講演

内部溶解の始まった大学
―新島襄と現代―

講演 伊藤 彌彦〔いとう・やひこ〕
講師紹介 同志社大学名誉教授

虚像の
「ハンサム・ウーマン」

 ご紹介にあずかりました伊藤彌彦です。2012年3月に同志社大学を定年になり、隠居というか年金生活を始めました。最近の同志社を外からみていると、ちょっと気になることがあります。NHKが放映し始めた「八重の桜」に、少し浮かれているのではないかという気がしてしまう。同志社書籍部に行っても「八重の桜」関連の通俗本がいっぱい置かれていて、果たしてそれほど扱う価値があるのだろうかなというのが私の実感ですね。新島八重の資料を、私もそれなりに集めてみたけれども、結論からいって評価できるイメージが出てこない。問題の多い人物なので、これまで取り上げなかったことが同志社の節操だったのではないかとも思われるのです。
 八重の実像はどうでしょうか。ある女性宣教師の本国への手紙では、30歳を過ぎて急にクリスチャンになった人にどれほどキリスト教が理解されているだろうか、と八重に疑問を呈しています(坂本清音「同志社女学校初代婦人宣教師A・J・スタークウェザーの苦闘」同志社大学人文科学研究所編『来日アメリカ宣教師』現代史料出版、1999年、317頁)。
 昔の熊本バンドの一人、金森通倫が書いた『回顧録』を持ってきました。金森という人は熊本バンドの一員で、熊本を追われて同志社に遊学した優秀な学生でした。校長・新島襄亡き後、代理校長を託されたほどの人です。今の自民党・石破茂幹事長の祖母は、この金森通倫の娘さんです。その人が『回顧録』の中でこういっています。「ある日先生を吉田山の奥に御連れして、さて跪いて祈ったあとで、八重子女のことに就いて一大忠告をした事があった。先生にはこの忠告は晴天の霹靂(へきれき)だった。あとで私も余り言い過ぎはしなかったか、先生の心を傷め過ぎはしなかったか聊か心配した位だった。その時は篤く礼を述べて私の忠告を受け入れられたが、こう言うことを思い合わすれば先生自身にも私の遣り方は余りに手酷すぎると思われていたのかも知れん」(金森太郎編・濱潔改定『回顧録―金森通倫 自伝―』アイディア出版部、2006年、103頁)。こう書くわけですね。
 これまでの「悪妻」イメージに代わって、今は「ハンサム・ウーマン」のイメージが独り歩きしていますが、あれは新婚ホヤホヤのときにアメリカの知人に新妻を紹介する手紙の、たった一行の言葉です。その後、14年間も生活を共にした夫婦です。八重の品行に苦しんだ新島襄は、八重にかなり耳の痛い忠告を行っています。しかもその時期の手紙は、なぜか不自然な削除箇所のある筆写本が残るだけで、現物は行方不明です。「語らない節操」と先ほど述べましたが、むしろ「語れなくする資料隠滅」が行われたと思っています。NHK日曜の大河ドラマについては、すでに数年前から史実に不忠実であるとの批判が聞こえますが、資料不足の下で創作された「八重の桜」も、視聴率ねらいの娯楽ドラマとして位置づけるべきでしょう。
 最近私は早寝早起きがひどくなり、ときには朝3時ごろに目が覚めるので、よく「ラジオ深夜便」を聴いたりしております。先日、そこで秋山好輝さんという方が印象的な話をしていました。古い銀盆に巻いてフルートをつくることで、世界一と言われているフルート作り職人ですが、彼は、大手楽器会社の制作部長になったために、会社にいては自分のつくりたいフルートが作れない。10年前に意を決して独立した。生活のためには年に10本はつくりたいが、納得のいくフルートを作るのは年6本が限度だと話していました。そして、「良いものは売れるということと、売れるものは良いということは、言葉は似ているが意味は全然違いますからね」と語った言葉が印象に残ります。
 大河ドラマについても同じことが言える。NHKが取り上げたら、途端に売れ筋になるわけです。そうすると、八重が急に立派に描かれてブームになる。しかし視聴率の論理と大学の論理とは違うのではないでしょうか。NHKはそんなに偉いのか、と言いたくなるし、逆にそれに乗っている同志社が悲しい。内部溶解の一歩です。大学としてはどっしり構えて、NHKがやっているようですね、くらいでいいのではないかというのが私の感想です。

