奨励

新島襄の足跡を辿る
~欧米編と京都・安中ウォーク

奨励 田島 繁〔たじま・しげる〕
奨励者紹介 元同志社中学校教諭

I アメリカ編
―ボストン・アンドーヴァー・チャタム・アーモスト・ラットランド

(二〇〇五年八月二十二日から二十九日訪問)

一八六五(慶応元)年七月から一八七四(明治七)年一〇月

新島襄 二十二歳~三十一歳

 私は同志社教職員組合連合のレクリエーション担当者として「ボストン・アーモスト新島襄の足跡を辿る旅」を企画し、二〇〇五年に三十名の教職員・家族を引率し、ボストン・アンドーヴァー・セイラム・チャタム・アーモストの五ヵ所を訪れた(ラットランドは安中教会からの誘いで実現)。北垣宗治同志社大学名誉教授のお話を聞きながら、新島先生が通ったフィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校やワイルド・ローヴァー号のH・S・テイラー船長の生地チャタム、五〇〇〇ドルの寄付で同志社開校の礎となるラットランドのグレイス教会を訪れた。「アメリカの父」A・ハーディ氏やE・T・シーリー教授などのお墓を探し、お世話になった人びとに感謝の祈祷を捧げた。
 ボストン港の近くにある旧海員ホーム。ワイルド・ローヴァー号の船の持ち主ハーディ氏はここで新島に「脱国の理由」を書かせた。渡米を志した動機を渾身の力をこめて英語で綴った文章は敬虔なクリスチャンで資産家であるハーディ夫妻に深い感銘を与え、新島の後見人(養父母)になる決意をさせた。
 新島を息子同様に受け入れ、精神的・物質的援助を惜しまなかったA・ハーディ氏の旧邸。ボストン市内にある。ハーディ氏の死を明治二十年に札幌で知った新島はショックでその夜から再び心臓の状態が悪化したという。
 ボストン郊外のアンドーヴァーにある新島の母校、フィリップス・アカデミー(高校)。「真の敬神と徳を助長」させるために創設された有名大学入学を目指す名門のアカデミーである。新島は十月に英語科に入学し、一年八ヵ月勉強し卒業した。ブッシュ元大統領親子もここの卒業生だ。
 フィリップス・アカデミーの入口に建つ「良心碑」。新島襄生誕一五〇周年を記念して一九九三年に日本から贈られた石碑。「良心の全身に充満したる丈夫の起こり来らんことを」と日本語で、裏に英語で書かれていた。北垣教授ガイドの同志社の教職員家族と本井康博同志社大学教授ガイドの安中教会の会員家族が一緒に記念撮影する。
 フィリップス・アカデミーに隣接する旧アンドーヴァー神学校のバートレット・ホール。
 新島は二十三歳の時、この神学校付属の教会で受洗した。
 フィリップス・アカデミーの校長の紹介で、新島が一年八ヵ月家族の一員として住むことになったミス・ヒドゥンの旧宅。衣食の面倒を始め母親のように頼り、教会の日曜学校にも連れて行ってもらった。間借人、後に牧師となるフリント氏から英語など個人指導を受けた。
 上海から喜望峰、ボストンまで新島を乗せたワイルド・ローヴァー号。船長はテイラー氏で、船の持ち主は同じチャタム出身のA・ハーディであった。
 テイラー船長の生家で、ケープコッド岬のチャタムにある。新島は家族の一員として迎えられ、いわば「アメリカの兄」であった。新島は学校の長期休暇にはこの生家に四度も招かれて休暇を楽しんだ。
 テイラー船長の家族の写真。ボストンへの航海中、船長は新島をJoeと呼び、英語や航海術を教え、英語の聖書を与えた。「新島を弟のように可愛がり、父親のように優しく遇した船長の突然の事故死」アーモスト大学の寮で知った新島の悲しみはいかばかりであったか。
 アーモスト大学のシンボル、ジョンソン・チャペルの前で。全人教育重視のアーモスト大学は全米で高い評価を受けている。新島はここで三年間学び、人生観、世界観、教育観の形成にとって最も重要な時期を過ごした。卒業時、理学士の称号を得た。
 ジョンソン・チャペルの正面。右側の名誉ある場所に新島襄の肖像画、左側にクーリッジ第三十代大統領の肖像画。第二次世界大戦中もここに掲げられ、誰も肖像画を外せとは言わなかった。肖像画の額の下に「ジョゼフ ハーディ 新島 アーモスト大学1870年卒業、1889年LL. D.(名誉法学博士)京都 同志社大学の創始者 クラスメイト達からの寄贈」と刻まれている。
 「金にメッキする必要はない」と新島を高く評価したシーリー教授の旧邸。新島は卒業する一八七〇年三月から四月にかけて、激症リューマチのき取られ、夫妻から手厚く看護された。一八八九年シーリー学長の尽力で新島に名誉法学博士の称号が授与された。
 有名なBoys Be Ambitiousの言葉を残したW・S・クラークの墓。クラーク教授はアーモスト大学で新島に化学を教えた。札幌農学校初代教頭のクラーク氏は札幌を去った後、明治十年五月に京都に立ち寄り、開校一年半で四苦八苦する新島を励まし、寄付をした。新島は岩倉使節団の田中不二麿文部理事官を連れてアーモストを訪れ、シーリー教授がアーモスト大学を、W・S・クラーク学長がマサチューセッツ農科大学を案内した。
 ラットランドのグレイス教会。新島が帰国する直前の一八七四年十月、アメリカン・ボード年次大会がここで開かれた。新たに任地に向かう宣教師に与えられたスピーチで、新島は「日本にキリスト教主義の学校を設立するためご援助を!お約束を得られるまで私は着席いたしません」と涙ながらに訴えた。約五〇〇〇ドルの寄付が集まった。このお金で今出川校地を購入し、同志社英学校の最初の校舎と食堂が建設された。まさに、同志社の「受胎」の日であった。
 ラットランド駅。新島が演壇を下りると一人の老農夫が近づき、震えながら「この二ドルは帰りの汽車賃です。あなたの演説を聞き感激しました。あなたが建てられる学校の費用の一端に」と先生に手渡した。老農夫が乗る予定だった駅で今も残っている。新島はもう一人の老女の二ドルと合わせ、「最も強く心を打たれたのはこの二人の二ドルの寄付である」と語っている。

