講演

新島襄の弁解

講演 北垣 宗治〔きたがき・むねはる〕
講師紹介 同志社大学名誉教授
敬和学園大学元学長

 私が小学校6年生だったとき、その12月8日に戦争が始まりました。日本帝国海軍は、真珠湾にいたアメリカ艦隊の大部分を壊滅させ、続いてマレー沖海戦でイギリスの誇る戦艦2隻を沈没させました。それで当時の日本は、この戦争にも当然勝つのだという意識を強く持ちました。私自身もご多分にもれず、一人の軍国少年でありまして、国のために自分自身を捧げることは当然であると考え、中学3年生のとき、海軍経理学校という、帝国海軍の主計士官を養成する学校を志願しました。むずかしいといわれていた経理学校の試験に合格し、中学のクラスメイトが4年生になった1945年4月、私は海軍経理学校の三号生徒になりました。

海軍経理学校

 海軍では最上級生が一号生徒でありまして、新入生は三号生徒です。この学校は徹底した全寮制で、一つの分隊は一号生徒が8人、二号生徒が16人、三号生徒が16人、合計40人で構成されており、この40人は木製二段ベッドが20個配置された大部屋でいっしょに寝起きしていました。私たち三号生徒は、朝から晩まで、一号生徒の厳しい監視の目の下に置かれていました。自由を当然のことと考える現在の目からすると、よくもあのような息苦しい状況に堪えられたものだと、あきれるほかはありません。ついでに海軍経理学校の授業内容を紹介しますと、英語、国語、漢文、日本史、人文地理、経済学、数学、物理学、化学等が中心で、軍事的なものとしては、いわゆる軍事教練を受けました。当時日本国内の女学校では、英語は敵国の言葉であるというので廃止されましたが、海軍では依然として重要科目でありました。しかし英語のレベルはそれほど高くなく、教科書にはラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」が使われたことを思い出します。
 海軍経理学校の躾は実に厳しいものでした。やかましく教えられたことが沢山ありました。私の場合、のちのちまでも影響を受けたことが二つあります。その一つは「5分前の精神」というものです。時間厳守を徹底し、遅刻は許されません。きめられた時刻の5分前に、きめられた場所で待つ、ということを実行させられました。この5分前に遅れますと、一号生徒から容赦なくぶんなぐられました。5分前でなくてはだめで、4分前だとなぐられました。そして遅れた理由を申し立てようものなら、もう一つ余計にぶんなぐられたものです。例えば大雨とか、鉄道の事故といった理由でも、遅刻の理由として認められませんでした。海軍では弁解することを固く禁じていました。いわゆる不可抗力による遅刻の場合でも弁解してはならない、とされていました。考えてみますと、弁解というものはその大部分が、自分の預かり知らぬ理由でありまして、だから自分の責任ではない、と主張するものです。しかし海軍は、あらゆる遅刻は自分の責任である、という不合理な考え方をしたのです。地震のために電車が遅れても、それは自分の責任であるという、まことに不条理な考え方です。5分前の精神と、弁解を許さない精神、この二つは、私が日本海軍で学んだ最高の教訓であったと、今なお確信しています。敗戦から数えて今年は66年目ですが、私は今でも約束の5分前を守り、また、なるべく弁解しないことを心がけています。