空回りする教育現場

 今日は「内部溶解が始まった大学」として話をしたいと思います。「今どきの大学生は、」というと老人の説教話になるのですが、優れた学生もいるけれど、しょうもない学生も増えているという現実のことであります。私のゼミも最後の方は落ち穂拾いでありまして、他所で断られたために集まってきた学生をみていると、学力差以前に、勉強する習慣がついていない。それが大学生という社会的肩書きをもって、20歳を過ぎても学校という制度にへばりついている現実と出会うことになりました。およそ知的関心がない人でも大学に入れる時代になっている。大学側は授業料収入のために学生集めをしてはいないか、という疑問も強まります。現実の教育現場は壮大な空回りをしていないでしょうか、学校も塾も。
 知育のための新教材は発達してきた。電子黒板も現れた。予備校などみるとやたらに学力を分析するデータ処理が進んできた。しかし、分析素材はたった一回の模擬テストのデータだけです、なにか滑稽です。教室の現状は貧困になってはいないでしょうか。例えば、全国どこの中等教育機関も英語に力を入れているようですが、単語力もなく、発音記号も読めない高校卒業生がいっぱいいる時代です。

「憤悱(ふんひ)」と「啓発」

 「啓発」という言葉は今日、火災予防啓発運動というように、教育する教師側の言葉のように理解されていますが、本来はそうではなく、学ぶ側の生徒の態度に対する言葉です。「啓発」の語源になったのは論語の一節です。孔子は、「憤せざれば啓せず。悱せざれば発せず」と語りました。「憤」とは、学ぶ生徒の心が、何か問題意識にとらわれていて感情がいっぱいに高ぶっている状態です。「悱」とは、生徒が言いたいことが喉まで出かけているがうまく言葉にできないでもがいている状態です。孔子は、生徒の心がこういう状態になったときに、初めて「啓」(理解納得すること)、「発」(言語化すること)を手伝うことにしている、と語ったのです。ですから、「憤」もなく「悱」ない者は、「啓発」するに値しない、大学にいる必要がない。それでもいるとすれば、きつい言い方をすれば偽学生です。せめてそれなら勉強以外のことでも何か自己を成長させる生活を送ってほしいものです。