II ヨーロッパ編

(二〇〇八年七月二十八日から八月四日訪問)

【1】ドイツ・ヴィースバーデンでの湯治生活

 一八七三(明治六)年二月十三日から七月二十三日

新島襄 三十歳

 新島は岩倉使節団・田中不二麿文部理事官の秘書・通訳として、米国に次いで一八七二年五月からイギリス・フランス・スイス・ドイツ・ロシア・オランダ・デンマークを訪れ、大学から小中学校、幼稚園まで公立・私立の教育機関を訪問・調査した。
 「理事功程」と新島の草稿。新島は集めた資料の翻訳やまとめの作業を、ベルリンで一八七二年九月から四ヵ月ほど行い、欧米の教育制度の調査報告書「文部省理事功程」の草稿を書きまとめた。これは明治初期の日本の教育制度に大きな影響を与えた。
 フランクフルトから電車で三十分のヴィースバーデン駅。新島は厳冬のベルリンでの重労働のためリューマチ、神経性頭痛に苦しんだ。医師の勧めでフランクフルト郊外にある国際温泉保養地のヴィースバーデンで湯治生活をした。
 ヴィースバーデンで一番有名な温泉場のカイザー・フリードリッヒ・テルメ。前身のKaiser-Friedrich-bathが一九一三年に建造され、世界中から貴族が訪れ、世界的に有名な温泉保養地となった。一九九九年に改装され現在の名前に。一階にサウナ・温水・冷水の優雅な「冷温水浴」施設がある。私も二〇〇八年の夏に訪れた。
 「アイリッシュ・ローマ式水浴法」。何百年も前から知られている水浴法で、「温水、サウナ、冷水」を繰り返す。リューマチに効くという。新島はハーディ夫人に手紙で「この風呂はリューマチによいと思うが、むしろ私の神経を苛立たせる。私の神経性頭痛は以前と変わらない。私の医師はもう一週間か二週間治療を続けるように」と。結局、新島は五ヵ月間湯治生活をした。
 新島は「a Bathing Hotelに泊った」と書いているだけだ。私はもっと調べられないかとへッセン州立図書館を翌日訪れた。「著名な外国人の来訪記録はありませんか」と館員に聞くと、新島が訪れた一八七三年二月八日から十五日の「温泉新聞」を持ってきてくれた。
 ホテル毎に著名人の名前が書かれていた。諦めかけていたら、最後の方に「Nee Sima, Hr., Japan」を見つけた。新島はRömerbadに泊まったことが分かった。
 館員にRömerbadの住所を調べてもらった。Kochbrunnenplatz3と書いてあった。館員は「そのホテルはインターネットで調べても出てこない。現存しないかも」と。その場所へ行く地図をもらい何度も聞きながら探した。「あった!」。
 右の柱にKochbrunnenplatz3と書かれている。新島がリューマチ治療のため泊ったホテル兼湯治場はこの建物であろう。しかし、今はリューマチ患者も少なくなり、レストランに変わっていた。
 新島が木戸孝允と会ったヴィースバーデンのクアハウス。Kurhausは療養センターかと思ったら、社交館、コンサート会場、カジノもあった。木戸孝允は同志社創設に当って新島に大変協力的であった。