アダムの弁解

 話は変りますが、旧約聖書の最初に置かれているのは創世記ですね。旧約聖書の中で最も面白い読み物は断然この創世記であります。最初に出てくる神話は、神が天地万物を創造したという話です。神は自分の姿に似せて、最初の人間アダムを創り、アダムをエデンの園と呼ばれる楽園に住まわせました。神は人が独りでいるのは良くない、彼にふさわしい助け手を創ってやろう、と考えました。そこで、アダムを深く眠らせ、あばら骨の一部を抜き取りそれで女を造りました。神がその女をアダムのところにつれてきたとき、アダムはもちろん大喜びしました。二人、つまりアダムとエバは、当初裸のままでしたが、少しも恥ずかしいと思わずに、エデンの園で幸福に暮らしていました。
 アダムとエバは主なる神から、エデンの園のどの木からでも果実を取って食べてよいが、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、と言われていました。それがいわゆる「禁断の木の実」です。しかし人間には、食べてはいけないといわれると、それが無性に食べたくなるという性質があります。エバがその木を見ると、その実はいかにもおいしそうでした。そこに一匹の蛇が登場します。エデンの園の蛇は人間のようにものを言います。蛇はエバをそそのかし、その実を食べたらよろしい、神が食べるなと言ったのは、それを食べると、人間の目が開け、神のように善悪を知るものとなるからだ、と教えます。これは抵抗し難い誘惑の言葉でした。エバはついに実を取って食べました。とてもおいしかったので、エバはアダムにもそれを食べさせました。すると二人の目が開け、自分たちが裸であることを自覚し、急に恥ずかしくなり、いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆うものにいたしました。
 アダムとエバは主なる神がエデンの園の中を歩く音を聞きました。二人は主なる神の顔を避けて、木陰に身を隠しました。神は二人が隠れているのをご存じでした。アダムは言います。「あなたの足音がしたので、恐ろしくなって、隠れています。私は裸ですから」。これに対して神が問いかけます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」。アダムが答えます。「あなたがわたしと一緒になるようにして下さった女が、木から取ってくれたので、食べました」。これはアダムの弁解の言葉です。彼が禁断の木の実を食べたのは、神が私に与えて下さった女がくれたからです。まるでその責任は女と神にある、と言わんばかりの答です。次に神はエバに向って、なぜ食べたのかと問いました。エバは答えます。「蛇がだましたので、つい食べてしまいました」。このように、エバもまた蛇に責任を転嫁します。この神話が教えることは、人類の祖先は神に対して弁解することから、神との対話を始めた、ということです。ですから私は人間というものは、弁解する存在である、と考えます。人間は弁解する動物なのであります。他の動物は一切、絶対に弁解しません。
 もちろんこの神話は、人類の先祖が神の戒めを破り、最初の罪を犯したことを説明しているわけです。その罪の罰は何であったかといいますと、女は苦しんで子を産むということであり、男は額に汗して働かねばならない、ということです。そして男も女もついには死ぬことになる、ということです。ただ私個人としては、この物語を考えるごとに、人類の始祖アダムとエバの神との対話が、何よりもまず弁解であった、ということに、恐ろしいまでの真実性を見出すのであります。ですから、話をもとに戻しますと、日本帝国海軍が一切の弁解を禁止したということは、人間は何かに対して責任をもつ存在であり、海軍の一人ひとりは、主体性を持って行動しなければならぬ、と教えたわけで、私はそこに一種の哲学的な次元を感じます。私は日常生活において、主体的な人間であるべきであり、主体的に行動する以上は、弁解しない人間でありたいと願うようになりました。

弁解しない海軍軍人

 海軍の話をもう少し続けさせて下さい。私は敗戦後2年たった1947年4月に旧制の同志社大学予科に入りました。同級生には陸軍、海軍の学校に行っていた連中が10人以上いました。そういう連中は、敗戦直後の貧しい時代でしたから、服装からすぐにわかりました。つまり彼らは昔の軍服を着て教室に出入りしていたからです。海軍の軍服を着ていた同級生の一人に大岡次郎という男がいました。大岡は、僅か数か月でありましたけれど、海軍士官の養成学校である海軍兵学校生徒であったことを、自分の人生の最大の光栄と考えていました。その考えは年齢が80歳を過ぎた今でもなお変わりません。大岡次郎にしろ私にしろ、海軍の学校にいた頃は、漠然とではありましたが、どうせ自分はお国の為に命を捧げるのだ、と考えていました。当時の若者の大部分はそのように考えていたのです。
 当時の海軍兵学校の校長は栗田健男海軍中将で、敗戦直前の1944年10月、帝国海軍がフィリピン諸島のレイテ沖で、アメリカ海軍と最後の決戦をしたとき、栗田艦隊と呼ばれる艦隊を率いた司令官でした。栗田艦隊はアメリカの艦載機による厳しい攻撃を受けながら、レイテ湾の近くまで突入しましたが、敵はすでにレイテ湾に上陸したあとでした。その時栗田艦隊は突如として方向を北に取り、戦場を去っていきました。これは「レイテ反転の謎」として、戦後いろいろな人が論じてきた問題です。司令官の栗田中将は勇気がなかったから戦場を離脱したのだとか、見る目のない愚かな指揮官だったとか、いろいろ批判が出ました。しかし私の友人大岡次郎は栗田中将を信ずること篤く、戦後中将のご自宅を何度も訪問して中将から信頼されるようになり、俺の伝記を書いてくれ、とまで言われるようになりました。栗田中将自身は、「レイテ反転の謎」については頑として最後まで口をつぐんだままでした。海軍軍人は弁解しない、という帝国海軍の掟をかたくなに守ったのです。大岡次郎は、それが栗田中将の美学であった、と主張しています。