なぜ知識が需要されるか

 まず、個人の問題としていえば、人間は知識を求めて已(や)まない運命の下にあるからです。人は自分の意思でこの世に生まれてきたのではないのですが、誕生のあと、意識が発達してくるために、自分の存在理由、生存の意味を見つけないと納得しない存在だからです(伊藤彌彦『なるほど新島襄』136頁参照)。
 また、人間は環境に適応する存在であると共に、人間は環境を創り変えて生きる存在でありますが、ここで環境をめぐる知識が必要になります。つまりそれらは、自分を囲む外界を解釈すること、自分自身を解釈する「合理化機能」としての知識と、外界を改造するための「創造機能」としての知識の二つです。
 人間は環境に対応しながら生きていく存在ですが、人間が生きるうえで必要とする知識には適量があるというのが私の持論です。その際の知識には適量があると考えられます。その量は、暮らしている環境と相関しているもので、多ければ多いほど良いとはいえないと私は考えています。それを「適正知識量」と呼んでおきます。生きるために必要な知識は、暮らしとの相互補完性で決まると思います。生活環境との対応においての適正量があり、個人の記憶容量の問題としての適正量があります。少なすぎても問題がある。しかし多すぎても問題が発生する。また知識の質の問題として、健康な知識と病的な知識、知と痴の問題もあります。
 人類は長らく、過小知識による病理に苦しめられて暮らしてきました。生きていくうえで必要な知識や情報が足りない場合です。過少知識による病理現象、情報飢餓ということです。この場合、周辺環境を合理的に解釈する能力が欠ける。したがって、環境を制御する力もない。しかし、そんな場合でも人間という生物は、情況を解釈して意味づけしないと納得できない存在です。そこで何が起こるか。想像力で解決するわけです。これはしかし非合理的対応です。この想像力の産物が「神話」であり、「呪術」であります。日照りに苦しんでいた集落で、「昨日長老が咳を4回したときに雨が降った」と解釈したり、祈祷師が出てきたりします。過少知識のときの病理現象です。じつは今日でも、想定外の事象を前にして、私たちは多くの非合理的解釈のなかで暮らしています。
 次に、過剰知識による病理現象についても考えなければなりません。大学キャンパスという環境などは過剰知識の培養器といっても差し支えない。大学生活をおくる諸君は、いわば知識の洪水の中におかれるわけです。それで、知識公害の被害者にならずに知識を身につけることが大事な問題になるかと思います。過剰知識による病理現象とは、必要以上の知識や情報が溢れる現象で、いわば「知識の糖尿病」です。知識量が多いというだけで権威が生まれる。また、「知的虚栄心」という病理、マックス・ウェーバーは大学教授の職業病だと言っていますが、衒学(げんがく)・スノッブの問題も起こってきます。
 さらに恐ろしいのは、あまりにも知識量が増えたために、かえって知的ニヒリズムや知識無関心や知識拒食症ということも起こっていることです。いつだって知ることができるだろうということで知識無関心現象が起こっている。また情報洪水のなかで発生する情報ニヒリズムの問題も深刻です。テレビでは、何人もの人命損傷の内戦のニュースの直後に、おなじ画面に肥満防止のサプリメントのコマーシャルが流れる今日、本当に有用な情報を判断する能力が必要です。知識無関心のタイプとしては、非知識型、反知識型、脱知識型などが考えられます。
 また、大学に入る前から知識詰め込みの入試対策によって、情報・知識の飽食状態、知識糖尿病になって大学に来ていますから、知的好奇心には手垢がついて薄汚れている状況です。個人的な体験を申しますと、1948年に小学校に入学した私は、学校へ行くと新しい知識が得られるので、とても新鮮で楽しかった記憶があります。他の情報発信源が少ないのでそうなりました。ところが今は、スマホを利用すれば簡単にすごい情報を入手することができます。相対的に学校の知識供給源としての地位は下がりました。それで知識に対する畏敬が消えます。だれでも簡単にもの知りになれる。「個人主義、そんなの知っているわ、倫社で習ったわ」とか「人権、受験で覚えたな」ということで深く考えないことも起こる。また学問を情報整理と取り違えることも頻発し、記憶力で「優」をとって慢心する者も出てくるのです。
 論語に「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という名言がありますが、つまり、学習(情報収集)するだけで自分で考えてみないと定見が育たない。他方、思いをたぎらせるばかりで学習が足りないと「殆」い、独りよがりで的はずれになる。この両者のバランスが不可欠になってきます。この二つの間で我々は行ったり来たりしているということになろうかと思います。

言葉は欺く

 知識は「言葉」を介して存在するものです。言葉と内容(実態)が一致するとは限らないし、言葉は道具であるだけでなく、ときには権威として他人を支配します。また「文は人なり」といいますが、本当でしょうか。「口がうまい」「口先だけの人」「不言実行」など、言葉と心の乖離を指摘する慣用句も多くあります。書き言葉においても同様なことは発生します。
 少しキザですが、文学部の諸君もおられますので、心情・事実と言語表現とのズレの事例を紀貫之『古今和歌集仮名序』の六歌仙評から紹介したいと思います。
 紀貫之は点数の辛い人で、優れた歌人は万葉集の柿本人麻呂、山部赤人しかいない、古今集では6人ほどましな歌人(六歌仙)がいると評しましたが、そのうちの3人を紹介します。
 a)在原業平、「心余りて言葉足らず」(在原業平は、その心余りて詞足らず。萎(しぼ)める花の、色無くて臭い残れるがごとし)。情熱があり過ぎて表現が及ばない。言おうとする内容が多すぎて、散漫になる。
 b)文屋康秀(ふんやのやすひで)、「言葉余りて心足らず」(文屋康秀は、詞は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし)。語弊がありますが、商人が貴族の服を着ているようで無理をしている。衣装ばかり立派だが、中身があっていない。表現が多過ぎるが、じつは中身は空虚である。
 c)喜撰法師、「言葉かすかにして、たしかならず」(宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして、初め終りたしかならず)。音声は不明瞭、意味も不鮮明。
 諸君も付き合っている彼女〔彼〕からのメールを読むときは、嗅覚を働かせて、在原業平型か、言葉巧みな文屋康秀型か考えるのではないですか。昔は和歌で伝えあったのですが、今はメールですね。また、授業で教授の話が立派そうに聞こえるが、「何をいっているか、ようわからん」という経験はありませんか。聴く側の理解力不足の場合が多いと思いますが、喜撰法師タイプの「言葉かすかにして確かならず」を見抜く力も必要です。おなじ授業を聴いている友人と話題にしてみるのも有益な対応です。「言語明瞭、意味不明」というのは昔、竹下登総理大臣につけられたニックネームでしたが、「音声不明瞭、意味不明瞭」、こういうケースもあるかと思います。