【2】スイスのサンゴタール峠、リギ・クルム山

一八八四(明治十七)年八月 新島襄 四十一歳

 新島は一八八三年「同志社大学校設立旨趣」を公表し、大学設立発起人依頼や募金活動などで疲れていた。ハーディ氏やアメリカン・ボードの勧めで、休養のため一八八四年欧米旅行に旅立った。途中八月六日、スイスのサンゴタール峠への登山中「呼吸困難」になり、峠のホテルでハーディ氏や妻・八重さん、両親に「英文遺書」を書いた。私は二〇〇八年、新島が歩いたアンダーマット駅から峠(二一〇八メートル)まで十二キロメートル歩き、どこで苦しくなったのか実地検証した。
 新島が訪れた頃のスイスのサンゴタール峠。イタリアとスイス・フランス・ドイツの交通の十字路で賑わっていた。
 アンダーマット駅の案内所でサンゴタール峠までの行き方を聞くと、この地図をくれた。「昔の旧道が残っていて標識があるので大丈夫。そんなに厳しくはなく三、四時間で行ける」と言われた。
 歩く人は誰もおらず不安だった。このホスペンタル駅までは平坦な道で四キロメートル。ここから坂を八キロメートル登ると左奥に見えるサンゴタール峠に着く。標高差は六百七十二メートルである。京都でいえば、同志社大学から修学院経由で比叡山山頂までが同じ十二キロメートルで、標高差は約七百五十メートルだから、比叡山より少しなだらかな坂である。
 三時間半でサンゴタール峠に着いた。途中すれ違ったスイス人夫婦に「どこが一番きつかった?」と聞いたら「MatteliからBruggboden」と意見が一致した。Bruggbodenから峠まで約一・五マイル(二・四キロメートル)。新島が「峠のホテルまで一・五マイルで呼吸困難に」と書いているので、この辺りだなと検証できた。
 サンゴタール峠にある唯一つのホテル。新島が泊った当時のホテル名はHotel du Mont Prosa。一九八二年にSan Gottardo Hotelに改名し、現在はALBERGO SAN GOTTARDOに。ホテルの部屋で新島は「医者がいないのでブランデーを一匙飲み、カラシの軟膏を胸と首に塗った」とその狼狽ぶりが分かる。
 英文遺書「I took a trip to S. Gottard Pass. … I found myself hard of breathing.… I would ask the Pastor Turino to bury me in Milan and send this writing to Hon. Alpheus Hardy.」「トゥリノ牧師にミラノで埋葬するように、ハーディにこれを届けるように」と、スケッチ用の画用紙に英語で遺書を書いた。
 サンゴタール峠は今、交通路としての峠越えの意義は薄れた。歴史的な峠を復活させようと一九八六年に国立博物館をオープン。ホテルの前にあるこの建物は一階が食堂、二・三階が博物館である。この地方で産出する水晶など珍しい鉱石が陳列されていた。「鉱石探しは山岳地方の伝統的副業であった」とホテルの掲示板に書かれていた。鉱石に興味がある新島は、フィレンツェの鉱物学の教授とも会っていたので、鉱石探しもここに来る一つの動機であったかもと推察する。
 リギ山山頂から見えるルッツェルン湖と右奥にルッツェルン市街。新島はサンゴタール峠のホテルで少し具合がよくなったので、医師に診てもらうためルッツェルンに来る。
 医師の指示で二週間安静にし、その後一八七一年に開通した世界最古の登山電車に乗ってリギ・クルム山(一七五〇メートル)に登る。雪に覆われたアルプスの雄大な景色を見て、病みあがりの新島は何を思ったであろうか。