友人 大岡次郎

 私の友人大岡次郎は、栗田健男中将に惚れ込んだ男、と言ってよろしいと思います。私はその気持がよくわかります。決して同性愛的な意味で言うのではありませんが、帝国海軍にはほれぼれするような男が何人もいました。人間としてのスケールが大きく、厳しいけれど優しい、どんな試練にもくじけない、希望に満ち、目が光っている。そういう男は何があっても決して弁解しません。全力を尽くして戦いますが、死ぬときには従容として死んでいきます。西郷隆盛に倣って言えば、そういう人は始末に困る人です。しかしそういう始末に困る人でなければ、天下国家の一大事を託すことはできないのであります。
 大岡次郎は昨年『正説レイテ沖の栗田艦隊』という本を書きました。彼は海軍の歴史家として、日本の文献だけでなく、アメリカの文献もしらみつぶしに読み、あのレイテ沖海戦の真相を世に伝え、あわせて彼のヒーローである栗田中将を擁護しようとしました。できるだけ史実に基づき、空想をまじえないで書いた本です。大岡によると、栗田健男中将はレイテ湾に首尾よく到着したとき、決選を挑むべき敵の艦隊はもはやそこにいないことを知りました。たまたま敵の艦隊が北方何海里かの所にいる、という電報を受取ったので、その艦隊との決戦を覚悟して反転して、方向を北に取ったのだ、ということですが、その電報は誤報だったことがあとでわかります。その電報は今なお残っているそうです。大岡の本が書店に並んだとき、それを買って読んだ慶應義塾大学の先生が、非常に丁重な感想文とともに、核心に迫る一つの疑問を書いてきました。その疑問に対して、大岡は満足のできる答を書くことができませんでした。「この問題については栗田中将だけしか答えられないでしょう」と大岡は返事をしました。

ベルリン号上の新島

 本日の講演の題名は「新島襄の弁解」でありますので、話をこれから新島に移していきたいと思います。新島は1864年7月18日(元治元年6月15日)に、国禁を犯して箱館港から日本を脱出しました。まさにのるかそるかの大冒険でした。彼が乗せてもらったのはアメリカの商船ベルリン号という、木造二本マストの比較的小型の船で、中国の上海をめざしていました。この船は蒸気エンジンでなく、マストに沢山の帆を張って海上を走行する帆船でした。船長はウィリアム・T・セイヴォリーという、マサチューセッツ州セイラム出身の人です。セイヴォリー船長は日本人を勝手に海外に連れ出すことは違法であり、固く禁じられていたことは知っていましたが、箱館の友人から新島を紹介され、新島の志をぜひともとげさせてやってほしいと頼まれたので、ニュー・イングランド人特有の義侠心から、ベルリン号に乗ることを許可しました。但し一つ条件をつけました。それは箱館港の沖合に停泊しているベルリン号まで、出港の前夜に自分でやってくること、という条件でした。私はこの条件の背後に、セイヴォリー船長の慎重さとしたたかさを見るのです。彼が新島をボートに乗せて本船まで連れていけば、それは日本人を外国に連れだしたことになります。新島が自分で沖合に停泊中の船までくるならば、それは新島の固い意志を示すことであり、新島の主体的行為として受け入れることができたからです。新島は箱館の友人福士卯之吉の準備した小舟に乗せられて、夜こっそりとベルリン号にたどりつきました。
 新島はベルリン号にただで乗せてもらうので、せめて船長のために少しでも役立つことをしたいと考え、船長室の掃除、船長の給仕と炊事、犬の世話などを引き受けました。新島は一つのエピソードを書き残しています。船長が食事をしたあと、新島は後片付けをして皿を洗いました。洗い水を海に捨てたとき、うっかり船長の銀のスプーンを一緒に捨ててしまったのです。とんだ失敗に恐れをなした新島は、自分の持っていたありったけの金をかき集め、恐る恐る船長の所に行って、自分のへまを詫びました。セイヴォリー船長は笑って新島を許し、お金は受取りませんでした。セイヴォリー船長はそういうおおらかな性格だったようです。