歴史環境と知識需要
近代日本の場合

 知識に対する需要には時代が反映されます。伝統社会と近代社会、また安定時代と流動時代で違ってきます。
 江戸時代を想定してみてください。社会が停滞しており、農業社会でした。職業も親の職業の世襲ですから、稲の作り方とかを学習すれば一生生活できました。循環型社会というか、J・S・ミルが『経済学原理』のなかでいうステーショナリー・ステート(停止状態)の世界です。
 それに対して近代社会になると、どんどん新知識を補給していかないとついていけない。知識供給の専門機関が必要となる。それが学校ということになってくるわけです。その近代でも政治体制が変動するときには、特に前例が通用しないから大変です。したがって強大な学習熱、学校熱が人びとを駆り立てる時代となります。明治維新がそうですし、終戦直後がそうでした。世界が崩壊し今まで基準にしていたものの考え方が通用しなくなった。こういう時代に対しては、えらい先生の考えがヒントになるのではと、西田幾多郎の本が出たら行列ができたそうです。無茶苦茶難解な西田本が昭和20年代の戦後に役立ったか。役立たなかったと思いますが、知識需要がいかに高まっていたかの実例です。
 明治維新もそういう時代でした。『なるほど新島襄』の序文に、なぜ新島が学校を創ろうとしたかを書いておきましたが、国家にとっても個人にとっても、学校が必要になった。統治者からすれば、新国家を作るときに古い人間が育っては困るのです。尊皇攘夷の旗を振られたら困るわけですね。江戸時代の人間を再生させてはならない。人間を作り変えるためには新しい学校が必要になります。
 個人の側では今までの社会慣習が通用しなくなった。新しい人生を送るためには新知識が必要です。そこで福澤諭吉が『学問のすゝめ』を出版して、世襲に代わり能力主義の時代になったと説いたところ、この本は青年のバイブルとなり、田舎から都会へ、書生から名士への社会移動の哲学として読まれた。そういうことで新しい学校熱が起こってきました。
 しかし明治10年代の中頃から問題が起きます。学校で学んだ人と社会のミスマッチが起きた。最大の問題は青年が民権運動家になってしまったことです。反政府運動家になってくるので政府の思惑を超えて困る事態となり、そこで政府側は実業教育を一生懸命やっていこうと方針を変えていったわけであります。
 同志社ができるのは明治8年です。「讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例」ができるころに同志社英学校も開校されたわけであります。しかし直(じき)に、政府が民権運動に手を焼く時代になっていく。その5年前だったらキリスト教は迫害されています。5年後だったら民権運動に手を焼き始めた明治政府の下で、キリスト教系の学校はなかなか作りにくかったと思うのです。文明開化の真っ只中で開校したからこそ、キリスト教系の学校ができたのではないかと思っております。明治13年にはもう教科書の政府管理が始まってきます。

