奨励

アメリカン・ボード、神戸女学院、同志社

奨励 飯 謙〔いい・けん〕
奨励者紹介 神戸女学院大学学長

はじめに―自己紹介

 こんにちは。ただいまご紹介いただきました飯でございます。姓はご飯の「飯」で、名前は「謙」です。愛媛県今治市が両親の出身地です。住んだことはありませんが、父母双方の祖父母がおりましたから夏休みには、ひと月くらい過ごした少年時代の思い出がございます。私は一九五五年、岡山県倉敷市で生まれました。五歳のとき、東京に父の転任に伴って、東京で暮らし、二十二歳で大学を卒業してから、同志社大学に三年編入し、今出川校地で学びました。その後一九八〇年代から一九九〇年代、同志社大学に京田辺校地ができたころ、非常勤講師でこちらのキャンパスに来ていました。今日、久しぶりに同志社前の駅からここに登ってきて、あまりにも建物が立派になっているのでびっくりしました。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画のなかに、三十年ほど経った未来で、建物や町が全く変わってしまっている場面がありましたが、その映画を、ふと思い出すような想いでした。
 神学部を卒業しまして、日本キリスト教団神戸教会で伝道師として、牧師となる訓練を受け、一九八三年、神戸女学院に採用していただいて、今年で二十八年目になります。あっという間に二十八年経ってしまったという気がいたします。今年五十五歳ですが、二十八歳から勤めているので、人生の半分を神戸女学院で過ごしているんだなと、感慨深い年です。

建学の精神

 私は旧約聖書を勉強しました。旧約テクストは主にヘブライ語で書かれています。そのヘブライ語で「学ぶ」と「教える」は、活用は違いますが、同じ単語です。古代ユダヤ人は教師から「学ぶ」ことは、実は教師に対して「教える」ことだと考えていたようです。
 「建学の精神」と言いますが、それは受けるばかりではなく、私たち自身も、それを受け止めることによって、学校に対して建学の精神は、こうも理解できると教えていくことができるのではないか、相互作用のなかにあるものではないかと、この何十年かそう感じてまいりました。
 「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を」。これは、良心碑に刻まれている言葉です。皆さんも、毎日のようにご覧になっていると思いますが、横田安止という学生に新島襄先生が書き送った手紙からとられたフレーズです。よく同志社での良心教育ということが語られます。多くの先生が、「良心」ということについてコメントしておられますし、私自身もそれを聞き、学んだことがある。同時に私自身も「良心」というものをどう解釈していったらいいのか、受け止めていったらいいのか、しばしば考えます。「良心」は、固定された理解、教科書的な解釈をするものではなく、日々更新されていくものではないでしょうか。

神戸女学院と同志社

 神戸女学院は、大変すばらしい学校です。神戸女学院で建学の精神を考えていくと、同志社の「良心」と関連性があるなと思うことがあります。同志社と神戸女学院、同じアメリカン・ボードというミッション、宣教師派遣団体と密接なかかわりのなかで設立されました。アメリカン・ボードによって建てられた学校は西日本ですと、他には豊中市にあります梅花学園、神戸の頌栄保育学院短大、愛媛にあります松山東雲学園など、いくつかございます。中でも、神戸女学院と同志社は最も早く、アメリカン・ボードが、大変な情熱を注いでつくりあげた学校であると言えるでしょう。同志社も、新島先生が創立者でありますが、デイヴィス、ラーネッドら、多くのアメリカン・ボードの宣教師と、いろいろな密接な関係のなかでつくられています。
 神戸女学院は一八七五年十月十二日に創立されました。十一月二十九日に同志社が創立されますから、神戸女学院の方が一ヵ月半くらいお姉さんです。神戸女学院はアメリカ人の宣教師がつくったわけですが、この時代、日本では外国人が土地を所有することは禁じられていましたので、最初の神戸女学院の校地の所有者は新島襄でした。新島先生が神戸女学院の登記上の土地の持ち主だった。私は神戸女学院のことを学びながら重ねて同志社の仕事や、精神を相乗的に学んでいくことができたと思っています。たとえば、皆さんも海外でボランティアをしてみたいと思っている方もいれば、まだ日本の問題があるのに、なんで海外に出ていくのですかと思っている方もいるでしょう。しかし海外に出ていくことで初めてわかってくる日本の問題、足元の問題があるわけです。同じように私も神戸女学院で働いていることで、そのなかから見えてくる同志社の掲げている志、祈り、夢がみえてくる気がするのです。
 今日は神戸女学院と同志社の共通のルーツであるアメリカン・ボードの話から始めて、神戸女学院の創立者、イライザ・タルカットという先生のお話をし、どういう祈りや理想があったかということをお話して、最後にもう一度、同志社の良心の問題に戻って、互いに良心ということへの理解を深めるきっかけが得られたらと思っております。