セイヴォリー船長

 このセイヴォリー船長について、あともう二つ触れておかなくてはならないことがあります。一つは、ベルリン号は上海に着いたら、今度は長崎に帰ることになっていましたので、新島のためにひと肌脱いで、アメリカ行きの船を何とか見つけて、それに無事に乗せてくれたことです。上海の港にはアメリカ船が何隻かいましたが、船長たちは船会社から日本人を乗せて帰ることを固く禁じられていたので、なかなか引き受け手はなかったようです。セイヴォリー船長は港の中を探しまわって、ようやく最後にワイルド・ローバー号というボストンの船に当たりました。その船のホラス・S・テイラー船長が、義侠的に新島を引き受けてくれました。それであと一年近くかかって、新島はボストンまで行くことができたのであります。ワイルド・ローバー号に移ったことが新島の運命を飛躍的に前進させることになったことは、よく知られています。新島はまことに幸運な人でした。
 ベルリン号のセイヴォリー船長についてもう一つのことは、船長が長崎に帰ると、箱館から日本人を一人連れだしたということがばれていて、船長はトーマス・ウオルシュという会社をくびになりました。セイヴォリーは致し方なく、イギリスまわりで帰国しました。このことを伝え聞いた新島は、日記の中にこのように記しています。

[一八六四年九月]十三日
 今夜、甲比丹予ニ曰、先船ペートル[セイボリー]甲比丹の、箱楯より汝を此地へ連来しを先船の主知察し、日本の条約に違へるを怒り、彼の甲比丹を放逐して他の甲比丹を得し由、且先甲比丹は船客となりて英吉利へ行きし由
 嗚呼、予、先甲比丹をして不幸に陥らしむるは実に笑止千万之事なり。然し過去事如何ともし難し、他年学成の後彼に仕へ、万方其恩を報せば、恐らくハ少しく予罪を償ふに至らん(『新島襄全集』5:49)

 ここで新島が「笑止千万」と書いているのは、決して笑うべきこと、というのでなく「甚だ気の毒」という意味です。これは現代では使わない表現の一例です。
 さて一方新島の方は、ワイルド・ローバー号でインド洋、大西洋をまわって、1865年7月20日にボストンに着きますが、新島のスポンサーが現れるまで、東ボストン港に停泊中のワイルド・ローバー号を宿として、不安な日々を送っていました。すると8月24日に、その船までわざわざ新島を訪ねてきた人がいました。それはセイヴォリー船長でした。自分の職を失うほどの危険を冒してまで世話をしてあげた新島が、はたして無事にボストンに着いたかどうかを確かめるために、ボストン港までやってきたセイヴォリー船長の、責任感の強さに、私は打たれるのであります。
 日本人を日本の政府に断りなしに出国させたことがばれたために、船長の職を失ったセイヴォリーは、アメリカに帰ってのち、何とか船乗りの仕事を見つけて海に出ていたようですが、そのうちに仕事はなくなりました。海の交通手段が帆船から蒸気船へと移っていく時期であり、セイヴォリーのように帆船を専門としてきた船長には、急に蒸気船の仕事に切り替えることは困難だったわけです。1886年10月に、京都の新島宛に出した手紙を見ると、セイヴォリーは失業中であり、日本に何か自分のできる仕事はないだろうか、と相談しています。セイヴォリーはこのとき59歳でしたから、まだまだ働くことのできる年齢でありました。このセイヴォリーと新島の間で、一度誤解が生じたことがあります。それは次のような事情によるのです。

