまく行かず、木戸孝允の紹介で京都の槇村知事に会うべく、四月五日京都へ入り、二十四日まで滞在いたします。そしてその間に槇村知事の紹介で山本覚馬に会ったのです。すると、山本覚馬は直ちに賛同し、新島にキリスト教主義の学校を京都に設立することを勧め、協力を申し出たのです。そこで新島はいったん大阪へ帰り、六月十日再び京都を訪れ、山本覚馬から旧薩摩藩屋敷跡五八〇〇坪の土地を五五〇ドルで譲ってもらい、覚馬の家に同居をしながら、学校設立の準備をすすめました。そして、八月二十三日、新島と覚馬で同志社を結社、それにデイヴィスの賛助を得て、十一月二十九日、同志社英学校を開校したのです。 でも、新島襄と山本覚馬は、どうして「同じ志をもつ」ようになったのでしょうか。その志とは、もちろん知育だけではなく、徳育を兼ね備えたキリスト教主義の学校を設立し、教育を行うことです。しかし山本覚馬はなぜ、初対面の新島の申し出に賛同し、協力を申し出て、同志となったのでしょうか。 山本覚馬は会津藩士であり、薩摩屋敷に囚われ、そのあいだに完全に失明し、足も不自由になってしまっていたのですが、覚馬は精力的に情報を集め、国内外の情勢をみきわめながら、来るべき時代に備え、一八六八年(慶応四年)には建白書「管見」を書きはじめていたのです。ちょうどその頃、故郷の会津の鶴ケ城では妹の八重(のちに新島襄と結婚)が鳥羽伏見の戦いで負傷して亡くなった弟の三郎の形見の装束(しょうぞく)で男装して、戦っていました。やがて明治新政府の時代がはじまり、翌一八六九年(明治二年)、覚馬は釈放され、提出した「管見」が高く評価され、京都府顧問となりました。そして都(みやこ)が東京に移ったあとの京都の復興のために、外国人を雇ったり、さまざまな産業を興したり、貿易を促進したり、学校や病院を建てるなどの施策が行われましたが、これらは覚馬の博識と知恵によるところが大きいのです。 そうしたとき、一八七五年の四月初めですが、アメリカン・ボードの宣教師ゴードン夫妻が京都博覧会見物と保養を兼ねて京都を訪れます。新島は、大阪ではゴードンの家に滞在していたのですが、ゴードンが京都へは一足先に来て、木屋町三条を上がった所に宿泊していました。山本覚馬はそのゴードンと会って、ゴードンから『天道遡原』(原著 Evidences of Christiaity)という漢文の書物を贈られます。また、覚馬とゴードンと槇村正直知事と三人でキリスト教について熱心に話し合ったということが、ゴードンによって記録されています(全集3 七六六頁)。 一方、新島は四月五日、京都に入り、三条大橋の目貫屋に泊まって、ゴードンを訪ねたり、槇村知事にたびたび会ったりしながら、二十四日まで滞在するのですが、その間に槇村知事の紹介で覚馬と初めて会います。覚馬は、ちょうどこの本を人に読んでもらった直後でしたので、そのとき、新島にこう言ったそうです。「その本はわたしにとても有益だった。キリスト教についての多くの疑問を氷解してくれたし、長年わたしを苦しめてきた難問をも解いてくれたのだ。若い頃わたしは何とかして国家につくしたいと思い、そのために兵学の研究にうちこんだ。しかしこれだけではあまりに小さすぎると感じたので、人民のために正道が敷かれることを願って法学に関心を向けた。けれども長い間研究と観察を重ねた末、法律にも限界があることをさとった。法律は障壁を築くことはできても、それは心を入れかえることができないからだ。心の中の障壁がなくなるとすぐ、ひとは盗んだり、嘘をついたり、殺したりするようになる。法律は悪しき思いを防ぐことができぬ。しかしわたしにも明け方の光がさしてきた。今やわたしには、以前には全くわからないでいた道が見える。これこそは長い間、無意識のうちにわたしが探し求めてきたものなのである」(全集10 二一六頁)。 つまり、新島と覚馬とを結びつけたのは、キリスト教だったのです。しかし、これだけでは、覚馬がキリスト教についてどのような理解をもち、新島とどのような話をしたかはわかりません。ただ、覚馬が理解したのは、ゴードン宣教師と新島から聞いたキリスト教の話であり、ふたりのキリスト者の信仰と人格に触れて、感動を覚えたことだけは確かではないでしょうか。ゴードンはカンバーランド長老教会の会員でしたが、会衆派のアンドーヴァー神学校を卒業し、ニューヨークの医学校で医学も学んでアメリカン・ボードの宣教師として一八七二年九月来日し、大阪で日本語や日本文化を学んでいました。