アメリカン・ボード

 アメリカン・ボードの話は、講義をとっておられる皆さんは、すでにお聞きになっておられることと思います。アメリカン・ボードの正式名称は「American Board of Commissioners for Foreign Missions」(ABCFM)です。米国海外伝道会理事会とでも訳したらよいでしょうか。これは、米国の会衆派教会の信徒たちが中心になってつくった宣教師の派遣団体です。一八一〇年に創立され、インド・中国・アフリカなど各地に伝道してまいります。アメリカン・ボードの母体である米国会衆派教会は、一九五七年にルター派の流れを汲むグループや、改革派など、いくつかの教派と合同して合同教会(ユナイテッド・チャーチ)をつくります。そのとき会衆派教会(コングリゲーショナル・チャーチ)の連合体は、なくなってしまいました。しかし、今でもコングリゲーショナル・チャーチという名前を使い続けている米国の教会はたくさんございます。教派としての明確なグループは一九五七年になくなった。そのために一九六一年、海外の宣教団体が合同して「UCBWM」という団体に合同しまして、アメリカン・ボードは解消されてしまったわけです。アメリカン・ボードが一九六一年に解散するときにもっていた基金を整理いたします。それを世界各地の教会や団体、学校に献金していきます。実は神戸女学院もこのときにかなり多額なお金をいただきまして、今でも奨学金として使っております。アメリカン・ボード賞として記念賞の基金を運用しております。そして一九九六年、もう一つ別の団体と合同して、「CGMB」という新しい団体をつくります。

会衆派教会

 この同志社や神戸女学院の精神、アメリカン・ボードというグループの精神的な背景となったのは、会衆派教会でした。そこで、会衆派教会のことにもう少しふれておきたいと思います。イギリスでは、一五三四年の宗教改革で、英国国教会を設立します。それから数十年、英国国教会はカトリックなのか、プロテスタントなのか、内部で苦しまなければいけなかったわけですが、やがて、カトリックでもない、プロテスタントでもない、それを橋渡しができる教会という中道主義を打ち出します。それが中途半端だと思う人たちが出てきまして、英国国教会を批判するわけです。そこで、英国国教会から出てしまう分離派、そうではなくて、中にいて改革を志そうとする非分離派、大きくこういうグループを生み出していきます。分離派、非分離派、そのどちらからも、誰かからキリスト教の理解はこうですよとか、あるいはキリスト教というのはこれを信じることですよと決めつけられないで、もっと自由に聖書を読んだり、自分自身の感動を語ったりしたいと願う人びとが出てきました。その人たちは、牧師中心の教会ではなく、教会に集まってくる信徒を中心とする教会形成ができないかと考えます。教会に集まってくる人たちが自由に発言できる、信徒中心の教会をつくっていこうとしました。この「信徒」を「会衆」と呼びました。そうして会衆派と称しました。しかし、こういうグループの人たちに迫害が及んでまいります。会衆派の人たちはイギリスに留まっていることができなくなって、オランダに逃げる。さらにオランダでも、あまりうまくいかない。そこで、船に乗って新大陸、アメリカ大陸を目指したわけです。まずアメリカの北東部、プリマスやボストンに入植して、そこで聖書の理念を中心とする理想的な国家をつくっていきます。互いに与えられた力を隣人のために捧げあう、それが神様のお喜びになることだ、そういう国家をつくりましょうと言って入植を始めていくわけです。このとき、会衆派教会は初めてその地で花開いていくことになります。イギリスでは日陰者の身であったわけですが、米国の東部、マサチューセッツ州、コネチカット州の一角で、大変大きなグループになっていったわけです。
 このようにアメリカで最初に自由・自治を標榜しながら一六二〇年代から三〇年代にかけて、多くの人たちが米国に移住して行きました。