バードの旅行記

 皆さんはイザベラ・バードというイギリスの旅行家のことをお聞きになったことがありませんか。彼女は子供の頃病弱だったので、医者に勧められて、健康を増進するために旅行に出るようになりました。そのうち旅行がやみつきとなり、外国にも足をのばし、1878年、47歳のとき日本にやってきました。これは明治11年のことで、新島が同志社英学校をスタートさせて3年目に当たります。この年の6月、イザベラ・バード女史は東京から日光を訪れ、東北、北海道の旅をしました。日本人の男性のガイドを一人連れての旅でしたから、大冒険であったといえます。彼女はその体験記をUnbeaten Tracks in Japanという書物の形で、1880年に出版しました。早速好評を博し、1か月で三版を重ねました。本の題名を直訳すると、「日本における未踏の道」となりますが、現在ではもっと分かりやすい『日本奥地紀行』という題名で日本語訳が出版されています。これは慶應義塾の高梨健吉という人が訳したもので、平凡社ライブラリーに入っています。これは手頃な翻訳書ですが、困った落とし穴があります。バード女史の原書では、彼女はその年、つまり明治11年の10月に京都に来ているのですが、『日本奥地紀行』という題名にそぐわないせいか、訳者はバード女史の関西旅行の部分を省略しています。これは私たち同志社の者にとっては残念なことです。なぜなら、省略された部分には“The Kyoto College”という章があり、バード女史が当時同志社で教えていたデイヴィス宣教師や、同志社英学校校長の新島襄との会見記を載せているからです。
 バード女史は新島の驚くべき経歴を簡単に紹介しています。私の訳で読みます。「当時、日本人は国から出ていくことを禁じられていた。この禁止令に従わない者には、帰国後に死刑が執行されることになっていた。[原注。実際には投獄されるだけで、貴重な品を持ち帰った者には死刑の執行などはなかった。]キリスト教を学ぶこととアメリカを訪ねるという目的をもって新島氏はエゾの島に渡った。何とか中国行きの船に乗り込んだところ、がっかりしたことには、アメリカ人船長は宗教について何も知らなかった。中国につくと彼は大小の刀を売り、新約聖書を買い、キリスト教に関して相当知的な理解を得た。ボストンへの長い航海の間に英語を学び、相当自由に、また力強く英語を話すようになった。」

新島の弁解

 イザベラ・バード女史のこの本はアメリカでも評判になったようで、それがとうとうセイヴォリー船長の目に留まりました。しかも船長には無視できない書き方がなされていました。それは、[新島が]「がっかりしたことには、アメリカ人船長は宗教について何も知らなかった。」というくだりです。セイヴォリー船長はすぐ新島宛に、どういう意味ですか、何のつもりですか、説明を聞きたい、という手紙を書いたらしいのです。現在同志社にはセイヴォリー船長が新島にあてて書いた手紙は3通残っていますが、その中には今触れた、新島を問い詰める手紙はありません。幸いにして、『新島襄全集』第六巻、つまり「英文書簡編」の中に新島が船長宛に書いた手紙が2通入っており、その一通の中で新島は自己を弁明しています。これはいわば新島襄の弁解の手紙です。再び私の訳でご紹介いたします。