ゴードンは、キリスト教を伝道する相手の言葉や文化や宗教を理解し尊重することが不可欠であると考え、のちには仏教の研究もしたほどの人ですから、キリスト教の話の中身が、会衆派のキリスト教の基本である良心、自由、愛、自治、自立であったと想像しても、決して的はずれではないでしょう。 新島が教会合同に反対した理由さて、新島がいかに会衆派のキリスト教を大切にしていたか、それを端的に表しているのは、新島が亡くなる四年前、一八八六年頃から、長老派の日本基督一致教会と会衆派の日本組合基督教会のあいだで起こった教会合同運動に対する新島の態度です。その頃までには、いろいろな教派が日本で伝道をさまざまな形で展開していましたから、トラブルも起きますし、日本人からみれば同じキリスト教が競争したり、喧嘩したり、対立したりしているのは、おかしいじゃないかという声が高まっていました。そこで、宣教師たちも日本の牧師たちも「みんな一緒にやろうではないか」ということで、当時大きかった長老派と会衆派の教会合同の動きが急速に、しかも非常に強く出てきたのですが、それに対して新島襄は反対したのです。というのは、たとえばローマ・カトリック教会はローマ教皇を頂点とするトップダウンの組織ですから、そうしたところとの合同はあり得ません。また、プロテスタントでも教派のなかには、アメリカ・メソジスト監督教会のように監督によって個々の教会を指導する教派や、英国聖公会の流れをくむエピスコパル教会も監督・主教を持っていますから、民主的とは言えません。また長老派教会は各個教会が役員である長老の「小会」、一定の地域内の各個教会を統治する「中会」、そしてこれらの中会を統括する「大会」、それに最高の統治機関を「総会」とする政治形態をとっていて、各個教会のレベルでは会衆派教会と同じところもありますが、やはり長老による貴族主義的な政治体制であり、会衆派のように自由自治の民主的な組織ではないのです。そこで新島は、日本の教会の政治体制はそういう体制であってはならない、拙速な仕方で合同すれば、長老派に飲み込まれてしまい、会衆派の伝統は失われてしまうにちがいないとして異議を唱え、反対したのです。そして、小崎弘道をはじめ教え子の牧師や宣教師たちと衝突するにいたりました。そのため、新島は自分がどうして理解されないのかと非常に悩んだのです。 新島が反対した理由を示す文書はいろいろありますが、とくに重要なのは、新島襄が親しい交流のあった井深梶之助に宛てて書いた手紙です。井深は、戊辰戦争で会津若松の籠城に参加し、のちに横浜でブラウンから洗礼を受け、東京一致神学校で学び、牧師となり、また神学校の教員となって、明治学院設立にもかかわった人ですが、新島襄は彼が東京一致神学校のカリキュラムのことで同志社のカリキュラムを問い合わせた手紙に応えたり、宣教師の日本伝道方策について意見を交換したりしているのです(全集3)。 とくに一八八八年十一月十二日付の手紙(五〇三号書簡)では、教会合同についてなぜ反対するのかという井深の問い合わせに対して、新島はこう応えているのです。「・・・わたしは元来、教会の政治に関しては、会衆共和主義を取るべきであると確信しているところであり、今の教会憲法草案が採用実施されることになれば、会衆共和主義はやがて跡形もなくなり、そのような政治が早晩われわれの教会の中にも侵入してくることは到底免れることはできないと思い、心の中は決して安らかではありません。・・・わたしはかねてから形而下の教会合同よりもむしろ形而上の教会合同を望んでおり、また、アルティフィシェル・ユニヨンよりも、むしろナチュラル・ユニヨンを主張しているのであって、ただわれわれの信奉している共和主義である会衆教会だけをさして、これだけが真正の教会であるとみなしているのではありません。長老派の諸教会から監督派、バプテスト派の教会にいたるまで、それぞれみな長所があるのですから、わたしはこれらは皆地上の有益な教会であると確かに認識しており、これらを尊敬し、これらと交わり、共に主の御旨を地上になさしめようとして、これら諸教会の間でひじょうに美しいスピリチュアル・ユニヨンが行われることを希望しているところです。・・・この教会憲法のままなら、わたしは十分満足することはできない、教会の上に何か別にひとつの政治形態をもつような感がして仕方がない、これは平素、われわれが信奉している会衆共和主義とは大いに齟齬を来たすことにならざるを得ない・・・」。 