新島襄の夢

 大箒を借りて邦土を掃わんと期す 十年の計画未だ休神せず
 又掃邦土云々は小生畢生の目的なれば、又不遜とも思ひ申さず候
(1888年5月13日付徳富蘇峰宛新島襄書簡『全集3』573頁)
 このように新島襄は日本を掃除し、新社会を作り出すという壮大な志をもって、学校事業に取り組んでいました。この背景には幕末の日本を脱出して「文明社会」を知った日本人として目撃し、生活体験してきたアメリカ文明社会の移植の意図がみえます。つまり、個人を発見し、文明を発見し、社会を発見して帰国しました。それが武士出身の多くの同志社の生徒に理解されたとは思えません。むしろ、豪農出身の徳富猪一郎や仏僧から転じて同志社に学んだ柏木義円に受け継がれていったと私は考えています。
 異文化接触によって具体的に体験した驚きは、衣食住の新鮮さ(同、16頁)、蒸気機関を用いた産業化(同、26頁、83頁)、人間関係の在り方(同、44頁)など諸方面に及びます。組合教会のデモクラシー、自治教会の体験、それらは平信徒による合議で教会の意思決定をするという斬新な経験でした(同、112頁、134頁)。これはタテ社会の日本とは大いに異なる人間関係(社会)の新しい組織原理を表すものでした。
 ここで、同志社教育では「良心」が語られるので、一言触れておきます。それは新島襄が滞在していた19世紀後半のアメリカでは、市民道徳として「良心」が幅を利かせていたということです。科学の登場でキリスト教が世俗化していく一環だったと思いますが、聖書の権威よりも自然や人間自身に真理を求める時代が始まっていました。「うんざりするほどの論争をへて、道徳は神が聖書のなかに示している法であるとする見方から、神の法も人間自身の内に埋め込まれている直感や感性にいちばん良く示されているとする見方に、変化していった(G. S. Hall)」(『なるほど新島襄』63頁)というわけです。
 新島は「人種改良論」という文章を書いて、日本人の欠点は「ウソツキ」にあるからそれを改良しなければならないと言っています。「欧米人は我が日本人をさして『ウソツキ』と云うも過言にあらざるべし。…ウソの通行する国たるは明らかなり」(『新島襄 教育宗教論集』岩波文庫 276頁)。
 ウソツキの反対は「良心」に忠実な人間です。ウソツキの存在は深く社会構造と絡み合っていたことが重要な点です。封建社会のように、目上の者が目下の者を支配する権力構造の下では、目下の者は嘘をついて暮さないと生きていけないからです。福沢諭吉の言葉に「政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん」(『学問のすゝめ』4編)とあります。たとえば昭和の戦争でもそうでした。息子が戦死したときに、周囲から「名誉の戦死、おめでとう」と言われ、母親は「非国民」と言われないよう人前で気丈夫に振る舞い、陰でそっと泣いたのが終戦前の日本でした。「ウソツキ」で世渡りをする世界は簡単には克服できていません。自分を殺して周囲に合わせる点では、日本社会は「卑屈人」の「卑屈社会」の光景でいっぱいなのです。
 この社会構造を改造するのには時間がかかります。新島襄は徳富蘇峰への書簡のなかで「到底我東洋ニ銕腹男子なる彼ノピューリタン人種ハ出来さる哉(や)と毎々疑念を抱き居候、乍去(さりながら)数百年之星霜を経ハ或ハ難期(きしがたき)事とも存し不申(もうさず)、只今日ヨリハ其準備ニ着手いたし度候(たくそうろう)、其着手ハ先吾人をして真之自由教会ト自由教育を得セしめよ、此二件ハ車之両輪あるか如く是非トモナカラネバナラザル者と確信仕居候、」(1889年3月5日『新島全集4』67頁)と語っています。