日本、京都 一八八一年八月一日

拝啓
 日本に帰って以来、長い間お便りもせずにいたことを、どうかお許しください。あなたを忘れたわけではありませんが、ずっと健康がすぐれず、差し迫った仕事が次々に私を襲い、このようにご無沙汰を重ねることになりました。あのようなご親切を私に示し、身の危険を冒してまで、古い独裁者の国の鉄の鎖から私を連れ出してくださった方を、私として忘れることは不可能であります。あなたは私のために危険極まりないことをしてくださったのでした。
 あなたこそは私のまことの恩人です。私は心の中でそのことを自覚し、セイヴォリー船長が私のためにいかに偉大なことをしてくださったかについて、他の人々にしばしば語ってきました。けれども、一人のイギリス女性があなたについて書いていることによって、あなたがひどく傷つかれたと聞き、大いに驚いた次第です。まことに申し訳ありません。しかし彼女にむかって、あなたが宗教について無知であるとか、私がそのことで失望したと語ったことがあったとは考えられません。
 彼女は誤解に基づいて書いたに相違ないのです。そのようなことを私が彼女に語る筈がないことを示すいくつかの証拠があります。
 第一に、私はキリスト教について勉強したいと望んでいましたけれど、私は船長からそれを教えて頂くだけの英語の力を持ち合わせていませんでした。ですから私が、アメリカ人船長が宗教について何一つ知らないということで失望するチャンスはあり得ないことでした。
 第二に、船長は私に一度たりとも反宗教的な仕方で接したりなさいませんでした。船長は私にひどい言葉をかけられたことは一度もありませんでした。船長は私を親切に扱い、船室に置いて下さいました。私が何本かの銀のスプーンを[うっかり]海中に捨ててしまったとき、船長が私に立腹なさるのではないかと心配でした。しかし私が自分の不注意をお詫びすると、船長は怒るどころか、笑顔でもって私を許して下さいました。船長はとても優しく、親切にして下さいました。ですから私は船長に失望したことはありません。
 第三に、あのご婦人から船長のキリスト教信仰について尋ねられたとき、私はネガティヴな答をしました。彼女にネガティヴな答をしたのは、船長のキリストに対する信仰は、いわゆる正統派の信仰とは少し異なるものだ、という意味でした。そのことは私が船長にセイラムで最後にお目にかかったとき気づいたことであって、船の中で気づいたわけではありません。船長がクリスチャンであるかないかを知る手段がなかった以上、アメリカ人船長が宗教について何も知らなかったので失望したりすることはあり得なかったことです。
 上に挙げた証拠でもって、私があのイギリス婦人であれ誰であれ、アメリカ人船長が宗教について何も知らなかったので失望したなどと言える筈がなかったことは、十分お分かり頂けたことと思います。この件についてハーディー氏あてに手紙を書きたいと思います。また何らかの方法であのイギリス女性に連絡を取り、あなたに関する彼女の発言の訂正を求めるつもりです。・・・

 以上が新島襄の弁解の手紙の内容です。新島はイギリス人旅行家のインタヴューを受けたばっかりに、彼女の不正確な表現の故に恩人セイヴォリー船長に大きな迷惑をかけました。新島はすでに17年前の1864年に、セイヴォリー船長の義侠心から出た親切によって、国外脱出に成功しましたが、同時にセイヴォリー船長には職を失わせるという、とんでもない迷惑をかけました。そして今度はまた、別の迷惑をかけてしまったのです。面目を失った新島は正直に、かつ論理をつくして相手を納得させるために、弁解の手紙を書きました。少しくどい手紙ですが、新島の熱意は伝わって来ます。
 もしも新島がセイヴォリー船長に対して一切の弁解をしなかったとしたらどうなっていたでしょうか? その場合には恐らく、セイヴォリーは新島を、自分に二度も煮え湯を飲ませた日本人として記憶していたことでしょう。そしてそれは新島として耐えがたいことであったに相違ありません。相手の誤解を解くための弁解は、誠意のこもったものでなくてはなりません。ましてこの場合新島はセイヴォリーから弁解を求められたのですから、弁解することは当然のことでした。もし新島が、私が海軍で受けた教育のような、「一切弁解せず」といった教育を受けていたら、どうしても人を傷つけてしまった筈です。恩人を裏切る行為は、新島としても耐えがたかったに相違ありません。
 この人生を生きていくとき、私たちは多くの人との関係の中で生きています。まず家族があり、友人があり、先輩や後輩の人間関係があります。その周囲に、見知らぬ人がいますが、私たちは家族や友人からだけでなく、見知らぬ人からも、突然、思わぬ親切や好意を受けることがあります。私はこうした人間関係を大事にすることによって、自分の人生をより豊かなものにしていくべきだと思います。「同志社」という校名は、同志の集まりを意味します。同志社に学んで、志を同じくする友人を作らなかったら、それはとても残念なことだと言わなくてはなりません。今日は人間関係の中に存在する、弁解というものの性質について考えてみました。私は矛盾したことを申したつもりはありません。私は海軍が教えたように、日常的には弁解せずに生きて行きたいと思いますが、弁解が必要なときには、堂々と正直に、誠意をつくして弁解したいと思います。弁解すべき状況と、弁解したい気持ちをじっと抑えて沈黙する状況とを、見分ける力をつけたいものです。

2011年6月3日 同志社スピリット・ウィーク春学期
京田辺校地 「講演」記録

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