世俗化と大覚醒運動

 ところが、一六〇〇年代の後半になり、第二、第三世代に入っていくと世俗化が進んで、まあ、そういうことを言わなくてもよいではないかと少し緩やかになっていく。最初の志がだんだん忘れられていくわけです。それからさらに四十年くらい経った、一七三〇年代、もう一度アメリカの理想を思い起こしましょう、信仰に立って共同体をつくっていた時代を思い起こしましょうという大覚醒運動が起こります。その時代になると合理主義とか、生産至上主義とか、格差を厭わない社会とか、現代日本によく似ているような状態がアメリカのなかでも生まれていたわけです。そのなかで本来の理想を、もう一度取り戻そうという運動が起こるわけです。その中心となった人がジョナサン・エドワーズです。この人は、会衆派教会の牧師で、一七四〇から四二年の大覚醒運動を導きました。この灯は彼の死後弱まるのですが、一七九五年、彼の孫でイェール大学の学長であったティモシー・ドワイトが、第二次覚醒運動を導きました。あの想いをもう一度思い起こそうと多くの若者が、これにインスパイアされ、信仰に生きていこうという決心をしていくわけです。

アメリカン・ボード設立

 そのなかで、一八〇五年にヘイスタック・プレイヤー・ミーティングが、偶発的になのですが、もたれました。これはアメリカのマサチューセッツ州の外れのウィリアムカレッジという学校で、五人の若者が、自分たちの夢を語り合っていた。そこに突然、嵐のような雨が降ってきた。五人は干し草の陰に身を置き、自然に祈りを始めた。アメリカは当初の理想を失っていったけれども、僕たちが海外の伝道に出ていくことによって、もう一度アメリカにあの時の情熱を思い起こしてもらうことができるのではないか、と。そこに参加していたサミュエル・J・ミルズという人が、卒業後、一八一〇年、アンドーヴァ神学校に進学いたします。新島先生が学んだ学校です。一八一〇年六月二十四日にミルズが神学校の先生に「僕は将来、海外に伝道しようと思います。会衆派教会は海外伝道のための組織をつくったらどうでしょう」と言う。すると先生が「あなたはタイミングがいい。二十八日に総会があるから、そこでアピールしてみなさい」とアドバイスをします。彼はその総会に乗り込んでいって、海外伝道の団体設立のアピールをします。するとその日のうちに、設立が承認されました。日本ですと、「前向きに検討しましょう」とか「積極的に受け止めます」ということを言ってごまかすかもしれませんが、アメリカでは即、設立を決定します。そうして九月五日、アメリカン・ボードの設立総会がコネチカット州のファーミントンで開かれます。一八一〇年ですから、今年が創立二〇〇年、記念の年です。皆さんは、アメリカン・ボードが設立して二〇〇年の年に、アメリカン・ボードの関係ある学校で学んでいるということになるわけです。そして、一八一二年に最初の宣教師が派遣されます。