新島襄の信条を
理解したのは徳富蘇峰

 新島襄の教育観をいちばん理解できた生徒は、同志社を一旦は退学して熊本に帰って大江義塾という塾をつくっていた徳富猪一郎(蘇峰)であったと私は考えています。
 なぜ新島襄と蘇峰がウマが合ったかについて、少し考えてみたいと思います。新島襄自身が新大陸での生活体験をして人間が変わったのだと思います。アメリカで生活した所はマサチューセッツ、文明の進んでいるニューイングランド地方です。しかも出会った人たちが中流ないし上流のアメリカ人たちで、一言でいうと、アメリカの文明社会、市民社会のいい面を身体で覚えたということがいえると思います。
 それを日本の同志社の学生にも伝えようとしたのですが、どうも伝わっていません。学生たちは天下国家を考えて大言壮語する国士型が多く、新島襄が発見した「文明社会」が通じない。しかし徳富蘇峰は別です。熊本で上級士族の身分を捨てて帰農した兼坂止水先生の下で幼年期に寄宿生活を送り、働かないで喰っている武士の寄生生活の欺瞞性を教えられました。やがて新島襄と徳富蘇峰は信頼関係を構築しました。二人に共有された価値観は「自主自由」、「平民主義」です。
 徳富蘇峰は同志社を中退して上京し、東京日日新聞に入社しようと就職活動を試みました。十数回、新聞社本社や社長の自宅を訪ねましたが相手にされず、とうとう故郷・熊本へ引き揚げたわけです。そこでしばらくは民権運動の結社に参加しましたが、士族民権に懐疑的になり、今日流に言えばベンチャー事業を立ち上げて大江義塾を始めました。
 「茲(ここ)ニ東肥熊本ノ士徳富猪一郎氏ハ、断然当時ノ政治壇上ヲ下リ、短褐笈(たんかつきゅう)ヲ負テ故山ニ退キ能ク天下ノ勢ヲ審ニシ能ク天下ノ情ヲ察シ、茲ニ眼ヲ青年ニ注ギ、青年コソ将来ノ蓓蕾ナルヲ知リ、青年コソ社会ノ後続者タルコトヲ知リ、・・・・・・純然タル泰西(たいせい)自由主義ニ基キ自由主義ノ教育ヲ用ヒ東洋流ノ卑屈保守退歩囲範中ノ学問ノ主義ヲ捨テ、又専ラ泰西的ニ赴クナク、茲ニ其ノ教育ヤ邦語ヲ以テシ其ノ足ラザル所ヲ洋書ニ仮リ、茲ニ則チ一個ノ新ナル日本学問ノ新機軸ヲ現出セリ」と(「大江義塾沿革一班」『同志社大江義塾徳富蘇峰資料集』、321頁)。
 民権運動という政治運動から身を退いて、社会の改造に取り組む。そのために大江義塾をつくり、教育によって「東洋流ノ卑屈」を克服する。「日本学問ノ新機軸」を創出すると壮大な計画を実行します。時代はすでに「改正教育令」期に入っていました。熊本でも多くの私塾はつぶれているが、大江義塾は1年たっても意気軒昂としています。そのときの演説です。
 「近く、たとえをとれば我が大江義塾の如きも、その物質上の比較より推定しきたれば、その家屋といい、その書籍器械といい、その生徒の数といい、おおよそ学校の名ありて今日に現在するものに対すれば、少なくも下等に位するものにあらずや。…而して諸君が自らこれがために卑下することなく、昻々然として自ら標致するものは何ぞや」。設備は劣って居ても生徒たちは意気軒昂としている。これはなんだろう。「それ学校は青年の知徳を教養するのところなり。故にその心は高尚寛大にその学術は宏博縝密にその気力稟性は有為活発にして、しかもかつ勤勉倦まざるの人あらば」、つまりは、学んでいる生徒たちが気力に溢れ、活発になり、心は高尚になっている、こういう学生をつくるならば「実にこれ学校の面目を全うするを失わずというべし。我が大江義塾にして、かくのごとき人あらんには我が大江義塾は実に隆盛なりというべし。実に一人にてもあらば、大江義塾は実に幸福なるものなり」と声を張ります。
 蘇峰も徳川体制の豪農としての抑圧の体験が身にしみていました。徳川体制はすべてが習慣にしたがって営まれる世界「習慣ノ専制」であったと書いています(『新日本之青年』『徳富蘇峰集』、126頁)。卑屈人と卑屈社会の世界でした。しかし、幸い時勢は19世紀文明の下にある。つまりそれは専制から自由へ、社会の改革はすでに始まっている歴史のなかにいることなので、日本においても「専制ヲ顚覆シ。之ヲシテ各人各箇ノ其ノ命運ニ応シ。其ノ稟賦ニ応シ。其ノ勤怠ニ応シ。応分ノ快楽幸福ヲ享有スルノ自由世界トナサシメタリ」(同、153頁)。「専制君主中ノ専制君主タル。習慣ノ支配ヲ撞破シテ。真理ノ支配トナサシメタリ」(同、153頁)と叫ぶのでした。「卑屈人」と「卑屈社会」の光景に代わる、良心にもとづいて発言する「天真爛漫人間」と「文明社会」に変革したかったのだと思います。