この問題について、新島は同じ年の十二月二十八日、海老名弾正宛にも同じ趣旨の手紙を書いています。「・・・ある人はわたしのことを指して、狭い心をもったセクト主義者だと言っているが、私の取るところは自治自由平等主義である。セクトは何でもよろしい。わが日本政府の如き中央集権政府も、今は眼を開いて地方分権を施そうと計画しているときに、世の中のリーダーを自認しているキリスト教会、とくに自由主義をとっているわが組合教会がやみくもに合併に走って、中央集権主義をとろうとするにいたっては、わたしは全く解せないところである。・・・われわれは今の時代に義務を負っているだけではなく、今から千百年も後の時代の基礎をも据える義務を負っているのである。ゆえに、将来のためを図るならば、われわれの教会は極めて自由、極めてブロード、極めて簡易に、その基礎をおくことである。(さりとて幾分かの仕事を進めるためにシステムは必要である)。・・・どうかわたしの心情を洞察してほしい。・・・われわれのグループの中にほんとうに自由の真価を知る者がわずかであるのには、わたしも閉口している」(全集3 七二六頁以下)。 遺言―「真誠の自由を愛し」とは新島襄は亡くなる前の年、弟子たちに宛てた三通の手紙に、自分の生涯の目的は「自由教育 自治教会 両者併行 国家万歳」であると書いています。「自由教育と自治教会」、この両者を日本のためにあいまって実践すること、これが新島の生涯の目的であり、志であったのです。そして、これこそは、新島が出会ったキリスト教である会衆派のスピリットでもあったのです。 ところで、自由教育と言いますと、現代の日本では誤解が生じるかもしれません。ゆとり教育のことかとか、自由放任かとか、これ以上若者をわがまま放題にさせる教育なんてゴメンだなど、マイナスイメージを抱かれるかもしれません。しかし、新島が志した自由教育の自由とは、そういうものではありません。そのことを端的に示しているのは、遺言の中にある「真誠の自由を愛し」という言葉です。遺言の第二項ですが、「同志社教育の目的は、神学、政治、文学、自然科学などいずれの分野に従事するにせよ、どれもはつらつたる精神力があって真誠の自由を愛し、それによって国家につくすことができる人物の養成に努めること」とあります。この「真誠の自由を愛し」という文言は、原本をみると、欄外にあとから書き足されています。一八九〇年、新島が亡くなる二日前の一月二十一日の朝五時三十分、徳富が筆記を始めました。そして、徳富が筆記したものを朗読すると、新島は、一つひとつうなずきながら聞いたそうです。そして、第二項のところへくると、「真誠の自由を愛し」が抜けていることを新島が指摘したそうです。それで徳富は欄外に書き加えたのです。そして終わったのは、午前七時十分前。ですから、一時間二十分ものあいだ、新島は激しい腹痛に耐えながら、同志社への最後の言葉を語ったのです。 「真誠」の反対は「虚偽」でしょう。とすれば、虚偽の自由、いつわりの自由、みせかけにすぎない自由があるということになります。たしかに、私たちは自由だと思っていても、いろいろな欲望だとか、自分のエゴそのものだとか、他人の考えだとか世間の評判だとか、いろいろなものに案外、がんじがらめに縛られているのではないか。聖書はそれを罪の奴隷と言っているのです。新島は「兄弟ヨ、我輩ハ神ヲ知ラス、全ク罪ノ奴僕トナリ居リシモノナルヲ、キリスト我ヲ自由ニセリ」(全集2 一〇二頁)と説教をしています。残念なことに、人間の現実は甘くはありません。人間は、自分の自由を拡大していけばいくほど、それに反比例するかのように、自分というエゴの奴隷になっていかざるを得ないからです。そして、そのエゴは他人のエゴと衝突し、互いの自由と自由をぶつけ合って、一方が他方の自由を侵害したり、互いに自由の侵害を告発したりしなければならなくなってしまいます。私たちは、このような人間の悲しむべき現実を、個人のレベルから、いろいろな集団、そして国家のレベルにまで、毎日のように経験しています。このような自由が虚偽の自由、罪の奴隷状態なのです。 新島襄は、人からキリスト教とは何ぞや、と質問されたら、どう答えるか、という説教を晩年、仙台でしています。新島の答えは、「愛を以てこれを貫く」です。愛を以てすべてを貫く道、これがキリスト教の教えであると語っています。