日本伝道の始まり

 日本はこの時代、まだ鎖国でありましたから、日本に宣教師を、すぐ送ることはできなかったのですが、一八五三年、ペリーがやってきて、その後、開国されるわけです。明治維新が起こりますが、その間にアメリカでは、南北戦争が起きます。一八六一年から六五年。この間、奴隷解放、人間解放が論じられるわけですが、南北紛争後に、アメリカの理想にもう一度目を見開こうという機運が熟します。そして、日本が開国します。そこで、アメリカン・ボードでも日本に宣教師を送ろうということが検討され、最初の宣教師のダニエル・クロスビー・グリーンがやってきます。彼は、一八六九年十二月に横浜に到着し、一八七〇年三月、神戸に移ります。その後、一八七一年、O・H・ギューリックやJ・D・デイヴィスなど、同志社の設立にも深くかかわった人が来日しまして、一八七二年十二月、神戸の宇治野村に英語学校をつくります。これが同志社のもとになる英語学校です。翌年に神戸女学院の創立者となったミッショナリーレディー、イライザ・タルカット、ジュリア・ダッドレーの二人の宣教師がやってきます。この二人は最初、英語学校をお手伝いするのですが、そこからしばらくして独立し、女子のための学校をつくります。それが神戸女学院の前身になるわけです。

タルカット家

 タルカット家は会衆派教会をずっと支えてきた家庭でありました。タルカット家の家系図があったわけではありませんが、いろいろなものを手かがりにたどっていきますと、彼女の八代前の祖先ジョン・タルカットが一六三二年、イギリスのエセックスから米国に移住してきました。トーマス・フッカーという有名な説教者が指導者となった移民でした。彼は会衆派教会の牧師であり、後に政治家となった人です。皆さんの中で、米文学を勉強しようと思っている方、トーマス・フッカーは初期アメリカ文学の教科書に最初に出てくる人です。トーマス・フッカーのグループは一六三二年、ボストンに移住してまいります。ボストンの共同体に入るのですが、率直に言うと、ボストンの人たちとうまくいかなかった。トーマス・フッカーは一六〇人余りの仲間をつれて、南西の方向に向かって移住して行きます。一五〇キロくらい行ったところに、コネチカット川が南北に流れています。緑も水量もたいへん豊かで、そこにいると気持ちの落ちつく川です。このコネチカット川とぶつかったところに定住しました。そこが今日のハートフォードという町です。一六三六年のことでした。ハートフォード居留地をつくっていきます。彼らはそこで、コネチカット基本法という宣言をします。「我々は我々のため、そして我々の後継者のために善を尽くす」と。これは大変面白い言葉だなと思います。「子孫のために」と言わず「後継者のために」と言っています。血がつながっている人のために頑張ろうというのは、ある意味考えやすいことかもしれない。しかし、会ったこともない、これから会うこともないかもしれない、血のつながっていない「後継者」のために善を尽くそうと。そのような入植地をつくっていきます。ハートフォードは、今はコネチカットの州都になっています。そこに会衆派教会の中心的な存在となる神学校ができました。ハートフォード神学校です。かつて同志社の卒業生が、よくこの神学部に留学しておりました。ハートフォードの人口はどんどん増えて、人びとは周辺に広がっていきます。タルカット家は北東の方向にどんどん移住していきます。タルカット家は多くは農民だったのですが、一八〇〇年代の初め、ハートフォードから二〇キロ北のロックビルに移住してきます。そこは何もない土地ですが、山があり、その上に大きいきれいな湖があります。そこから滝となって、ものすごい勢いで水が流れ落ちてまいります。タルカット先生のお父さんとそのお兄さん(叔父)は、川の水を使って紡績工場を始めます。この紡績工場があたりまして、タルカット家は町の名士となります。私は、去年の夏にロックビルの町を訪ねて、住んでいる人に「イライザ・タルカットについて調べたいのだ」とたずねましたら、「その人のことは知らないけれど、タルカット家はこの町をつくった」と。タルカット・ロード、タルカット・パーク、タルカット・ヴィラとか、タルカット家にかかわる地名がたくさん残っている町でした。
 タルカット家が紡績工場を始めた理由は、これをやると儲かるぞということではありませんでした。ハートフォードの人たちに何が必要だろうかと考えたとき、着るもの、衣服が必要だと考え、「私たち自身のために、私たちの後継者のために」と、この町で工場を始めたのです。