「同志社大学設立の旨意」
と『新日本之青年』

 このような蘇峰の教育観がいちばん現れているのが『第十九世紀日本之青年及び其教育』(後の『新日本之青年』)です。その骨子がやがて蘇峰の手で「同志社大学設立の旨意」のなかに生かされました。
 「思うに日本帝国の大学は、悉く政府の手において設立せんとのことには非(あら)ざるべし」。東京大学一つに任すべきではないだろう。「吾人は豈に今日において傍観座視するを得んや。吾人は政府の手において設立したる大学の実に有益なるを疑わず、然れども人民の手によって設立する大学の、実に大なる感化を国民に及ぼすことを信ず」。感化力においては人民の手でつくった大学の方があるんだと。「もとより資金の多寡より制度の完備したるところよりいえば、私立は官立に比較しうべきものに非ざるべし」。これは先程の蘇峰の言葉と似ています。「設備は下等であるが」というところ、まさに蘇峰の文章がここに入っているわけです。金もないし、設備も不十分だ、しかし私学であれば自分で自分の子どもを育てるんだ。「私立は官立に比較しうべきに非ざるべし。然れども、その生徒の独自一個の気性を発揮し、自治自立の人民を養成するに至っては、これ私立大学特性の長所たるを信ぜずんば非ず」。自立の人民をつくる、自主の人民をつくる。これは私立でないとできないんだ。こういうふうにうたいあげているわけです。この「同志社大学設立の旨意」を新島襄も大変喜んで採用し、今も入学式のときに読まれているわけであります。
 こうした蘇峰を新島襄は深く信頼しました。新島襄が徳富蘇峰に書いた手紙の中に、こういう文面があります。
 「君ニハ政治上ノ平民主義ヲ取ルモノニシテ、僕ハ宗教上ノ平民主義ヲ取ルモノナレハ、ツマリ平民主義ノ旅連レナリ、僕ハ益(ますます)御互ニ応援スルノ必用ヲ感居候寡人政府主義ノ教会政治ハ僕ノ痛ク反対スル所ナリ、我党ヨリ一致論ヲ吐キ出シタルモノハ非常ノ馬鹿モノト云テ苦シカラス、真ニ自由ノ貴キヲ知ラサルモノナリ」(蘇峰宛新島書簡1887年11月6日付『全集3』486~487頁/『新島襄の手紙』岩波文庫、222頁)。
 また「自由」です。新島襄の葬儀のとき、蘇峰は新島先生の次の言葉、「自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」(横田安止(やすただ)宛新島書簡 1889年11月23日付『新島襄の手紙』、301頁)を2本の旗幟(きし)の1本に書いて送っています。自由主義と平民主義にもとづく中等社会、自由人による文明社会(泰西文明に学ぶ)、そのための私立大学設立とその精神をしめす「同志社大学設立の旨意」を新島襄は徳富蘇峰に託し、見事にそれに答えて、蘇峰は協力したのでした。
 二人がイメージしていたのは中等社会を日本につくろうということでありました。これが大江義塾や、『国民之友』をつくったときに強調した蘇峰の発言であります。「同志社大学設立の旨意」にも、同志社が生みだそうとしている国民は宗教家になるのもよい、教育者になるのもよい、実業家になるのもよい。しっかりした中等国民を同志社の中から生みだそう、ということを言っています。そういう狙いをもっております。それを高らかに主張しているのが『国民之友』でありました。さらにこのころ蘇峰は、キリスト教にも関心を示しまして、キリスト教主義の道徳を用いればいいのではないかと言っていました。