III 京都・安中中山道ウォーク

(二〇〇九年四月二十五日から五月七日実施)

 一八八二(明治十五)年七月三日から十一日

新島襄 三十九歳

 新島が明治十五年に徳富蘇峰や湯浅吉郎、伊勢(横井)時雄ら教え子五人と歩いた「京都・安中 中山道三六五キロメートル」を、昨年のゴールデンウィークに十三日間かけて歩いた。きっかけは昨年(二〇〇九年二月)、新島襄生誕記念会で「新島研究功績賞」を受賞したことである。もう一つの動機は、同志社大学経済学部一年の時、松井七郎先生が授業「一般演習」で「My Younger Days」をテキストに新島先生の生涯を熱く語られたことに刺激され、クラスの菅、高橋と三人で同志社精神研究会を立ち上げた。その同精研で一九六三年に菅くんら会員六人が「新島京都安中中仙道行脚」を実施した。私は同志社教会の修養会とバッティングし参加しなかった。このことがいつも心にひっかかり、退職後是非実施したいと思っていた。
 新島襄全集5巻の日抄、元同志社中学校長山田興司著「新島襄中山道の旅」、「山と渓谷社」の「中山道を歩く旅」を読み、中山道の出入り口と距離、宿舎を調べるため四〇〇㏄オートバイで下見した。
 新島先生と同様、学生たちと一緒に歩きたい。そのためには気候がよく、休みの多いゴールデンウィークを挟んだ四月二十五日から五月七日が最適だと考えた。宿舎も考え一日平均二十八キロメートル十三日間で歩く案を作成した。同志社大学学生支援課にこの案を持っていき、広報誌で紹介してもらったが、学生からの問い合わせはなかった。そこで教え子や知人に声をかけた。

行程表
一日目  四月二十五日 同志社大学~京都駅↓[電車]↓彦根~関ヶ原 二七㎞
二日目  四月二十六日 関ヶ原~赤坂~美江寺~加納(岐阜) 三〇㎞
三日目  四月二十七日 加納~鵜沼~太田(美濃加茂) 二五㎞
四日目  四月二十八日 太田~御嶽~細久手~大湫~[車]~大井 四四㎞
五日目  四月二十九日 大井(恵那)~落合(中津川)~馬籠 一八㎞
六日目  四月 三十日 馬籠~妻籠~三留野~野尻 二三㎞
七日目  五月  一日 野尻~寝覚の床~上松~福島 二九㎞
八日目  五月  二日 福島↓[電車]↓薮原~鳥居峠~奈良井~洗馬 三八㎞
九日目  五月  三日 洗馬~塩尻~塩尻峠~下諏訪 一九㎞
十日目  五月  四日 下諏訪~和田峠~和田~長久保 二九㎞
十一日目 五月  五日 長久保~長瀬~海野~小諸 三〇㎞
十二日目 五月  六日 小諸~追分~沓掛~軽井沢 二三㎞
十三日目 五月  七日 軽井沢~碓氷峠~坂本~安中(新島旧宅) 三〇㎞