来日前のイライザ・タルカット

 そうして一八三六年五月二十二日、イライザ・タルカットが誕生いたします。一八四七年四月、十一歳になる直前に、父を天に送り、その年の秋、コネチカット州のファーミントンにある、ミス・ポーター女学校に入学します。この学校も訪ねてみましたが、深い祈りが捧げられる敬虔な校風をもった学校であると思いました。神戸女学院の基になったのは、この学校だなと思いました。そこで五年間学びまして、卒業後助教師を勤めます。記録をみると「ラテン語とフランス語を教えた」と書いてあります。しばらくここに留まってくれと頼まれたからでしょう。しかし、一八五四年七月、母の急逝により、職を辞します。しばらくまだ幼かった妹さんの面倒を見ます。
 一八五七年、コネチカット州立師範学校、(現中央コネチカット州立大学)を卒業し、一八六三年まで、私立学校や、公立学校で教師を勤めます。一八六三年から六八年、南北戦争を挟んだ期間、何をしていたのかわかりませんが、デトロイトに滞在しています。私がお世話になりました神学部の故竹中正夫先生は、このようにお考えでした。ファーミントンという町には、アンダーグラウンド・レールロードのステーションがありました。これは、逃亡奴隷をかくまう運動のことです。南部から逃げた奴隷を北部に逃がさないといけない。そのために、いくつかステーションをつくるわけです。私はこの奴隷をここからこのステーションまで送りますというような逃亡奴隷を次々にかくまう運動が、レールロードという言葉で使われるようになったということです。
 私はファーミントンに行きまして、ミス・ポーター女学校から三軒隣にある建物を見てまいりました。レールロードの拠点となった家屋です。竹中先生は、イライザが、少女時代から人権の問題、人間を踏みにじることへの罪悪性を深く感じていたのだろうとおっしゃっていました。因みにそこからもう二、三〇〇メートル横に、一八一〇年、アメリカン・ボード設立総会が、開催された建物がございます。本部もそこにありましたから、彼女は少女時代に逃亡奴隷の保護運動と、海外宣教を、心に刻みながら育ったんだなと想像できます。
 「自分のためではなく、隣人のために」。デトロイトになぜいたのかも、それが手がかりにならないかと思い、インターネットで「デトロイト、コングリゲーショナル、チャーチ」を入れてクリックしてみました。すると「南北戦争時、アンダーグランド・レールロードの中心地」と出てきました。もしかしたら、非合法かもしれませんが、デトロイトでも、逃亡奴隷の解放運動に関わっていたのかもしれないなと考えたのです。
 その後、イライザは、コネチカット州のプリマスで、四年ほど叔母の看病にあたります。その間、アメリカン・ボードの宣教師による講演を聞いて、新たな志を与えられ、一八七三年春、日本にやってきました。おそらく教職についたこと、デトロイトにいたこと、プリマスで叔母さんの看病にあたったこと、誰かから願われて、それらに応じたなかで起こった話だったと思います。