百年早すぎた新島襄の夢

 しかし、戦前の日本において中等社会はうまく育ちませんでした。主産業は農業であり、しかも豪農層が分解して小作人と寄生地主に二分されていった。産業化が進んでも中流階級がやせ細り、金持ちと貧乏人の二重構造化が進みました。将来の日本の担い手として期待した「明治の青年」は、いまや一方では保守化し、媚びや要領で出世を図り、他方では「壮士」となって政治利権にたかっている。蘇峰の雑誌『国民之友』も「中等階級の堕落」(明治25年11月13日)を論じて、失望を露わにします。
 期待した鋼鉄のような独立心をもったピューリタンは出現しません。日本のキリスト教信者は、自分の人生だけを考える連中で、若くして老人である、まるで禅宗の坊主と同じである、と言っています。中等社会の担い手とはいえない、と蘇峰は残念がっていました(「心理的老翁」『国民之友』118号)。
 また、経済成長が格差社会を生み出すという、途上国経済の問題が戦前日本を襲いました。今のアジア諸国を考えてみてください。経済成長している国の人民が幸せかというと、必ずしもそうでもない。現れるのは激しい貧富の格差です。日本でも、第一次世界大戦で初めて国際収支が黒字になったとき、一方では「戦時成金」が生まれ、他方では、値上がりした米を買えない人びとによる「米騒動」が発生しました。中流層は育たないで逆に富裕層と貧困層が発生した、社会の二重構造化です。しかも帝国主義の世界ですから、軍事力に金がかかる。帝国主義時代の貧国強兵の戦前日本でした。
 さらに、長らく徒党の禁止を刷り込まれてきた日本人にとって、新島襄がアメリカで発見した自発的結社(ボランテイア)はほとんど理解されませんでした。この思想が定着するのは、阪神大震災以降なのです。自主自由の市民社会、中流社会ができるのは高度経済成長後のことで、新島襄らの夢は百年早すぎたといえます。

おわりに、
教養教育のこと

 資料【1】で初期同志社を振り返ってみたいと思いますが、これは本間重慶という人の回想です。本間は同志社に熊本バンドの学生が流入する以前の第一期生の一人です。明治初期の同志社は大変本が少ない状態でした。「ライブラリー」というタイトルで、「初の書籍室は西寮の入り口右側に一坪あまりの1個室であり、その一方に幅3尺、縦5尺ばかりの本箱あり・・・ここに一切の参考書類を蔵せり。これ同志社初期の書籍室。すなわち堂々たる、否、一小ライブラリーなり」とあります。最初の同志社は幅90センチ、高さ1メートル50センチの本箱一つだった。そこにある書籍を皆で読んでいた。いかに図書が少ない学校だったかということです。
 しかしここから政治、経済、美術、文学などを幅広く発言する徳富蘇峰のような教養の主が育まれたことは考えさせられます。蘇峰の『国民之友』をみていると個人雑誌にもかかわらず幅が広いのです。政治、経済、美術、文学等々に触れて非常に幅広い。どうしてああいう人が、あの時代に出てきたのか不思議になるわけです。現在の情報処理時代の正反対です。おなじ本を何度も深く読んで考えることで、逆説的に独創性が育てられました。
 戦前日本では、旧制高等学校の存在が背伸びをしながら「教養主義」を支えました。戦後の今日、旧制高校出身者も高齢化し、社会的影響力も消えかかっています。現代の学生は情報過剰のなかで大規模大学、大規模教室での授業を受けている現状です。広く文学、政治、経済、自然などに一家言をもった教養人が形成されにくくなっていると思います。しかし、工夫次第で、昔のような少数エリートではなく、国民的規模での教養の充実も可能なはずです。できるだけ小規模クラスを増やして、自分の目で周囲を観察し、考察し、素朴でいいから自分の文章を書き、添削をうける授業を増やすことで、生きた智恵を養っていただきたいと念じます。
 ご清聴有難うございました。

〔参考文献〕
伊藤彌彦『なるほど新島襄』萌書房、2012年

2012年11月2日 同志社スピリット・ウィーク秋学期
今出川校地「講演」記録

資料【1】 同志社校友同窓會報 第7號
昭和2年3月15日発行

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