新島が出会ったキリスト教について、新島自身が結局のところどういうふうに理解しているかと言えば、この言葉にたどりつくのです(全集2 一七八頁以下)。 新約聖書のなかで、パウロは、ガラテヤの信徒へ書き送った手紙で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(五章一三節)と言っています。しかし、その続きに、自由だからといって、「互いにかみ合い、共食いしていると、互いに滅ぼされる」、だから「注意しなさい」と書いています。では、どのように注意したらよいのか。いったい、人間の自由をお互いに尊重し合うことのできる方法はあるのか。パウロは、さらに書いています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。私たちの自由が、エゴからも真に自由であるためには、互いに愛し合う以外にはないというのです。 イエス・キリストこそが、真誠の自由をもたらしてくださる。その真誠の自由を何よりも愛し、それを自分のわがままや欲望のためでなく、「それによって国家につくすことができる」ような生き方をしてほしい、同志社はそういうふうに真誠の自由を愛のために用いる人物を育てる学校であってほしい、このような意味を込めた真誠の自由の教育、これが新島の人生最後のときに、ほとばしり出た願いであったのです。キリストによって与えられた自由を互いに大切にし合う、そして互いにすべてのことを愛をもって貫く、このことに徹するところに、新しいタイプの人間が誕生するのだ、そのような新しい人間を生み出す教育をしなければ、日本の将来はないし、世界もまた滅びるほかはない。新島はこのような確信をいだいて、志を立て、志を共有する仲間とともに同志社を設立し、同志社教育を行ったのです。 出会いの背後に働く神の力今、世界の人びとの心は、黒雲のような不安や恐れに覆われています。自由の名のもとに市場原理だとか弱肉強食の考え方が支配している現実があります。あるいは、正義の名の下に、報復、復讐、リベンジという言葉や行動や事件が、世界のレベル、個人のレベルを問わず、TVや新聞に現れない日はないほどです。いったい、このような暗い不安と恐れにみちた世界のなかで、真誠の自由や愛の心の働きを強める方法はないのでしょうか。そのための即効薬は見当たりません。結局は、一人ひとりの心に変革、革命が起こること、そこからしか事態は良くならないのです。 新島襄やアメリカン・ボードの宣教師たち、それに同志社を卒業して会衆派の教会やキリスト教主義の学校で働いていた牧師や教師たちも、また彼らと出会った人びとも、みなそれぞれの時代のなかで、人間の問題、時代の問題と格闘するなかで、真誠の「自由」と「愛」のメッセージを聖書から学び、教会や学校で経験し、自由と愛を自分たちの生き方をとおして現実化しようとしたのです。 新島と会衆派のキリスト者との出会いを振り返ってみますと、それは全くの偶然の出会いからスタートしています。でも、彼らは互いにその偶然の出会いを徹底的に大切にしたのです。偶然の出会いにどうかかわっていくか、それは出会う人の自由にゆだねられています。しかし、その出会いをみずからの良心に照らし、その意味を思いめぐらし、愛をもって大切にしていくなら、そのとき、その出会いの背後に神の必然の力が働いていること、そしてその出会いをさらに意味あるものへと導いておられることに思い至るのです。これが新島襄や会衆派の人びとが信じていた神のMysterious Handであり、彼らが聖書に基づいて大切にしていた神の摂理(providence)の確信なのです。 同志社は、そして同志社の学生、卒業生、教職員はみな、このような出会いを大切に生きていくモデルを新島の生涯と同志社の歴史の中に明確に示されているのです。 どうか、同志社に学ぶ学生の皆さん、校祖新島襄が出会った会衆派のキリスト教の理解をさらに深め、私たちお互いの出会いを大切にし、聖書やキリスト教と出会い、さらには神との出会いを求めて、毎日毎日の学生生活を有意義に過ごしてください。 二〇〇五年十一月七日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録 |
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