来日後の活動

 日本にやってきまして、まず宇治野の英語学校の手伝いをします。その夏に有馬に滞在したときのことです。神戸は南側に海があって、北側は六甲の連山。その向こう側の有馬温泉の保養地に宣教師の先生方はしばしば滞在していました。その折々、三田から来た婦人たちと出会います。その婦人たちから「私たちの娘のために学校を開いてくれないか」と頼まれ、タルカットとダッドレーは、一八七三年十月、宇治野の英語学校から独立して神戸花隈村に私塾を開設しました。河原町から阪急電車に乗って三宮まで行きます。三宮の次が花隈です。この時、住まいを提供してくれたのが白州退蔵という人で、この人は最近話題の日本が戦後復興するときに尽力した白州次郎の祖父にあたります。この私塾が発展し、一八七五年十月に神戸女学院がつくられます。
 イライザ・タルカットはその後、岡山、高梁、鳥取、そして京都では、同志社看病婦学校で働きます。同志社にもかかわりの深い人です。皆さんは、同志社に医学部をつくろうと思った計画があった話とか、看護学校があった話は聞いたことはおありですか。そして、最期は神戸女子神学校、現在は関西学院の一部になりましたが、もとの聖和大学キリスト教学科にあたりますが、その教授をお勤めでした。
 神戸女学院のなかで語られている先生の歩みということですが、いろいろなところから声がかかったときに、フットワーク軽く出かけていく。今、向かい合っている人と一緒に必要なものが何であるかを一生懸命考える。遡って考えてみると、アメリカの移民たちのコミュニティのつくり方が、そうだったわけです。今、向かい合っている人にとって何が必要であるかということを考えていく。その人が何が必要であるかは話し合わないとわからない。よく対話し、対話のなかで、そのことを知っていく。そのために与えられたタラントンを十分に捧げていく。
 イライザ・タルカットは神戸女学院を後継者に託し、一八七九年に去って行かれます。五年しかおられなかったのですが、その後、何かあると、同じアメリカン・ボードのグループですから、さっと帰ってこられてお手伝いや指導をしてくれていたということです。神戸女学院を去るとき、「私は一つのところに根づいても、すぐ別のところに植え変えられる運命にあるのかもしれない」と言って岡山に出かけていきました。岡山に彼女が出かけていくきっかけになったのは、ある岡山の政治家の側室となっていた女性を解放する働きのためであるということだったのです。呼びかけに応じる、その人にとって必要なものが何であるかを考えていく。それは遡っていくと、アメリカの移民たちが最初に共同体をつくっていったこととも大変深くかかわっていたと感じます。

活動を導いた精神

 フィリップス・アカデミーは新島先生が学ばれた学校です。校章には、農場に蜂が飛んでいる上に太陽が輝いて、太陽にNON SIBIと書いてある。ラテン語で「自分のためではなく」という意味です。NONは、not、SIBIは、私自身。「自分自身のためにではなく」。NON SIBI。アメリカン・ボードの宣教師の間では、この言葉が合い言葉のように語られていたと申します。これを合言葉として、アメリカン・ボード宣教師―イライザ・タルカットも新島襄もその一人でしたが―働いておりました。私たちもその連続線上に立っています。
 次に紹介したいのが、神戸女学院でもよく引き合いに出されるフレーズです。「神戸の少女たちと・・・早く話せるようになりたい」。これは、イライザ・タルカット先生の書いた手紙の一部分です。申しましたように彼女は、一八七三年三月三十一日、神戸にまいります。到着して最初に書いた四月十二日付の手紙。手紙をマイクロフィルムで読むことができます。達筆です。手元において時々眺めてジーンと胸が熱くなるのですが、読むと躍動感が伝わってきます。若い日にひと月かけて神戸の地で働こうと船で日本にやってきた。そのときにまず伝えたかったことは、神戸の町は風光明媚であること。そして、「神戸の少女たちと・・・早く話せるようになりたい」ということ。これは私たち神戸女学院のなかでは、深い相互理解への志を示す言葉だと解されています。「早く話せるようになりたい」といっても、世間話をしたいということではない。私自身が日本語を話せるようになりたい、そういう意味でもない。神戸の少女たちにどういう求めがあるのか、そして私たちがどういうメッセージを伝えたいのか。そういう深い相互理解に入っていきたいというのが最初に先生が語った言葉です。神戸女学院も、同志社も、深い相互理解への願いから生まれたと、いつも思います。