 四月二十五日出発式を同志社大学の良心碑の前で行った。祈祷をしカレッジ・ソングを歌った。雨の中、八人は「同志社 新島襄 京都 安中」の旗を先頭に行進した。
 新島は、この新島旧邸から京都駅に向け出発した。道順は書かれていないので、私達は死後、新島の棺が京都駅から学生たちに担がれ新島旧邸まで運ばれた道(不明門通~万寿寺通~御幸町通~丸太町通~寺町通)を逆に歩いた。東本願寺やお寺を避けていた。
 加納宿本陣跡の皇女和宮仮泊所前で岐阜新聞の記者から取材を受け、岐阜新聞に大きく掲載された。
 中山道の難所・琵琶峠は日本一長い石畳の道で、峠には都を遠ざかる和宮の歌碑があった。私は昼食を食べ立ち上がったら「あれ、ギックリ腰?」と不安になった。
 馬籠の但馬屋に泊った。夕食時、外国人と日本人がほぼ半々だった。食後、フランス人家族がパリから招待した両親と囲炉裏を囲み、八時から始まる「木曽節の民謡と踊り」の講習を楽しみに待っていた。私達はその間シャンソンでお互い交流することができたが、これからは宿も「文化」という付加価値をつけなければと思った。
 新島や伊勢は起伏のある「木曽路」辺りから疲れて荷馬車や人力車に乗ることが多くなった。私も初めは苦しい旅になるだろうと思っていたが、八重桜、チューリップ、藤の花など百花繚乱。のどかな田園風景を見ながら歩いていたら、「贅沢な旅だなあ」と思いは逆転した。
 新島が泊った妻籠宿。妻籠は国の重要伝統的建造物群保存地区第一号に指定された宿場風情満点の宿である。
 「寿命そば」で有名な越前屋。「日抄」で新島は「寝覚ノ蕎麦 四人ノ連中 徳富、奥、湯浅。予直ニ8杯ノ蕎麦ヲ喫セリ」。「蘇峰自伝」には「予と先生と名物蕎麦の賭喰ひをした。先生が九杯の時更に半杯を加へた為に予の勝ちとなって蕎麦代を先生に払わしめた」と書かれている
 福島宿でのお風呂のエピソード。新島に「一緒に入りましょう」と言われた蘇峰は「それだけはご勘弁を」と湯浅と二人で逃げ出した。
 下諏訪本陣 「日抄」に「下諏訪 我輩ノ泊セシ所ハ亀屋…安息日ナルヲ以テ休息ス」
 安息日だからと言って旅行中も一日しっかり休養を取るとは「さすが、筋金入りのクリスチャンだ」と思った。二〇〇九年NHK大河ドラマ「篤姫」で話題となった和宮降嫁の行列絵巻等の資料が、この本陣や新島が泊った「かめや」に展示されていた。
 中山道で一番高い和田峠。一五三一メートルもある急な坂道で、新島らは風雨激しく散々な目にあった。これが尾を引いて雨と急坂のため、中山道の笠取峠を避け、長瀬、北国街道に方向転換した。
 海野から岸本君、軽井沢で畝目先生と河村氏、松井田で同精研の仲間三人が加わり、七人でゴールの新島旧宅向けて歩いた。半田家の立派な邸宅があった。同精研第一回新島ウォークに参加した最後尾の関口氏は半田隆一氏宅に泊めてもらい、新島襄の遺髪と愛用の硯を見せてもらった。
 新島旧宅の前には多くの人が待ち構えていた。新島学園の教職員や松井会の人達と握手しながら五時二十五分ゴールした。
 翌日の朝、上毛新聞に「新島襄しのび 京都から安中 三七〇㎞歩く」と大きく掲載された。
 翌日、新島から洗礼を受けた湯浅治郎や柏木義円牧師らが全国から募金を集めて建てた安中教会を訪れ、このウォークでもお世話になった五味一牧師や教会員の方々と交流することができた。また、私の希望で新島学園中高のパイプオルガンを見せてもらった。学校関係では全国屈指のこの素晴らしいスイス製パイプオルガンの伴奏で、新島先生の愛唱歌と言われる讃美歌二一の二二七番「主の真理は」を合唱できたことは最高に嬉しかった。
 最後に、新島が亡くなった時、徳富蘇峰が勝海舟に書いてもらった幟を紹介したい。「彼等は世より取らんとす 我等は世に与えんと欲す 霊前 新島襄先生 旧大江義塾社中」新島先生の精神をよく集約している言葉である。
 同志社に学ぶみなさん、新島襄の精神である「隣人を愛し、世に与えんと欲する人生」を、共に歩んでいこうではありませんか。

【参考文献】
「新島襄全集1巻、5巻、6巻、7巻、8巻、10巻」同朋舎
「現代語で読む新島襄」現代語で読む新島襄編集委員会編 丸善
「ニューイングランドにおける新島襄ゆかりの場所」井上勝也・北垣宗治共著 学校法人同志社
「温泉保養地ウィーズバーデンにおける新島襄」大越哲仁著「新島研究」第九十一号
「新島襄 中山道の旅」山田興司著 大塚巧藝新社
「中山道を歩く旅」粟津彰治著 山と渓谷社
「新島襄 その時代と生涯」学校法人同志社編 晃洋書房
「新島襄と徳富蘇峰」本井康博著 晃洋書房

二〇一〇年六月一日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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