終わりに

 イライザ・タルカット先生は、日本に骨を埋められました。お墓は、神戸の外人墓地にあるのですが、墓碑に刻まれているのは「よい忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」というマタイによる福音書二五章二一節の言葉です。これはイエスの譬え話、「タラントンの譬え」の一部です。どういう話かというと、タラントンはギリシャ語で重さを示す単位です。それがやがて、金一〇タラントン、銀一〇タラントンと何かを交換する時の金額を示す単位となって、やがて人間の能力を指す単語になります。日本語でもテレビタレント(、、、、)と言うようなときに使われています。イエスは、一人ひとりにいろんなタラントン(能力)が与えられているが、そのタラントンを隣人のために用いるようにと語ります。そういう話が「タラントンの譬え」です。与えられたタラントンを隣人のために用いる。タルカット先生の墓碑にはこの言葉が刻まれています。神から与えられたタラントンを「自分のためにではなく」(NON SIBI)という思いから、隣人のために献げでいった人だということが、ここに書かれています。
 今日は一方的にお話しさせていただいていますが、アメリカン・ボードの精神に発する教育は、対話を重視するもの、双方向的なものであってほしいと、そして最終的に隣人を受容する、共感する、そして何かの呼びかけに対して応えていく―こういう人間性を育んでいきたいと願うものでした。神戸女学院の学校の標語は「愛神愛隣」。神を愛し、隣人を愛する。これもマタイによる福音書からとられた言葉です。これも神の喜びとなることを考え、隣人の喜びとなることを大切にする―そういう共感性とつながる意味です。それは応答性のなかで、共同性のなかで、育まれていくものであると申しあげることができようかと思います。
 「良心」に戻りたいと思いますが、同志社のなかで「良心」という言葉が語られるときは、善意の一方的な押しつけということではないと思います。「隣人の喜びとすることを我が喜びとする」。そして「神の喜びとすることを我が喜びとする」。そしてそれは、私の友人でもある、同志社女子大学の中村信博先生も、「新島が良心というとき、キリストにおいて準備されたものとして新島自身が強く意識されているのだ」とおっしゃっていました。自由にされたものというのは解放されたもの。何から解放されたものか―。自分を中心に考えるエゴイズムから解放された人間。新島自身は、そのことをいつも強く意識していた。エゴイズムから解放される人間になる、と。良心とは、NON SIBI、タラントンを隣人に捧げる、受容性、他者の呼びかけに応じる、他者性を強く意識した概念ではないかと理解しております。
 同志社大学もそうですが、私立大学は今、非常に困難な時期に差しかかっています。どういう意味の困難か。世界がグローバルスタンダードといわれて均質化されようとしている。どこへいっても同じようなものが出てくる。ある先生が大学のコンビニ化だとおっしゃっています。コンビニはどこへいっても同じような品物が、同じ順序でおいてある。大学も実はその並べ方にならって、だんだん個性がなくなっている。国には、そのように指導しようとする人もいる。私学は本来、一つひとつ志をもって進んでいっている学校であるわけです。アメリカン・ボード系私学であれば、他者を大切にする、そのなかで自分自身を構築していく。そこに「良心」が見いだされる。こういう強い志をもった個性が、今、いろいろな形で解消されてしまいがちな時代です。ぜひ同志社に学ばれる皆さんは、この私たちのもっている「良心」を、自分なりに考えて、深めていっていただきたいと思うのです。そうして同時に、同志社の歴史をよく知り、自分たちの仲間である学校、歴史的につながりの深い学校が、どういう具合に学風を考えているか。自分たちの良心と何か接点があるだろうかと考えるアンテナを高くもち、感度を鋭くするよう、努めていっていただきたいと思うのです。十分に思うところをお伝えできなかったかもしれませんが、同志社の建学の精神をご一緒に考えていくうえで、何か参考になることがあれば、と願っております。ご静聴ありがとうございました。

二〇一〇年六月四日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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